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イスラエル建国の波紋

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ユダヤ人問題は実に根深いもので、我々東洋人にはいくら説明を受けても一朝一夕に納得できるものではない。

「聖地エレサレム」はただユダヤの聖地でもなければ、パレスティナ人、アラブ人だけのものでもない。

ならば、一言でどんなところか?と尋ねられても正しい解答を得ることは不可能と言わざるをえない、

ローマー帝国に追われて住み家を失ったユダヤの民(起元136年)はその後、文字通り流民の生活を永い間強いられる結果となった。

ローマ帝国はすぐさま、それまでの名称「ユダヤ属州」を「シリヤ、パレスティナ属州」と変更、その後、ユダヤの固有の地名はなくなった。

313年にキリスト教が公認となり、その後、しばらくはパレスティナの公的な宗教と認められ、キリストが処刑されたと言われるゴルゴダの丘にも教会が建立された。

しかし、7世紀頃になって、東ローマ帝国の勢力を駆逐したイスラム第二代のオマルがエレサレムを聖地と決めた頃から問題は複雑化した。

ユダヤ人たちは生地を追われながらもエルサレムを彼らの心の「聖地」としながら2000年の永きに亘り、この地に執着を持ちつづけ、今日に至った。

イスラム、ユダヤ、キリストの三つの宗教が同じ場所をそれぞれの「聖地」と崇めて、20世紀に至ったが、その間、ユダヤの民に限って、エレサレムに定住することは許されなかった。

筆者は以前、“バルフォアー宣言”に就いて触れたことがある。

この宣言は1917年11月2日、当時英国の外相バルフォアー(Arthur James Balfour,1848-1930)が当時トルコ領であったパレスティナにユダヤ人国家の建設を約束した事柄を指す。

イギリスのシオニズム運動の指導者、ロスチャイルド卿に宛てた書簡の形式で発表されたもの。

パレスティナに於ける「ユダヤ民族のふるさと」(National Home for the Jewish People)の建設を支持、そのとき、同地における非ユダヤの人権(市民権、宗教の自由等)を決して犯さない条件を付加した宣言文を指す。(これが現代になってどのように堅持されているかが問題なのだが)

1917年はロシア革命、第一次世界大戦末期のころであった。

ロシア革命はユダヤ人のレーニンが代表となって起こした事件で、(3月12日)ロマノフ朝が終焉を迎えた年でもあった。

ロシアにはユダヤ人があふれ、多くの同胞がシベリアに抑留あれていた。

イギリスではヴィクトリア朝が終わりを告げ、パックス・ブリタニカと唄われた華やかさも影を潜め、今や国の繁栄に暗雲がさしていた頃でもあった。

ユダヤ人排斥の先鋒、ドイツの哲学者フィヒテ(1762~1814)に言わせれば、ユダヤとの共存を拒むには、パレスティナを征服して、そこにユダヤ人を送り込む以外に道はないとも言い切っている。

19世紀~20世紀初頭においては、どの国でもユダヤ人の排斥運動が盛んになり、イギリスではこのような傾向がことさら顕著であった。

フィヒテに代表されるようなシオニストの主張は、ヨーロッパ圏の外にユダヤの民を放逐する以外方法はないとまで主張する程であったことからも想像される。

この発想は1941年10月にユダヤ人の国外移住を禁止した後、「ユダヤ人問題の最終解決」と称して数百万人のユダヤ人を大量殺戮したナチス・ドイツの政策の歴史の中にも明瞭に辿ることが出来る。

この大量殺戮を犯さざるをえなくなった最大の理由は、ナチスのポーランド進攻により行く先々の占領地でのユダヤ人を如何に処理するかを考慮した結果、その数の多さに困り果てたと言うのが本音らしい。(ユダヤ人とイギリス帝国、度会好一著、P:129)

1945年当時、アメリカを除いて、イギリス、ロシアの世論ではユダヤ人をヨーロッパ圏外に送り出す方策の検討がなされていた。

1945年、ナチス・ドイツが破れ、再び平和がきたとしても彼らのユダヤ感にはなんらの変化もなかったと思われる。

それに先立って行われた「ヤルタ会談」こそ、この微妙な人種問題が話し合われて、討議の結果、オランダ系ユダヤ人末裔のルーズヴェルトが戦争終結後の或る時期に(ソ連、英国の代表を前にして)「イスラエル建国」のイニシアティヴを自分が引き受ける趣旨を述べたのが、そもそもの始まりではなかったかと、筆者は考える。

アメリカは唯一、戦火の影響から逃れ、経済的に余裕があり、優秀なユダヤ人達を受け入れることで、むしろ恩恵を蒙っていた事情も考慮すればこの推論はなりたつのではないだろうか?

問題は、ルーズヴェルトはその後、間もなく、他界して、副大統領であったトルーマンがその責務を引き継ぐことになった。

やがて7月になり、ポツダム会談がドイツで開催された。(この経過に就いては以前に述べた通り)

1948年はトルーマン大統領にとって大切な年であった。イスラエル建国問題はトルーマンの自己裁量に任されていたとすれば、大統領選挙でユダヤ票を計算に入れることで選挙が有利になること間違いないとトルーマンは考えた。

現に、トルーマン自身“アラブ票”より“ユダヤ票”ははるかに数が多いことで期待できると報道陣に発言している。

「フェアーディール」(ルーズヴェルトのニューディール政策から借用)を標語として選挙に臨んだトルーマンであったが、現代に生きるパレスティナ、アラブの民がトルーマンが軽率に踏み切った悪行(イスラエル国家をエルサレムに決めたこと)に如何にくるしめられ、その後の世界の混迷と、大量の流血で数限りない人々が悩み続けなければならない事態を引き起こした責任は決して軽いものではないと考える。

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