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関西の粟おこし

Photo 大阪名物「粟おこし」”いけ大黒”で知られる、あみだ池大黒の初代・小林林之助氏は水の都、浪速(大阪)で船積みの米がこぼれる様子を見ていて”もったいない”と思った瞬間から、いずれ廃棄されるべき”こぼれ米”の利用を考え付き、商売につなげたと言うのだから、流石はケチの本家、大阪商人の本髄を見た感がする。

先週、6月24日付、日経新聞P.15。

これが日本最古の銘菓「粟おこし」、池だいこく(大阪西区)本舗では、弥生時代の出土物から穀物の加工品が出土、又、日本書紀にも粟を食べていた記述があることを揚げて、そのことを証左と考えているらしい。

それはともかくとして、このお店が江戸時代から続いている老舗であることは間違いない。

初代の林之助の出身地は、岐阜県安八群(美濃国安八群)、若いときから米の商売を学ぶために大阪に出た。

文化7年(1810年)に独立、先ず、米を蒸して、乾燥させ、それをさらに砕いて、香ばしくなるまで煎り、煮詰めた水あめなどで固めて成型するプロセスを考えた。

原料は米ながら、それを「粟おこしと命名した理由は”身を起こし、家を興す”と言う縁起の良い名で「縁起の良い土産」として人気を博し、珍重される名物を作り上げた。

日露戦争中では、兵士に贈る慰問品「恩賜のおこし」はわずか三ヶ月に35万個を売ったと言われている。

三代目林之助は、もし失敗したら切腹するつもりで夫婦して白装束で、親族縁者ともども頑張ったらしいが、戦地から凱旋した兵隊サンたちが、お土産にと「粟おこし」を買って帰ったというのだから驚きである。

四代目林之助氏は、昭和10年(1935)頃、大阪湾での観艦式に挙った、300隻余の艦隊に快速艇で乗りつけ、そこで注文を受けて、伝書鳩で伝票を送り”伝書鳩作戦”と言う誠にユニークなビジネスを展開したと言う。

そこから鳩は社長宅(芦屋市)に10分くらいで飛んで帰り、そこで社長は会社に電話で注文状況を知らしたとのこと。

五代目林之助氏の役目と言えば、先代達が培ってきた”即納”システムを守りながら海軍の信用をもらったとのことである。

戦争中、工場が被爆して全焼(その頃、4代目死亡)休業せざるを得なくなったが、旧満州重工業開発会社総裁だった、高橋達之助氏が公職追放中であったが、「助けてやろう」と援助の手を差し伸べ、有志を募って会社の再建を助けたといわれる。

それから約5年で再建した5代目、売り上げの半分をラジオとテレビの広告に賭け、大阪万博当時には再び、”粟おこし”は人気を取り戻したといわれるが、最近の景気低迷に加え、インフルエンザの蔓延で苦戦をしいられることになる。

「若い人たちが硬いものを嫌う」傾向から、最近では薄くしたり、チョコレートを混ぜたりして、イメージ・チェンジに努力中。

暖簾は傷つけたくない、先祖からの預かりもの、次世代に渡す大切な財産ということで、六代目、小林隆太郎氏、阪神大震災(1955)から商売を引き継ぎ、陸路が途絶えたために船便で製品を運んだことで信用をつないだとおっしゃっている。

そんなわけでこれまで度々訪れた苦境を知恵と忍耐で乗り越え「信用第一」のモットーを貫く根性こそが”大黒柱”とおっしゃっている。感服!

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私の夢

私が自分の生きている間に出来て欲しいことは、勿論、永遠の世界の平和であるが、これには何の保証も無い。

しかし、最近知ったことであるが、”海水が燃料となって起こせる核融合エネルギー”の実現がもし本当ならばスバラシーと思う。

化石燃料有限説は事実だと思う。しからば如何にすれば人類生存のために必要なエネルギーを獲得するかは大変大切な目標と思える。

現に、住友電工が超伝導(superconductivity)「超効率送電」をアメリカと共同で実験中と知って、これはヒョットすると・・・と思わざるを得ない。

現在の段階は、高温超伝導線を液体窒素で零下196度に冷やすと、断面積あたり、従来の銅線の200倍の電気を流せると言うことで、老朽化した地下送電ケーブルを超伝導線を使った送電ケーブルに置き換えようという計画実験が進んでいるという。

New york州都,Albanyで350メートル間隔を既に実験中である。

従って、これは夢物語ではないことを想像しながら思いついた理想的な私の「夢」とは:

もし世界中に北朝鮮のような悪いことを考える連中がいないという条件で、世界中が善意に基ずく合意に達すればの話だが・・・・、

全世界が協力して、南極の地下深くに「発電所」を建造。そこで最新の技術を駆使して、核融合エネルギーによる超伝導発電所を設けて、そこから世界に向かって送電を開始することが出来れば理想だと考える。

これは不可能であろうが、私の勝手な夢として胸に秘めている。

完全な超伝導が実現できたとすれば、送電ロスがなく、又、距離に関係なく送電できるのだから、どの国にも属さない南極大陸は理想であり、地下深くであればある程絶対低温が得られやすいと想像するからである。

その様になれば、どの国も発電所は不要となり、国費が節約できて全世界が繁栄すると思われる。

夢や理想は大きければ大きいほど面白い!Satellite_image

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1812年

1812nenn_2 1812年は世界中で大事件が起きた年である。

日本では、文化3年11月4日(1812)、午後2時頃関東地方で大地震が起こった。

震源地は現在の神奈川県、保土ヶ谷、戸塚近辺。

地震は直下型で井戸水にも異変がおこり、保土ヶ谷近辺の民家の半数程が被害を受けたらしい。

震源地は生麦村(生麦事件で有名なところ)、横浜市鶴見区生麦。その地方の庄屋(?)関口家の主人がつづった「関口日記」によると、多くの家屋が倒壊して、亀屋という旅籠が壊れて、下敷きとなった人々が亡くなったと書いている。

保土ヶ谷近辺の代表者がこぞって代官をたずねて、復興の目的で借金して証文を差し出したとのこと。(保土ヶ谷本陣文書)。

戸塚宿の被害も大きく、群馬県桐生市の織物商、書上家の「役用日記」にも数十軒が倒壊した様子が記されている、又、現在の横浜港南区最戸付近にあたる最戸村でも「大地震百姓家大破書上帳控」によると、来迎寺、その他、19軒が被害にあっている。

このほか、川崎、千葉、木更津市でも大きな被害の報告がされ、江戸市街地全般、藤沢、厚木、府中、埼玉近辺まで大きく揺れたとのことである。

地震の規模は6.5程と推定される。それから数えて殆ど200年が経過している昨今、自民党の去就とあわせて我が国での心配の種は尽きない。以上、2009年6月29日産経新聞、”温故地震”より、

ここに掲載した挿絵は、1812年6月3日(水)のNew York Spectator誌のぼやけた写真である。

偶然先日、整理中の古新聞の中から筆者が見つけたものである。

この記事に拠ると、当時の国務長官であったジェームス・モンローが対英戦争(15日後勃発)に就いて所感を述べている。

言うまでもなく、1812年戦争は英米間で始まった、最初で最後の戦いで、結果的にアメリカの勝利で終わった、あまりパットシナイ小競り合いである。(1812年6月18日~1815年2月18日)

それ以前、1756~1763の所謂、7年戦争ではアメリカは未だ植民地であったが、イギリスとともにインディアンとフランスの混成軍と戦った。(この結果、フランスはカナダとミッシシッピー以東の領地を喪失)

1812年戦争では、アメリカがインディアンを後押しするイギリスを向こうに回してカナダに進攻して始まった戦争であった。

当時イギリスはナポレオンとヨーロッパで戦っていたのでアメリカに充分な手勢を差し向けられず苦戦した。

それでも、最初はカナダの五大湖近辺での局地戦であったが、戦線が南下してニューヨーク→ワシントン周辺にも及び、大統領官邸をもイギリスが一時占拠、火を放った事態が起きた。(その修理のため白いペンキで塗られた官邸がその後、ホワイト・ハウスと呼ばれる事となった)。

この戦争でアメリカはイギリスの不慣れなゲリラ戦を展開して敵を苦しめ、、最終的にはアンドリュー・ジャクソンが率いる艦隊がニューオリンズで、イギリス艦隊を殲滅、1814年12月26日にベルギーでの「ガン条約」で講和がもたれた。(その頃では知らせが届くのが遅く、実際は戦争は既に終結していた)

又、1812年は、ナポレオンが最後にロシアに攻め入り、大敗を喫した年として(実際は1815年)ロシアの大作曲家チャイコフスキーが交響曲を”1812年”の題名で発表した事で有名である。

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京都府立植物園のバラと睡蓮

Frank_leslie_249 Photo_2去る5月久しぶりに植物園を訪ねた。

快晴の青空の下で美しいバラが満開でデジカメで沢山写した中で2点選んで掲載します。

下段は睡蓮で、温室の中に咲いていた。

西洋種で、紫色が水面に浮き上がったように美しく咲いていた。

睡蓮は国語辞典には、ひつじぐさ科の多年草で7.8月頃のものらしいが温室では少し早く見ることができた。眠るハスと書くので、ハスと同じく早朝に開いて、暫くすれば睡眠にはいるのかも知れないと勝手な想像をしたのだが。

自然を相手にしていると世俗を忘れ充実した一日を楽しむことが出来た。

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「神は自らを助くる者をたすく」[

自助努力をしない者は神も助けないとはキリスト教的考え方。

我が国の為政者は終戦以来経済復興に努力を払ってきたが、国の防衛には自助努力してこなかった。

先日、6月14日の日経新聞「風見鶏」で、1956年2月の衆議院内閣委員会の論議の内容は、今でも変わっていないことを取り上げ”座して自滅を待つのが憲法の趣旨とは考えられない”と今更ながら、まるで日本国民の懺悔ともとれる論評をしている。

今更ながらと言う意味は、

敗戦後から65年経って、自国防衛の術が見出せない日本国。(自称、先進国)

アメリカは日露戦争集結年の1905年以来、日本を仮想敵国として”オレンジ計画”を練りに錬って、その結果、思い通りに日本にハワイの真珠湾を攻撃させて太平洋から日本の存在を消し去ったことは事実の事実。

沖縄の返還を感謝して受けたが、これとてもアメリカの策謀とは思ってもいない、考えの甘い日本(左藤政権)。

20世紀では植民地はやたらと高くついて保持できない。

それは、フィリッピンの空軍基地の廃止、韓国での基地の縮小後、アメリカが日本に重点的に防衛基地を日本に置く結果となった理由。

地球儀を見て確認するまでもなく、日本列島はアメリカの西端の弓形の防衛線と映る。

ロシアは決して北方領土を日本に返還しないと同様に、アメリカは日本支配を決して諦めないと考える。

何故、アメリカは新鋭機F22を日本に譲渡しないのか

何故、アメリカは日本に航空母艦を造らせないのか?

これは日本とのBalannse of Powerを考慮して、Paciofic_ocean ゆめゆめ油断を怠っていない証左以外の何者でもない。

明治の憲法も60年も続かなかった、戦後の憲法は何時修正するのか?日本を取り巻く世界の状態は何時までも静止しているわけではない。

北朝鮮の武力に如何に対応するかを国会で論議されているが、それは全く自衛の問題で、これは今の憲法が合法と認めているのだから論外ではないだろうか?

本当の問題は国内の意思決定でしかない。

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産業の宿命

自動車といえば、それはアメリカを代表する産業と誰もが思っていた。

ビッグ3の代名詞で、世界に君臨してきたのが、GM、FordとChryslerの自動車メーカーであった。

その内の2社、ジーエムとクライスラーがこのたび、破産法を宣言して倒産するというアメリカにとって誠に不名誉な出来事となった。

特にフォード・モーターズの創始者、ヘンリー・フォード(Henry Ford、1863~1947)が大量生産によって誰にでも買える大衆車を世に出した時には、”全てのアメリカを車に乗せた”(put Amerika on wheels)と世界中を驚かせたものであった。

これが世に言う、モデルTの異名で知られた自動車である。

フォード社はこのたび、他の2社が落ちこぼれる事態となったが、どうにか持ちこたえ、営業継続を決めたが、これとても経営状態が万全であるとはいえない。

最初のモデルTが世に出たのが、1909年9月27日であった。

世界の産業構造に一大変革を与えた産業が100年にして終焉を迎えたことを知り驚くばかりである。

”Car of the future must be a car for the people.....market for a low priced car is unlimited"(将来の車は安くなけらばならないし、誰にでも買える車の将来は無限である)とまで言われたのであるが・・・・・・。

このT型モデルの価格は850ドルから最終的に一台、290ドルまで引き下げられた(1924年)。

最初のモデルは4気筒、馬力は僅か20.2HP,で時速は約72KMが出せる程度であった。

1909年といえば明治42年、日露戦争終結の4年後で、我が国においては恐らく車といえば馬車しかなかった頃である。

アジア全体が西洋の植民地であった頃の話。

しかしアメリカはたとえ、自動車産業の覇者の名を他国に譲っても、Model_t_ford 今後、世界最強の国家の一つとして再びその繁栄を取り戻すことであろう。

Model T,Ford Motors.

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勝者の論理

或る新聞の”オピニオン”の欄に去る、5月13日付ロシア「イズベスチア」電子版の南クリール(北方領土4島)に関する決定的とも言えるロシア側の意見が報道されていた。

これこそが、ロシアの北方領土に対する現実を踏まえた本音であると認識した。

ドミトリー・メドベージェフ大統領(43)が”ドイツ戦勝記念日に、赤の広場で「祖国の防衛こそが、我々に課せられた神聖な義務→それは即ち、全ての世代に貫かれる道徳的基準」と定義したと伝えた。

これこそが彼らの言うクリール問題への回答とし、現状は第二次世界大戦の結果であって、それは即ち今の状態以外のなにものではないことを明言している。

日本政府が長らく叫び続けている”北方領土の返還なくして日露の平和交渉はありえない”と言う主張は今後は通用しないことをハッキリ言い渡された形となった。

日本は彼らの二枚舌外交を今更なじっても、どうにもならない現実を甘受すべきで、先日来日した、ウラジミール・プーチン(56)が麻生太郎(68)に”ロシアには解決(北方領土問題)しないでいいと言う考え方もあるが、自分は逆に障害を取り除く必要があると思う”と言う、今回のメドジェーエフ大統領の演説と相反する意見を述べている

これは何を意図するか?

首相と大統領の意見が趣を異にしているが、プーチンは、麻生太郎氏にロシアではこれを解決しないで良いと言う意見があることを,はっきりと述べているが、その後、大統領が国民を前にして公式な演説で「NO]と言っているのだから、誰が考えても、大統領の言明(メドベージェフ)と一介の首相(プーチン)の非公式な個人的意見(麻生太郎氏との)が重要視されるかは明確である。

プーチンに同行、去る5月12日に来日した、モスクワ市長、ユーリー・ルシコフ(72)は日露知事意見交換会で、日露領土問題の解決には現実を見直すべきことを強調(過去に如何なる経緯があったとしても)、日本の意見である、ロシアが北方領土を不法に占拠していると言う意見は、「偏った意見」として批判している。

現にプーチンの帰国後、ロシアのメディアは一斉に、このルシコフの意見に同調して、強行に「(今や日露間に)領土問題などは存在しない」と主張、資源保護や漁業権に絡めて領土の保持を主張している。

現実、我が国はロシアの天然資源依存に外交のプライオリティーを置いていて、北方領土返還の叫びはトーンダウンしている。このことは現政府が、無下にロシアをこれ以上追い詰めることは国益にそむくことになると思っている証ではないか?

これを見越して、ロシアの独立新聞電子版が領土問題は、今後は日本の関心が資源確保や経済問題に移行するため逐次消滅にむかうことを示唆している。いずれにしても7月にはイタリアでG8(サミット)会談があり、そこで日ロ首脳会議が予定されている。イスベスチア誌が予言する通り、北方領土問題が決着を見るのは、そんなに遠い将来のことではない。

Map_of_russia 以前にも筆者は、このブログ上で、日米安保条約の不確定さについて述べたが、日本の唱える「非核三原則」が如何に無意味なものであったかと同じように、「北方領土問題」は始めから(相手側には)”なかった”と認識するべきであると言わざるを得ない。

※:ロシア地図

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「外人部隊」

ゲーリー・クーパーとマレーネ・デートリッヒ主演映画「モロッコ」を記憶されている方々は今ではほぼ70歳を超えたご老人の方々と拝察する次弟。

この映画では、アルジェリア戦線の様子を題材とした映画ではなかったかと記憶している。

外人兵士、つまり傭兵は、ヨーロッパでは中世の頃から存在する。

ヴァティカンはスイスの兵隊を警備兵として永く雇っていたのは事実。

19世紀には、フランスはアルジェリア戦線で、フランス国軍の兵士の消耗があまりにも多かったので、国民の不評を買い、外人部隊の編成を決意した。

フランス革命、その後の、ナポレオン戦争ではフランス国軍の兵士たちは数多の敵軍に対して抜群の強さを披瀝したのだが、20年も経たない内に植民地での戦争で国軍の被害を少なくするため、1831年3月10日、ルイ・フィリップ国王の決断によって外人傭兵制度が正式に始まったといわれている。

その頃からフランスの人口の減少の傾向が見られたからかも知れない。

ナポレオン3世時のクリミア戦争、イタリア統一戦争、メキシコ戦争の頃から外人部隊の存在が世界的に知れ渡ったと思われる。

今、国連軍が世界の各地で活躍しているが、必ずしも良い結果を生み出しているとは到底考えられない。

アフリカやイラク、アフガニスタンやパキスタンにおいて英米やカナダ等の兵隊が主に派遣されている状態で、世界をシンガイさせた国際テロ集団の掃討には苦戦を強いられている。

我が国日本は国の法律で、国としての戦争行為を違法と定めているので国軍の海外派兵は表向きできないことになっている。

しかし、日本は民主主義国家である以上、個人の行動にまで憲法の制約は及ばない。それに加えて、現在は世界的な大不況で世界中失業者で満ち溢れている。

ここで国連が世界に呼びかけて、国連憲章に違反するような行動をとった国に対する「警察軍」を編成して、世界各国から志願兵を募ったら如何なものかと思うのだが。

言うは易く、その達成は難しい仕事だと思うが、検討に値するのではないかと思考する。

徴兵制度のない、日本の若者たちは、永い平和に慣れきって「モヤシ」のような体を持て余している。

このあたりで日本のサムライの真髄を発揮できる機会を作らねば、Photo いずれ世界の異端児になり下ルことを恐れるあまりの発言と理解して欲しい。

写真:外人部隊旗

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中国の新植民地「ミャンマー」

このコラムで再度に亘って投稿したが、いよいよ中国がミャンマーとの間で進めていた、石油と天然ガスのパイプライン敷設会社による工事着工の日程が本決まりとなった模様。

ミャンマー(旧名ビルマ、Burma)は昨年超大型のモンスーンに襲われ大被害を出したところ。

先日、テレビ放映の様子を見ていると、災害復興は遅々として進まず、多くの難民たちが不衛生な状態で生活しているところを見て悲しくなった。

昨年から、中国の共産分子の仕業と思われる騒動がアジア各地で起こっている。

一つは、ネパールであり、もう一つは、スリランカでの暴動である。

中国は最近、アジアでの最強の海軍力を保持する国家を目指していること大々的に報道し、アメリカとも、日本近海で度々問題を起こしていることは海外情報にキーンな人ならば危機感をもって感じ取っていると思う次弟。

昨年、11月18日の日経新聞によると、今回スタートするパイプラインは、ミャンマー西部のインド洋を望む港湾都市、シットワエから、中部、マンダレーを経由、中国の雲南省から大理を通過して昆明に達する全長1100キロに及ぶ一大プロジェクトである。

即ち、今後は正に、ミャンマーは中国と一体の共産国家となり、今後、中国がミャンマーの安い労働力を産業面に如何に利用するかによって世界の産業地図が様変わりする可能性も考慮しなければならない。

当然、中国はこのパイプラインの構築により、(2012年完成予定)一日、40万バレルの石油輸送が出来、最終的には江西省、何寧まで延長されるとのことである。

ともかく、中国としてはこのパイプラインが完成した暁には、中国の輸入する原油は全て、危険なマラッカ海峡を回避して、より安全に、安価にもたらされることが可能になること間違いない.。

我が国が半世紀以上、アメリカの核の傘に守られていると信じてか、成すべきことを怠っている間にかくも中国と力の差が出来てしまった。

日本の為政者が、今後どうして、アジアにおける出来てしまった、勢力のアンバランスを調整しながら国家100年の計を造るべく努力を重ねるしかない。

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ウイリアム・カーティス(william Curtis,1746-1799)

ウイリアム・カーティス(William Curtis,1746~1799)は18世紀末のイギリス植物、昆虫学者である。

幼少期より昆虫に興味を持っていたが、25歳を境に、自然科学専門家に転じ、植物学の専門家として名声を博した。

.ロンドンに個人経営の植物園(London Botanic Garden)を1779年に設立(33歳)、最初の植物誌:フローラ・ロンディネンシス(Flora Lopndinensis)を発刊した。

これは、ロンドン近郊10マイルに自生する一切の植物を銅版におこし、全て手彩色で432種類に及ぶ草花を6巻にまとめ出版した。

ビュート公の援助で始められた、このプロジェクトは、大半の購読者がエキゾティックで、当時では入手困難な珍しい草花を望んでいる現実を知り、このシリーズを中止し、1778年、改めて、”Curtis's Botanical Magazine"の出版を始めた。

このシリーズは購読者に絶賛でもって迎えられ、現在(2009年)まで、231年間、途切れることなく続いている大ヒットの出版物となった。(但し、その間、数回名称の変更があった)

カーティスの死去(1799)の時点で13部が完成、その後、友人、シム(Johm Sim)が引継ぎ、26巻を完成させた。

その後、ウィリアム・フッカー(William Hooker)に引き継がれ(1826)、フィッチ(Water Hood Fitch)が専属のイラストレーターとして、又、主幹として40年に亘って活躍した。

ウイリアムの子息のジョセフ(Joseph Dalton Hooker)が事業を受け継いだ時点では、彼がキュー王立植物園の最高責任者であったことから、その後はマティルダ・スミス(Matilda Smith)が次の主幹として採用され、彼女は2300種の挿絵を完成させている。

スミスは最初のキュー王立植物園の正式画家としてむかえられ、同時に、リンネ学会の会員に認められた。

その後、リリアン・スネリング(Lilian Snelling,1879~1972)が主幹となり、それまで永く続いていた手彩色の手法は写真を取り入れた製法となった。

この後、一時、The Kew magazineに変わったが(1984~1995)、1995年からは再び知名度の高い、Curtis's Botanical Magazuneに戻され、それからはThe Royal Botanic Gardens,Kewが出版元となって、今日に至るまで多くの読者を楽しませている世界で最も著名な、A_page_from_flora_londinensis 稀有な専門誌である。

Flora Londinensisのページより:

(筆者蔵)

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日本の自然科学発展を助けた人々

伊能忠敬(1745~1818)や間宮林蔵(1780~1844)と言えば幕末に日本の将来を見据え、当時の技術を駆使して、各自、学術的偉業を成し遂げた人物として海外でも認められている。

彼らが活躍していた時代は、近代の夜明けであり、西洋からの視線がアジアに注がれていた時代であった。

オランダ人として知られているシーボルト(Philipp Franz B. Von Siebold(1796~1866)は、実はドイツ人で、医者でありながら植物学に傾倒し、日本訪問を果たした科学者であった。Photo

1823年に長崎の出島のオランダ商館医として日本の土を踏んだ

最初は出島内にて開業、間もなく鳴滝塾を開設蘭学教育を開始する。

我が国でのシーボルトの活動には謎が多く、彼が蝦夷地の地図と、克明に作られた江戸城内部の図面を所持していたことから国外追放される事件に発展するが、その様な政治がらみの事件には触れない。

シーボルトは滞在中に日本人女性、楠本滝と結ばれ、娘楠本イネをもうけている。その娘の名に因んで彼が発見した日本種アジサイに"hydrangea otakusa"と名づけたことは有名である。収集押し葉標本1万2千点それらを基に彼は友人との共著として「日本博物誌」を刊行している。

蝦夷、南千島、樺太等を中心に研究、帰国後、全7巻の「日本」を刊行、その中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記、間宮の名を世界に紹介した。

スパイとして幕府の咎めを受け、一旦帰国したが、1859年再来日、62年まで幕府の顧問職として滞在した。

彼が滞在中、川原慶賀を専門の絵師(記録係)として、彼が発見した生物や、日本の風俗を描かせている。

日本では未だ、自然科学の分野は未知であり、学問として取り上げられるようになるまでには暫くの日時を要した。

シーボルトに関する献名として、学名に”sieboldi”または"sieboldii"が付く生物は可成の数にのぼる、それらを紹介すると、

サクラソウ、ミセバヤ、ヘビノボラズ、キセルアザミ、ウスバサイシン、スダジイ、チョロギ、ヤマナラシ。

又動物では、アコメガイ、ベニガイ、シーボルトミミズ、オニヤンマ、ヌマムシ、ヒメダイ、アオバト等が挙げられる

シーボルトに啓蒙されてか、その後、我が国において幾多の植物学の異才とも言うべき人物が現れる。

その一人が南方熊楠であり、又、牧野富太郎も植物学の先覚者として貢献した。

小石川植物園の前身、現在の東京大学大学院理学系研究科付属植物園は植物に関する様々な研究をしているところと聞いている

日光植物園もその流れを汲む研究所の一つで、二つとも江戸幕府が施薬院として始めた研究所の魁で、黒沢明監督の作品「赤ひげ」はこのような養生所を舞台とした作品である。

1902年の開園になる日光植物園は小石川植物園の分園としてスタート、東京では生育の難しい高山性の植物の研究所として造られたものである。(現存)

以上は筆者が京都の植物園に近く住んで、植物と親しく接する機会が多くなり、好奇心のまま、主に、グーグルのサイトを参考にして作った拙文であるが、何らかの参考になれば幸甚である。

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「天下り」は公用語?

国会の討論中に度々「天下り」や「続投」等の格式語か俗語か判定に迷うような言葉がやり取りされている。

「主権在民」は憲法に明記されている。

従って国民が国の主人で、官吏は使用人と言うことは明らか。

行政を司る権威のある方々が、何のためらいもなく、公の場で、官吏が民間の会社に出向、或いは転職することを、「天下り」と言うのが恒例になっていることに何か違和感を感じるのだが。

私のような古い人間は、天下りと聞けば、昔習った”天尊降臨”という四字語を思い出すのだが。これは神武天皇のような、尊い神様が地上に降り立つ現象を指すことである。

官吏=公僕が民間に移籍することが何故天下りなのか?卑しくも国会で標準語として使うことは遠慮していただきたいと思っているのだが。大方のご意見は如何なものか?

最近、総務省の鳩山大臣が”郵貯”の西川社長を止めさせるか、或いは現職を継続させるかの問題で「続投」か否やでもめている。

続投とは、今更言うに及ばず、野球語であって、ピッチャーが降板(ピチャースマウンドから)するか、そのまま投げるかを決めるときに使う慣用語、従って、私の意見では公の場で使うことは場違いではないかと疑問に思う。

行政や司法を司るべき方々には勤めて公式に認められている日本語を使用するべきではないだろうか?

これに就いてのご異論、ご批判歓迎!

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医療通訳

海外旅行中に体調を壊したらと心配する人は少なくない。特に心筋梗塞や脳梗塞のような緊急を要する病状の場合では手遅れになり命取りとなるかも知れないと思えば心配で旅行に出る気にもなれない人も少なくない。

このような外国人が安心して医療を受けるために不可欠なのがライセンスを持った医療通訳の専門家。

アメリカでは今年初めて全米統一の医療通訳者資格認定試験が実施される予定。

先程、大阪にて開催された医療通訳をテーマにしたフォーラムに来日した、イザベル・アローチャさん(45)は国際医療通訳者協会会長である。

彼女はオーストラリア生まれ、父が外交官であったため、幼い頃からスペイン、メキシコやユーゴスラビア等で生活、来日の経験もあるとの事。

「言葉のわからない異国で医療を受ける患者の不安さが理解出来る」とおっしゃる。

翻訳家の母の影響で、学んだ語学の才能を利用して「医療通訳者」の道に入った。

今では全米で、15000~20000人のライセンスを持った医療通訳者が存在するそうだが、急増するニーズには対応できない状態とのこと。

これには法律で医療の専門的知識の取得が義務ずけられれいるのだが、現実では、無資格で業務に携わっている人も少なくないらしい。

通訳者の力量不足は患者に申告な事態をもたらす危険は否定できない。

通訳とは、少なくとも、2カ国語の知識が必要なのだが、事が医療に関する只でさえ難しい、専門の知識のメディエーター(仲介者)でなければならない条件を兼ね備えた専門家は貴重である。

現在の課題は通訳者の質の標準化。

その問題を取り上げようと立ち上がったのが「全米統一の資格認定試験」、さすがに多民族国家アメリカなればこそ可能な仕事と思える。

アメリカには既にこの分野を専門としている法人が存在するらしいが、これには解剖学から医学用語は勿倫、倫理と医学常識から、理解力等々ハードルは高い。

当初は22の言語で実施し、来年の末までには30に増やす予定とのこと。

将来的には如何なる少数民族語までも網羅したいとの意気込みである。

「安心して医療を受けられるのは人間の権利」はアメリカの国家的方針だそうである。

そこで考えさせられるのが我が国の当分野に関する意見や知識のこと。

偽らざるところ誠に心もとないと思うのは筆者だけではないはず。

アローチャ会長の弁”資格化を通じて、医療通訳者が果たす役割や責任に見合ったステイタスの職業にしたい”。

以上、産経新聞「文化」の欄より要約

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世渡りに長けた老舗企業

老舗の成長と持続の条件を満たした、外部の「匠」を束ねる経営力を誇る見事な会社が”200年企業”のコラム(日経新聞6/10)に出ていた

読むほどに、なるほどと感心することばかり、実に見事な会社である。

この企業の名は「江戸屋」、これも8代将軍、吉宗から、1718年(享保3年)に授かった屋号だそうである。

刷毛、ブラシ専門の製造販売を営んで、18世紀初頭から続いているビジネスとは恐れ入った次第。

現在は東京、中央区日本橋大傳馬町で、築85年を数える木造2階建て社屋がこの会社の本社で、高層建物の居並ぶ中で社員、僅か7名の企業だが、営業員は置かずに、注文はすべて店頭で受けているとのこと。

今時そんなことでどうして事業を続けられるのか?とは誰でも首を傾げたくなるのだが、記事を読めば納得させられることばかり!

先ず、見栄をはらないことが何より大切なのだと感じた!

初代の利兵衛サンは、最初、京都で修行を積み、徳川7代将軍、家継のお抱え刷毛師に任命されたところから家業が始まった。

初めの頃は、大奥のための化粧用刷毛、表具屋さんの使う刷毛を作っていたが、幕末のペリー来航で幕府から大砲の筒の掃除に使う「煤除去」の刷毛の注文を受けたこともあった。

6代目、7代目利兵衛は特に商才に長けていたらしく、明治維新後の工業用分野の開拓に活躍したとのこと

東京大震災で社屋が消失(1923)、従って現在の社屋は86歳ということになる。

戦後の江戸屋を切り回してきたのは、11代目の浜田花子サン(94年没)、後継者となるべき息子さんが戦死したため、12代目の現在の社長、浜田捷利氏にバトンタッチできるまで30年間以上女社長として努力されたと言う。

たった7名の社員の会社だが、常に200人以上の職方と取引しながら「江戸屋ブランド」を守っている。

その分野は実に幅広く、洋服ブラシは言うに及ばず、半導体材料を切断する刃物の研磨用ブラシ、静電気を除去するOA機器向け刷毛、原子力発電所の配管清掃用のブラシ、IT機器に組み込まれる小さいものから、新幹線客車清掃の大きなものまで実にヴァラエティーの豊富さに驚かされる。

その一方で、職人さんを大切にしながら、顧客の満足を確保するべく努力を重ねて老舗の企業を存続させる”技術”には頭が下がる思いがしたので、二番煎じながらブログに載せさせていただいた次第です

この秘訣は?つまり世情を察知しながら、企業の舵取りにおいて他の追随を許さない、極めて緻密な感覚と変わり身の早い企業を目指していることだと感心しきり・・・・・・。Photo

ブラシの種類は様々なれど・・・・・、

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老酋長、ポンティアックの呪い?

アメリカ先住民、ポンティアック(Pontiac,1720?~1769)は7年戦争(別名、French and Indian War,1754~63)でフランス側に付いて、イギリスとアメリカ植民地軍を敵に回して戦った有名な大酋長であった。

1763年、世に言う、ポンティアック戦争において、大部隊を率いて2年にわたって敵を悩ませた人物である。

主に、スーペリアー湖からペンシルヴァニア地方にわたる広域を制圧、一時は勢力をメキシコ湾にまで拡げた。

特にデトロイト(Detroitと、マキノウ(Mackinaw)の奪回では数ヶ月の抵抗の後、イリノイ属の反目で命を絶たれた、時に1765年8月17日のことであった。

ミシガン州、ポンティアック市には、今回自己破産を宣告したクライスラーの本社があり、又、GM社の中核車種”Pontiac"の製造工場があったと聞いている。

正にアメリカでの自動車工業の中心的な都市であった。

アメリカには一時、500に及ぶ先住民部族が存在したと言われているが、19世紀の初等から始まった白人移住民の西漸によって次第に追い詰められ、今では限られた地域に押し込められ、惨めな生活を強いられている。

その最も決定的な原因は、移住人の持ち込んだ天然痘で、免疫を持たなかった彼らはたちまちの内にその数を減らしていった。

白人は、その他、原住民をアルコール漬けにしたり、又、諸々の姑息な策謀でもって、「書き言葉」を持たなかった住民を窮地に追い詰め、領地を奪い、最後には、彼らの主食、バファッローの大量殺戮でもって物理的に生活の道を絶たれたのであった。しかし、アメリカ移民達は多くの恩恵を先住民から授かっている。それに反して彼らが受けたものは馬(スペイン人から)を除けば、物騒な武器、ナイフ、火薬類のどちらかといえば、平和を破壊する無用な物資であった。

先住民から授かった主な生活必需品は、例えば、タバコ、ポテト、トウモロコシ、トマト等、現在の人間生活に欠かすことの出来ない食べ物や習慣である。

今回のGM、クライスラー両社の破綻は正に”ポンティアック”と言う名に因んだところから起こったことは皮肉である。

特に、GMは代々の大統領専用車、キャディラック(Cadilac)を生産していた会社である。

この会社の消滅はアメリカ人のプライドに関わるゆいしき事件と言える。

このアメリカの象徴的存在が連邦破産法11条、所謂”chapter 11"の適用で事実上国有会社になったことは正に現在のアメリカの事情を雄弁に物語っているように映る

自動車は飛行機と同じく、性能と安全が最も重要視される機械であるので、会社の会計上の状態が改善されたとしても、速やかに販売成績が回復するものでもない処が問題である。

従って、今回大株主となるアメリカ政府の将来にわたる、「お荷物」になることが懸念される。

Poitiacnative_american_chief 我が国の企業もこれを他山の石と思い、将来への作戦を練り直すことが必要と思えるのだが。

An image of Pontiac

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天安門事件より20年

1989年6月3日、世に言う「天安門事件」が起きてより、丁度20年が経過した。

これは、中国共産党に反対を唱えるデモ隊が騒動を起こしたため、軍隊が出動して天安門前にて小競り合いが起こった。

その鎮圧に際して軍隊が武器を使用、多くの犠牲者を出した”インシデント”。

丁度そのとき、ソ連のゴルバチョフ大統領の北京訪問とかち合った、北京に世界中から多くの報道陣が来ていたため、この一部始終が世界で生中継される結果となり、一大ニュースとして多くの人々の知るところとなった。

人民解放軍が武力で人民を鎮圧し、しかも可成の犠牲者を出すという、中国にとって誠にミットモナイ事件として世界中の多くの人々の記憶に留まっている。

ゴルバチョフはロシアでは、不思議な程、人気が低いようだが、彼の勇気ある決断で、ベルリンの壁も除去される(同年、11月9日)結果となり、当時の世界の改革に貢献した英雄的存在と認めざるを得ないのではないかと思う次第。Photo

それからの20年、中国は外観的には経済は発展し、国の国際的影響力も大いに高揚を成し遂げたのだが、残念にも、国民の人権状況の改善はなされず、共産党の一党独裁は変わりなく続いている。

昨年、念願のオリンピック世界大会を主催して、あたかも世界の大国ぶりを披瀝したのだが、国の内容、人心の自由は放置されたままであることは痛ましい限りである。

20年の間に中国の経済と社会は様変わりをした。上海の株式市場はアジアの中でも有数の規模に成長したことをもって中国人の自慢の種は増したが、その間、所得格差や地域格差が拡大して国民間の利害が拡大、将来に不安材料が増したことは否定できない事実である。

世界並みに人権意識も高まって、国の高圧的な権利侵害に対する抗議や、集会デモ活動も年間9万件を突破しているとの事。

土地の強制的収用、環境破壊、宗教活動の抑圧に対する不満はいずれ爆発するであろう。

三権分立こそが近代国家の象徴とも言われる所以なのだが、立法、行政、司法すべてを共産党が一手に取り仕切れる道理がない。

この辺が判っていなければ近代文明国家とはなり得ないのだが、今の中国指導者たちがこの壁を如何に乗り切れるか?

水は容器の形にしたがってくれるが、人の心は水のように従順ではない。

中国は北朝鮮をはじめ、多くの人権を抑圧する独裁国家の最大の擁護者的存在である。しかし、人間性(Humanity)を否定して、物質的利益だけを追求し続けるには限度があり、将来に禍根を残すこと必定!中国と北朝鮮は根本的には似たりよったりで、従って、中国に北朝鮮の指導役を依頼すること事態に問題がある。

しかし、現状の脱却には中国指導者たちの「命」と引き換えしか解決の道はないのではないだろうか?

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