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ストー夫人

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Harriet Beecher Stowe,18811~1896)はアメリカの奴隷制度廃止論者で有名なライターであった。

彼女の著わした小説「アンクル・トムの小屋」はアメリカでの奴隷の生活と、その社会的背景を克明で、情緒的に書き表した作品として、特に北部の非奴隷州に大きな影響を生んだ作品として、海外でも広く翻訳されている。

この小説が出版されて大きな反響を生んだため、或いは南北戦争の開始が早まったとも言われる程であった。

エブラハム・リンカーンが始めてストー女史に会ったとき、“貴方が小さいけれどあの大きな戦争を起こしたご老人ですか?”と言ったことは有名である。

ストー夫人の生まれは、カネティカット州、リッチ・フィールドで、彼女の父、ライマン・ビーチャーは牧師であり、古い家柄の生まれであった。

(読者は意外と思われるかも知れないが、アメリカでの女性の法律上の立場は長い間据え置かれていたのである。

ようやく女性を法律的に、男性と同じレヴェルで考慮すべきだと言われ出したのは、東北部のヴァーモント週であった。 奴隷制の廃止後の1869年(南北戦争:1861-65)とほぼ時を同じくして女性参政権が話題に上り始め、全国的に女性が男性と法律的に同等であることが容認されたのは1920年であった。)

アンクルトムの小屋を彼女が著わしたのは南北戦争が始まる9年前のことであった。

彼女は7番目の娘で、姉のキャサリンは進歩的な女学校を創設し、女子の教育に大きな足跡を残した女性であった。

あとの6人の兄弟も牧師と言う正に宗教一家のであった。

25歳で結婚(夫は聖書文学の大学教授)する前から、姉の学校での教びんをとる傍ら、地方の文学クラブで雑誌に短編小説を掲載したりして文学活動を始めていた。

彼女の住処がオハイオ州であり、奴隷制度を敷いていた地方と隣接していた関係から、ビーチャー家もストー家も奴隷制度のことには生活の関心事として重苦しく家族の脳裏に焼きついていたともいえる。

しかし、ストー夫人が奴隷制の実体を身をもって体験したのは彼女が結婚する3年前の夏休みに友人と隣のケンタッキーにあった友人の家庭を訪問した時のことであった。

本当のことの起こりは、1850年の「逃走奴隷法」の成立が引き金になったようである。奴隷州を逃げ出した奴隷を追跡、逮捕するため、非奴隷州に住む住民までがこの法律に協力して逃亡奴隷を捕まえて送り返さなければならない事に彼女は猛烈に異議を唱え、協力することの非合性に反対の態度を表明したのであった。

その頃、義姉から“貴方ほどの筆のたつひとなら何故これを題材にして何かを書いてみては?”と問われて、彼女はまるで稲妻にかかったように、奴隷制度の残酷で、非人間的な制度を批判するものを書いてみる決心が湧いてきたと後に述べている。

1851年6月5日から奴隷制廃止論者の機関誌「ナショナル・イアラ」に部分的な投稿から始まって、しばらく続くうちに読者たちからの反響が大きくなり、1852年3月に単行本のかたちで出版された。

この発売の2日後に第1刷が完売となり、1年後にはアメリカだけで32万部が売れて、ストー夫人の存命中に結局300万部以上が世界中の文明を持つ国々で翻訳され、結局、19世紀中で聖書についで2番目の販売数になったほどの大ヒット出版物となったと言われている。

一挙に豊な生活が享受できる身分になりながら、ストー家の中心的な存在として一生を遂げた偉大な女性として歴史に残る人物である。

晩年は必ずしも幸福に満ちた人生とはいえないが、彼女の肩には常に家庭の中心人物としての重い責任がのしかかっていた。

参考文献:村岡花子:「ストー夫人(講談社)、山本有三「戦争と二人の夫人」(岩波文庫)等がある。

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