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ミロのヴィーナスの経緯

1964年ミロのヴィーナスが日本にやってきたときのことを今でも記憶している。(私は見学する機会がなかったが)

実に10万人の日本人が列をなして鑑賞に集まった。これはルーブルの数ある作品の中でモナリサに次いで有名な収蔵品であるが、前年に100点近い日本の国宝クラスの至宝の返礼としてフランス政府はこの唯1点の作品を日本に遣わしたことに憤慨したことを記憶している。

フランスが如何にわが国を軽視しているかは、モナリサを送ってきた時も、同じであった。

それ以前にわが国は多くの日本美術の代表的優品をフランスに送った返礼の意味で「小さなイタリア」の絵を唯一点送りつけて責をふさいだのであった。※上記二つともフランスの作品ではない!

そんな事ぐらいで憤慨している私自身も未熟であったに違いないが、世界美術史の中では日本美術の価値は世界の視点から、また平均的価値からみて劣っていると見られている事実は否めないのではないか?

それはともかくとして、このヴィーナスはいろんな意味で興味のある作品である。

これは1820年にエーゲ海のミロ島の海中でユルゴス・ケントロタスと名乗る百姓が発見した。身の丈は2メートルを越す大きな立像で鼻は欠けて、両腕も失っているが、優美な女性の彫刻である。

Venus_de_milo_2

最初はBC、4世紀のプラキシテレスの作品と鑑定されたが、結局は約紀元前1世紀(ヘレニスティック時代)の作品に落ち着いた。

彫刻の発見にまつわる興味深いエピソードは多くあるが紙面の関係で省略するとして、一番の興味は失われた両腕である。

発見当時、左手には林檎を持っていたこと、右手で腰に巻かれた衣服を落ちないように握り締めていたこと等が報告されているが、船に収容されたときの手荒な処置で両腕がこぼれ落ちてしまったが、不幸にも引き上げられずにフランスに持ち帰られてしまった。

Venus_de_milo_3

この彫刻は製作時の慣わしで4~5部分からなっているので手荒に扱われるとこのように破損することはしばしばであった。

右側は左側面の部分より精巧に作られているところから考えて、これがもとはニッシュ(箱型の入れ物)に入っていたからだと思われる。

多くの古いギリシャ彫刻と比較してミロのヴィーナスがこれほど有名なのは、発見されたときからセンセーションを巻き起こしたことに加えて妖艶な姿態とルーブルに鳴り物入りで迎えられたことからだろう。美術史的にはこれに勝る作品は星の数のようにあるにかかわらず。。。。。

翻って考えて、このようなエロティックを強調する風習はローマ時代の特徴で、姿態からも,アレキサンダー大王の時代のスタイルを如実にしめしている。

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ロシアの台頭

今週の日曜日(12月2日)のロシア下院選挙が予定されている。

今までの情勢ではプーチン大統領を筆頭候補に据える与党「統一ロシア」が一人勝ちの様相を見せている。(日経11/28)

来年5月に2期8年の任期が切れるプーチンが選挙結果では「国民的指導者」として将来も引き続いて政界に影響力を保ち、国の舵取りをすることにでもなれば”独裁者”としてロシアに君臨するfigure headを目指して突き進む可能性濃厚である。

すでにプーチンを取り巻く若者の団体「ナーシ」はロシア語で”われわれ”を意味するらしい。そこに「祖国」と言う意味がこもっていて、いわば「大統領親衛隊」が出来上がっている。

創設は2005年で、ロシア独自の民主主義を提唱するスコルコフ大統領府副長官の発案で動員された、活動力あふれる一種の「党」ともとれる、プーチンの紅衛兵的集団である。

現在では政治的な問題意識は希薄といえども、何時このような集団がネオ・ナチ的右翼の集団に化ける可能性を否定できるものではない。ウラジヴォストーク(Vladivostok)は「東の領主」の意味。

Vladivostok

今では反プーチン集会への参加は逮捕や警察からの監視を招くような事態となりつつあり、今後この趨勢が勢いをつければ、ロシアは「左」→「右」に向きを変えた「統制国家」に逆戻りしかねない。

プーチン政権は10月、「ナーシ」のヤケメンコ代表(36歳)を政府に新設された青少年委員会の初代委員長とし、手柄をたてれば出世の道が開かれる実例を示した。

「統一」はクレムリンが牛耳るメディアの強力な後押しを受けて、相手側を完全に圧倒し、集会も強制的に排除される憂き目に直面していることからして、すでに勝負ありの状態である。

プーチンも今や「21世紀のラス・プーチン」の異名で呼ばれる存在となっているらしい。

日露戦争の敵討ちとして多くの日本将兵が戦後シベリヤ送りとなった。

わが国政府与党も野党も、いつの間にか「北方領土返還」を口にしなくなった。

日本は戦後、経済的に立ちなをったことで「先進国」を標榜するまでに成長したが、未だに「白人支配の世界政治圏」には入会することは難しい!

100年後の今日、福沢諭吉のスローガン”Might is Right"(力こそ正義)は未だにその色は褪せていない。

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ロシアにおける言論の自由

日経11/24(土)によると、”ロシア、プーチン政権は2期目の2004年前後から政府系企業を通じ、テレビを中心にメディア買収を加速、しどのニュース番組も政権の意向に沿った画一的なものになりつつある”という。

Putins_palace

クレムリン筋の与論統制を担うスルコフ副長官は匿名でミュージックバンドにプーチン派支援の歌詞を歌わせていると言われている。

今年の2月、一人の反対制派の人物が滞在先のロンドンの病院で、突然ガンのため死去した。

1980年代からロックの作詞家として活躍していたイリヤ・コルミルツエフ氏(47歳)。理由は官製バンドへの作詞を拒否し、最後まで反骨精神を貫いた事。

クレムリン筋によると”彼はこちら側になびかなかった唯一の音楽家”と明言をはばからないところ、ここまで来ればはや何をか言わんである。

少数派の声はかき消され、プーチン礼賛一色に染まる現状に違和感をを持つ有権者は近い将来、増加することとなる予感濃厚!

いまやロシアが再びスターリン時代の共産政治時代に逆戻りするとは考えられないが、プーチン志向の独裁政治国家の台頭も世界から容認されないことも確実であろう。

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イースター(Easter)について

イースター(Easter)はキリストがゴルゴダの丘で処刑され、3日後に生き返ったことを祝う祭りのことを指す、復活祭のことである。

イースターは春分の3月21日か、それ以後の満月の次の日曜日なので、イースター・サンデイ(Easter Sunday)とも呼ばれる。

年により3月21日から4月25日の間のいずれかの日曜日になるので、movable feastの名称がある。

イースターが日曜日なので、それに続くEaster-Weekは学校が休日となる。

(Eastern Horidays)として春の先駆けとして楽しい休日週間である。女性はイースター・ボネット(Easter Bonnet)などで着飾り新しい春のファッションで町を出歩く。

Easter_bonnet

ニューヨークの5番街ではかっては、陽気で派手な行事となっていたらしい。私も若い頃、人々がこぞって、セント・パトリック教会に出かける様子を描写したハリウッド映画”Easter Parade"を観劇した記憶がある。

赤、緑、黄などの派手な色に人の名前や花模様で彩色した卵を知人に送ったり、卵の変わりにチョコレートを贈り物にしたりする風習がある。

また、イースターにつき物は「イースター・バニー」といわれるウサギがある。(Easter Bunny).これはウサギは繁殖力が旺盛なことと、後ろ足の強力なバネを持つ元気な動物だからだろう。

しかし、何と言っても女性達がこぞって自分好みの”Easter Bonnet"を身に着けて春の町を友達と闊歩するのを心待ちにする心の弾む楽しいホリデイである。

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天寿を全うした稀代の大スパイ

朝日新聞(11/17’07)は昨年1月、モスクワで静かに92歳の天寿を終え他界した、元大学教授ジョルジュ・コワリ氏(sp?)のことを伝えている。

プーチン大統領は今年の1月、コワリ氏の比類なき功績を称えて彼に「金星勲章」を与えた。

コワリ氏は1913年ロシア系ユダヤ移民としで、アメリカ、アイオワ州、スー・シティー(sioux city,Iowa)の生まれ。

世界恐慌中の1932年、太平洋経由で家族とともにロシアに移住、その後、1940年に再びメリカに密入国(New York)している。

1943年徴兵されるが、何故か、ニューヨーク市立大学にて放射性物質を学ぶ(細部の経緯不明)。

Nuclea_weapon

その後、44-45年テネシー州オークリッジ(Oakridge,、Tennessee)でマンハッタン計画(原爆研究)関連秘密施設勤務ーポロニューム生産施設ーに参画。1846年、米軍除隊⇒1948年にソ連に帰国。

周知の如く、アメリカは最初原爆3発を製作、その2発を広島、長崎に投下して日本を無条件降伏させたが(8/15’1945)、ソ連は早くも、その4年後に原爆実験に成功している。

アメリカの大統領トルーマンは英米ソ首脳がこぞって第二次大戦後処理を話し合ったポツダム会議(7/22~8/2’45)において、誇らしげに、両巨頭(チャーチル、スターリン)を前にして、日本の降伏を速める手段としてアメリカが強力な新型爆弾を発明したことを告げたと報道されている。

実際はアメリカ政府の超極秘軍事機密「マンハッタン計画」の中枢に、このジョルジュ・コワリが正規研究員として働いていて、その間全ての機密がソ連に筒抜けだったのでは?と思うと、アメリカの最高機密が既にスターリンの耳に入ってことは充分考えられる。

コワリ氏が安寧のうちに他界した(昨年1月)ことを見届けて、彼の功労を愛でて勲章を授与したプーチンの心境とその意図、また反対に、まんまと国家機密を出し抜かれたことを世界に披瀝されたアメリカ政府の心境は如何なるものだろうか?

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雨量観測衛星

日米が共同開発した「熱帯降雨観測衛星」が実用に供されるニュースについての新聞報道。(1⅟15’07、京都)

世界の雨量分布図を示し、赤いほど雨量が多く、青いほど少ないことを示す広大な分布図上で複数の観測データーいよる雨量の分布図を作成し、それをインターネット上で掲示することを開始した記事が出ていた。

Satellite_image これによると周囲、10キロ以下の区画ごとに、一時間の推定雨量を、色分けして表示。観測後約4時間後には出来上がり、一時間毎に更新する。

これが現実に正確さを発揮すれば、多くの台風や豪雨に直面するアジアの発展途上国でこのような電波情報は、観測設備が未だ整備されていない地域には長宝されるのではないだろうか?

さらに気象衛星の雲の画像から雨が降っている地域の変化を求め、こうした情報を併せて降雨量や分布を推定して一枚の地図に表示することが現実となったと報じている。

過去24時間の降雨分布の変化も連続して見られる便利なデヴァイスが出現したことは大いに可とすべきである。アドレスはhttp://sharaku.eorc.jaxa.jp/GMSaP/index.j.htm

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石油の単位「バレル」の由来

現在世界中を賑ぎあわせている石油の価格は行き着くところを知らないように見える。

実際地球の何処を掘っても石油は出ることは判っているが、採算を考慮に入れた場合そうは行かないと思われる。

石油の事業化はアメリカから始まった。

最初に油井を掘り当てたのはエドウィン・ドレイク(Edwin Drake),別名"Colonel"が1859年にアメリカ東部のペンシルヴァニア州で発見、工業化させたところから始まった。

しかし、インディアンたちも既に15世紀頃から、また白人移民達が地面に染み出る油をランプ油として使っていたことがわかっている。しかし地下を掘削してビジネスに利用しだしたのはEdwin Drakeが元祖であることは間違いの無い事実である。

現在ではアメリカの大油田は殆どが西部にあると思いがちであるのではないだろうか?

ペンシルヴァニアでは当時この”石油発掘事件”で、まるでゴールド・ラッシュのような様相を呈したといわれている。

なぜかと言うと、急に湧き出した石油(Crude oil)をどのように処理して輸送するかと言うknow-howが判らなかったからだと想像される。

そこで考え出されたのがウイスキーやワインの樽を急場しのぎに使用したことから、1樽=Barrel単位で計ることとなった。アメリカでは1バレル=42(アメリカ)ギャロン(Gallons)或いは159リッターと取り決められた。(1859)

Oil_rush_in_pennsylvania

最も古い記録では単純に40ガロンが1バレルとなり、その後(1866年2月)に42ガロンとなったらしい。

最初の頃は先ず油を入れるものならなんでも使ったらしいことが記録されている。ペンシルヴァニアの油井はその後随時廃れて土地の安価な西部に移ったのは時代の趨勢であった。(ペンシルヴァニアの油井)

その後油田の探索が世界的なものとなり、今では砂漠地帯にその中心が移ってしまった。しかし、一日も早く石油に変わるクリーンな燃料資源の登場が待たれる昨今である。

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世界に禍根を残した会談

「ヤルタ会談」は1945年2月4日、対独戦後処理と、その後のソ連の対日参戦を詳細に、アメリカ、イギリス、ソ連の3国がソ連領ヤルタで行われた。

「ヤルタ会談」はまさに第二次世界大戦の終局を迎えるにあたって戦勝国3国が余裕をもって戦後の処理とその後の「世界分割」を勝者となるべき白人種三人の首脳が行った会談を指す。

ソ連の代表はスターリン、1905年ロシア帝国がアジアの小国の日本に屈辱的敗北を喫した日露戦争から数えて丁度40年になることを、スターリン自身は、よもや忘れてはいなかったであろう。

Photo ここで筆者が特に注目していることは、ヤルタに於ける諸々の三者会談の複線とでも言うべき話題として「ユダヤ人問題」がどのように討議されたかである。

これは周知の事実だが、ロシヤの土地には世界中のユダヤ人の三分の一が改宗を強いられながら半ば強制的に留められていて、ナチスのホロコースト以前より、ソ連時代を通して世界中でユダヤ人に対する迫害が最も過酷に続けられていたのである。

ユダヤ民族のもともとの故郷である”シオン”(エルサレム)に帰還するシオニズム運動が最高潮となり、いよいよシオニズムの帰還先がパレスティナに正式に決まった年が1905年であった。

それより半世紀弱後の1945年はロシアにとっても忘れがたい歴史的事実としてスターリン(もしくは、チャーチル、ルーズベルト)の脳裏に無かったとは言いがたいと思うのである。

以下のヤルタでの会話の様子(アルチュール・コント著、山口俊章訳、「ヤルタ会談ー世界の分割」P.361)から引用。

ルーズベルト、”私はパレスティナ問題の全てを研究することにしています”そこでスターリン、”ユダヤ人問題は容易ではありません。ユダヤ人は扱いにくいのです・・・・”、ルーズベルト、”私はシオニストです、貴方はどうですか?”

イスラエルが国連決議でパレスティナの地に建国されたのが1947年であった!

それから半世紀以上、中東で起こっている忌まわしい事実こそは戦後に臨んで、白人国家のエゴで衝動的に取り決められた、いわば取り返しがたい「ミステーク」のために全世界が苦しんでいる事実を我々は今「無言」で見つめている!(狭い鶏小屋に狼が放たれた!誰が?)

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別格「大統領」と「ファースト・レディー」

アメリカ大統領の中で人気NO.1はリンカーンである。大統領夫人は「ファースト・レディー」と呼ばれ何時も話題にのぼるのが常識となっている。

ところが、リンカーン夫人については、これまであまり話題に上ることがなく、わが国でもご存知の方は少ないのではないだろうか?。彼女の名はメアリー・トッド・リンカーン(Mary Todd Lincoln,1818-1882)ケンタッキー州、レキシントンの生まれ。

そこは、北部に近い南部の「奴隷州」であった。ケンタッキーは南部でありながら南北戦争中「中立」を貫いたが、とかく問題の多い場所にはちがいなかった。

Ablaham_lincoln 彼女は銀行経営者の娘で当時の女性としては最高に近い教養を身につけ、フランス語も話せる町では花形の社交女性であった。

彼女は丸ポチャで行動派の陽気な女性であった。メアリーの姉が州会議員の夫と北部、イリノイ州、スプリング・フィールドに住んでいたので、しばらく、その姉の家に世話になっている間に、将来の夫となるリンカーンと知り合ったと思われる。

周知の通り、リンカーンは歴代大統領中最も長身で、背丈6フィート4インチ、ところがファースト・レディーの背丈は5フィート3インチで丸ポチャの体格、それだけでも似合いの夫婦と言えるものではなかった。

リンカーンは常に仕事優先で忙しく、メアリーが誘った舞踏会、音楽会には興味が薄く、社交界向きでない人柄であったのでメアリーは常に「イライラ」に悩まされ続きであったという。

リンカーンは1841年1月1日に予定されていた結婚式に姿を現さず、結局、その約一年半後改めて式を挙げたという不思議な関係であった。(リンカーンがホモであった噂は今でも支持されている程である)

しかし、二人の間にはロバート、エドワード、ウイリアム、トーマスの4人の息子が生まれている。メアリーは南北戦争中、最も可愛がっていた三男のウイリアムを腸チフスで失ったとき落ち込んで、ふさぎこみ鬱状態になってしまった。それほど彼女は感情の起伏豊かな女性であった。

1865年の4月9日長かった戦さ(南北戦争)が終わり、その僅か5日後の4月14日、晩餐後に近くのフォード劇場でコメディーを観劇することになっていて、グラント将軍夫妻も出席することになっていた。その日、夫婦は馬車で郊外をドライブして帰宅し、リンカーンが自宅で疲れを癒しているとき、メアリーがその約束事を思い出し、リンカーンに声をかけたが、彼は全く乗り気ではなかった。しかし、メアリーの要請に応じて観劇についていって不幸にもそこで凶弾にたをれたのであった。

Mary_todd_lincoln1846 その状態を見たメアリーは錯乱状態となり鳴き悲しんだといわれている。それ以後、彼女は自責の念にとりつかれ、明るかった彼女の性格は消えうせ、64歳で他界するまで回復することはなかった。

これはあまりにも有名な出来事でありながら、その後、あからさまに語られることなく、過去に埋もれている一片の事実である。

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「ミス・ポター」の映画

最近の子供に非常に人気があり、世界的ヒットとなった「ハリー・ポター」の魔法の話は、出版物としても映画興行としても一代ヒットとなり内外にポター・フィーバーを巻き起こした。

本が出るやいなや、すぐに売り切れという信じられないような人気作品となった。作者はイギリス人だそうだが、私の興味をもっている女流作家、ベアトリックス・ポター(Helen Beatrix Potter,1866-1943)もイギリスの生まれである。

ごく最近「ミス・ポター」と言う映画を見に行った。これはまさしく、ピーター・ラビットの作者、ベアトリックス・ポターの伝記映画であった。

彼女は裕福な家族の生まれで、小さい頃から絵を描くことが好きで、女の子らしく可愛い動物、特にウサギを写生しているうちに、それを擬人化することを考え付いて、そのウサギをピーターとなずけることとした。

Peter_rabitt2

それは後にピーター・ラビットとなって連続モノのシーリーズとして出版されることとなった。

彼女が何時も一人で部屋に閉じこもって動物の夢の世界に浸っている様子、ある日、意を決して、それらのスケッチを携えてロンドンの出版社を訪れ、初めて自分の描いた作品を売り出すことに成功するシーンは、19世紀、ヴィクトリア時代の女性には考えもつかなかった「偉業」を勝ち取った瞬間のもので、私も大いに感動した。

久しぶりに思い出に残る名画を見たと思った次第である。

ポターの生きた世代は19世紀⇒20世紀初頭と言う女性にとって「社会進出」するにはとても難しい頃で、特に良家の娘が独自でビジネスを始めるというようなことは例外視されていた頃であった。

ところが映画館の中には私を入れて、たった5人だけで、これでは興行は赤字に違いないと気の毒になった次第。

ポッターはピーター・ラビットにとどまらず、子豚やカエルそれにガチョウのシリーズを世に出して、自分の作品をレジスターして独占使用権を持たせ、後のウオールト・ディズニーのミッキー・マウスを初めとするハリウッドビジネスの魁(サキガケ)的存在となった。

彼女は独立して田舎に引きこもり自分の夢の中で幸福な一生を送ったことであろう。

自分の作品が売れて利益が出るに従って、近隣の山野を買い増して、その膨大な土地をそのまま遺贈で国に寄付、今ではナショナル・トラストとして訪れる国民の憩いの場所となっている。このあたりは如何にもイギリスらしく功利的なアメリカン・ビジネスとは一線を画しているのではないだろうか?

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指名競争入札制度

Antennaアメリカはこれまで日本の建設事業についてまわる指名競争入札制度について不公平な悪弊として事あるごとになん癖をつけて、日本固有の制度破壊こそ開かれた民主国家への第一歩だと力説しながら日本市場への侵入を試みてきた。入札制度はどこの国にでもあり、これを自国流に改めさせることは主権の侵害と言われても仕方がない。

公正取引委員会に圧力をかけたり、関西国際空港のプロジェクトにかかわった建設業者140社に課徴金が課せられた事件。土木業界団体でアメリカ横須賀基地工事に関係した会社間の契約に不正があるとして課徴金を課した事件。特に後者はアメリカの基地なので発注者はアメリカとなっているが支払ったのは日本である。

厳しい非難を浴びせられた日本政府はついに1994年1月、明治33年以来90年間も続いてきた固有の「指名競争入札制度」を廃止して「公共事業の入札、契約手続きの改善に関する行動計画」を発表することに同意させられた。これがその後少しでも改善されたのなら良いが?

(確かに日本の旧制度は透明性に欠け、とかく問題が内在することは否めない事実であった。)

しかし、アメリカはこのとき、これで日本の公共事業に透明性、客観性が生まれ真の競争性が目指せることが可能となると得意げであった。

今のところ日本がいくら頑張っても日米関係においては既に主従のパターンは決定的である。

アメリカには現在では、全て自国の利益の確保を優先させ、30~40年以前のような大国らしい寛容さの影すら残っていない。

今回問題となっているアメリカに対するインド洋上の米軍に対する燃料補給も、結局はアメリカの主張を入れて継続されることになるだろう。

日本の郵政、保険関係ビジネスはアメリカによって(小泉純一郎前首相は只の手先)都合よく外堀、内堀とも埋められてしまった。

私が特に異議を唱えるのは「イラクの復興事業」である。

これに対しては、アメリカは既に、これにかかわる復興工事に関しては入札に応募できる業者の資格をアメリカ企業のみに限定したことである。

日本に対しては「指名競争入札」を禁止させて、自国が破壊したイラクの復興事業はアメリカ業者が独占すると言う独善的な態度は許すわけにはゆかない。これはいずれアメリカに対する世界中からの声となるだろう!

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ロシア式粛清政治の復活?

プーチン政策批判を行っている報道紙「ノーバヤ・ガゼータ」の著名な女性記者が昨年10月凶弾に倒れたことを紹介し、彼女の死因を追っていた元ソ連保安局(FSB)の中佐、アレキサンドル・ロトビネンコがロシアを逃亡し、亡命中のロンドンで放射性物質「ポロニューム」を盛られて死亡した事件は以前このブログで紹介した。

しかし、最近になってロシア最高検察庁が反プーチン派の野党議員ユーリー・シェコチーヒンが2003年6月中頃、ロトビネンコ氏と同じ症状で死亡していたことが判明したのである。このことで親欧米派の野党ヤブロコがプーチン大統領に、当時、奇怪な死に方をしたシェコチーヒンの死亡の真相究明を求めていたが、プーチンは遺族にも死因を隠蔽し続けていたことが判った。

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そこで3年後の去年、ロトビネンコ氏が同じ放射性物質で毒殺され、ここで彼が最初の被害者でないことがわかった。

両者のシンプトンは毛髪が抜け、おうどや高熱が続いて死に至る全く同じものであった。

シェコチーヒン氏はノーバヤ・ガゼータの誌上でロシア企業の家具輸入に絡むFSBの汚職体質を告発する記事を掲載、同時に1999年9月に起こったモスクワのアパート連続テロ爆破事件の原因究明も手がけていた。

放射性物質による毒殺が既に4~5年以前から国内では起こっていたが、去年のリトビネンコ事件は国外、ロンドンで発生した事件であった点、特殊ケースであり、国境を越えて発生した凶悪な事件として英国が犯人引渡しをロシアに要求している所以である。

このような危険な放射性毒薬が世界を駆け回っていることは放置できない事と考えるが、わが国の警察も充分念頭に入れていることと想像する。

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