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京都「粟田口」近辺の思い出

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粟田口は所謂”七口”の一つで京都の出入り口の要衝の一つであった。

その中で粟田口は中心街三条大橋から始まる東海道の出発点として最もPhoto_2 重要な関所として肝心な場所であったと言える。

明治になって都が東京に移ったが奈良と京都は日本の文化の中心には違いなかった。

しかし困ったことに明治期になり西洋文化が崇められ、今までの日本の文化や風習が軽んじられる風潮が芽生え、その中でも国家宗教の中枢であった仏教が排斥の憂き目に会うと言う悲惨な事態となった。

鹿鳴館時代と言われる明治の初期においては総理大臣はおろか華族、貴族議員らが西洋の服装で、見よう見まねの仮想舞踏会をしたりして世界中の失笑をかった誠に滑稽な一瞬も見られた。

私の生地は粟田口の青蓮院という門跡寺の前であり、東山の麓は私の遊びまわった懐かしい場所である。

明治28年、琵琶湖疎水完成して京都に水力発電所が完成、(京都遷都1100年記念?)とともに岡崎近辺の寺院が多く壊され、替わりに平安神宮と言う、正に”言うに言われぬ”奇想天外な別格官幣大社が出現して周辺の風情が一変したことを祖母から聞いている。内国勧業博覧会が催されて明治天皇の行幸があったとか。

しかしなんとも残念なのは奇妙な京都の新しいシンボル、都を京都に移した桓武天皇にこじつけた「平安神宮」の出現によって古い都の道筋、吉田神社→祇園社→清水と続いていた粟田口近辺の風情が消し飛んだように思えるのである。

粟田口は美術工芸で栄えたところでもある。薩摩焼に似た京薩摩とも言われた粟田焼、鎌倉時代より続いていた粟田口の鍛冶師、それに本日紹介する七宝焼の産地として名を馳せた。

中でも他をぬきんでいたのは並河家の七宝技術であった。

この精巧さに目をつけた西洋観光客によって殆どが海を渡ってしまって、今では日本には稀にしか残っていない。

ニューヨーク、ロンドンのオークションでは高値で売れている様子を知るにつけ、その頃の日本人の趣味に合わなかったのか、それとも高価すぎててが出なかったのか?

現在では並河靖之七宝記念館は、登録有形文化財として創建当時の佇まいを残している。(神宮道通り堀池町)

並河の技術の優秀さを認めた明治政府は国の勲章、記章の作成を並河に委ねたほどである。(上の写真)。

七宝は英語、フランス語ではcloisonne(クロイゾネ、或いはクロワゾネ)と呼ばれその発生は中近東より中国に渡った。

金、銀、銅などの金属製の下地の上に釉薬の微粉末を乗せたものを800度前後で焼成することで、解けた釉薬によるガラス様、或いはエナメル状のキレイな彩色を施した芸術品である。

シルクロードにそって日本にも将来され、正倉院にも作例が残っている。黒地に竜をあしらった並河七宝の作例は下の挿絵である。

粟田口近辺は知れば知るほど歴史が発見できる。近くに寓した有名人では、頼山陽、志賀直哉、青木杢米、池大雅等が知られている。機会のおありのお方は是非一度訪ねて欲しい。

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