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中近東での石油田の大発見

William_knox_darcy これは大富豪、ウイリアム・ノックス・ダーチー(William knox D'Arcy)の肖像写真だが、彼こそが1901年、イギリス人ジョージ・レイノルズ(george Reynolds)と言う英国では未だ無名の石油採掘の専門家に偶然であた事で大富豪となった人物である。

レイノルズはある日ノックスダーチーから連絡を受け、年間1500スターリング ポンドの給料を出すので働かないかとのオファーを受けたのであった

レイノルズの推測では、それはメソポタミア地帯、今で言うイランとイラクの国境付近で油がにじみ出ていて、、”私の経験ではどうもこの辺に油田があると思われる”と言う推測をノックスに伝え、投資を促した。

ノックスは躊躇することなく、同時に、彼レイノルズに伝えた。めた。

これこそ山師以外の何者ではない。その後、レイノルズの予想通り石油は初期の期待以上の収穫があることが判明すると、ノックスはペルシャ帝国(イラン)にトータル収益の16%を支払い、それは実に1961年まで続いた。

その油井の総面積は40万スクエアー・マイルに及び、ロックフェラーがアラブ石油の採掘権を取得する遥か以前の大発見であったのであった。

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ナショナル トラスト(National Trust)

ナショナル・トラスト(National Trust)我が国ではなじみの薄い言葉であり、知らないひとも多いのではないだろうか?

最近、NHKの衛星放送で擬人動物婦人画家(イギリス人、1866年生まれ)の人生の事を放映していた。Peter_rabbit2 これは以前にもショウチャンのブログでとりあげた記憶があるが、女性が一人立ちしてビジネスに取り組むことは19世紀のイギリスに於いても珍しく、特に良家のお嬢さんが出版社と仕事の交渉や、ビジネスの取り決め、収入、消費、採算まで一人で行うことは上流階級淑女のすることでないとおもわれていた。

彼女の動物シリーズの絵本は不思議なほど売れに売れて、ポター嬢は大変なお金持ちになった。

本当ならば、仕事から引退して静かに都会暮らしの便利さを満喫するように考えられるが、彼女は最後の結婚相手の不動産商に依頼してスコットランドの湖水地帯に4000エーカーの山野を買い求め、それを未来永劫、あるがままの姿で保存するため”ナショナル・トラスト”とする申請をして国が管理する形式に登録したのである。

その膨大な地域には山河は勿論、大きな湖が散在して、野性動物は存在が保証され、その地方に既に住んでいる人たちには居住許可を与えるが、家屋の形態は19世紀の姿を保存し、石垣や家屋の窓の位置も変更を許さないほど厳しい規制を設けたのである。

彼女はこれに全財産をつぎ込み彼女の死後は自然にこの”Lake District National Park”別名”Heelis”の名で見事に保存されていることを知れば、知るほど彼女が神々しいほど貴婦人に見えてくる。

日本は何時になればこのような心に余裕のある国家に成長するであろうか?文明国とはこのことを言うのかと再考することしきりである。

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ナショナル トラスト(National Trust)

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過去の日本の植民地政策

Photo 戦艦「三笠」と東郷平八郎の銅像が示す記念碑は20世紀払暁に世界中が脅威の眼差しで凝視するが如く、世界の植民地にキラ星の如く出現した新生”大日本帝国”のシンボルである。

日清戦争(1894-95)の終結で日本は清国との講和条約で台湾と澎湖諸島及び遼東半島を割譲され、それに賠償金2億円の支払いで決着したが、即刻独、仏、露より遼東半島の返還を要望され、日本はこの条件を受付け(三国干渉)て清国との和平交渉を終了したが、その間朝鮮では高宋はあえてロシアと条約を結び親ロ政策を推進、国王を皇帝として、名称を大韓帝国に変更して独立国としての存在を誇示、特に日本に対しての対抗意識を強く持つ傾向が強くなって行った。

日清戦争の3年後、アメリカはスペインとの争いを始め1998年2月15日、キューバにあったアメリカ戦艦”メイン”の爆沈を理由にマッキンレイ大統領は米西戦争を布告し、スペイン領グアム、フィリッピンを電撃的に攻略して占領し太平洋に進出する契機を作った。

そこで朝鮮にさらなる危機感をもたらしたのが桂・タフト協定(Taft-Katsura Agreement)であった。後の第27代大統領ウイリアム・タフトと日本臨時外務大臣桂太郎とで取り交わされた日米協定である。

この話し合いでは、アメリカは韓国(大韓帝国)における日本の支配権を確認し、これの交換条件として、日本はアメリカのフィリッピンの支配権を確認するものであった。

これは親ロ体制を目論んでいた朝鮮にとっては誠に屈辱的なものであったに違いない。

日露戦争和睦条約がルーズベルト大統領の仲介にて完了したが、これは日本にとって誠に厳しい結果に終わった。

賠償金放棄、千島列島はおろか樺太の北半分もロシアの領土と認められ、正に白人優先の修好条約に終わったのである。

これは第28代アメリカ大統領ルーズベルトの将来を読み通した卓越した歴史家であり海戦の専門家テェディの思慮深い警戒心による判定と言っても良い。

開国して半世紀もたっていないアジア人の小国日本が世界一の人口と世界一の領土を持つ白人大国のロシアを敗北に追いやったことは全世界の注目の的となり、アメリカはこの時点にて、ハワイ諸島を併合して来るべき太平洋上での将来の日米決戦を想定したと思われる。(40年後それは現実のものとなった)。

1908年3月21日、アメリカ滞在の日本特使ダーハム・W.スティヴンス(Durham White Stevens)がサン・フランシスコでのニュース・インタービューでアメリカはフィリッピンで日本が朝鮮で行っている行政を敷いている(Japan is doiingng in Korea and for the Koreans what tha United States is doing in the Filippins)と発言したことで、二日後朝鮮のナショナリストによって暗殺された。アメリカの日本に対する肩入れを嫉妬した行動ではなかったか?

アメリカは米西戦争の賠償金2000万ドルを獲得して、フィリッピンに進駐するやいなや,ジェーコブ・スミス将軍は”no resoners"(皆殺し)戦法をとり,さらに、武器を運べる人間の殺害を許し、10歳以上のフィリッピン人は男女の区別なく抹殺することを命じたと言われる。結局、このときのフィリッピン進攻でアメリカ軍は2万~4万人を殺し、20万人を処刑、200万人をホームレスとする歴史上記録的な残虐な行動をとったのである。

イギリスにしてもアメリカにしてもアジア系をアボリジニー或いはアメリカ先住民と同じレヴェルに見ていることは確実で、植民地の人民には教育を施すことはごく稀で、その点、日本の植民地政策は白人の政策より寛大であったことは間違いない。

日本の朝鮮支配は僅かに40年、朝鮮人の日本人嫌悪は戦後の教育が正しくなかった結果から生じたものでしかない。

いずれにしても、我が国は中国、朝鮮には敗北を喫していない史実から、なんら彼等に対して卑屈になったり、殊更、懺悔することはないと考える。

WASP

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メール・オーダービジネスの元祖

MONTGOMERY WARDMontgomery_ward_catalog_of_1895,"Mail-Order Catalog"の元祖はアメリカ、中西部で1872年にスタートした「モントゴメリー・ワード」である。

1872年頃は所謂”フロンティアー”の時代であった。東部、ニューイングランド地方は既に大都市が多くあり、交通さえ便利なところであれば自分の好みの商品はたやすく手に入ったが駅馬車からようやく鉄道の時代に入った頃のシカゴやセント・ルイス以西は交通の便は未だ皆無に近く町の雑貨屋(general stores)で仕入れるのが当たり前であったころである。

そこえ出現したのがAaron Montgomery Wardがシカゴで開始した雑貨品のカタログ販売事業で地方からの注文を挿絵入りの商品カタログによる大量販売事業となった。

彼は最初地方の都市を巡り歩いてセールスをしていたが、この事業の開始により彼は先ず中間業者を除外してモダンな魅力ある都会の商品をカタログに乗せ、「商品在庫なし」の中間業者の地位を確立したと言える。

商品はそれぞれの町の「駅」まで配達される手法がとられた。

最初は種々の問題が起こり道は決して平坦ではなかった。

それに加えて、シカゴの大火災が事業をますます困難にした。

彼の最初の協力者はただの二人で、資本金は$1600であった。(1872)、163種類の商品に一枚のプライス・リストを挟み込んだ手製のカタログから始まった。

間もなく二人の協力者にも去られ困っていた頃、将来彼の義兄弟となったリチャード・ソーン(Richard Thorne)が共同経営者に加わった。客層はすべて都会の洗練された商品には程遠い人たちであったため、このビジネスは見る見るセンセーション的なものとなったのである。

それに、彼の殺し文言”Satisfaction guaranteed,or your money back"(ご満足頂けなければ料金を返済します)(1875)がさらなる売り上げに加担することとなった。

1883年になるとカタログは240ページに増え、1万アイテムの商品が掲載され、別名”Wish Book”とも呼ばれるほどとなった。

しかも、次第に都会人にも愛用されるほどに成長をとげたのである。しかし、1900年ににリチャード・ワーレン・シアーズ(Richard warren Sears)ーSears Roebuck Company-が商戦に加わることとなり、突如として雲行きに変化が生じた。

例えば、1900年のワードの売り上げが8700万ドルに対してシアーズの売り上げは1億ドルといわれている。

アーロン・ワードは1913年死去、ロバート・ソーンは1920年に彼の後を追ってなくなっている。

その後、今で言うアウトレットビジネスに形を変え全国に531店舗を保持するようになった。

1950年以後になるとSears,J.C.PennyやMacy’sの大店舗の攻勢により規模の縮小を余儀なくされ、1976にワードはモービル・オイルに売却された。

1985年には111年も続いたカタログの出版も中止せざるを得なくなった。

これもアメリカ型商業のたどる栄枯盛衰の一つの物語であるが、イノヴェーションと新しいビジネスで利益を追求する、歴史の一端、”アメリカン・ドリーム”の一例として紹介した次第である。

Richard Thone

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