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お役所とメディアの関係に疑問

Streetcar 西日本鉄道の「尼崎事故」から早や3年が経過して先日、事故を偲んで法要が営まれ再び人々の涙をさそった。

何時もの如く、鉄道会社の責任者が3人そろい組みで被害者家族の前で平身低頭しているTV報道を見ていて考えさせられました。

この大事故の原因は、急角度のポイントを電車の乗務員がウッカリして、スピードを緩めずに進行したため電車が脱線転覆してその正面にあったマンションの地階駐車場の下に突っ込んで大破、その結果100人以上の乗客が犠牲になったのでした。

この場合、もし電車が脱線して横転しても、その場所が麦畑とか砂地であったとしたならば、まさか100人もの犠牲者は出なかったのではないでしょうか?

交通の安全を指導監督するのが国土交通省であることは誰でも知っています。

マンション建築許可を下すのも国土交通省。

電車は常識で考えても問題のマンションが出来る以前から走っていたと思われます。

役所は電車がスピードを落として、きしむ音をたてながら毎日通過するカーヴのある正面に建物を建てる許可を何故認可したのでしょうか?

乗客や市民の安全を司る官庁はこの場合、何故責任を問われないのか?これについて不思議にも何時もは目ざといはずのメディアも疑問を持たなかったのか、つい頭をひねりたくなります。

マンションの住人はこれについてどんな感想をお持ちなのかも知りたいものです。

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ニュ-ヨーク→パリ単独飛行

ショオチャン暫く沈黙いたしておりましたが久しぶりに世界最初の快挙を成し遂げ、ニューヨーク・パリ間を単独で無着陸飛行に成功して一挙に世界の英雄となったチャールス・リンドバーグについて紹介しましょう。

Photo リンドバーグの偉業多成のポスター)

彼(Charles Lindbergh、24)は1926年にはアメリカ郵便サーヴィス会社((USPS)の飛行士でセント・ルイスとシカゴ間の郵便配達の勤務についていましたが、ある日、イリノイ州の上空を飛行中ふと、あるホテル業界(FrancoーAmerican Hotelier)が誰でも最初にアメリカーフランス間の無着陸飛行の成功者に$25000の賞金を拠出することの宣伝を思い出してそれに応募してみる決心をしたと言われています。

当時すでに数件の応募が登録されていました。例えば第一次大戦で活躍したフランスの飛行士、レネ・フォンクはその年の9月20日双発の大型機で数人の搭乗員とともに燃料満載で飛び立とうとしましたが機体が重すぎて離陸に失敗、クラッシュして本人は一命を取りとめましたがそのときに二人の同乗者が死亡大事件となりました。それを知ったリンドバーグは余分な装備や燃料を最大限カットして一人で決行するべきだと言う決心しました。

それはフォンクの失敗は安全飛行を考えず、二人の予備パイロットと短波ラジオ、ベッドに不時着に備えての救命具まで積んでいたことを致命的なミス・ジャッジと思い彼自身の設計は単発で燃料も極力おさえて単独飛行でなければ出来ないという結論のもと自分の飛行機を”Spirit of St. Loius(セント・ルイス魂)と命名し、パリーまで1000キロを飛ぶ決心をしました。

Charles_lindbergh_postage_stanp (記念切手)

これには15000ドルの費用が必要でしたが彼の預金通帳の残高は2000ドルしかありませんでした。残金は当地の目ぼしい会社を巡り歩いて集めることに成功したといわれています。

それから、カリフォルニア州のサンディエゴに行き、ライアン飛行機会社(Ryan Aeronautical Co.)の技師ドナルド・ホールに注文を出しました。

ホールは大西洋を単独で飛ぶことは冒険過ぎると言い、是非とも副操縦士をつけるべきだと忠告しましたがリンドバーグは”それなら少しでも余計に燃料を積むほうをとる”と自己の主張を曲げなかったと言われています。

ホールの好意もあって飛行機は半値に近い$10,580で仕上げるl事が出来ました。

しかしそれには4000ガロンの燃料補助タンクのスペースを作ることで、燃料ガージ、やラジオやパラシュートも積めず、そればかりか機内が小さくて燃料タンクが邪魔で飛行中彼は前方を直視することが出来なくなったといわれています。そこでかれは飛行中常に窓を開けて前方確認をしなければならない不便に耐えなければならなかったといいます。

愈愈出来上がった飛行機で5月10日セント・ルイスに飛び、翌日ニューヨークに到着、1週間後の5月20日午前7時64分ニューヨークのルーズヴェルト空港を雨をついて飛び立ったのでした。彼はパリまでの飛行時間を35.5時間と推測していました。

方角を北東にとりノヴァスコーシャ(カナダ領)を掠めて飛行を続けたのですが、なにぶん昨夜興奮の為たったの2時間ほどしか寝られなかったので睡魔との戦いに一番苦心したそうです。

ニューファウンドランドを通過すると眼下は紺色の海一色となり方角を間違わないようにコンパスをにらみ続けていなければなりませんでした。アイスランドを通過する頃眼下に氷山が見られ零下の気温の中あえてウインドウを開けて睡魔と闘ひました。

指を使ってまぶたを開けながら真夜中の洋上の飛行を続行、約27時間たった頃真下の洋上に釣り船を発見そこで急降下して”アイルランドはどっちの方角か?”と叫んだが漁師からは何もきけなかったとメモしています。果たして間もなく眼下にイギリスが見えてきて彼は元気を取り戻し夕日の沈む頃英仏海峡を見ながら飛行を続けて間もなく目的のパリに近づいた頃には夜と帳とともに何も見えなくなり懐中電灯で計器を見なければならなかったそうですが、その結果燃料はまだ充分にあり、それに予定していた航続飛行時間より早く目的地に近づいていることに気づいたそうです。エッフェル塔の周辺をサークルしてパリのル・ボーゲット(Le Bourget)空港に降り立ちました。それはテーク・オフから33.5時間後でした。彼の飛行機が着陸するやいなやヴィーバ、リンドバーグと叫びながら無数の待ちわびていた観衆にモミクチャの歓迎を受け彼のアドヴェンチャーは終了したのでありました。

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