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対アメリカ考、衆議院選挙結果に寄せて

ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)はアメリカ第33代大統領である。

1884年5月8日にアメリカミズーリ州に生まれ。1901年高校を卒業後銀行員となる。

第一世界大戦に参戦、その間、士官に昇進、帰国して1919年にベス・ウオレスと結婚、娘、マーガレットを設ける。

トルーマンは政治家を志願して、最初の選挙戦で、クー・クラックス・クランの支援を得るため同団体に入党している。

トルーマン自身がユダヤ人の系統であることは、彼が最初に選んだ職業が繊維関係の仕事であり、戦友であったユダヤ人のエディー・ヤコブセンとチームを組み、共同経営者に選んだことでも判るが、近年発見されたトルーマンの日記には「ユダヤ人は実に利己的であるとの記述があるところからハッキリしたことは不明である。

いずれにしても、K.K.K.が反カソリックの組織であることから、しかも可成り過激な南部の暴力的な団体であることを知りながら入党したのならば少し身の処し方に慎重さが乏しいところがみうけられる。

この「結果よければすべて良し」の姿勢はトルーマンが終生変わらず貫き通した悪いところだったと筆者は観察する。

1945年2月にはヤルタ会談がルーズヴェルト、チャーチルとソ連邦の首脳スターリンとで行われたことは既に述べたが、当時ではアメリカもイギリスも共に如何に、日本を降伏させるかに真剣に頭を悩ませていた。

それで、苦肉の策としてドイツの降伏して後のある時期に、ソ連に、日本の背後から攻め込むことをスターリンに依頼することを会談の俎上に上げなければならなかったのである。

間もなくルーズヴェルトが4月に急死、トルーマンが自動的にアメリカ大統領にスライドすることになった。

太平洋の戦況は次第に日本不利に傾いていて、サイパン、硫黄島、沖縄らがアメリカの猛攻撃にさらされ、本土も、同年3月頃から、サイパン、中国本土の基地からB29爆撃機の無差別爆撃により、国民は勿論のこと天皇をはじめ戦争関係者にとっても敗北は目前と映っていたに違いない。

そこで、突然アメリカ側からイギリス、ソ連にポツダム会談の日程が提案されたのである。

この時点では、ドイツの敗北は決まり、ヨーロッパでは平和の到来が囁かれていた頃であったと思われる。

ルーヴェルトは1933年の経済大恐慌直後に第32代アメリカ大統領となり、その職を3期に亘って勤め上げた人物であった。

それに対し、トルーマン大統領はルーズヴェルトの任期満了寸前に(1945年4月12日)ルーズヴェルトの急死により突然職務を引き継いだばかりの大統領であった。

前例のなかった4選を果たしたルーズヴェルトが何故、高校卒のトルーマンを副大統領に指名したかは本人しかわからないことだが、ルーズヴェルト死亡により、第33代の大統領に就任したトルーマンには次期選挙までに82日間を残すのみだった。

丁度その頃、次期大統領の人選が一大問題であったことは明らかであり、これには、トルーマンの名前は候補者名簿にはなかったに違いない。

そこで、去る2月のヤルタ会談の議題として挙がっていたソ連の対日本開戦の時期問題はトルーマンとしては確定しなければならない、新大統領のファースト・プライオリティーと考えていた事項であったと筆者は思考する。

太平洋戦線にわが子達を送っているアメリカ人からは彼らの一日でも早い帰還を望む声が日を追って激しくなっていた頃でもあったと思われる。

ドイツのユダヤ人に対するゼノサイド的殺戮が次第に明らかになるにつれ、譬え、国際法に違反しても、味方の兵士の損害を少なくして、日本兵の自殺的行動の被害を避けて、能率的に勝利を勝ち取ることを優先的に考慮する気配がアメリカ国内の世論であったことは否めない事実であろう。

しかしながら、ポツダム会談を召集した時、彼の頭の中では①対日戦争の効率的終結②次期大統領選挙対策の両極端の問題が交錯していたのではないかと筆者は考える。

幸か不幸か、トルーマンとバーンズがポツダムに乗り込んで間もなく(会談中)ワシントンより「耳寄りなニュース」がトルーマンに聞こえてきたのである。

「新型爆弾試験成功」の一報がトルーマンのその後の人生を一変させたと言っても過言ではない。

新米の大統領としてポツダム会談に臨んで、トルーマンは他の二大巨頭を前にして、下手に、又、控えめにならざるを得なかった。トルーマンにとって、このニュースこそは「地獄に仏」と映ったに違いない。

この場合、経験を永く積んだ指導者ならば、前後の事情の判断こそが大切なのだが、嬉しさのあまりか、彼は得意げに、スターリンに原爆成功の事実を告げた。そのとき、スターリンは特に驚いた様子も見せなかったと伝えられている。

ここからが筆者の個人的なトルーマン考であるが、ポツダム会談の途中で「新型爆弾実験成功」と言うニュースを耳にして、先ず、彼は、近い将来の対日戦況の予想を再考築してみる必要があったのではないかと思う。 

この爆弾がどんな威力があり、大都会の上空から投下すれば如何なる結果が人類に及ぶか、また、それは人道上、或いは国際法によって赦されるべき範囲なのかどうか。

ヒットラーによるユダヤ人の集団虐殺によって多くの人命が消滅したが、その行為は一時的殺戮であって、後世まで生物学上問題を引きずらないものであった。(彼にはそんなことが判る筈もないことだが)

トルーマンを始めアメリカの科学者連中も原子爆弾による後遺症には無知であったかもしれないが、対日戦況打開に関しては、既にソ連の介入は不必要となったとトルーマンは考えられなかったのだろうか?

(戦後ソ連の介入により70万人以上の日本兵が武装解除の後、シベリヤに連行され、苦渋に満ちた「不必要な」人生を強いられたことも、トルーマンの“ソ連介入拒絶”の一言で避けられたことはこの場合論外。)

ポツダム宣言による無条件降伏の受け入れを天皇以下日本政府重臣の優柔不断な態度にて、恐らくは100万人程度の臣民を見殺しにしたことは事実。従って鈴木貫太郎首相の態度は永久に逃れられない重罪である。

しかしながら、第33代アメリカ大統領:ハリーS.トルーマンの罪は其れにも増して重いものである。

前述の通り、彼は終生“終わりよければ全て良し”の考えの人間であったと思う。

詳しくは言及しないが、ポツダム宣言の通達の仕方として:

トルーマンは天皇宛親書で、“アメリカが最近開発に成功した新型爆弾は、惟までの様な爆弾ではなく、一旦投下されたならば数十万人の人民に被害が及ぶのみでなく、貴国に対し計り知れない被害が及ぶことが判明している、従って、現在では連合軍側としてはこの爆弾の使用には反対論も多いほどである。しかしながら、アメリカ人民も上陸作戦を決行して、日本軍と白兵戦的消耗戦になることについては国民の賛同もえられ難い事情に苦しんでいる。

戦争の態勢は既に決まったに等しい折から、これ以上お互いの人員の消耗はさけるべきである。

従って、今後、一週間以内にこの降伏条件に賛同をいただければ天皇の尊厳保持を約束し、同時にわが方としても、この非人類的爆弾の使用を中止することを約束する。”

筆者は仲晃氏著「黙殺」を詳しく読ませていただいて、日米には互いに理解できない疑問点が多く、特に日本側には国際的常識では解釈できない“薄気味悪い”疑念が少なからずあったことは否定できない。

“トルーマンとバーンズの陰謀”のタイトルで書かれた、鳥居民氏著「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」(草思社、20056月)に書かれている内容を見ると、「原爆実験後」トルーマンの対日工作及び、発言内容に変化が目立つことが読み取れる。

ポツダム会談後、トルーマンは82日まで報道を差し控えることを命じた。(理由不明)

周知の通り、86日に広島に原爆が投下された。(即ち、ポツダム宣言発令後丁度10日目)たとえ彼が腹心のバーンズと慎重な相談をしたとしても、筆者はこれは配慮を怠った決断と言わざるを得ない。

現に、マーシャル元帥、アイゼンハウワー大将、グルー氏ほか多くの人達が(特に共和党)が真珠湾の仕返し的蛮行に猛反対したといわれている。

しかも、広島に次いで三日後、今度は長崎に原爆を投下して、天皇から直接の「降伏」の発言をもぎ取った。

これは、アメリカの行った最も卑劣な戦争行為であり、ドイツのユダヤに対する残虐行為の比ではない。

筆者のトルーマン考はそれだけでは留まらない。

繰り返しになるのでこれで終わるが、トルーマンが指導役として戦後、行った非行を挙げれば、それは19471129日、国連総会パレスティアン分割案を採択し、イスラエルがその地に建国されることとなった事件。

これが筆者の唱えるトルーマンの二度目の悪行である。

1945年、トルーマンは第33代大統領に正式に民主党からノミネートされた。

ポツダム会談後、トルーマンは二度日本に原爆を投下させて勝利を早め、同時に(数ヶ月だが)世界で唯一の核爆弾所有国となり国威を高めた。

1947年、彼は二期目の再選をめざして「イスラエル建国」に努力し多くのユダヤ人からの人望を得た。

ある記者がトルーマンに「何故あなたはそんなにユダヤの肩ばかり持つんですか?」

これに対するトルーマンの答えは「アラブに肩入れしてもユダヤほど“票”に繋がらないだろうが」、これは恐らくトルーマンの本心ではなかったか?

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破廉恥「中国」

今年5月22日の産経新聞の記事「中国コピー兵器を途上国に販売」の事件で、ロシアが激怒していると、このブログに転載、お知らせした。

これなんかは如何にも中国ならではの「ニュース」と映る。

一体、彼らのモーラル・スタンダードは存在しているのか、していないのか?疑問を持たざるを得ない。

中国が正式にロシアから購入した戦闘機や潜水艦、戦車など主要兵器20種以上をコピーして国産化、途上国へ大量に販売した事件。

さすがのロシアも怒りが収まらず、結局、昨年12月に両国間で兵器に関する知的財産権保護協定が発効した。

中国がオモチャやゲーム器、CDなどを模造再販していることは今までに度々問題になっているが、他国の新鋭兵器を購入後、無断で模造して許可なく他国に輸出していたとは、ここまで来れば中国政府の国家的犯罪と言われても仕方がない。

これも昨年のブログで書かしていただいたが、中国が北朝鮮との国境付近の中国領内で日本の精巧な一万円札が大量に印刷されていた事件。

これらの偽札は主に両替商や商店で米ドルやユーロ紙幣などへの交換用に試用されていたと言われている。

これらの偽札があまりにも巧妙に出来ているので、わざわざ、東京の松村テクノロジー(

東京都台東区

)へ送られて鑑定された結果、ようやくニセモノと判定された、今でも忘れられない事件である。

一昨日、8月23日(産経)、今度は北朝鮮製「超精巧」の偽百ドル札が大量にFBIエージェントによって摘発されたことが判明した。

犯人は台湾系、チェン・チャン・リュー被告。

アメリカFBIお家芸のおとり捜査の網にかかったとのこと。

これまで、にこれらの「スーパー・ノート」は約4500万ドル程度流通しているらしいが、中国政府も北朝鮮政府も国の規模こそ違うが、両者ともモーラル・スタンダード、国債的感覚、人間としての常識においては格差が見られない。

この辺に、何時まで経っても「アジア人」が西洋から蔑視されているところなのであると痛感する。

昔、福沢諭吉が{脱亜論}を唱えた理由はこの辺のことか?

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ストー夫人

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Harriet Beecher Stowe,18811~1896)はアメリカの奴隷制度廃止論者で有名なライターであった。

彼女の著わした小説「アンクル・トムの小屋」はアメリカでの奴隷の生活と、その社会的背景を克明で、情緒的に書き表した作品として、特に北部の非奴隷州に大きな影響を生んだ作品として、海外でも広く翻訳されている。

この小説が出版されて大きな反響を生んだため、或いは南北戦争の開始が早まったとも言われる程であった。

エブラハム・リンカーンが始めてストー女史に会ったとき、“貴方が小さいけれどあの大きな戦争を起こしたご老人ですか?”と言ったことは有名である。

ストー夫人の生まれは、カネティカット州、リッチ・フィールドで、彼女の父、ライマン・ビーチャーは牧師であり、古い家柄の生まれであった。

(読者は意外と思われるかも知れないが、アメリカでの女性の法律上の立場は長い間据え置かれていたのである。

ようやく女性を法律的に、男性と同じレヴェルで考慮すべきだと言われ出したのは、東北部のヴァーモント週であった。 奴隷制の廃止後の1869年(南北戦争:1861-65)とほぼ時を同じくして女性参政権が話題に上り始め、全国的に女性が男性と法律的に同等であることが容認されたのは1920年であった。)

アンクルトムの小屋を彼女が著わしたのは南北戦争が始まる9年前のことであった。

彼女は7番目の娘で、姉のキャサリンは進歩的な女学校を創設し、女子の教育に大きな足跡を残した女性であった。

あとの6人の兄弟も牧師と言う正に宗教一家のであった。

25歳で結婚(夫は聖書文学の大学教授)する前から、姉の学校での教びんをとる傍ら、地方の文学クラブで雑誌に短編小説を掲載したりして文学活動を始めていた。

彼女の住処がオハイオ州であり、奴隷制度を敷いていた地方と隣接していた関係から、ビーチャー家もストー家も奴隷制度のことには生活の関心事として重苦しく家族の脳裏に焼きついていたともいえる。

しかし、ストー夫人が奴隷制の実体を身をもって体験したのは彼女が結婚する3年前の夏休みに友人と隣のケンタッキーにあった友人の家庭を訪問した時のことであった。

本当のことの起こりは、1850年の「逃走奴隷法」の成立が引き金になったようである。奴隷州を逃げ出した奴隷を追跡、逮捕するため、非奴隷州に住む住民までがこの法律に協力して逃亡奴隷を捕まえて送り返さなければならない事に彼女は猛烈に異議を唱え、協力することの非合性に反対の態度を表明したのであった。

その頃、義姉から“貴方ほどの筆のたつひとなら何故これを題材にして何かを書いてみては?”と問われて、彼女はまるで稲妻にかかったように、奴隷制度の残酷で、非人間的な制度を批判するものを書いてみる決心が湧いてきたと後に述べている。

1851年6月5日から奴隷制廃止論者の機関誌「ナショナル・イアラ」に部分的な投稿から始まって、しばらく続くうちに読者たちからの反響が大きくなり、1852年3月に単行本のかたちで出版された。

この発売の2日後に第1刷が完売となり、1年後にはアメリカだけで32万部が売れて、ストー夫人の存命中に結局300万部以上が世界中の文明を持つ国々で翻訳され、結局、19世紀中で聖書についで2番目の販売数になったほどの大ヒット出版物となったと言われている。

一挙に豊な生活が享受できる身分になりながら、ストー家の中心的な存在として一生を遂げた偉大な女性として歴史に残る人物である。

晩年は必ずしも幸福に満ちた人生とはいえないが、彼女の肩には常に家庭の中心人物としての重い責任がのしかかっていた。

参考文献:村岡花子:「ストー夫人(講談社)、山本有三「戦争と二人の夫人」(岩波文庫)等がある。

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国力と存在力

金田一京介監修の「明解国語辞典」によれば国の“憲法”とは、国家の組織作用の大原則を定めた根本法と簡明に記されている。

戦後の俗に巷で叫ばれている「平和憲法」と何処で間違ってきたのか?(根本原則)

現実、戦後64年も経過して、国は富裕に成長し、GDPでは世界第二位とも言われているが、何故、対外においては発言力の乏しい、弱弱しい国家となってしまたのだろうか?

筆者はこの原因は国民一人一人にあると断言できる。

現在、全国で衆議院の選挙が行われているが、どの政党も国の自衛手段について論議する意志がない。

即ち、国家の保険の論議をする術を知らないし、それに論及することはタブーとされているからである。

“くさいものには蓋をしろ”、“自分の損になることは言うな”“強い自己主張は馬鹿である証”

先週、何の前触れもなく、アメリカ元大統領クリントン氏が北朝鮮を訪れて金総書記と直接面談、即座に長い間拘束されていた、二人のアメリカ女性記者を自分の飛行機に乗せて帰国した。

日本は数十年安否も知らされず、拉致されて、拘束、多くの国民が帰ってこない。これは何を意味するか?誰の目にも明らかなように、アメリカと日本の国力の違いでしかない!

この事実を目の前にしながら、日本のどの国会議員も国民に対して事実を語ろうとしないのは何故なのだろう?

筆者は政治家でもないので公の場での発言力はないが、「平和憲法をどんな事があっても守り抜こう」と叫んでいる議員候補の方々に、もし、このまま再武装せず、国家軍隊も整備せずにアメリカの庇護の下に国を放置し続けて、将来、他国の侵略を受けるか、不利益を国民が蒙った場合の責任は誰にあるのかを機会があればお聞きしたい。アメリカからすれば、日本列島は「西」の圧力に対する究極の防波堤でしかないことを忘れてはならない。

世界の大不況が叫ばれている今日、アメリカの力にも限りがある。アメリカ軍の駐留費、や基地移転費用、警備人件費等、アメリカ軍駐在費の総額は正確には公表されないが、もしかして、自衛した方が、我が国にとっては、はるかに有利であるのではないかとも考える。

オバマ大統領が公言した如く、将来には「核戦争」は起こらないし、世界は暫時核放棄に向うのなれば、将来の日本のあり方にも違った考えようがあるのではないだろうか?

我が国の失業率もそろそろ10%に近づいていると聞く、ならば、アメリカ駐在軍の経費を削って自衛隊や自国の防衛に予算を振り向けることを考えては如何だろうか。

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ローマ字入力の基礎を作った人

我々が現在パソコン入力でお世話になっている「ローマ字」入力技術の基礎は、幕末の安政6年、アメリカ人宣教師ジェームス・C ヘボン(James Curtis Hepburn,1825~1911)によるところが多い。(ペリー提督来来日6年後)

本来ならばフップバーンと呼ばれる名前だが、明治時代では、音がヘボンに近いところからそのままヘボンで通用してしまった。

それほど高名になった理由は「ヘボン式ローマ字」を我が国において広めた功績があってこそのこと。

少し長いが、この由来に就いて“グーグル記載事項を引用調べたところでは以下の如くである:

“仮名とローマ字を一対一で対応させた最初の方式は、1867年に、ジェームス・カーティス・ヘボンが「和英語林集成」第一班でに用いたローマ字で、ヘボン式ローマ字として知られる。

しかしこの方式は英語の発音に準拠するため、日本語の表記法としては破綻が多いとと言う意見があった。

そこで、18885年.に田中館愛橘が音韻学理論に基づき「日本式ローマ字」を考案した。

日本式は音韻学理論の結実として、国内外の少なくない言語学者の賛同を得た。

しかし、英語話者にとって英語の発音に準拠しない日本式は受け入れ難いものであり、どちらを公認するかで激しい論議が続いた。

そして両者が表音主義のもとに歩み寄って変更を行ったのが、1937年に内閣訓令第三号として交付された訓令式ローマ字である“(以上)

1989年には國際標準化機構(ISO)は訓令式(厳密翻字は日本式)を採用、ISO3602として承認された。

ヘボンは1832年ニュージャーシーの名門、プリンストン大学卒業、1836年にはペンシルヴァニア大学では医学を専攻、「医学を通して神に仕えることを天職と考え、その後各地を転々としていたが、1859年10月18日はじめて日本の土を踏んだ。

「ヘボン」の愛称から彼は日本語の雅号を「平文」とした。

神奈川の成佛寺を施瞭所として西洋式の医学の普及に専念、内科、外科、眼科を主に一日に30~50人の患者に接していたが、次第に門下生も増え医療所を建てるほどになった。

次第に世間に有名となって、“ヘボンさまでも草津の湯でも恋の病は治らない”という唄がはやったと言われている程である。

やがて、ヘボンは教育の普及に心を引かれるようになり、神奈川の卿留置に妻、クララ・リート(Clara Reat)と男女共学の家塾を開設した。

しかし、やがて女子部は1871年(明治4年)女性宣教師キダー(Mary Kidder)に委任(フェリス英和女学校、1875年)となる。

男子部の学校は1880年に英和学校、そして、その後明治学院となる。(1889~91年、ヘボン学長となる)

これに平行して、英語の辞書の編纂も彼にとっては同じく重要な仕事であった。

画家、岸田劉正の父、岸田吟香の助けでわが国初の和英対訳辞典(1867),和英語林集成などを出版した。

1886年以後は丸善出版の助力で、ローマ字で日本語を綴って発音を示し(ヘボン式ローマ字のはしり)、それに漢字と仮名を付し、巻末に英和の対訳を付け加えたことで大変評判になったといわれている。

辞書出版での純益は全て明治学院に寄付され、「ヘボン館」と命名されたが、これは(1911年9月)に火災で焼失、今では残っていないが、奇しくもこの同じ日にヘボンは96歳で海の彼方で他界した。

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2009nenndo

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電気自動車の将来i

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「オール日本電池」で次世代の電池を開発しようと、12社と10機関が手を組んではじめる産業共同体が始まろうとしている。

これは、現在のリチウムイオン電池では150キロがせいぜいである「車」の走行距離を2020年までに、三倍の450~500キロ(ガソリン車並み)まで走れるようにしようと、経済産業省所管の新エネルギー・産業技術綜合開発機構(NEDO)の肝いりでスタートが切られようとしている。

ハイブリッド車や、電気自動車、家庭用電源に使用する次世代電池の開発にオール日本の頭脳を集中して取り組むプロジェクトである。

アメリカでも、ガソリン車のエンジンを駆動源とした電気自動車が具体的段階にあるようなので、日本は日本独特の手法で、これから新らしいコンセプトでお互いに切磋琢磨して次世代型の「車」の生産競争時代に入ることになろう。

丁度100年前、ヘンリー・フォードが中心となり20世紀型のガソリン・エンジン車が世界を席巻したが、天然資源の高騰と、大気汚染による気候異変の時代となり、自然にやさしい工夫を考えざるを得なくなり、太陽エネルギー、水素エネルギーの活用も研究され始めたが、今のところ、新型電池によるエンジンが、その具体性で最も近い将来での可能性が高いことが証明され始めたのである。

京大に研究拠点を設置、参加企業などから50人以上が常駐して各社が必要な共通の基礎技術を開発するこよを主目的にする。

兵庫県にある大型放射光施設「SPRING-8」など最先端の分析設備を利用、電池の劣化の仕組みの調査、リチュームイオンの動きをリアルタイムで調べる。

このような研究は膨大なコストと時間がかかることから、基礎研究の段階で関係各社が大同団結してこのプロジェクトを思いついたことは誠に喜ばしいことだと考える。

その間、各社は個別に高性能の電池の開発を進めているが、基礎分野ではお互いに協力し合ったほうが効率が良いことの結論になったのだろう。

大略のターゲットとしては15年頃までに、小型電池を試作する。

又、リチュームイオン電池とは別に500キロを走行できる新型の電池も完成させ、家庭用としても利用できる、据え置き型のものも視野に入れているらしい。

事ほど左様に、「必要は発明の母」の譬えの如く、人間の能力は無限に広がって、将来もまんざら捨てたものではない感がある。

主な参加企業名:とよた自動車、日産自動車、三菱自動車、ホンダ技術研究所、豊田中央研究所( 以上、自動車関係)、ジーエス・ユアサコーポレーション、三洋電機、パナソニック、日立マクセル、新神戸電機、三菱重工業、日立製作所(以上、電池関係)、京都、東北、東京工業大、早稲田、高エネルギー加速機研究、九州大、立命館大、産業技術研究など、

以上、日経新聞、2009年6月11日調べ。

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dennki

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日本は完全独立を目指すべき

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明治以前に外国と結ばれた条約では我が国に不利なものが多かったが為、その後「修交」されて可成平等性が保たれるようになった。

「外人租界」、「外人墓地」の残っている、神戸や横浜では、外国人の居住地の雰囲気に憧れて訪れる日本女性が未だに後を絶たない。-本質的に日本人は西洋人に憧れるー

第二次戦争後、平和条約が平等精神を「礎」として定められた、サンフランシスコ平和条約(1951年)後、「日米安全保障条約」が大騒動の後に結ばれた。

日米安保とは日本が平和憲法を維持する間、アメリカが日本を外敵から武力で擁護することを決めた条約と筆者は受け取っている。

それ以後、アメリカ陸海軍は日本に軍事基地を持つことが赦され、それ以後、継続的に「米軍基地」が日本の各所に存在している。

最近になって、日米地位協定を見直す論議が国会でも持ち上がっている。

これは何故かと言うと、突き詰めたところ、日本とアメリカの地位が平等でない部分が存在することが次第に顕在化してきたからに他ならない。

アメリカの立場からすれば「守ってやっている」という自意識があり、日本からは「守ってもらっている」と言う卑屈な意識があることは否めない事実だからである。

しかし、アメリカは無料で日本に奉仕しているわけではないことを我々は知るべきである。

一体、米軍基地関係に日本はどの位の経費を負担しているのか?

部分的しか判明しないが、防衛庁が発表したいくつかの例を示すと:

1978年:62億、79年:280億、80年:374億、85年:807億、90年:1680億、95年:2714億(グーグル調べ)合計:5917億円、一年平均額:約1000億円が日本→アメリカに流れたことである。

今問題になっている米軍のグアム島移転に要する費用は約7000億円、今後世界中でアフガニスタンやパキスタンテロの様な事態が増え続けば日本の出費はうなぎ上りのようになることは必定。

現在の日米間の「地位協定」では米軍基地はいわば「治外法権」に近い。

在留米軍基地来事、そこには我が国の裁判権は及ばないとなると、 沖縄、横須賀、佐世保等でアメリカ兵が起こす犯罪は日本の警察権は及ばない、誠に情けない状態である。

今春、宮崎県知事、東国原氏は県民ブレーンの座談会で「僕は(日本に)徴兵制はあってしかるべきだと思っている」と発言、いよいよ、地方知事も、我が国が自力で国防問題に取り組むべきだと発言したわけ。

戦後間もなく我が国の進歩的インテリ・ロマンティストが唱えた「非武装中立」、「非核三原則」は今では何処でも通用しなくなった。

1960年にニューヨーク・タイムスはクリシナ・メノン氏の名文句を取り上げて、‘That expression

positive neutrality is a contradiction in terms, there can be no

more positive neutrality than there can be a vegetarian tiger.(絶対中立は完全な矛盾した論理であり、それを追及するのは至難きわまりない。それならば、草食性のトラを発見する方がやさしい)と評している。

戦後、アメリカが試験的に日本に押し付けた変則「平和主義」が実体にそぐわないことが確実となった。、世界の列強に伍して生き延びることが難しくなった。

アメリカとの安全保障条約を一旦ゴワサンにして「国防費」をはじき出し、東国原英夫氏が提案している姚に「徴兵制度」を引き、失業者救済を考慮すべき時が来ていることを痛感する次第である。

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メディア王、ルパート・マードック

Rupert_murdock

Keith Rupert Murdock(1931.03.11~)当年、78歳、オーストラリア、アデレード生まれ。

通称「ルパート・マードック」は世界メディア界のボス的存在と認められているユダヤ系の大人物である。

20世紀以来ユダヤ系メディアは急成長を遂げ、マードックはその象徴的大物と言える。

彼は現在メディア・アウトレット、ニューズ・コーポレーション(News corp)の大株主であり、CEOである。

アデレードの地方新聞主であった父親(Sir Keith  Murdock)の財産と莫大な負債を相続後、彼は初めのうちはオーストラリアの新聞や出版業に専念していたが、その後“NEWS CORP”の事業を英国、米国及びアジア地域に拡張するようになった。

1989年、“Sky Television”を開設、最近では世界的なサテライトTVとインターネット、映画興行に事業を拡張している。

今年のフォーブス誌の発表では、彼は世界で132番目の富豪としてランクされている。

1953年、オックスフォード卒業後、News Ltd.

社の主幹として入社、その後、西オーストラリアのパースでSundayTimes“を買収し成功に導いた。

その後のマードックの豪州における事業展開ぶりを紹介すると、New South Wels, Queensland, Northern Territory, Victoria等の地方新聞を買収、シドニーでは“Daily Mirror”をも手中にした。

その後、ニュージーランドではDominion、社を取得(1964年)、1972年にはシドニーの“Daily Telegraphを取得後、英国でも有名な日曜新聞News of the WorldThe Sun(一日販売枚数300万)、The Times

誌も入手。

1986年、マードックは豪州、英国と米国においてオートメーション・プロセスによる印刷手法を導入して画期的な人員削減をはかった。

しかし、その後、大々的な組合との争議が持ち上がり、保守政党サッチャー政権下、彼は世間から悪者扱いされる様な事態に発展した。

マードックのNews Corp

はバハマ、ケイマン諸島、バージン諸島でも広く購読されている。

1973年以後、マードックが入手した出版会社は:San antonio Express News, Star, New York Post

であるが、アメリカではテレビ会社を主宰するためにはアメリカ国籍が必要なので、1985年9月にアメリカの市民権を取得した。

その後、亡父から相続した豪州ベースの会社が営業難に陥り、暫くの間、暗黒の時代を迎える。

1993年マードックは香港ベースのStar TV

を$10億ドルで入手、アジアを主体としたメディアのオーナーとなる。

しかしながら、中国のメディアに対する情報規制に悩まされる。

2003年には彼はGMから60億ドルで世界最大のサテライト。システム会社、“Hughes Electrics

の34%の株式を購入。

2004年、News Corpの主体部分を豪州から米国に移転、2005年7月、News Corp “Intermix Media Incを$5億8000万で、同年11月、News Corp

が“IGN Entertainment”を$6億5000万で買収したと発表。

その間、ニューズ・コープの強引な手法は様々な訴訟問題に巻き込まれることとなったが、紙面の関係で省略せざるを得ないことをお許し願いたい。

イラク戦争勃発後、マードックが主宰する175社の出版社は、常に「戦争肯定側」に終始したことを強調しているが、これはイスラエル側に立つ人物としては当然であろう。

これからがマードックのビジネスのピークとも言うべき「メイン・イヴェント」となる。

マードックは2007年5月、これまで“Wall Street Journal(ウオール・ストリート・ジャーナル)が保持していた世界の株価の基準を決めるDow Jones

(ダウ。ジョーンズ)社を$50億で買収する意向を発表した。

同年8月2日の日経新聞によると、DJのニューズ・コーポレーションによる買収が決定したことを報じている。

同紙は、「これでDJ(ダウ・ジョーンズ)発行のウオールストリート・ジャーナル(WSJ)を傘下に収め、ルパート・マードック氏(76)が一大で築き上げたメディア帝国が完成する。デジタル時代のメディア再編劇は、新たな合従連衡を誘発する可能性がある」と大見出しで報じている。

これでニューズ・コーポはWSJ編集長などの任免権を持つ特別委員会を設置して、その委員中にはメディア研究者として著名なニコラス・ネグロポンテ氏らニューズの経営とは無関係な独立した、5人が就任すると発表、会社の独立性をエンドースする特徴を強調している。

日経は同時にこの買収について、会社の売上高より“買収対象の質が際立っていることと、WSJが金融界の中心的存在で、米ジャーナリズム界の最高栄誉「ピューリツアー賞」の受賞はニューヨーク・タイムス、ワシントン・ポストに次ぐことを指摘している。

マードック氏自身、”ニューズにはカネになる質の高い経済情報が不足していた、DJは企業向け電子媒体としてマーケットウオッチ、DJニューズワイヤーズなどを持つ。こんごは経済情報市場で二大勢力となった、米bルームバーグ、トムソン・ロイター連合に楔を打ち込む戦略をとる“と声明した。

「ペンは剣よりも強し」

マードック氏は確かに世界のニューズ王と呼ばれても誰も異論を挟まない存在となった。

それに引き換え、日本は何処え消え去るのか?

日本の政治家は小異を忘れて、もっと大きい「夢」を見て欲しい!

世界の政治面、経済面を抑える「メディア帝国」がイスラエルに関係する人物によって確立された今日、アメリカ=イスラエルと言う方程式が成立したと言っても殆ど間違いない。

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イスラエル建国の波紋

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ユダヤ人問題は実に根深いもので、我々東洋人にはいくら説明を受けても一朝一夕に納得できるものではない。

「聖地エレサレム」はただユダヤの聖地でもなければ、パレスティナ人、アラブ人だけのものでもない。

ならば、一言でどんなところか?と尋ねられても正しい解答を得ることは不可能と言わざるをえない、

ローマー帝国に追われて住み家を失ったユダヤの民(起元136年)はその後、文字通り流民の生活を永い間強いられる結果となった。

ローマ帝国はすぐさま、それまでの名称「ユダヤ属州」を「シリヤ、パレスティナ属州」と変更、その後、ユダヤの固有の地名はなくなった。

313年にキリスト教が公認となり、その後、しばらくはパレスティナの公的な宗教と認められ、キリストが処刑されたと言われるゴルゴダの丘にも教会が建立された。

しかし、7世紀頃になって、東ローマ帝国の勢力を駆逐したイスラム第二代のオマルがエレサレムを聖地と決めた頃から問題は複雑化した。

ユダヤ人たちは生地を追われながらもエルサレムを彼らの心の「聖地」としながら2000年の永きに亘り、この地に執着を持ちつづけ、今日に至った。

イスラム、ユダヤ、キリストの三つの宗教が同じ場所をそれぞれの「聖地」と崇めて、20世紀に至ったが、その間、ユダヤの民に限って、エレサレムに定住することは許されなかった。

筆者は以前、“バルフォアー宣言”に就いて触れたことがある。

この宣言は1917年11月2日、当時英国の外相バルフォアー(Arthur James Balfour,1848-1930)が当時トルコ領であったパレスティナにユダヤ人国家の建設を約束した事柄を指す。

イギリスのシオニズム運動の指導者、ロスチャイルド卿に宛てた書簡の形式で発表されたもの。

パレスティナに於ける「ユダヤ民族のふるさと」(National Home for the Jewish People)の建設を支持、そのとき、同地における非ユダヤの人権(市民権、宗教の自由等)を決して犯さない条件を付加した宣言文を指す。(これが現代になってどのように堅持されているかが問題なのだが)

1917年はロシア革命、第一次世界大戦末期のころであった。

ロシア革命はユダヤ人のレーニンが代表となって起こした事件で、(3月12日)ロマノフ朝が終焉を迎えた年でもあった。

ロシアにはユダヤ人があふれ、多くの同胞がシベリアに抑留あれていた。

イギリスではヴィクトリア朝が終わりを告げ、パックス・ブリタニカと唄われた華やかさも影を潜め、今や国の繁栄に暗雲がさしていた頃でもあった。

ユダヤ人排斥の先鋒、ドイツの哲学者フィヒテ(1762~1814)に言わせれば、ユダヤとの共存を拒むには、パレスティナを征服して、そこにユダヤ人を送り込む以外に道はないとも言い切っている。

19世紀~20世紀初頭においては、どの国でもユダヤ人の排斥運動が盛んになり、イギリスではこのような傾向がことさら顕著であった。

フィヒテに代表されるようなシオニストの主張は、ヨーロッパ圏の外にユダヤの民を放逐する以外方法はないとまで主張する程であったことからも想像される。

この発想は1941年10月にユダヤ人の国外移住を禁止した後、「ユダヤ人問題の最終解決」と称して数百万人のユダヤ人を大量殺戮したナチス・ドイツの政策の歴史の中にも明瞭に辿ることが出来る。

この大量殺戮を犯さざるをえなくなった最大の理由は、ナチスのポーランド進攻により行く先々の占領地でのユダヤ人を如何に処理するかを考慮した結果、その数の多さに困り果てたと言うのが本音らしい。(ユダヤ人とイギリス帝国、度会好一著、P:129)

1945年当時、アメリカを除いて、イギリス、ロシアの世論ではユダヤ人をヨーロッパ圏外に送り出す方策の検討がなされていた。

1945年、ナチス・ドイツが破れ、再び平和がきたとしても彼らのユダヤ感にはなんらの変化もなかったと思われる。

それに先立って行われた「ヤルタ会談」こそ、この微妙な人種問題が話し合われて、討議の結果、オランダ系ユダヤ人末裔のルーズヴェルトが戦争終結後の或る時期に(ソ連、英国の代表を前にして)「イスラエル建国」のイニシアティヴを自分が引き受ける趣旨を述べたのが、そもそもの始まりではなかったかと、筆者は考える。

アメリカは唯一、戦火の影響から逃れ、経済的に余裕があり、優秀なユダヤ人達を受け入れることで、むしろ恩恵を蒙っていた事情も考慮すればこの推論はなりたつのではないだろうか?

問題は、ルーズヴェルトはその後、間もなく、他界して、副大統領であったトルーマンがその責務を引き継ぐことになった。

やがて7月になり、ポツダム会談がドイツで開催された。(この経過に就いては以前に述べた通り)

1948年はトルーマン大統領にとって大切な年であった。イスラエル建国問題はトルーマンの自己裁量に任されていたとすれば、大統領選挙でユダヤ票を計算に入れることで選挙が有利になること間違いないとトルーマンは考えた。

現に、トルーマン自身“アラブ票”より“ユダヤ票”ははるかに数が多いことで期待できると報道陣に発言している。

「フェアーディール」(ルーズヴェルトのニューディール政策から借用)を標語として選挙に臨んだトルーマンであったが、現代に生きるパレスティナ、アラブの民がトルーマンが軽率に踏み切った悪行(イスラエル国家をエルサレムに決めたこと)に如何にくるしめられ、その後の世界の混迷と、大量の流血で数限りない人々が悩み続けなければならない事態を引き起こした責任は決して軽いものではないと考える。

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終戦記念日n寄せて

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衆議院選挙に寄せて筆者が是非とも発言したいことは、現在世界は未曾有の経済的、政治的危機に直面しているこの時期を千歳一隅のチャンスと捉え、与野党を挙げて、国民のコンセンサスを纏め上げる絶好の好機とするべきだと考える。

丁度今から100年前、日本は世界を驚愕させる大事件を起こした。

即ち、日清、日露戦争で“アジアに日本あり”の印象を強烈に印象ずけ、「黄禍論」の火種を作る事件に発展させた。

このことは、アジアはヨーロッパ(白人)国家の台所とのみ意識していた国々を驚愕させたことに留まらず、丁度太平洋に感心を向け始めていたアメリカのフロンティアーア・ビションに釘を打ち込んだ結果となった。

1905年、テオドール・ルーズヴェルトは日本政府の要請を請け、ロシアと日本の間に入って和睦の労をとった。

アメリカはその頃、日本と相前後して、スペインに戦争を仕掛け、太平洋上の重要拠点であるハワイを先ず、保護領とし、グアム、フィリッピンを占領したばかりであった為、この「交渉役」の依頼は彼にとって願ったり叶ったりであったに違いない。

アルフレッド・マハン海軍提督(1840~1914)はかねてより、アメリカは世界で唯一、大西洋と太平洋と言う大海原に挟まれた文明国家であり、20世紀は「太平洋の世紀」であるとの持論を展開していた。

ルーズベルトも親友の上院議員、ヘンリー・C・ロッジの意見をも取り入れて、このときを捉え、イギリスに変わって世界最強の海軍国家を世界に向かって宣言する願ってもない好機到来と考え、この大役を引き受けた。(ルーズヴェルトは後にノーヴェル平和賞を受賞)

何故ルーズヴェルトが日露講和会議の会場に軍港“ポートマス”を選んだかを考えれば自ずから当時のアメリカの意図が見えてくる気がするのである。

これは、結果論として、日本が世界一の大国、ロシア帝国を打ち負かしたことで、いずれは太平洋を挟んで雌雄を決する運命にあると言う世界論に立ったルーズヴェルトの予想は間違っていなかったわけである。

リーマン・ショックが尾を引いて、カリフォルニアは今や破産寸前の非常事態にある。

丁度100年前の1909年カリフォルニアでは日本からの移民を阻止する日本人排斥運動が盛んであったことは常識のある我が国の知識層にとっては周知の事柄であるに違いない。

この運動の主なる原因は安い日本人労働者を排斥することにあった。

世界一の自動車の大会社「GM」が破産して、日本のトヨタとの合弁会社が解散した。

これはカリフォルニア州ばかりでなく、アメリカ国家の一大危機である。

ここで働いていた何千人と言う労働者にとっては正に死活問題に違いない。

筆者にはトヨタ㈱の事情はわからないが、100年前にアメリカ、カリフォルニア州が日本人移民を締め出したかを翻って日本国家として考え、日本の善意を示すべきであると思うのだが。

今こそ戦後60有余年、アメリカの核の傘に頼ってきた我が国が相手に「心」を授けるチャンスが到来していることを認識すべきではないかと思考する。

自民、民主の無責任なマニフェストの応酬に明け暮れしている時ではない。

8月30日の選挙日までに日本国民のコンセンサスを統一して、現政府の旗振りのもと、「カルフォルニア労働者を失業から守る」キャンペーンを実施できれば、日米関係はたちどころに良好なものとなること請け合いと思うのだが。

奇しくも本日は敗戦記念日、8月15日、負けてばかりの日本でないと言う気概こそ大切ではないだろうか?

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愚かな大統領:トルーマン

Harry_trueman

第二次世界戦争終結から64年が過ぎ去った。即ち、終戦の年に生を受けた人たちが既に65歳の後期高齢者になろうとしているのである。

以前にもこのブログで書いたが、今更ながら我が国が戦争の末期において誠に重大な錯誤を犯したことは慙愧に耐えない。

敗戦が殆ど決定的になった頃、近衛文麿は、この戦争の始末について悩み続けていたことが判る。

その当時、(1945年前半)ソ連と日本は不可侵条約を結んでいたので、ソ連が進んで我が国に前触れもなく攻撃に出てくるとは思いたくなかった。

その辺が公家宰相の考えがナイーブなところであるが、しかし、こともあろうに、近衛は親書を特別の使者を通して、スターリン宛に送って、アメリカとの講和に関して仲立ちの役目をして欲しい旨打診した。(これは連合国の一笑にふされたと伝えられtいる)

ヤルタ会談(1945年2月)では、米英首脳がスターリンにドイツの降伏後、なるべう早い時期に日本に侵攻する要請をしたことは前にも述べた。

アメリカはその後、硫黄島、沖縄で日本と大激戦を交え多くの人的損害を受けることとなった

そこで米国は3月になり、日本本島に対し、マリアナ諸島と中国本土からB29爆撃機による無差別爆撃を開始、本土を焼け野原にして日本軍の戦意喪失を狙った。

7月になり、ドイツのポツダムに於いて戦争終結の手筈について再びアメリカ、イギリスとソ連の代表の三者会談がもたれたが、会談の途中で、新型爆弾の実験が成功したニュースがトルーマンの耳に届いた。

これも以前、このブログで述べたが、トルーマンは誇らしげに「原子爆弾」のことをスターリンとチャーチルに告げた。(そのとき、既にスターリンはソ連スパイによっ新型爆弾に就いて知らされていたのでさほど驚かなかったと言われている。)

ポツダム会談は1945年7月17日に始まって8月2日まで続いた。

ポツダム宣言は7月26日に宣言されたが、日本政府は残念にもこの「宣言」を黙殺する姿勢で臨んだのである。

スターリンは会談で初めてトルーマンに会ったとき、ソ連は8月15日に対日本参戦を実行すると約束したとトルーマンは自分の日記に書き留めている。

これは実に不思議としか言いあらわせられないのだが、ソ連が実際に対日参戦したのは8月6日であったことである。

これも以前にブログで述べたことだが、トルーマンは会議の最中に、この爆弾が使用可能になったこと、又、この爆弾の威力は充分に日本人の戦争継続の意思を砕くほどの威力のある新兵器だと知らされていた。

バーンズ国務長官はソ連嫌いで知られていた。バーンズはトルーマンも認めていたように外交、戦術に非常に非凡な才能があり、従って、ソ連の参戦にはネガティヴであったに違いない。

トルーマンはこのとき、“戦争の始末はアメリカの責任で行う”と、何故スターリンに発言できなかったのだろうか?

トルーマンは何故か、8月2日まで「爆弾」についての発表を差し控える命令をしていたことはトルーマンがホワイトハウス宛に書き送った私書に残っている。

ここでの“Dont release until 2nd August の意味は今でも謎であるが、普通に解釈すれば、これは報道陣に対する伝言としか取れない。

それはともかく、アメリカとしてはソ連参戦以前に原子爆弾を使う意思であったのではないか?

広島に原子爆弾が落とされたのが8月6日であったが、ソ連の参戦も同じ8月6日、このことはスターリンは約束を破って9日も早く日本に攻撃を開始したことになる。

8月6日の広島爆撃を予知していたとすれば、今更ながらソ連の防諜システムのすごさに驚かされる思いがする。

その後のわれ等が受けた惨劇については付け加える言葉は不要である。

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タリバンとアングロサクソン連合軍

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オバマアメリカ大統領が世界に向かって非核武装を呼びかけたが、そんな現実味に欠ける声明には世界はアキアキしている。

パキスタンは1998年5月、濃縮ウランを使った核実験に成功したが、その影には中共の影が見え隠れしていると伝えられている(勿論これに就いては筆者はなんの確証も持っていない)。

その後、インドがパキスタンに対抗して、核装備をした。(これには前ブッシュ政権下のアメリカが援助したとの噂があるが、これとて確証はない)。

パキスタンが現在保有する核弾頭は60~100個。製造は現在も続いていると言われているが、アルカイダが攻勢中のパキスタンの何処でそんな物騒な武器製造が出来るのか?誠に心もとない次第である。

誠に稚拙な質問だが、一体、世界のどのような機構が「核保有の権利を許す」権限を持つのだろう?

現在、北朝鮮、イランの核保有の問題で世界中が騒いでいるが、今から10年も経たない頃、パキスタン、インドが核の保有国になった。

アングロサクソン国家を中心にアフガニスタンとパキスタンでアルカイダ殲滅に汗水を流して鬩ぎ合いの最中だが、これには旧共産国家は傍観者の立場で沈黙に近い立場を貫いているように筆者には映る。

筆者が今、声を大にして叫びたいのは、パキスタンとアフガニスタン国境付近でイスラム勢力が次第に支配地を拡大しながら、今にもパキスタンの首都イスラマバードに急接近している事実を放置できないことである。

首都の南方、さほど遠くないところにはパキスタン軍の核施設と核兵器貯蔵庫があり、これらをアルカイダ、イスラム過激派に奪われる危険が差し迫っていることは偽らざる事実である。

流石のアメリカ、イギリス(アングロサクソン連合軍)も、この差し迫った危険に目を瞑っていりわけにも行かず、増兵作戦に打って出たのである。

パキスタンやインドのローカルな内政問題に干渉して「核武装」させる権利が一体どの国にあったのか?

国連常任理事国の犯した罪は赦し難いものがる。

そもそも、イスラム過激派タリバンの支配地拡大は4月13日、パキスタンのザルダリ大統領が同派の支配地スワット地区にイスラム法を認めたことがキッカケとなったと言われている。

それによってパキスタン政府とタリバンが同派の武装解除を条件に、去る2月に暫定的同意を誓った。

タリバンは直ちに「スワット地区」にイスラム法を施工、大規模な武装部隊を隣接するブネール地区に送って、イスラマバードまで96キロの地点まで接近した模様。

このタリバンのパキスタン核施設への急接近がワシントンを慌てさせ、核兵器及び核分裂物資がイスラム過激派の手に落ちる危険が急に現実味をおびる事態がワシントンを動かし、今回の2万人の派兵となった。

今やイギリスもアメリカも引くに引けない最大の危機に直面していることは事実であるが、その局面において我が国の衆議院選挙が火花を散らしている事と、あまり関係がないと思っている政治家連中がいるとすれば、それでも良いのだが。

連合国が国連決議のもと、行動して、自国の兵隊が血を流していることを、“他岸の火事”とみなして派兵はおろか、今後、時期を定めて中東での給油活動の中止を選挙のマニフェストに取り上げている政党の無神経さを「世界の目」が如何に考えるかは誰にも明らかではないだろうか?

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名ゴルファー、ワトソン

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Thomas Sturges Watson(トム・エス・ワトソン)は、1970~1980年の間に8回のメージャー タイトルに優勝、5回も賞金王の栄誉に輝いた、世界有数の名ゴルフプロである。

彼の8回のメージャータイトルのうち、5回は全英オープンでの勝利であることに筆者は注目している。

その他では、マスターズに2回、USオープン1回。しかし不思議にUSプロには優勝の経験がない。したがって厳密な意味での“グランド・スラム”は達成していない。

ワトソンは1949年9月4日、ミズーリ州、カンサスシティーに生まれた。

身長:1.75メートル、体重:79キロ。名門スタンフォード大学卒である。

プロとしてのデヴューは1972年で、今までに、39回の優勝経験がり、日本の公式戦での優勝回数4回、マスターズ制覇は1977と1981年、USオープンの優勝は1982年度、ブリティッシュオープンの優勝、1977,78,79,80,82、と84年度の5回で、これで如何にワトソンがTHE OPENを得意としていたかがわかるというもの。

今年の全英オープンの会場となったスコットランドのタンベリー(Turnberry,Scotland)では1997年に勝っている。そのとき、ワトソンはニクラスとデッドヒートを演じ、戦史に残る名勝負の末、優勝を果たした。彼らは16番までタイであったが、ワトソンは17、18番でニクラスを引き離して勝った。

2009年度の試合では、59歳のヴェテランが最終の直前までファンを楽しませた。

歴史を塗り替える大記録が出るのではと思ったが、18番グリーンでまさかの3パットでStewart Cinkとタイスコアーでプレーオッフを戦い破れた。

しかし、ワトソンの態度には悪びれる様子は微塵も見られず、最後まで全力を出し、若者に優勝を譲った。

筆者がこのたびのワトソンの活躍ぶりをテrヴィで見ていて、どんな事に注目したかを説明したい。

全英オープン選手権は言うまでも無く、[The Open]の名称通り、最古のゴルフ選手権である。

全英オープンは伝統的にリンクス(LINKS)と呼ばれる海岸コースがそのステージに選ばれる。

ゴルフファンなら、リンクスと呼ばれるコースがどんなものかをご存知だろう。それは内陸型のコースと比較して、コンディションが天候(自然現象)によって、その難易度が急変し、夏でも冷たい雨や時にはヒョウにも見舞われることもある“荒野に近い”処である。

ここでは長距離ヒッターが常に有利だとはいえない。

自然状態を味方に出来る選手が有利であり、自分の腕力で勝とうと身構えるプレーヤーはえてして墓穴を掘ってしまうことが多い。

その良い例が、今年のタイガー・ウッド選手。大荒れの天候で風に負けて予選落ちとなっている。

追い風ならそれにボールをどのように乗せて運ぶか、逆風ならば低いボールで風の抵抗を受けない打ち方をしたり、左右に渦を巻くような突風の扱い方を心得ている「老兵」が意外な働きをするケースが多い。

アメリカのコースは最近飛距離を出すものに有利となるように設計され、大半が飛距離優先が基本なので、シニアー入りしたころからワトソンはマスターズ・トーナメントに良い感情を持っていなかったと言われる。

永久シード権を持つため彼は毎年招待されるが、そこではまるで飾り物としか映らない自分の存在が気に入らないのである。

ワトソンは早くから、年齢差に関係なく「技術」がものを言うイギリスのリンクスが自分に向いていると断言している。それは過去の彼の成績が如実に物語っている。(優勝数5回)

地面を転がしてグリーンに乗せ、カッコをかまうことなく“地を這う”ゴルに長けたゴルファーはあまりアメリカにはいないのである。

しかし、ワトソンも人の子であった。最終、72ホール目の優勝のかかったグリーンで3パターしてしまった。それで、プレーオフに敗退したが、後世に語り継がれるべき名勝負の記憶は何百万のファンの語り草となることだろう。

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漏電ブレーカー

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「漏電火災対策はこれ以上放置できない。」(以下選択8月号“関係業界がひた隠す「漏電」リスク”から要約すると)、

今年3月、大磯の旧吉田茂邸の火災(全焼)の原因は漏電が引き起こした事件であった。

昨年一ヵ年の火災で、放火:20.5%、で最も多いが、“その他の原因”と“不明調査中”の合計が40%近くあり、それの殆どが漏電と考えると言う専門家の意見を紹介している。

もしそれが誠ならば、捨て置けない事実だと思う。即ち、これは対策(予知、予防器具)によっては防げるからである。

漏電とは電気の回路部分以外に電流が流れる現象で、感電や火災、及び電気の損失を起こす。

しかしこれには家庭で起こりうる漏電火災に充分対応できる「安全ブレーカー」を設置することで防止できると言われている。

我が国では、30ミリアンペアー以上(家庭))流れると自動的に遮断機が働くことに規定されているとのこと。

しかしこれは単なる建前で、全くの「まやかし」であることが明白になった。

ここには可成専門的なことまで説明してあるが、(途中省略)今売られている遮断機では30ミリアンペアーを越える電流が流れていても切れないことが多く、その状態で15分以上経過すると発火する危険大。

家庭での所謂、「たこあし配線」に「ほこり」が加わればそれだけで危険。

25ミリアンペアーでも人は火傷する熱を発するし、“30ミリアンペアーが流れると、火事を起こして下さいと言っているようなもの”とは専門家のコメント。

この基準のままでは「何時火事が起こるかわからないコンディションで国民が放置されている」と警鐘を発している。

お隣の韓国でも家庭用の上限を6ミリアンペアーの電流を感知するブレーカーの普及に努めている。アメリカやカナダではUL規格として、成人男性、8ミリ、成人女性、6ミリ、子供、4ミリ(各アンペアー)を上限とする安全基準があり、一般家庭向けにこの線に則って漏電ブレーカーの普及に努めていると言われる。

或るメーカーは経済通産省にDVDまで製作して改善を促しているらしいが官庁が未だに思い腰を上げない。その主な理由を以下のように述べている。

消防庁:今のままでは危険を感じているが年間火災件数、3万5千のうち漏電火災は僅かに

200件なので、今後もう少し検証を集めたい。

経産省:今のままでどこがわ悪いのかわからない。(とにかく)今は(訂正)は無理。

日本での30ミリアンペアーという目安は略40年前、ドイツの電気大手、シーメンズの漏電ブレーカーが基準になったとのこと、その後日本ではこれを基準にして漏電ブレーカーが量産された。

見逃してはならないのは、この基準を尊重して漏電火災の損害賠償に対して支払われてきた火災保険の妥当性や責任の所在が改めて問題になって、損害賠償が電力会社まで及んだり、経産省や消防庁への行政訴訟に発展する恐れを考慮して官庁が基準の見直しに消極的になっているとの見解もあると言う事。

これまでこの部門で業界を牛耳ってきた富士電機に対して韓国等のメーカーがけん制して、

新しい基準の逆輸入に攻勢をかけていることも事実とか。

国民の命より省益や業界団体の利益を優先して、これまでの責任回避を図っているとしたなら、それこそ“ほっとけない”事件だと思う。

まともな民間企業なら、たった一件の死亡事故がおこれば考える。

現に原因不明の火災事故が40%もある中、漏電火災が含まれていることは反論できない事実であろう。

旧吉田邸の火事現場では100ミリアンペアーを越えても漏電を許すブレーカーが入っていたが、火災後の検証でブレーカーは落ちていたと報告されていた。

しかし、ブレーカーが落ちていたのは火事で電線が溶けて、そこに消防の排水が降りかかり、、100ミリアンペアーを越える過重となり、火災となったとも考えられる、とは専門家の疑問。

東電などの電力会社は保険金の賠償が怖くて漏電基準の見直しには到底手がつけられない。最近の判例では可成り遡っての事例が多いため官庁も同じく基準をさわることさえタブー、人命よりメンツ優先で事なかれ主義がまかり通る、相変わらずの日本式パターンを見る思い。

誰がこの問題に勇断をもって臨むのか?(筆者はこの、記事を読んで許し難い気持ちが湧き上がり、ブログに取り上げることとした)

不景気対策としてこの際、補正予算で家庭用のブレーカーの全面切り替えを助ける検討も選挙対策の一助になるのでは?

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