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ローマ字入力の基礎を作った人

我々が現在パソコン入力でお世話になっている「ローマ字」入力技術の基礎は、幕末の安政6年、アメリカ人宣教師ジェームス・C ヘボン(James Curtis Hepburn,1825~1911)によるところが多い。(ペリー提督来来日6年後)

本来ならばフップバーンと呼ばれる名前だが、明治時代では、音がヘボンに近いところからそのままヘボンで通用してしまった。

それほど高名になった理由は「ヘボン式ローマ字」を我が国において広めた功績があってこそのこと。

少し長いが、この由来に就いて“グーグル記載事項を引用調べたところでは以下の如くである:

“仮名とローマ字を一対一で対応させた最初の方式は、1867年に、ジェームス・カーティス・ヘボンが「和英語林集成」第一班でに用いたローマ字で、ヘボン式ローマ字として知られる。

しかしこの方式は英語の発音に準拠するため、日本語の表記法としては破綻が多いとと言う意見があった。

そこで、18885年.に田中館愛橘が音韻学理論に基づき「日本式ローマ字」を考案した。

日本式は音韻学理論の結実として、国内外の少なくない言語学者の賛同を得た。

しかし、英語話者にとって英語の発音に準拠しない日本式は受け入れ難いものであり、どちらを公認するかで激しい論議が続いた。

そして両者が表音主義のもとに歩み寄って変更を行ったのが、1937年に内閣訓令第三号として交付された訓令式ローマ字である“(以上)

1989年には國際標準化機構(ISO)は訓令式(厳密翻字は日本式)を採用、ISO3602として承認された。

ヘボンは1832年ニュージャーシーの名門、プリンストン大学卒業、1836年にはペンシルヴァニア大学では医学を専攻、「医学を通して神に仕えることを天職と考え、その後各地を転々としていたが、1859年10月18日はじめて日本の土を踏んだ。

「ヘボン」の愛称から彼は日本語の雅号を「平文」とした。

神奈川の成佛寺を施瞭所として西洋式の医学の普及に専念、内科、外科、眼科を主に一日に30~50人の患者に接していたが、次第に門下生も増え医療所を建てるほどになった。

次第に世間に有名となって、“ヘボンさまでも草津の湯でも恋の病は治らない”という唄がはやったと言われている程である。

やがて、ヘボンは教育の普及に心を引かれるようになり、神奈川の卿留置に妻、クララ・リート(Clara Reat)と男女共学の家塾を開設した。

しかし、やがて女子部は1871年(明治4年)女性宣教師キダー(Mary Kidder)に委任(フェリス英和女学校、1875年)となる。

男子部の学校は1880年に英和学校、そして、その後明治学院となる。(1889~91年、ヘボン学長となる)

これに平行して、英語の辞書の編纂も彼にとっては同じく重要な仕事であった。

画家、岸田劉正の父、岸田吟香の助けでわが国初の和英対訳辞典(1867),和英語林集成などを出版した。

1886年以後は丸善出版の助力で、ローマ字で日本語を綴って発音を示し(ヘボン式ローマ字のはしり)、それに漢字と仮名を付し、巻末に英和の対訳を付け加えたことで大変評判になったといわれている。

辞書出版での純益は全て明治学院に寄付され、「ヘボン館」と命名されたが、これは(1911年9月)に火災で焼失、今では残っていないが、奇しくもこの同じ日にヘボンは96歳で海の彼方で他界した。

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コメント

疑問点、何か恥ずかしい記述ですね。
技術の基礎は、幕末の安政6年、アメリカ人宣教師ジェームス・C●>・ ヘボン(James Curtis Hepburn,1825~●1911>1911)によるところが多い。(ペリー提督●来来日>来日6年後)

本来ならば●フ>へップバーンと呼ばれる名前だが、明治時代では、音がヘボンに近いところからそのままヘボンで通用してしまった。
少し長いが、この由来に就いて“グーグル記載事項を引用調べたところでは以下の如くである:
“仮名とローマ字を一対一で対応させた最初の方式は、1867年に、ジェームス・カーティス・ヘボンが「和英語林集成」第一●班>版●でに>で用いたローマ字で、ヘボン式ローマ字として知られとしては破綻が多いと●と>[トル}言う意見があった。
そこで、●18885>1885年.に田中館愛橘が音韻学理論に基づき「日本式ローマ字」を考案した。

1989年には●國>国際標準化機構(ISO)は訓令式(厳密翻字は日本式)を採用、ISO3602として承認された。

ヘボンは1832年ニュージャー●シ>ジーの名門、プリンストン大学卒業、1836年にはペンシルヴァニア大学では医学を専攻、「医学を通して神に仕えることを天職と考え、その後各地を転々としていたが、1859年10月18日はじめて日本の土を踏んだ。

「ヘボン」の愛称から彼は日本語の雅号を「平文」とした。
神奈川の成佛寺を施●瞭>療所として西洋式の医学の普及に
やがて、ヘボンは教育の普及に心を引かれるようになり、神奈川の●卿留置>居留地に妻、クララ・リート(Clara Reat)と男女共学の家塾を開設した。
しかし、やがて女子部は1871年(明治4年)女性宣教師キダー(Mary Kidder)に委任(フェリス英和女学校、1875年)となる。
男子部の学校は1880年に英和学校、そして、その後明治学院となる。(1889~91年、ヘボン学長となる)

これに平行して、英語の辞書の編纂も彼にとっては同じく重要な仕事であった。
画家、岸田劉●正>生の父、岸田吟香の助けでわが国初の和英対訳辞典(1867),和英語林集成などを出版した。

投稿: 浜田國貞 | 2013年8月27日 (火) 19時04分

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