再び、「橋下維新の会」

明日から通常国会の開始となるが、消費税、沖縄、震災災害処置、原子力発電、代議士数削減、公務員給与削減や尖閣問題等々どれ一つとして国会での審議がすんなりとまとまるものは無いように思われる。

そこえ、まるで振って湧いたように浮上したのが「大阪維新の会」の旗揚げである。

大阪維新の会は次期衆院選で、当初方針の近畿一円だけでなく全国の小選挙区から候補者を擁立する方向で調整に入った。

比例代表にも擁立し、大阪都構想や道州制に賛成する“みんなの党”、“公明党”、“自民党”の一部と合わせて過半数の獲得を目指す。

代表の橋下徹・大阪市長が構想の実現にむけ、新勢力の結集が必要と判断した。(1月23日、毎日)

橋下氏の目論見は通常国会での各党の出方を見たうえで対策を決める姿勢である。橋下氏は3月に開校する「維新政治塾」で400人の塾生を集めると表明、既成の政党が“都構想”をつぶしに来るのなら、議会で過半数を取得すると言明、強気の姿勢である。

しかし、未だ政権としての要件を満たしていない「維新」は、比例代表について、各ブロック定数の十分の二以上の候補者擁立が必要。

維新幹事長の松井一郎知事は、報道取材に「道州制実現の為に自民党を出てでも一緒にやろうと言ってくれる人を待っている」と述べている。

どの既成政党としても「維新」に無関心ではいられないが、人材を短期間に集めることは難しく、ましてや衆院選に出馬するには半端な資金では出来ないことは誰の目にも明らか。

ところが実情では、各既成政党の殆どが「維新」に接近を働いている。

例えば、資金の潤沢な公明党と「維新」が連立を果たしたとすれば、今後、自民党は万年野党となりかねないことを考えると、今後に何が起こるか一寸先は闇とと云う脅迫感にも陥りやすい。

とにかく、今のところ負けなしの状態、維新幹部は“国政進出は多難であるが、勢いのあるうちに、やるしかない”と意気軒高ぶりを示している。

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橋元徹新大阪市長について

東京生まれの若者が大阪の市長となった。

その人こそ、この度、大阪府知事から市長に変身を遂げ、地域政党「大阪維新の会」を結成して、西成区長をも兼務、市長の「直轄区」とすることを考慮中と云う橋元徹氏である。

この人、2008年、今から、たった4年前まで、世間では、ほとんど話題にも上らなかった弱冠38歳(当時)の弁護士のこと。

それが、政権政党の民主党の首相より有名になって、今後“国を動かす”人物になるのではと真剣に噂される人物となったことは、終戦後65年以上経過して、世界中で「何も起こらない国」の代名詞的国家、日本におこりつつある現実である。

昨年3月、起こり得ないと思われていたM9クラスの大地震、大津波が東北地方に発生して、日本中はその話題で持ち切りであったが、今回は西部の大阪に“想定外”の一大政治旋風が巻き起こりつつある。

丁度200年前の“1812年”は欧米人にとって忘れられない、世界を揺るがす「2大事件」が発生した。

一つはナポレオン一世のロシア遠征での大敗北であり、もう一つの事件は英米間の”War of 1812”(1812年戦争)の勃発であった。

100年前の1912年は第一次世界大戦の火種となったヴァルカン半島での前哨戦が始まり、その後、5年も経たないうちにロシア革命に繋がって行く結果となった。

それでは、2012年はどんな年になるのだろうか?

2012年は、誰が考えても「良い年」となるような材料は見当たらない。

ロンドンオリンピックが安全に成功裏に終わることを願うばかりである。

その中にあって「大阪維新の会」が日本の今後の政局に如何なるインパクトを及ぼすかに関しては筆者は興味をもっている。

橋元氏は大阪市長選挙中から「政治は数」と言い切っている。そこまでは小沢一郎他、日本の他の代議士と何ら違うところがないが、違うところは持論「大阪都」構想を実現させるための第一歩として、任期中にかかわらず、大阪市長戦にあわせて知事職を投げ捨てて市長選挙に出馬、大差で現市長の平松氏を破って勝利した。

その橋元氏がこの度、「維新政治塾」塾生を募集、応募者を将来の“国政候補”とする意思を表明した。

現政権の態勢から、衆院解散、総選挙の近い可能性を踏まえて、国政への進出に向けた動きを加速させるのではと衆目を集めている。

維新幹部によると、政治塾には千人を超える応募者が集まる見通しで、衆院選挙となれば全国規模での大量擁立も可能な状況を各紙が報じている。(1/22)

40人規模の募集を予定、応募締切りは2月10日とかなり具体的な方針まで明らかになってきている。

300人程度を衆院選の擁立候補とし、全国の小選挙区と比例代表で200議席を目指すらしい。

政治評論家の堺屋太一氏、前経産省官僚の古賀茂明氏を特別顧問に迎えて将来の独立政党としての地固めに余念が無い。

既に「みんなの党」は「維新」と協力して地方自治法改正案を作成、自民、公明も独自の改正案策定を検案中。

橋元氏も講演会の政治資金パーティーで「都構想は最終的なゴールではない。日本の国を一からリセットして、改造できるメンバーをしっかりと集める」と意気軒高ぶりを披歴している。

まるで都構想は一旦棚上げにしてでも国政に打って出る意欲に漲っているかに見て取れる。

筆者の見るところ橋元氏は決して日本人好みの政治家ではないが、ラグビー選手らしくエネルギッシュで、すべてオープンなフェアーな性格の持ち主で頼もしさを感じさせる。唯、彼の「独裁者切望論」には危険を覚える。

今の日本の政治家のカンフル剤になれば悪くないと思っている。

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アメリカ南部の一大小売店「ウール・、マート」

Sam_walton_2 サム・ウオールトン

アメリカ南部のアーカンソー州で最も名の知られている人物は”Wall-Mart”の経営者、サム・ウオールトン(Samuel Moore Walton,1918-1992)であろう。

生まれは、アーカンソ州、リトルロックと云う生粋の南部人、第二次大戦の終わった、1945年(27歳)で、アイオワ州のデモインのJC.ペニー百貨店に入社した。

それから、僅かに40年後(1985年)には、彼は既に800店舗の「ウオール・マート」店舗を展開するまでになっていたのだから全くの驚きである。

ウール・マートは、我が国で例えれば、ユニクロ(uni/quro)のような気取りのないディスカウント・ショップである。(ユニクロが目指したモデル店?)

それも、ウール・マートの出店場所は決して大都会ではなく、人口の少ない田舎町を標的にしていたところに、その特徴がある。

サムの人生は72年間の比較的若死にであったが、彼の死亡した翌年の1993年の売り上げは、2位のシアーズ・ローバックを大きく引き離して、小売業20社のトップの座を占めた。

常に野球帽をかぶって、ピック・アップのトラック車を走らせるサムの気取らないイメージがアメリカ人の好感をつかんだと言える。

US News and World report誌はサムをアメリカの長者番付の第一人者に選んだ。{1986年}

若いころに、J.C.ペニーと云う大百貨店に勤務、小売業の基礎を勉強して、生まれ故郷に戻って、ニューポートで     兄弟と共に雑貨家(General Store)を開いた。

戦後のいわゆる“アメリカ黄金時代”に、蓄えが出来ると、徐々に小型の小売店を買い増していった。

ウオールトン兄弟店舗(Wall Mart Stores)は、1986年、全米22州に店舗数900を持ち、85年の売上高は65億ドルに達していた。(現在では1000を超える)

南部の小都市を中心に大きくなったウオール・マートの秘策は何だったのか?

誰が考えても、人口の多い大都会に進出して効率的に店舗展開を目指すのが常識だと思われがちだが、何故か、サム・ウールトンはその逆手に徹して、大資本が達成できなかった売上高を積み上げたことは正に、20世紀の謎と云ってもよいのではと思われる。

ウール・マ-トの存在は、地方都市の消費者にすれば大変有り難い存在であったにちがいなかったと思われるが、他の一方では、零細な小売業主にしてみれば決して歓迎できる存在でなかったことも確かであろう。

サム・ウオールトンは、終生、ウオール・マートのロゴ入りの野球帽をかぶって、古びたピックアップ・トラックでアーカンソ州、ベントンヴィルの本社へ通っていた姿こそが、どの広告にも勝る、「動くビル・ボード」だったと筆者は考える。

アメリカ南部には、このような特徴に富んだ“ビッグ・ビジネス”のあるこtに驚かされる。

ジョージャー州、アトランタでの“コカ・コーラー”もアメリカを代表する一大ビジネスと言える存在である。

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三井寺の常識を問う

大津市の三井寺(園城寺)が、境内の地下を通る琵琶湖疏水をめぐり、このままでは、寺の「土地使用権」が犯されると主張、永年京都市を相手に争ってきた裁判について、京都地裁(裁判長:杉江佳冶)は昨日(1月17日)一方的に、三井寺の“権利の乱用”を理由に敗訴を申し渡した。

そもそも百年も前に行われ、周辺の人民の福祉は勿論、産業的にも貢献を尽くしてきた「一大国家事業」であった琵琶湖疏水が、たまたま、三井寺の寺領の下を流れていることを理由にして、それが「寺(個人事業)の土地使用権の侵害」だとか、「権利の乱用」を理由として訴訟を起こすこと自体が常軌を逸していると見なければならない。

杉江裁判長は“使用権の存在によって三井寺に具体的損害は想定できない”ことを告知、寺側が金銭の支払いを求めていることについても、“私権の誠実な公使とは言えない”として三井寺の申し出を退けた。

新聞報道によると(京都新聞)、三井寺は1952年に国から境内の土地を取得した。

その後、国有財産法に基づいて、使用権は30年ごとに自動更新されていた。

ところが、2012年以降の更新を寺側が拒絶、提訴に踏み切ったと云われる。

従って、三井寺は土地の取得時点で、寺領下に公共性の非常にたかい「琵琶湖疏水」が半永久的に存続し、その間は使用権(京都市)も更新されることを認識の上で、土地取得を行った。

三井寺の代理人は“控訴も視野に検討する”と云うが、公共の福祉が私的な権利に優先すると云う、誰にも明白なことが、円城寺(三井寺)ともあろう日本を代表するべき宗教法人に判らないことが不思議でならない。

三井寺の代理人は「控訴も視野に検討する」と述べているとのことだが、日本を代表するような存在の円城寺に、“公共の福祉が私ごとに優先する”と云う、いわば、平均的常識が欠けていることを知り、驚いている次第。

筆者は、常日ごろから、我が国の宗教法人過保護政策に批判的であるが、仏教界の指導的立場にあるべき三井寺までが、このような、誰の目から見ても非常識と映ることがらの判断が出来なくなっている、いわば「思い上がり」に国家の取るべき姿勢を示して欲しいと切望する。

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我が国の「冷凍技術」

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半世紀以前では、生鮮食料品の輸送には氷が使われていたが、昨今では冷凍技術の進歩のおかげで輸送船には保冷や冷凍設備が備わっているため世界の各地から、殆どの食品が適度に保冷されたまま食卓にもたらされる時代となった。

果物や野菜類、魚介類、牛乳、その他、殆どの食品は冷凍か、冷凍に近い状態で世界の各地からもたらされる便利な時代となった。

最近では、冷凍運搬船による輸送にも次々と最新の技術が取り入れられているが、その内、特に重要度が高まっているのが、CA(controlled Atmosphere)-調整大気―と云う技術。酸素を窒素など他のガスに置き換えて、大気中の酸素を十分の一程度にコントロール、食品を冬眠状態にし、成熟を遅らせて運ぶと、リンゴや他の果物などは半年以上も長持ちさせることが可能だとのこと。

又、コールド・トリートメント(cold treatment )も最近注目を集めている技術で“地中海ミバエ”など、果物の中に潜んでいる害虫を、輸送中、温度コントロールによって駆除も出来るらしい。

船倉内の温度やガス状態を自在に調節、食品の鮮度を損なわずに運ぶ機能を備えた輸送船は、いわば海を走るハイテク冷凍倉庫と言える。

日本の冷凍技術は世界の最先端を走っていると云っても過言でない。

最近の冷凍食品は、解凍後、如何に美味しく食べられるかを考えて加工されている。例えば“ピラフ”ならばご飯のバラバラ感を、“ハンバーグ”なら解凍後の肉汁の味わいまでも工夫されているとのことで、正に驚きである。

一昨年、このブログで、隠岐の島の海土町でのCAS冷凍事業を紹介させてもらったが、これまで殆ど過疎地と思われていた日本海の島が、冷凍技術のお陰で、東京の築地市場に直結されて、新鮮な魚介類を無駄にすることなく輸送、それで村全体に活気が芽生えたと云ううれしい話であった。

一時は町全体が、破産状態になった夕張市でも、これから優秀な冷凍機の出現で、収穫された果物でも時期を考えて市場に供給できれば、決し、将来を悲観することもないのではと思われる。

もう数年も前のトピックだが、ジャパン・フーズ&リカー・アライアンスが、水産卸大手の築地魚市場と天然高級鮮魚の販売事業で提携、解凍後も魚の鮮度が変わらない「誘電凍結方式」を導入したと聞くが、これが果して隠岐の島、海土町の導入した工法に近い性質の機械装置ではないかと思える。

従来の方法では冷凍中、表面と内部に温度差を生まれ、細胞が破壊されてうま味が抜けることもあったが、誘電凍結方式ならば、表面と内部が同時に凍結、細胞が生きたまま凍結され鮮度が失われないとか。

つい最近まで不可能と考えられていた「生クリーム」の冷凍技術もすでに開発済みと云う。船舶製造に関しては世界のトップ技術を持っている日本、最新冷凍技術を生かして世界に打って出ることは出来ないものか?

最近の「円高」を逆手にとって、鮮魚や、食肉に限らず、米や麦までを冷凍のまま輸入して半永久の備蓄が出来るようになるのならば、「TPP」交渉に何も危惧することはないのではと考えたのだが如何であろうか?

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「バルフォアー宣言」はただの私信

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筆者が以前に「バルフォアー宣言」についてコメントを発表した。

筆者の目的はバルフォアー宣言が1948年のイスラエル建国の主因であるとは決して思っていないことを付言するため、以下のように訂正を試みたい。

その時の筆者のコメントの趣旨は、第一次世界大戦当時のイギリス外相、バルフォアー,(Arthur James Balfour)が、1917年、11月2日、イギリス在住のシオニストの代表、ロスチャイルド卿宛に私信の形式で「将来のイスラエル建国」構想に関する感想を述べたと言い、以下のことを筆者の感想として付け加えた。

即ち、イギリス政府はユダヤの人達がパレスティナに”a national home”を建設することに好意的立場にある。(The government view with favour the establishment in Palestine of a national home for the Jewish people)、ただし、その条件として、以下の条件が満たされなければならない、

“use their best endeavours to facilitate the achievement of this object ,it being clearly understood that nothing shall be done which may trejudice the civil and religious rights of existing non-Jewish communities in Palestine…”

イスラエル人がパレスティナに移住を果した場合の条件として、既住民の生活を尊重して、彼等の宗教活動や生活を脅かさない事を条件ずけている。

バルフォアーは皇帝陛下の政府を代表して(I have much pleasure in conveying to you, on behalf of His Majesty’s Government)としているが、この文章は、一見して公式の文書(宣言)のように考えられがちであるが、あくまでもバルフォアーの私信であることがわかる。

アメリカの参戦以前には財政的にイギリスはロスチャイルド家からの金銭的サポートを受け、一種の返礼として「慰め」の私信を出したのではと筆者は考える。

第二次大戦後の中東情勢は、イスラエルのパレスティナ復帰後、これ以上看過できないような事態になっている。

バルフォアーがユダヤのパレスティナ復帰の条件として、「既存の平和を乱さないように忠告」したに関わらず、非常に危惧される情勢にあることを残念に思っている。

筆者は1945年の英米ソの首脳会談(ヤルタ会談)こそが、イスラエル建国(1948)、中東問題を引き起こした主因であると信じて疑わない。

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気骨に満ちた国際的外交官、牧野伸顕

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牧野伸顕(まきの・のぶあき)、は1861年(文久元年)大久保利通の二男として生まれる。生後間もなく、利通の義理の従兄兄弟の牧野吉之丞の養子となる。吉田茂の岳父。 

明治4年(1871)、父や兄とともに、岩倉具視遣欧使節団の一員として渡米、フィラデルフィアの中学に入学、そこで英語力を習得したと思われる。(3年間)その後、東大を中退、外務省入省、ロンドンに赴任、伊藤博文の知己を得る。

その後は、福井県知事、茨城県知事、文部次官、オーストリア大使、イタリア大使を歴任する。

第一次西園寺内閣で文部大臣、第二次西園寺内閣で農商務大臣。第一次山本内閣で外務大臣となる。

第一次大戦後のパリ講和条約では、西園寺の要請で次席全権を務め、英語の出来なかった西園寺を助けて会議での各種委員会でのリーダーとして重責を果たした。

牧野伸顕は日本全権として、ウイルソン大統領が提案した「国際連盟規約委員会」に於いて、連盟規約に人種的差別撤廃条項を入れるように提案(1919年2月13日)した。

当初、この提案は多くの植民地を持つ、イギリスや、白豪主義政策をとるオーストラリアなどの猛反発で一度は退けられたが、当時まで西洋列強の圧力に苦しんでいたリベリア、アイルランドなどの賛成を得た。

その後、続いて討議され、4月11日の最終委員会に於いて、牧野は代表して、連盟規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」との文面の修正案を作成し、再度提案した。

イギリスの反対にも、牧野はひるむことなく、「修正案はあくまで理念であるので、個別国の事情や国内法に関わるものでないことを強調、もしこれを拒否する国家は、人種(他国)を平等視していない証左だとの見解を披歴して修正案の採決を求めた。

この修正案は採決の結果、出席16票中、11票の賛成(フランス、イタリア他)を得るに至り、賛成多数で可決を伺わせたが、議長国のアメリカ大統領ウッドウロウ・ウイルソンの反対に加え、何処からともなく、突如として唱えられ出した「重要な議題については全会一致が不可欠」と云うことで日本の提案は否決された。

牧野伸顕は、その後、急いで議題を次に進めようとした、ウイルソン議長を遮って、日本代表団の提案した議題について過半数の賛成票があった事実を明確に記述するように要請して、了承された。

日本は終局的に以前、ドイツが保持していた清国の山東半島の権益継承を獲得したが、これは、牧野の提唱した抗議への見返りであったとも考えられる。

ウイルソン大統領はアメリカ南部ジョージャー州、オーガスタの出身で、南部人の投票を粗末には扱えず、南部人の立場上、反対にまわった事は、やむを得なかったのかも知れない。

残念にも牧野の外交官としての活躍はそれまでで、1935年内大臣を辞し、清貧を貫徹、一生を終えた。(1949年)

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時を要する「領土問題」の解決

Photo (ジブラルタル海峡)

ジブラルタル(Gibraltar)はスペインのイベリア半島南端にあって、ジブラルタル海峡をはさんでモロッコに対する小半島の先端にあるイギリスの自治殖民地。

ここは軍事上戦略的に重要な位置を占める為“地中海の鍵”の異名をとり戦後半世紀以上を過ぎてもイギリスは未だ、固有領土を主張し続けているスペインに返還を果していない。

ジブラルタルと同じようにイギリスの戦略的拠点であった、シンガポール島とスエズ運河については、イギリスは自主的に保有権を放棄している。

唯一つの例外として、アルゼンチンの東岸沖のフォークランド諸島(Falkland

Islands)に関しては、これの帰属をめぐってアルゼンチンと戦争となり(1982年)、イギリスは自国領土に再び組み入れた。(イギリスの武力弾圧)

ジブラルタルは1704年8月4日、スペイン継承戦争時。王位継承者のカール大公を支持する、イギリス・オランダ連合艦隊に占領された。その後、1713年のユトレヒト条約でスペインはイギリスに対しジブラルタルの町、城塞、港の軍事的使用を認めた。スペインはその後、1783年にジブラルタル奪回戦争を企てたが失敗している。

そのように、ジブラルタルの帰属には、複雑な永い歴史が存在するにも関わらず、イギリスは1981年、チャールス皇太子とダイアナ妃のハニムーン候補地にジブラルタルを選んだため、スペイン国王、ファン・カルロス一世が結婚式に出席を断ったいきさつもあった。

1954年、エリザベス二世のジブラルタル訪問時にはジブラルタル地名入りの記念切手も発行している。

少し蛇足に流れるが、ビートルスのジョン・レノンとオノ・ヨーコは、1969年3月20日にこの地で結婚式を挙行して、ジブラルタル郵政局はこれを主題に1999年、記念切手まで発行して歳入の一助としたことが知られている。

ジブラルタル問題は日本が問題視している千島列島と同じカテゴリーに入る国際的紛争である。

筆者の考えでは、1945年2月、英米ソ首脳によって開かれた「ヤルタ会談」の場でアメリカ大統領(フランクリン・ルーズヴェルト)が大戦をなるべくすみやかに集結させる条件として、同年8月頃(ドイツ降伏後)ソ連が日本との不可侵条約を破棄して、対日戦を開始することで、結果として、当時では日本領であった、南樺太と千島列島(国際法上、全域)の占領を黙認する取り交わし(口頭?)たと思っている。

その証拠に、戦後65年間、日露の間でこれほどまで縺れて解決を見ていない難交渉に、一度たりともアメリカは発言を試みたことがない。

冷戦時代を通して、アメリカと日本の関係は、どの問題にも優先すると発言しながら、アメリカが、こと「北方領土」になれば何故積極的な干渉を試みないのだろう?

ジブラルタルの問題でイギリスとスペインは過去300年間、その帰属問題でもめているが、それが何故解決しないのかを考えると、それは2国の力関係に根ざしていること以外には考えられない。

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アメリカ大統領、副大統領の最短記録

Stamp_0f_harrison (ハリソン大統領)

アメリカ第9代大統領、ウイリアム・ヘンリー・ハリソン(William H,Harrison,1773-1841)は大統領に当選して僅か32日後に死亡した。

従って、ハリソンは任期中に死亡した最初の大統領であり、アメリカの独立以前に生を受けた最後の大統領であった。

彼の死亡には何ら謎めいたこともなく、肺炎を患って当選直後に、68歳で他界した。

彼はそれまでで、就任時の年齢が最も老齢の大統領とされ、その記録は1980年に就任にた、第40代のドナルド・レーガン大統領(Donald Reagan,1981-1989)の70歳まで破られることはなかった。

ハリソンは大統領としての寿命は僅かの間ではあったが、軍隊で鍛え上げた強靭な軍人であり、立法府の職につくまでには「インディアン・ファイター」として勇名を馳せた人物であった。

インディアン保護区のガヴァナー就任後、1811年には伝説的に獰猛なショーニー族酋長、テクムセ(Tecumseh)をティペカヌー(Tippecanoe)の争いで追い詰めて殺戮し有名を馳せた。

又、その翌年、1812年から始まったイギリスとの“War of 1812”でも数々の武勲をたてている。

ハリソンの大統領としての期間が僅かに32日で、歴代大統領の最短記録となっているが、副大統領の最短記録についてはあまり知られていない。

ウイリアム R,キング(William Rufus King,1786-1853)こそが、歴代アメリカ副大統領最短記録保持者であった。(45日)

キングは、フランクリン・ピアス、第14代大統領の副大統領となったが、その期間は僅かに45日間であった。

ノースカロライナの豪農の生まれで一生独身を貫いた上院議員、同じく、アメリカ史上唯一の独身大統領であった、第15代のジェームス・ブキャナン(James Buchanan,1791-1868)大統領との特殊な性的関係を噂されたことは有名。

1852年、選挙の結果、副大統領に指名されながら、結核と診断され、侍医に転地療養のためキューバに送られた。

1853年春の大統領就任式にも帰国出来なかったため、議会の特赦で副大統領の宣誓もキューバのアメリカ領事館で行った。

病状から考えても議会での任務の遂行はおぼつかないことを知ったが、その後、キングは2週間をかけて、アラバマの自宅まで帰りついたが、その後病状が悪化、1853年4月17日他界した。

従って、キングは一日も副大統領としての職務を果すことなく、ピアス政権(ⅰ853-1857年)は、その間、副大統領席は空白のままであった。

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"Medal Diplomacy"の競売

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2005年の7月に、81歳で死去したジョン・フォード2世(John J,Ford Jr.)の遺産の内、1767年製のメダルは92000ドルの値を付けた。

フォード氏は、小銭と紙幣収集家で有名を馳せた人物

フォード氏遺産の競売は、20部門に分けて行われたが、その内の15部門は、殖民地時代のコイン、「外交メダル」、奴隷識別用タグ、と初期紙幣で、その部門でのトータル価格が4500万ドルに達した。

その中にあって、特に注目されたのが、Medal Diplomacy、直訳、 「外交メダル」と呼ばれていたコイン状の記念メダルであった。(写真)

これは別名、Indian Peace Medalと呼ばれる代物で、アメリカ植民地時代の初期に、文字識別のなかった先住民との平和宣言条約に替える意味あいを持って、最初スペイン人が考案し、次いでフランス、イギリス人達がこぞって使いだした、粗雑に鋳造された記念コインである。

その表面のデザインの多くは煙草のパイプを交換する儀式の模様が使われ、先住民の酋長宛てに贈られ、これでもってお互いの「永久平和条約」の印となったとされている。

裏面には種族にいわれのあるシンボルがデザインされて、18世紀の中頃に最も多く製造された。

特に1757年頃、“フレンチ・インディアン戦争”頃、フィラデルフィアー地方のクエーカー教徒たちが、好戦的なデラウエアーやショアワニー族らの酋長らに渡すべく、真剣に平和を願って鋳造したコインは貴重な種類とされているらしい。

19世紀に入っても、第3代大統領のジェファーソンの時代からは、政府直営の鋳造所でも造られるようになり、この「風習」は1876年、政府が最終的に、すべての原住民を居住区に完全に移動させるまで定期的に続けられた。

最初は、お互いに同等の立場で平和を維持し、侵略は行わない協定のサインに替えて渡されていたメダルであったものが、時が経つにつれ、「誘導」の証明にかわっていった。

これを見るにつけ、侵略者に追いやられ滅んで行く運命にあった原住民の悲哀を感じずにはおれない。

この“peace medal”の最後は、1890年のベンジャミン・ハリソン大統領時代のものとされるが、それは奇しくも、フレデリック・ターナーがアメリカに於ける“フロンティアー”の終焉を宣言した年でもあった。

フォード・コレクション中のいくつかのコインは5桁、6桁で売られたものもあったらしいが、これら高価な物の全てが、一度は何処かのインディアン酋長の所持品であったことを思うと余計悲しくなる思いである。

この競売の総額は3億3200万ドルを記録した。(場所:Stack’s Rare Coins,New York,N.Y.)※ American History,Aug.2007.PP.38

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