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日本の自然科学発展を助けた人々

伊能忠敬(1745~1818)や間宮林蔵(1780~1844)と言えば幕末に日本の将来を見据え、当時の技術を駆使して、各自、学術的偉業を成し遂げた人物として海外でも認められている。

彼らが活躍していた時代は、近代の夜明けであり、西洋からの視線がアジアに注がれていた時代であった。

オランダ人として知られているシーボルト(Philipp Franz B. Von Siebold(1796~1866)は、実はドイツ人で、医者でありながら植物学に傾倒し、日本訪問を果たした科学者であった。Photo

1823年に長崎の出島のオランダ商館医として日本の土を踏んだ

最初は出島内にて開業、間もなく鳴滝塾を開設蘭学教育を開始する。

我が国でのシーボルトの活動には謎が多く、彼が蝦夷地の地図と、克明に作られた江戸城内部の図面を所持していたことから国外追放される事件に発展するが、その様な政治がらみの事件には触れない。

シーボルトは滞在中に日本人女性、楠本滝と結ばれ、娘楠本イネをもうけている。その娘の名に因んで彼が発見した日本種アジサイに"hydrangea otakusa"と名づけたことは有名である。収集押し葉標本1万2千点それらを基に彼は友人との共著として「日本博物誌」を刊行している。

蝦夷、南千島、樺太等を中心に研究、帰国後、全7巻の「日本」を刊行、その中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記、間宮の名を世界に紹介した。

スパイとして幕府の咎めを受け、一旦帰国したが、1859年再来日、62年まで幕府の顧問職として滞在した。

彼が滞在中、川原慶賀を専門の絵師(記録係)として、彼が発見した生物や、日本の風俗を描かせている。

日本では未だ、自然科学の分野は未知であり、学問として取り上げられるようになるまでには暫くの日時を要した。

シーボルトに関する献名として、学名に”sieboldi”または"sieboldii"が付く生物は可成の数にのぼる、それらを紹介すると、

サクラソウ、ミセバヤ、ヘビノボラズ、キセルアザミ、ウスバサイシン、スダジイ、チョロギ、ヤマナラシ。

又動物では、アコメガイ、ベニガイ、シーボルトミミズ、オニヤンマ、ヌマムシ、ヒメダイ、アオバト等が挙げられる

シーボルトに啓蒙されてか、その後、我が国において幾多の植物学の異才とも言うべき人物が現れる。

その一人が南方熊楠であり、又、牧野富太郎も植物学の先覚者として貢献した。

小石川植物園の前身、現在の東京大学大学院理学系研究科付属植物園は植物に関する様々な研究をしているところと聞いている

日光植物園もその流れを汲む研究所の一つで、二つとも江戸幕府が施薬院として始めた研究所の魁で、黒沢明監督の作品「赤ひげ」はこのような養生所を舞台とした作品である。

1902年の開園になる日光植物園は小石川植物園の分園としてスタート、東京では生育の難しい高山性の植物の研究所として造られたものである。(現存)

以上は筆者が京都の植物園に近く住んで、植物と親しく接する機会が多くなり、好奇心のまま、主に、グーグルのサイトを参考にして作った拙文であるが、何らかの参考になれば幸甚である。

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