戦争犯罪人とは?

PhotoRaymond Biel:Second Lieutenant, US。Army Air Forces in  1945

戦争行為は残酷、非道である。ただ敗戦国の戦闘員だけが軍事裁判によって裁かれる。

 

日本は連合国によって国際法上不法な侵略を行い、世界の他民族に多大な迷惑を及ぼしたことで、戦争終了後70年間非難されつづけている。

 

 

 

空の要塞の異名をとった大型爆撃機B29は「日本の戦力を根本から絶つ」ことを目的に建造された 戦闘爆撃機で、爆撃の対象を軍事施設だけでなく、木製の日本の民家を目標と定め、焼夷弾を使用、非戦闘員(民間人)を含む日本人の撲滅を目的に非人道的攻撃に使用された。

 

 

 

このようなアメリカ空軍の無差別爆撃により、推定一般市民8万人が焼死、100万人以上が被災、これらはアメリカ軍の重要な「戦果」として、日本爆撃に貢献した多くの軍人が名誉な行為として叙勲されている。

 

 

 

戦争の末期頃には日本各地の港湾・航路に多数の機雷を投下、海上の封鎖で、これを「飢餓作戦」と唱えた。

 

 

 

日本本土爆撃に参加したB-29,総数3万3千機、その内714機を失ったとの報告がある。

 

 

 

我々は今更、70年も前に受けたアメリカの非人道的なB-29による無差別爆撃行為を非難しても仕方がないが、最近目にしたアメリカの雑誌”AMERICAN”(2011年2月号)に掲載されていたアメリカ空軍のB-29のCO-PILOTであったMr.Raymond Biel (写真)の手記を紹介したい。

 

 

 

トルーマン大統領が“これを日本に投下するまでは降伏させるな”と云った原子爆弾投下のいきさつが偲ばれると思い、生々しい真実の告白をそのままのかたちで紹介することにした。

 

 

 

Raymond Biel,Second Lieutenant,US.Army Air Forces

 

“My unit had fifteen B-29 bombers and I was a copilot on one of them. On our first five missions in Japan, we dropped high explosive Fat Man bombs on industrial targets.

 

Our Sixth mission was strange. Because we took off without bomb.

 

We were told to fly over Nagasaki and report the weather back to Enola Gay,

 

plane flying an hour behind us.

 

There were two other planes assigned to similar reconnaissance missions,

 

one went to Kokura and another went to Hiroshima.

 

 

 

All three targets were clear that day..

 

we landed at our base and we shortly heard that President Truman had made an announcement: Hiroshima had been destroyed by a single bomb and if Japan didn’t surrender,other cities will get total destruction.

 

We all started cerebrating .We were thankful to be part of the mission.

 

 

 

このアメリカ軍人の生々しい真実の思い出話を読んで、筆者は、当時、トルーマン大統領の日本をターゲットとした原子爆弾投下戦略は、長崎、小倉、広島であったことが判った。

 

それと、広島を最初の目的地とは決めずに、原爆投下の使命を受けていた「エノラ・ゲイ」機の1時間前に二機の飛行機を飛ばし、これら3都市の気象状態を報告させて、何処でも天候の良好な都市に原爆を投下することに決めていたと考えられる。

 

その理由は、明らかに、爆弾の効果を上空より写真撮影して、調査することにあった。

 

1945年8月6日に於いては、長崎、小倉、広島の3都市とも天気が良好であり、アメリカ側にしてみれば、どの都市に投下しても変わりがなかったこともわかった。

 

広島にはウラン型の「リトルーボーイ」、長崎にはプルトニューム型の「ファット・マン」が使用されたとのことが判っている。

 

 

 

長崎の被爆は同年8月9日であったが、その日、長崎が晴れていて、小倉が曇っていたことで、小倉が幸運に被災を免れたとも考えられる。

 

 

 

アメリカ大統領は爆弾一発で大都市を破壊して廃墟化し、大量の人命殺戮を目的としていたことが判るが、戦争犯罪人とは看做されていない。

 

 

 

 

 

 

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再びアメリカ外交官デニソンに就いて

日清、日露両戦争で日本にとって掛け替えのない働きを果たしたアメリカ人を挙げるとしたら筆者は迷わずヘンリー ウイラード デニソンを推挙したい。

 

ペリー来航以来、我が国は数多の条約を欧米角国と交わしたが、殆どが我が国には不利な条件で結ばれていた。

 

明治政府はこれら不利な条件を修正する仕事を依頼する目的でデニソンを外務省に招いた。(デニソン(Henry Willard Denison 1846-1914)

 

不思議にも我が国では、デニソンの名が広く知られていないのは何故だろうと思えてならない。

 

デニソンは1846511日ヴァーモントに生まれ、その後、ニューハンプシャアー州ランカスターに移り住んだ。

 

その後、国防省に勤務、又、財務相にも勤務した。

 

いつの事かは分からないが、デニソンはオレゴン州のプロ野球団オリンピックス(Olympics,Oregon State)の一塁手を186768年に務めている立派なプロ野球選手であった。

 

ジョージ ワシントン大学で法律を専攻し、1868年(明治元年)アメリカ横浜領事館勤務のため来日した。

 

一度帰国したが、再び日本政府の正式要請で1880年、来日し終世日本の外交業務に尽くした。(参考:Base Ball Pioneers, 1850-1870,, McFarland & Company,

IncP.268

 

デニソンの関わった最初の任務は、日清戦争後の下関条約締結であった。

外相、陸奥宗光の背後にあって、活躍、その後に起こった「三国干渉」事務での補佐の仕事であった。

 

広島で行われた「御前会議」にも参画、当時の日本の国力ではむずかしいが、全く「干渉拒否」の態度には消極的意見を述べたが、結局、デニソンの意見は通らず、ロシア、フランス及びドイツの要請を受諾、遼東半島の返還と決まり、「臥薪嘗胆」の言葉が生まれることとなった。

日露戦争の終結における「ポーツマス条約」にもデニソンは参加していることについても、日本ではあまり知られていない。

英米との外交交渉書類原稿作成、小村寿太郎や金子堅太郎の英文での草稿もデニソンの援助なくしてはなし得ていないのではとも思われる。

 

デニソンは、日本人の作った原稿を修正せよと言われてもとても直せないとも云っている。

英語は正しいかどうかよりも、自分の能力で(英語能力で)書かなければ人に感動を与えられるものではないとも言っている。(梅渓昇著「お雇い外国人」116ページ。

 

ポーツマス条約の会見場でルーズヴェルト大統領に’君はアメリカ人か日本人かと問われたとも伝えられている。

 

金子堅太郎全権が会議の最中に、小村の用意した原稿を、デニソンに再度寄稿させるように進言したことから考えて、デニソンが如何に日本では重要視されていたかがわかる。

 

デニソンは30数年に亘って日本歴代外相の絶対的信用を得、謙虚な姿勢で日本を理解、日本外交に貢献し「影の外務大臣」を貫き、1914年(大正3年)第一次世界大戦勃発の年、外務省顧問在任中病を得て帰らぬ人となった。

 

このことはその後の世界での日本の立場を考えるとき誠に慙愧に堪えないしだいである。

デニソンは小村寿太郎と同じく青山墓地に葬られた。(幣原喜重郎「外交50年」)

 

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目に余る韓国の反日姿勢への

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本日(38日)産経「一筆多論」(佐々木木類氏筆)’見たくないシーンを見てしまった。エド ロイス米下院議員長(共和党)が、韓国系アメリカ人らが設置した「慰安婦」像前で、跪いて線香をあげる姿だ’、これは明らかに政治ショー、さぞかし韓国系の市民を喜ばせたことだろう。

 

ロイス氏は1992年から連続して11回の当選を果たしている政治家。選挙のことなら何でもする人物と映る。

 

韓国は戦時中、約20万人の韓国系慰安婦を強制連行したと言うが、勿論証拠はない。現代史家泰郁彦氏は、陸軍省の資料分析では、慰安婦の総数1万数千人、そのうち日本人4割、半島出身者が2割と結論を出している。

 

先日、NHK会長が、”戦争のあったところ、慰安婦なんか何処にでもいた”と言う発言をして、国会に呼び出されて叱られたが、それでは河野洋平発言の根拠は何処から出てきたのかはっきりしない。又、河野氏へのおとがめもさらさらない。

 

話題は変わるが、パチンコは日本では合法産業だが、台湾でも韓国でも禁止産業となっていることを殆どの日本人は知らないし、日本では一大産業として放任されている

パチンコが何故、台湾や朝鮮半島では非合法なのだろう?

パチンコの資本は朝鮮半島から来ていることは殆どの日本人が知っている。

 

パチンコによる利益は朝鮮人の懐に入る、彼らの虎の子収入に違いないが、これを何故国会で問題にしないか、問題に出来ないのか、その辺の事情は微妙な事情があるのかも知れない。

 

日本海を「東海」と呼べとか、伊藤博文の暗殺者の銅像を建て、100年以前に起こったことを今更持ち出す目的で何を日本に言いたいのかを知りたい。

 

断りなく「竹島」に無血上陸を果たし、これを現実に自国に取り入れた行為は、明らかに国際法違反である。

 

これを座視して問題にしない日本政府の態度も不甲斐ないが、それならば、アメリカ、カリフォルニア州が1913年、一方的に決めた「排日土地制定」で、日本人はアメリカでの農地も買えなくなった。これは「国内法」で決まってしまったことであった。

、今後、朝鮮人、韓国人に対して、日本でのパチンコの営業禁止、土地収得の禁止を政令で決め、韓国、北朝鮮に対し、何らかの報復を考えても良いのではないかと思える。

昨年、九州旅行で宮崎の「シーガイヤー」のゴルフ場のホテルに宿泊する機会があった。この広大な地所は既に韓国系パチンコ王の持ち物になっているらしい。

ここに限らず、韓国人は今や、パチンコより日本の不動産取得に注目し、対馬の土地の取得にも関わっているとのこと。

最近国会で日本周辺に存在する離れ島の調査を始めたらしいが、何時になれば日本が「平和ぼけ」から目覚めるのか、不安は尽きない。

 

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狂信韓国

Photo_6伊藤博文

AEI研究所の日本研究部長マイケル・オースリン氏が米誌「ナショナルレヴュー電子版で、最近、韓国が中国の許可をもらって旧満州ハルピンに初代首相伊藤博文を暗殺した重安根の記念碑を完成させたことについて、アメリカ南北戦争(1860年―1865年)が終結後の1865年4月20日、ワシントンのフォード劇場において俳優ジョン・ウイルキス・ブース()John Wilkes Booth)の凶弾に倒れたエブラハム・リンカーンのことを取り上げ、もしも、アメリカの隣国のカナダの狂信者が、アメリカ人が祖国の中興の祖として崇めていたエブラハム・リンカーン大統領を暗殺した愛国者として1世紀も経ってからブース記念碑を建立したとしたら一般のアメリカ人はどう思うだろうと皮肉って述べている記事を見た。(2/1‘14、「湯浅博の世界読解」)

 

 

 

マイケル・オースリン氏は「事件が起こって一世紀も経てば、国家はそれを記憶の彼方に置こうとするものだが、東アジアではそうではない」とし、わけても、韓国の執拗さを嘆いている。危殆に瀕する自国経済、又は、日々に軍事大国化する中国を前にして韓国は他に考えるべきことがある筈。

 

 

 

そんな過去のことを今更もちだして意趣返しをしている場合なのかと、韓国の姿勢を批判している。「靖国」「教科書」「竹島」の諸問題が彼等にとってそんなに国家の重大問題」なのだろうか? わけても「慰安婦問題」とその]銅像を関係のないアメリカの地に造ることは全くの気違い沙汰と云う以外にない。

 

 

 

筆者(日本人)の見解を披歴するとしたら、「韓国併合」に最も同情的姿勢で接していたのは初代韓国初代総統を務めた伊藤博文その人であった。(恐らく韓国では伊藤博文を知る者はすでにいないと考える)

 

 

 

何はともあれ、靖国は日本の国内事情であり、これに就いて他国が無駄な干渉をすべきだないと思っている。

 

 

 

 

 

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新発見、(持念仏)金色涅槃像

20140202_091932新知恩院蔵木彫涅槃像

体長12.8センチと云う超小型の木彫の涅槃像が滋賀県」の新知恩院で発見された。胸の部分に水晶がはめ込んであり、材質は貴重な白檀製で、釈迦像の肌は丹塗りの上に金泥が塗られて、着衣は金箔に載金模様が施されている。

釈迦が入滅の際に体から光を発したという経典の言い伝えを表現するかのように胸の部分に水晶が嵌め込まれている。鎌倉以後目や爪、歯などに水晶がしばしば使用されている作例は珍しくないが、胸部分に水晶が嵌められた例は未だないといわれる。

目元や耳の形状、顔の輪郭、着衣の襞 の形状に快慶晩年の特徴も見受けられるとの報道だが、そのことよりも、当時では高価な材質や水晶までも使っていることから考慮して、かならい高い身分の人物が特注で作成させ常に肌身離さずに携帯していたものではないかと見られる。

この像は新知恩院の蔵から最近見つかり、収蔵されていた箱裏に「開山以来重宝秘中の秘也」と墨書され、唐織の袋に入った状態で見つかった。(像を置く台や枕は江戸時代の作)

この像を調査した同志社大の井上稔教授は(非常に出来が良く、芸術的な価値も高い。釈迦の死について非常に厚い信仰のあった僧が、持ち歩く」「念持仏」として作らせたものではないか」と述べている。

新知恩院の由来であるが、本山の知恩院(京都市)が応仁の乱の戦火を逃れて疎開先となった頃から建てられたと思われる。

いずれにしても、浄土宗の教義で説かれる「来生」の思いを象徴する貴重な作品として、宗教上に於いても当作品に附いての更なる今後の研究を待ちたい。

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アメリカ帰化法の変遷

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1800年以前のアメリカ

 

フランス革命(17871799)が勃発し農民下層階級の暴動でルイ王朝が崩壊、其の間多くの王統派や政府の要人らがアメリカに何を逃れた。

 

 

その後、ナポレオンが執政となりヨーロッパを半ば制覇し、多くの人々が大西洋を渡ってアメリカに移民として押し寄せたことで独立(1788年)したばかりのアメリカは急遽、帰化法を議会で成立させ必要としない移民の排除を考える必要が生じたと思われる。

 

 

1790326日、アメリカ最初の移民法(帰化法)"naturalization act of1790

 

の成立を見た。

 

その目的は移民の制限目的で、入国する人たちの「市民権」に或る制限を課することにあった。

 

その条件として、先ず, 善良な白人(white persons of good character)に限るとして、アメリカ先住民、年季奉公人(indentured servant)、奴隷、や自由黒人及び、アジア人をその範疇から除外している。

 

 

”良い性格の白人”とは如何にも曖昧な中世的文言であるが、アメリカが建国以来puritanで新教徒の国であるため、カトリック及びユダヤ教徒たちを良い人間、即ち good character personsでないことを遠回しに表現したのではとも思われる。

 

1790年の帰化法に於いては、移民申請をする以前に一年以上国内に居住した者に限ると規制を設けている。

 

 

 

この場合、市民権を取得した子供も自然に同じ権利が得られるとしている。

 

ところが、1795年には、最初の一年が、5年になり、1798年には14年に延長され、遂に1798年には廃止となり、1802年になり、Naturalization ofにとってかわられた。

 

アメリカの移民法はそれ以後において度々変更されているが、19世紀以後その主な変遷を辿ってみると。

 

 

citizenshipの定義が大きく変わったのは南北戦争後、第14条修正案により、先ず「アメリカ国内に生を受けた者」は其の市民権を得ることとなった。但し、国税を支払っていない先住民(インディアン)、及びアフリカ系黒人は除外された。アメリカ先住民については、1924年になり“Indian citizenship act 0f 1924”で市民権が与えられた。

 

 

 

1952年になり建て前として如何なる人種もアメリカのcitizenの資格取得を妨げないとなっているが、まだまだ一筋縄では解決できない問題があるようである。

 

 

Naturalization Actとは別に、19世紀の中頃、南北戦争終了後の1862年になり、大陸横断鉄道の完成で西部に移民を迎えるべく考えられた、土地を解放して人口の増加で鉄道収入の獲得と、白人人口の増加を狙って考え出されたhomestead Actがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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中国の将来を憂慮

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20121110日、中国の富裕層の海外逃亡について、20年後、この国は世界で最も貧しい国になると断言したヒラリー・クリントンアメリカ国務長官のコメントには深い根拠があるように思えてきた。

 

中国では、全土で暴動が年間30万件に及び、不満のはけ口を日本に向ける戦術で糊塗してきた。しかし、こんな姑息な手段は何時迄も続かない。

 

前首相、温家宝の蓄財は略2千億円(米紙報道)NYタイムズ電子版もこれを略認めている。

 

習近平氏が未だ国家副主席であった頃、彼の姉夫婦は北京中民信房地産開発の理事長であったが、国籍はカナダ、弟はオーストラリア在住、。それに実の娘はアメリカ留学中。

 

習近平自身、国家主席になる前から国外に片足を踏み出している姿勢が窺える。

 

過去10年で富裕層の海外逃亡は約2万人、共産党が自認して、公表済みの高級官僚の逃亡者数4000人以上、2012年時点で、持ち出された外貨1000億ドルが明らかになっている。

 

クリントン国務長官の発言は事実に基づいて控えめに発表されているとも伺われ、隣国の事情ながらこの調子で高級官僚やインテリ、富裕層が国を後にしたら中国は実態のない最貧国になり下がることが危惧される。

 

中国は共産主義を標榜する世界で数少ない無宗教の国で、国民が崇拝する対象は「権力」と「金銭」と云う恐ろしい国に映る。

 

原状を観察してもわかるように、再現なく垂れ流し状態で放置される、危険な化学物質を含んだ水によって、飲料水までなくなりかけていると聞く。

浄化装置のないまま放出される石炭の噴煙や車両の排気ガスに住民の健康は日々害され続けていることに政府は真剣に取り組む姿勢を示しているようには見えない。

 

中国の憲法を根拠に人権擁護を訴えている「新公民運動」家、許志水氏(40)が公共秩序騒乱罪で捕らわれ裁判中。

許氏は2012年頃から出稼ぎ労働者の子供に対する教育の機会均等や、政府高官の資産公開等を求める「新公民運動」を開始したとして公共秩序騒乱罪の疑いで拘束され服役中。

もともと国民が均等の富を持てる筈の共産国家で、貧困に苦しんでいる子供に平等の教育の機会を与え、官吏の給与状態を明らかにするように要望することが何故「国家騒乱罪」となるかを為政者が考えるべきと思うのだが。

 

共産党の一党独裁そのものに反対すれば、一昨年にノーベル平和賞を受けた劉暁波氏のように不当に捉えられ幽閉される国家には誰も住みたくなくなるのは当然。

 

最近になって習近平政権は知識人に対する締め付けを強化し、許氏と、その仲間ら、少なくとも20人を逮捕するだけでなく、彼等の活動を経済的に支援する企業家までも拘束した。(産経、1月23日)

 

資産家や知識人を弾圧し、資産を略奪した上、殺戮した半世紀前の「文化大革命」の愚挙を繰り返すことは出来ない。

 

習近平国家主席の親族らが、カリブ海の英領バージン諸島の、タックス・ヘーブン地帯に隠し資産を管理していることが最近明らかになったと、約60カ国のジャーナリストでつくる国際的調査報道機関ICIJ(本部ワシントン)が21日発表した。

 

これによると、習主席の義理の兄弟や温家宝前首相の子息らがヴァージン諸島などに資産管理会社を設立して財産の保全にあたっていると報じている。

 

これら富豪や国有企業幹部らは約2万2千人に上り、2000年以降に中国から流出した資産額は1兆から4兆ドルと推計されている。

 

しかも中国本土の報道機関もICIJに参加していたが、さすがに、昨年11月、中国当局から警告され脱退したとのこと。(前述同誌)

 

世間では“そんなことをしていたなら下に示しがつかない”と云うような事例が正に中国では臆面もなく行われているとは恐ろしい。

 

 

 

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元紅衛兵の謝罪と反省の会

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「毛沢東と宋氏」於天安門(写真)

1月13日付の新京報は宋彬彬氏ら、元紅衛兵約20人は、北京師範大学付属高校に集合し、文革中に紅衛兵の暴行を受け死亡した同校の元副校長、卞仲転氏の銅像に黙とう、懺悔したことを報じた。(産経)

 

宋彬彬は中国共産党軍の長老、宋任窮大将の二女で、文革が始まった直後に紅衛兵組織を作り、教師を攻撃する壁新聞を校内に張り出した張本人。それで副校長を毛沢東思想に反対した人物と認定し、1966年8月5日、無残にも撲殺した。

 

その後、これを契機として、中国各地で紅衛兵によるインテリ層の迫害が始まった。

 

新京報は13日、宗彬彬氏が北京の天安門楼上で毛沢東と会見、紅衛兵の腕章を毛氏に直接つけた歴史的な写真を公表した。(部分写真参照)

 

これは一に、毛沢東が文革運動を奨励し、自分も紅衛兵の一員とし、同運動を推進したと云う証拠写真で、これに対し、今後、中国共産党幹部、特に、習近平代表が如何に答えるかに注目が集まるのではと思われる。

 

21世紀に生を受けたような若年層にとって「紅衛兵」についての認識のない人口が増えつつあるとき、文革で一億人近い同胞が不運な運命に遭遇、又は惨殺された事実を支援こそすれ反対姿勢を鮮明にしなかった軍部及び指導相はどのように答えるのであろうか?

 

紅衛兵のリーダー格宋彬彬氏は天安門上で毛沢東に紅衛兵の腕章をつけ、約半世紀が経過したが、「文革」終了後、渡米、MITで博士号を取得し、考えを変えて、自己の犯罪について、“今、謝罪しないと今後永遠に謝れない”との思い、この度北京に 帰って「文革を反省する会」を開いて過去を反省、謝罪した。

 

これは最近、習近平政権が毛沢東を模倣した政治運動を進めていることを気遣い、「文革」の再来を阻止するべく行った行為は命を賭した勇気ある行動と特記すべきと考える。

 

この「文革」は革命と呼ぶにはあまりにも低俗で、革命ではなく「文化破壊」と「殺戮」に終始したもので、世界中の識者から毛沢東の呪縛から抜け出せない中国共産党に疑問が投げかけられている理由はそこにある。

 

「文革」の幕引きは毛夫人と3名の処刑で終わったと云われているが、文頭に述べたように、それならば何故、毛氏の肖像が天安門に揚がっているかを指導者が説明、国の現状と過去の関係が語られなければならない。

 

紅衛兵が潔く過去の反省をしたが、それに対して国家の言い分を聞かなければ世界は納得しない。

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17世紀讃美歌集に15億円

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去る11月26日、ニューヨークのサザービーで競売に出された17世紀の讃美歌の古書籍が最終価格1420万ドル(約15億円)で競り落とされた。(部分写真)

 

これは、アメリカ東部に17世紀、ヨーロッパから移民達が印刷出版したもの。

AP通信によると、讃美歌集は1640年、マサチュウセッツ州で印刷された1700冊のうちの1冊。

 

これはアメリカで印刷された本としては最古のものとされ、現存するのは11冊と云われていて、そのうちの2冊を所有するボストンの或る教会がこのたび1冊を競売に出品したと云われる。

 

これまでの書籍の落札額としては、2010年、ロンドンで記録した、アメリカ鳥類画家、オーデュボン(John James Audubon,1785-1851)原本の画集、1150万ドルが知られているが、横10センチ、縦13センチほどの僅か1冊の讃美歌集につけられた値段が15億円とは驚きである。

 

高値の落札としては、1994年のレオナルド・ダヴィンチの図解入り草稿の約3000万ドル(30億円)が知られている。(1月14日、産経)

 

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明治の日本外交に貢献した、ヘンリー・デニソン

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日清、日露の戦争(1895-1938)を通じて日本政府はアメリカ人の外交顧問を特別待遇で招聘した為、日本は、これら二つの戦争に勝利し、外交交渉をそつなく乗り切ることができたと筆者は考えている。

 

そのアメリカ人の名はヘンリー・デニソン(Henry Willard Denison,1846-1914)であった。

彼はアメリカ野球の草分け頃に活躍し、今日のMLB創設に関係の深い人物でもあったと言われている。

 

デニソンの招聘に最も協力的であったのは井上馨であって、その主たる目的はペリーの来航以来、欧米諸国との間に不利な条件で締結されていた、所謂、不平等条約の改正の仕事であった。

 

デニソンは1846年(弘化3年)、アメリカ東部ヴァーモント州生まれ、コロンビア・カッレジ卒業後来日、アメリカ横浜副領事であったが、1880年((明治13)アメリカ公使、デ・ロングの推薦により外務省の顧問となった。

 

欧米流外交交渉に不慣れであった生後間もない若い国、日本にとって「外交」こそ最優先の国家事業であると気付き、諸々の条約規約を分析しながら外国と交渉、我が国に最も有利な、例えば「最恵国待遇条件」の手続きを語学と法律、欧米の習慣に手慣れている専門家を雇用して、ことに当らせたことは賢明な手段であったと考える。(但し、国家機密の漏えいについては一抹の不安が拭えない)

 

デニソンはその後、大隈重信、榎本武揚、陸奥宗光、小村寿太郎等の外相のアシスタントとして活躍、条約起草又は改正に具体案を示して政府の手助けをした。

デニソンは「三国干渉」の会議にも参画して陸奥外相に意見を具申している。

 

デニソンの最大の仕事は、日露戦争終結段階でロシアに手渡した交渉文の作成であった。デニソンの条文を目にした英仏らはその卓越した言い回しに驚き、我が国の立場に同情が集まったと云われている。

その時、アメリカ各地を巡って日本の立場に同情が集まるように演説に回っていた金子堅太郎も英文原稿をデニソンに依頼して作成させていたとも云われている。

 

結局、デニソンは日露停戦会議に小村外相と共にポーツマス条約締結の会議にも出席した。

 

デニソンはこの様にして日本政府に貢献したが、何の理由からか表だって彼の手柄や、仕事ぶりを公にされなかったのは何故だったのか、それを思う時、日本の典型的「役人政治」の狭量ぶりを感じずにはいられない。

デニソンは病を得て1914年に日本で亡くなった。

これは第一次大戦勃発の年であり、今年から数えて丁度100年前のことであった。

 

第一次大戦で、日本は頼まれもしないのに、これに参戦、ドイツを山東省から追放、戦後に太平洋のマリアナ群島の日本自治の権利を得たことでアメリカの西進を遮ったとして非難され、後の第二次世界大戦の火種の一つとなったと思われる。

 

デニソンがもし、その後20年生き延びたなら(1934年迄)、日本をあのような悲劇的戦争から救っていたかも知れないと思うと残念でならない。

 

デニソンの叙勲:勲二等(1895年)勲一等(1896年)、死後:菊花大綬章授与等 参照:梅渓昇著「お雇い外国人]講談社

 

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