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ウイーン万博の結果

Photo ウイーン万国博覧会は1873年3月1日ー10月31日までオーストリアのウイーン、プラター公園で開催された、

日本が始めて参加した国際博覧会であった。

当時、アメリカでは南北戦争の影響で金融恐慌が吹き荒れニューヨークの取引所が一時閉鎖された程不景気であったが会期中726万人の来場者があったとの事。

これが日本が政府を挙げて初めて公式に参加したイヴェントで会期中「日本館」が建設された。

万博のテーマは「文化と教育」で35ケ国の参画であった。

挿入の写真の通り

その構成は近代産業、農業、美術と皇帝パヴィリオンからなっていたと言われている。

新時代の産業や新発明を反映する展示のほか、、万博のテーマに女性労働、教育施設に関するブ^-スも取り入れられた。

会期中には国際貿易や特許などに関する国際会議も多数開催されたほか、欧州列強各国の首脳や皇族、王族も訪れ首脳会議も行われた。

しかし、会期中の観客は725万人が見込まれていたが、世界的不況のあおりを受け、ウイーン証券市場の暴落とコレラの蔓延で必ずしも成功と言える結果ではなかった。

我が国からは国宝級の源頼朝の太刀や北条政子の手箱など多くの珍品が出品されたのであったが、これらの大半の貴重なる財宝は1874年3月、静岡県の伊豆半島沖で海の藻屑と消え去った。

このフランス貨物船「ニール号」の沈没事件について今では殆ど知る人がいないのではないか思われるが。ニール号の搭乗者約90名の大半も殉死したと伝えられている。

筆者としてはこれが暴風雨による天災事故であるが為、その当時のこと、損害が如何に補填されたか、また輸送中の保険による救済がなされたか否か、大いに疑問である。

最初の参画の事業がこのような結果になったことは実に痛ましく思う次第である。

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セント・ルイス ブルース(St.Louis Blues)

Saint_louiss_blues 戦前生まれなら、この曲を知らない人はごく稀であろう。

セント・ルイスブルース。この曲が世に出てから80有余年、作曲者:ウイリアム・クリストファー・ハンディーの書いた不滅の名曲と言えようし、現在でもそのポピュラリティーは衰えるところを知らない。

現在に至るまでに何百万ドルを売り上げ、しかも、初期の映画産業の繁栄の兆しを作り上げた程であった。

しかしどんな場合でも見られることだが、初期の頃ではこの曲のプロモーションには随分苦労したと言われている。セント・ルイスの街角を歩いていた時、Handyはたまたま、夫に逃げられた黒人の女性に遭遇、そのとき耳にした彼女の悲壮な独り言からインスピレーションをもらったと告白している。

Handyによると、黒人女の悲しそうな独り言があたかも、ラグ・タイムのシンコペーションらしく聞こえたのではないだろうか。

St Louis BluesにはHandyが以前、立ち寄ったキューバで耳にしたアフロ・スパニッシュに影響されたハバネラのリズムが取り入れられていると言われる。

これは同時にスパニッシュタンゴと無縁とはいえないし、むしろ(この源流はアフリカ”Tangana"にあるとされる。

しかし作曲者Handyがこの曲のベースとして用いたのは厳格に言えば"Jogo Blues"の調べだったらしい。

最終的には、このブルースは史上最高の名曲となったが、初めの段階では誰もこれをプロモートしようとする客は現れることなく、遂に彼は自費で出版したのが1914年9月のことだった。これには作曲者の親友のHarry Pace(ハリー・ペース)が後押しを買って出たくらいであった。

しかしその2年後ペースとハンディーは事務所をニューヨークに移した。この曲は最初ブロードウエイでGilda Gray(ギルダ・グレイ)によって1918年にニューヨークのウインター・ガーデンシアターで世に出たと言われている。

これ以来St.Louis Bluesは堰を切ったように、アメリカだけにとどまらず全世界のフェヴォリット曲として歌われ続けることとなった。

主なミュージシアンではLouis Armstrong,Benny Goodman等が1930~40年代に渡って取り上げ、Earl Hines(アール・ハインズ)に至ってはこれをブギウギ調に編曲している。

お陰でHandyの平均ローヤルティー収入は年間ほぼ25000ドルをくだらなかったと言われている

特別な話題は1920年台においてイギリスノエドワード8世がスコットランドのバグパイパーズにこれを編曲させて演奏したこともあったらしい。

もう少し後になってもエリザベス2世のお好みになったり、1930年代ではイタリアに攻撃を受けたエチオピアの軍隊が行進曲としてSt.Louis Bluesを採用したとのこと。話題に事欠かない世界を席巻した名曲と認められることとなった。

勿論、一度だけでなくこのメロディーを主題にミッシッシッピーを背景に映画も作られていることは言うまでもない。この曲のリフレーン"Oh,I hate to see the evening sun go down"は誰もご存知だが、実際にこの曲にはサンセットが訪れることはないだろう。Saint_louis_blues_photo

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バルフォアー宣言とヤルタ会談

Photo 1948年(昭和23年)アメリカ大統領トルーマン氏が国際機関を通じて正式にユダヤ国家、イスラエルの建国をパレスティナ領土内に許した。

これに対して不思議とアラブ国連盟以外から反対の声は聞かれなかった。

周知の通りユダヤ人はローマ帝国によりその存在が否定されて以来国家の形のない、さまよえる人々の集団であった。

ユダヤ国家”イスラエル”の建国は永い間の「理想」と思われていたが十字軍のイスラム圏遠征以来殆ど実現不可能と思われていたが、1917年11月2日、、イギリス外相アーサー・バルフォアー(Arthur J. Balfour がユダヤ人の代表格であるロスチャイルド卿(Rothchild)宛で公式に有名な”バルフォアー宣言”(The Balfour Decraration)をイギリス国王の名で伝達した。

これに至るまでの紆余曲折がなかったとは言えないが、事実、1917年はロシア革命の始まった年であったことと、ユダヤ人を世界で最も多く抱え込んでいたのがロシアであったことからバルフォアー宣言が如何なる背景を持っていたかは想像出来る。

1945年2月4日~12日にチャーチル(英)、ルーズベルト(米)、スターリン(ソ)がソヴィエトの避寒地ヤルタに集まり戦後の処理と、ソ連の対日参戦の日取りを話し合われたと言われているが、この地で三者がユダヤ人問題の究極的解決案を話し合った気配が極めて濃厚であると推察する。

ユダヤ人の問題はいろいろあり、優秀なユダヤの人材を集めて国益に利したアメリカを例外としては、ヨーロッパに於いては深刻な人種問題を抱え込んでいたことは事実であった。

前大戦が終結に近ずいた1945年では、米英ソの提案が何であれ、これに反対を唱えられる国力を維持していたところはスイスを除いて皆無であったと思われる。

しかし一つの疑問はバルフォアー英外相がいくら閣議の承認を得たとしても同じ英国民であるロスチャイルド宛で自署のみを持ってこのような重大な宣言をなし、丁度30年後これをアメリカ大統領の名において実行する、これは正に「白人至上主義」のなせる業であり、彼らは何時か世界にこの愚考の償いをすべきであると思う。

ロシア革命勃発(1905,1917年)ロシアはシベリアに数多の刑務所を作り囚人を送り込んだ。そのうちに何百万のユダヤ人も含まれていた。ヒットラーの強制収用所でのユダヤ人抹殺手段と、生きた人間を終身唯同然で働かし、闇から闇に葬る待遇とではどちらが残酷かはわからないが、前大戦後投降した後、再び極寒のシベリアで日本人を強制労働させ多くの犠牲を強いたソ連のやり方から想像しても、ヤルタ会談の話し合いがユダヤ問題であったことは疑いを入れないと思われる。

日本が如何に努力しようとも所謂北方領土は永遠に行ったままになると思われる。日露戦争後、いわば我が国は世界の異端児として「特別待遇」を受けていると思うこと。キリスト教白人至上主義の世界において日本国はどのあたりに落ち着きたいのか。

Map_of_russia

自国の国力と世界に及ぼす影響力を真剣に見定める時期に来ていると思うが?

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Gauchos(ガウチョ)

Gaucho_on_horse_back ガウチョは孤独な遊牧民のことで、約300年以前からアルゼンチンを中心に孤独な生活を営む先住民と移民種の混血。

アメリカ本土で言う”カウボーイ”を指す。

私の考えでは、彼らは下層階級に属する無教育な連中であり、野性味のある職人的馬乗りである。

16世紀の半ば頃から大西洋岸に住み着いた

その中には、北アメリカで言う移民ではなく、ヨーロッパから単独で渡ってきて、現地の女性と所帯を持ち腰を落ち着けた連中もいる。

彼らのことを特に"Mestizos"と呼称し、大まかに言えば、スペイン、アメリカ・インディアン、黒人、カリビアン系ムラトーとの混血と考えられている。

従ってガウチョの語源はインディアン"Huacho"(孤児)の意味を持つと言われる。

彼らは自分たちの存在を「我々は黒人でも、インディアンでも白人でもないが、鳥のように自由に生きることに誇りを持つ、従って何処にも巣を作らない」(住所不定)ことが生きがいらしい。

インディアン系らしく彼らはもっぱら自由を好み、所謂文化、文明と言う代物を軽蔑し、階級や法律に考慮を払わないことをモットーと考える人種ともいえる。

母国スペインのように中世に於いてアラブ系伝統を受け継ぎ(アンダルシアン)同じくスパニッシュのパッション、迷信、それに詩と音楽ー激しい匂い、或いは味覚にあふれたー。

中世の頃のスペイン文化の繁栄期から見れば比較にならないとしても、Pampas(大平原)は健在で、そこには外敵はインディアンくらいで、ガウチョは北米でのバッファローのように野生の牛をを追い生活の糧にしている。

しかし彼らは肉を食用とも商品としても考えない。

彼らの生活はいわばバーター取引で引き継がれ、捕獲した野生動物をタバコやハーバルーティー(herbal tea)と交換するようにー。

ガウチョ達は殆ど馬上で生活している、それゆえ生活必需品は手の届く範囲につけているそうである。彼らのもっとも大切にするものはナイフである。

彼らはそれをいつも大事に布でくるんで腕に縛り付けている。(第3の手とも呼ぶ)、しかし彼らは戦っても決して相手を殺さずに「キズ」を残すことで和睦することを儀式としている。

"Bola"はナイフ以外のもう一つの武器である。これは永いlowhideの先に革に包まれた鉄片かある程度の重さの者を投げることで獲物を捕まえる、時には野鳥を捕らえることにも使用する。

乗馬の名手ともなれば彼らは馬の後ろ足を縛って立ち上がらせることもするとのこと。

とにかく彼らは馬なしでは生きられない人々なのである。

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遠謀術策に敗れて!

Nuclea_weapon 8月15日がまためぐってきた。この「原爆」投下は勿論人道的に見て許すべからざる行為であること以外に、その背後には正直に語られない意味が隠されていると信じる。

ヤルタ会談(2/4~2/11’45)の最中にアメリカは原爆テストの成功をルーズヴェルトは知っていた。(スターリンの耳にも入っていた)。

これの日本に投下するゴーサイインを出したのはトルーマンである。

同年の7月末にポツダム会談の結論(日本の無条件降伏勧告)は鈴木貫太郎首相→天皇に届いていたが、「黙殺」されて、10日後、広島が破壊された。

それに又、一週間が無駄に過ぎ、13日に長崎が被害を受けた。(これは日本の政策責任者の愚考であり、長崎での悲劇は日本の不見識を問われても仕方ない)

人間の細胞を破壊する恐れのある武器を使用した人道的見地からの罪はアメリカにある。

しかし、沖縄戦で見た鮮烈な戦いには実戦に参加したアメリカ軍からすれば本土での白激戦は避けたかった。

無駄に自国の兵士を死なせたくはない。この是非討論は永久に収まらないであろう。

日本人は自分たちが”キリスト教白人世界”から敵視されていた事実を認識していただろうか?

日清戦争でも、日本の確保した領地(遼東半島)をドイツ、フランス、ロシア連合の反対で返還させられた事実を忘れてはならない。

ー「黄禍論」の最初の提唱者はドイツのウイルヘルム2世である。ー

日露戦争に勝って、ポツダムでテオドール・ルーズヴェルトの仲介で修交条約が持たれたが、戦勝国であるべき日本が呑まされた条件は不公平であった。(1905)

それから半世紀も経たない、1941年、日本は白人集団の巧妙な策謀に誘われて無理な突撃を観光して、その結果無残な敗北を喫し、国の名誉と共に苦渋を味わい、占領国アメリカの意図した従僕の国に成り下がった。

殆どの国民は沖縄は日本に返還されたと思っているが、沖縄はおろか全日本国は未だにアメリカの占領下にあることを忘れてはならない。

その証拠に日本の外にあったアメリカの基地は廃止され、今では日本に集約されていると言っても過言ではない。一旦事が起これば日本列島は日本以西からの攻撃の防波堤の役を務めるように企画されている。

左翼を中心とした日本人は”戦争放棄”、”非武装中立””軍隊廃止”の論調が正しいと教え込まれている。

中立は自己の主張では容認されないことは永い過去の歴史が物語っている。

現在の世界の構成は19世紀となんら変わっていない白人優位の世界である。

朝鮮も中国もこの事実を直視すべきで、ただ既に過ぎ去った過去の恨みを言い続けていたのでは、アジアは西洋の植民地であり続けなければならないだろう。

1905年、ルーズヴェルトは日本の存在を強く認識し、すぐさま日本移民の制限を約束させた。(紳士協定)

米西戦争後、グアム、フィリッピン、ハワイの太平洋上での領土の拡張とともにパナマ運河の完成による対日封鎖と海軍力の増強を始めている。

これは正に米国の西進への下準備であり、中国、満州での日本の力を削ぐべく始めた将来を見すえた作戦としか考えられない。

終戦記念日にあたっての「独言」

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2000年の歴史

Photo ペトラ(Petra)。

2000年前のペトラは強力な商業都市帝国の中心であったと考えられている。

現在多くの考古学者がアチコチに存在する資料を集めてヨルダンに残存するこの"rock city"の学術的研究に没頭している。

それは深い谷間にあるためドンキーに乗って訪れる(レンタ・カーも借りられる?)とこらしい。

2000年前には今では失われてしまっているキャラバンルートが存在して交通も盛んであったであろう。

岸壁の狭間に掘り込まれた寺院(?)の軒先はローマ期の様式が色濃くマークされている。

砂漠の中にある誠に不思議な建築物である。現在のところこの建物の出現はB.C.1世紀だと言われ、その後400年程繁栄したらしいが、この建物のスタイルはどこから見ても当時としては考えられ得る極限の折衷(ゴチャマゼ)の産物とも定義できる。

19世紀にここにさしかかった旅人はこれを”神秘的を通り越してもっとも気味の悪い墓地であったのでは?”と想像したそうである。

しかし、現在ではここは緑豊かで、寺院を中心に噴水や公園が備わったローマ人の別荘地だとも考える学者もいる。

巧妙に造られたアケダクトによる排水設備を備えた別荘地であったのでは?

岩盤は赤土の軟弱なものが度重なる地盤のショックにも耐えて今のような状態で依存されていることも不思議とも思える。

アメリカのBrown大学がかなり長期に探索中であるが、この地形が周辺の環境と比べて異常に思えることも不思議であり、実際ペトラの正体とは何であったのだろうか?

イスラエルとも近く、Owadi Musa遺跡に隣接しているところから、やはり宗教的な匂いを強く感じる

ローマ人が住むには気候が厳しすぎたのではとも考えられる。

しかし、モザイクが敷き詰められたフロアー、後壁の荒々しい景色は城壁の姿にもとれ、まるで後壁に守られた聖地のようにも映る。

ローマ式フォーラムの一部であったとも見られる円柱、石畳の道路を見ればここにはローマの色彩が満ち溢れている。

ペトラは今まで考えられていたより1000年程も存在していたと言う説もある。ナバテアン教(詳細不明)が主な宗教であったと言われている。

今のところではなんとも判定が付かない不思議に満ちた世界であるが近い将来新たな発見が見られることを待つしかない。

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Route 66 (ルート 66)

Route66_2 ジョン・スタイベックの名著「怒りの葡萄」にはルート66はマザー・ロード(Mother Road)と名付けられている。

”Route 66"別名:"Main Street of America."である。

1926年に創設され、アメリカでのモータリゼーションに貢献した有名なハイウエイである。

全長3755kmでアメリァ中南部から西部を結ぶ屈指の大動脈道路であった。

アメリカの中西部の大都市、シカゴとカリフォルニアのサンタモニカを結んでいた。

周知の如くこの街道は20世紀中頃のポップ・カルチャーにも登場し、永く多くの人々に愛された。

従って、これが1985年になったとき”Historic Route 66"とは別に、Ntional Scenic Bywayと命名された。

ミッシッシッピーを中心に蛇行しながら、イリノイ、ミズーリカンサス、オクラホマ、テキサス、ニューメキシコ。アリゾナとカリフォルニアと八つの州をまたぐ街道であった。

建設当時ではアメリカの中心的幹道の一つであったに違いない。

途中での主なる都市はシカゴ、セントルイス、タルサ、オクラホマシティー、アマリロ、サンタフェ、アルバカーキパサディナ、ロスアンゼルス、サンタモニカ他、以外にも多数の都市が生まれ育った。

1946年、今から52年以前に発売された、ナット・コング・コールの唄で大ヒットした曲”ルート66”がなんといっても、この街道の名声を世界中に知らしめたと言っても過言ではないだろう。

アメリカの黄金時代と呼ばれた1950年代になるとこの街道はロスアンゼルスに向かうバカンス客であふれかえった。

また、アリゾナ州においても、グランドキャニオン、バリンジャー・クレーターのような名所があり、その沿道にはモーテルやマクドナルドショップ、多種多様な、良く言えば、アメリカ近代文化の縮図のような地域が急増した。

この様に沿道の様子の変化と過度の交通量の増加で大都市の周辺にはバイパスを造らざるを得なくなり時代と共に”ルート66”も変貌していった。

しかし、時代の変貌、交通量の増加や経済的な理由で周辺の環境変化には抗するを得ず、遂に1985年、国道66号線は廃止となり州間高速道路にとって変わられた。

アメリカの東北端のメーン州から東海岸を南北に縦断してフロリダ州の南端のキーウエストにまで通じている国道NO.1も古い歴史があり、今でも出来るだけ永く原型をとどめる工夫がなされている。昔出来たこのような街道(別名:ターン・パイク、)は例えば東海道や中仙道のように町と町を繋いで通っているので沿道に伝統的な建物や店舗、住宅街が身近に見物できるが、現在のように国中を高速道路が走り、まるで空中旅行をしているような旅には少しも土や人々の生活の匂いがなくなってしまった。しかし、Gone is a good old days stay in our mind.(これらはすべて過ぎ去った古き時代の快い思い出なのである。

聞こえるのは蒸気機関車の汽笛ではなく、硬いコンクリートの反動で体中が硬くなってしまうなったことは悲しい思いがする。

(もっと詳しく知りたい方はグーグルのウイキペディア”ルート66”を参照下さい。)

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力こそ正義(might is write)

日露戦争の終結でアメリカ第26代大統領テェオドール・ルーズベルトの仲裁でポートマス条約がもたれ、日露修交が実現した。

この戦争の結末はなんと言っても日本海海戦でロシアの誇るバルチック艦隊が東郷元帥指揮下の日本海軍に完敗したことが直接の原因であったが、両国がそれぞれ疲弊の極にあり、お互いに戦争の継続を望まなかったからであった。

戦前では西欧の超大国ロシアが極東の生まれたばかりの貧国日本に敗れるとは世界中の推測であった。

それが”マサカ”の結果に終わったことで一躍日本の存在が世界中に響き渡った。

この条約作成交渉の日本側の代表を務めたのが、たまたまルーズベルトのハーヴァード大学での同期生であった小村寿太郎であった。

どのような経過でアメリカが仲裁国になったのかは詳らかになっていないが、ルーズベルトが日本の将来にわたる存在を特に警戒して、ルーズベルトがこ

即ち、アメリカはキューバで起こった事件を理由にスペインに戦線を布告して、速やかにグアム島、ミッドウエイ島、フィリッピンとハワイ諸島を実質的に自国の制圧下に収めたが。

日本は既にその3年前、1895年に日清戦争の結果、支那及び朝鮮半島を制圧していた。

その間イギリスは南アでのボアー戦争(Boar War,1899~1902)に苦慮をして、その間の安全を鑑みて日本との同盟(1902)を結ばざるを得なかった。

これは当時これら関係国がそれぞれ問題を抱えていて将来の問題に苦慮していたさなかの緊張にあった。

話を日露の戦争の結末に絞ると、日本は戦勝国を自負していながら結果的には惨めな条件でロシアに譲歩しながら、アメリカの提案をそのまま受理した形に終わってしまった。

戦後問題になっている「北方領土」はそのまま日本領としてのこったが、間宮林蔵発見になる樺太島は半分ロシア領、千島列島もロシアに割譲、賠償金に至っては皆無に終わった事態、何の目的でルーズベルトが仲裁者として現れたのか解釈に苦しまざるを得ないのではなかったか?

アメリカは当時既に。太平洋と大西洋を両側に持つ世界一の大国を目指していたのである。

パナマ運河の竣工を目前にし、太平洋の中心、ハワイに軍港を築き、フィリッピンを太平洋とインド洋を見据える戦略的基地として維持するため、日本の朝鮮半島の領有を認めると公式に宣言したのである。

小村寿太郎はいみじくも日露講和の結果を省みて、”力の裏ずけを持たない外交戦は必ず敗れる”とキッパリと言い切り、善意や誠意などは外交においては期待すること事態無理であって、すべては”力”と断言している。

”Might is Right"(Power speaks itself)の彼の心情は100年後も変わっていない。

日本の国境線はイギリスと同様、海岸線である。自国の国境線を堅固に守ることは独立国の義務であり権利である。

北朝鮮に自国民をやすやすと「拉致」されることは独立国日本政府の国民に対する義務違反となじられても仕方がない問題なのである。

不法に他国民を拉致連行する行為を他国の国際法違反として国際裁判所に申し立て、世界の同情に期待するとは独立国の行為として情けない。

太平洋を力で支配するには日本は非力すぎるが、我が国の「庭」とでも言うべき日本海を防衛できないことでは問題にならない。

私は右翼思想家を標榜しないが、少なくとも日本海には10万トンクラスの航空母艦10隻に戦闘機、偵察機を搭載し常時不埒な国々の行動を見張ることは不要な高速道路を作り続けるより建設的ではないだろうか?

Photo それによって日本固有の領土の保持は勿論、最近問題化している「竹島」も無駄な配慮の必要がなくなることと推察するものである。

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ドライヴーイン(Drive-in)

アメリカ人は新しいビジネスを考案するのに秀でている。

私が始めてアメリカの土を踏んだころの1950年代の後半では

「カフェテリア」が全盛であった。セルフサービスで好きな食べ物をカウンター迄運んで支払いを済ます形式の簡易レストランで目的は人件費削減である。

その頃流行していたのがドライブインームービー劇場で、それは入口で切符を買ってライトを消してマイクのある場所に駐車して見る屋外映画館である。

土地の安い田舎都市には必ず1~2箇所はあったものである。

恋人を乗せて最初はメロドラマを見ているうちに、隣同士が余計に親しくなってしまう処で一世を風靡したが、今はどうなっていることか?

ローソンに代表される「コンビニ」もアメリカ産であるが、どうして24時間もブットウしで開店していて利益が出るかどうかを即決、実行する人種はアメリカ人以外には考えつかない。

ハワード・ジョンソン(Howard Johnson)というレストランはアメリカ中何処でもみられた、同じ形で、決まって真っ白の木造でハイウエイの目立つところにあったフランチャイズ形式食堂も忘れられないアメリカの風物だった。Midway_drivein_movie_theatre

今では、ケンタッキーフライド・チキン、マクドナルド・ハンバーガー等どれをとっても、アメリカだけでなく世界中に目にすることが出来る大産業である。

私が最近、タスマニアに暫く住んだときマクドの”M”サインが目に入ると、それらを「アメリカ大使館」と比ゆ的に笑い者視している様が面白かった。即ち、アメリカ人が安心して口に出来る、コカコーラのように考えているから、アメリカ人に会いたかったら”Big-M"に行けば必ず会えるという意味である。

Motel(モーテル)も日本とでは少し意味が違う様だが、アメリカの産物には違いない。

そう言う風に考えると日本中ドップリとアメリカナイズされてしまっている。

世界中で、これは日本産だとオリジンのはっきりした産物は今のところタバスコの様に何処のチープフード。ショップに見られるキッコーマン醤油ボトルか回転寿司くらいしか頭に浮かばない。

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Dixieland

Dixiewasborn DixielandtとかDixieとはアメリカの東南部分や南部地方の別称と理解されている。

従って、その地方に生まれた音楽を総称して、ディキシー或いはディキシーランド・ジャズとよばれている。

これはシカゴジャズと比較して黒人音楽の代表格存在である。Hot Jazz,とかNew Orleans jazzは20世紀初頭に起こり次第にシカゴ、ニューヨークに広がっていった。

ディキシーランド・ジャズは1910年ごろから始まった。

ディキシーと呼ばれる音楽は、ラグタイム、ブルースが主体を占め、トランペット(コルネット)、トロンボーンやクラrイネットのグループにピアノ、ギター、バンジョー、ドラムスやチューバが加わるまことによって、にぎやかなリズムを主体に置いた音楽と総称したい。

"Basin Street Blues"や”When the Saints  Go Marching In”等は世界中に知れ渡っている

。Polyphonic improvisation,悪く言えばアーティストの気分次第でRagtime,Bluesのゴジャマゼ風のリズムではないかと思われる。1917年に大ヒットしたoriginal Dixieland Jass Bandに発してディキシーは20世紀中もジャズの中心を占める存在になった。

中でも、Louis Armstrong's All Starsの出現してからはアメリカに及ばず世界を駆け巡ったのである。

ディキシーランドの音楽は常にリード役(主にトランペット)のメロディー に誘導され、それにパラフレーズ、即ちヴァリエーションが加わりながら即興的インプロヴィゼーションされたリズムが入り乱れて自然につながって行く形式の音楽で、性格を前に出して(特徴)演奏される。

1930年代に始まったSwing Jazzに押されて一時的に衰退したがBebop style jazzの出現で今では古風なディキシーは影を潜めたが、1920年代の所謂クラシックナンバーをインプロヴィゼーションすることで復活に専念している。最近ではDixie-bopと呼ばれるスタイルが盛んになろうとしているとか。

New Orleans

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アラスカ買収

Photo 現在のアメリカ第49番目の州、アラスカは以前ではEast Russia(東ロシア)と呼ばれた極寒の土地であった。

面積、約151万8800平方キロを720万ドル(平均1エーカー2セント以下)で購入が決まった、時に1867年、17代大統領:アンドリュー・ジョンソン(Andrew Johnson)、国務長官:ウイリアム H.スワード(William Henry Seward)の時に購入が決定し、即刻支払われた(写真:小切手参照)。

あまりに唐突で以外な決定なので、これを国務長官の名前からSeward's Folly(スワードの愚考)、Seward's Icebox(スワードの冷蔵庫)と、ののしられた。

当時ロシアは大変な財政難であったことと、イギリス領「ハドソン湾」から近くて、この領地はいずれ防衛が難しくなる前に、当時イギリスに比べて危険が少なく、しかも当時の考えではアメリカから遠くにあったが為、この取引がスムースに成立したのではないかと思われる。

この会談はたった一晩で成立を見たと言われている。アメリカは剛毅と言うか、俊敏というか、領土拡張についての決断には世界のどの国よりも行動が早いのが特徴である

1848年にメキシコからカリフォルニアを奪取した翌年の1949年には所謂”ゴールドラッシュ”が起こっている。アラスカ購入後数年でここでも”ゴールドラッシュ”になったことも不思議なことである。240pxwilliamhseward

人口が領土面積に比べて少なすぎる、それなのにルイジアナの様な肥沃な場所でなく、まるで「冷蔵庫」の様な場所を買うとは馬鹿げているとの非難も当然と受け取れる。

中にはアンドリュー・ジョンソンの”白熊の庭”と言う比喩も聞かれたほどであった。

この会談は始めから国務長官の主導で推し進められたと報じられている。

100年先を見据えた策略であったとは到底考えられないが、偶然としても、1867年の100年後は、即ち、米対ソの冷戦時代ではなかったか?

これは正にラッキーと言うか、何と表現すればよいのだろう。「頭上の敵」と言う言葉通り、もし20世紀にアラスカがソ連邦の一部だったとしたら世界史は正反対に動いていたのではないでしょうか?(写真はマディソン・スクエアーに現在の祖国の平安を眺めているように映るMr.Sewardの容姿である。

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