« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »

メキシコ湾石油流出事故

Photo_3

2010年4月20日、アメリカ合衆国ルイジアナ州のメキシコ湾沖合80キロで操業していたBP(British Petroleum)の石油掘削施設(プラットフォーム)が爆発、海底1522mの地点で給油パイプが破損、海底油田から大量の原油が漏れ出した。

 

 原油の流出量は初期の予想をはるかに超えるもので、最低で一日500~4000キロリットル(4万トン~30万トン)と推定されている。

 

 420日から計算して、すでに2カ月も経とうとしている現在でも、未だに流出は阻止出来ていない。

 

 英石油大手のBPへの批判は日を追って激しくなっていることは当然と思われる。

 

 ここに至って、昨日(612日午後)、キャメロン英首相はオバマ大統領と電話でこの問題について協議したと云われている。

 同時に、米沿岸警備隊はBPに対し48時間以内に原油流出を止める新たな措置を取るよう要請した。

 キャメロン英首相は、その前日BP会長と事故対応などを話し合ったと報じられている。

 BPは週明けにも取締役会が配当の減額などについて協議する見通し、BPのスバンベリ会長は“可能な限りの措置をとる”と首相に言明、首相はそれをオバマ氏に電話で伝えたことが判っている。 BPの株主構成は、英国資本+米国資本で約40%、企業に従事しているのは大半がアメリカ人らしい。

 

 筆者の注目するところは、キャメロン首相が、あたかも、民間企業ではあるが、国際的コングロマリットのBPを擁護するかのように、BPはアメリカに取っても重要な企業であることを訴え、この度の事故に係る賠償問題に特別の配慮を求めたと報じられている事である。

 

 更に、12日の英フィナンシャルタイムス紙はBPの取締役が週明けにも配当の扱いについて協議すると伝え、46月期の配当が満額現金で支払われる可能性は低いと報じたと云うニュースにも日本人としての感覚からは考えられないと感じた次第。

  

一国の首相が自国の大企業の起こした不始末に付いて他国のボスに情状酌量を願い出たり、この世界的危機を起こした張本人の会社の取締役達が今頃(最悪の時期)に、配当が満額現金で支払えないことを新聞報道する無神経さに驚くのである。

 

もし、仮にこの様な大事故が日本の企業によって日本海で起こされたと考えた場合を想定すると、こんな騒ぎでは済まないと思うのだが・・・・。

 

 これを思うにつけ、今更ながら国力の差を感じずには得られない。 

テレビの画面で多くのペリカンが油にまみれて保護されている状態を見るにつけ心が痛むが、ルイジアナ、ジョージア、アラバマ、フロリダのアメリカ合衆国の沿岸各州を始めとして、もし、この度の事故の解決が長引けば、いずれメキシコ東海岸全域、更には、キューバ、西インド海周辺の漁業や自然環境にまで被害が及び、引いては世界の水産物の不足迄考慮しなければならなくなる史上無比の大惨事になるのではと心配の種は尽きない。

|

天皇陵と考古学

天皇御陵の信ぴょう性について甚だ疑問だと云う外国人記者の指摘:The real reason the Imperial Household Agency blocks archaeologist from excavating imperial tombs(宮内庁が(歴代)天皇の御陵が考古学者に発掘許可を出さない本当の理由)と云う宮内庁を誹謗する文書(毎日新聞問題の情報集積WIKI-天皇陵発掘を宮内庁が阻む本当の理由―が筆者の興味を引いた。

早速少しばかりその問題の延長を試みることとする。

確かに日本の古代史は謎だらけの感がある。その謎を解いてくれるのが天皇陵の歴史であり存在そのものではないだろうか?

天皇陵の数がはたして幾つ存在するのかもはっきりしない。

厳密に考えて「これが○○天皇陵」と断定できるものはごくごく稀だと云われている。

それに関わらず,宮内庁は天皇陵に立ち入ることも掘り起こすことも拒否し続けているのでは、外国人が騒ぎ出すことは当然と言わざるを得ない。

これらは明治時代になって国が当時の学問水準で、半ば強制的に強行したことが判っている。

仁徳天皇陵と云われている場所も「確定」している訳ではないらしい。

日本の各地に「天皇陵ではないだろうか」と推定されている墓所が200箇所程あると云われている。又、その他に「陵墓参考地」などと呼ばれている処もあるらしい。

宮内庁の威厳を保つべく認めている天皇陵がすべて正しいものならば、今になって「天皇の墓かも知れない」と云う表現は頂けない。

日本は19世紀後半から支那大陸や朝鮮半島で発掘をはじめ、多くの彼らの王家の墓所を掘り起こしてきた。最近ではエジプトまで出張して王家の墓の掘り起こしに懸命である。

しかるに,日本政府は何故考古学者に依頼して「王室の墓地」の調査をする事に消極的になるのか?

天皇家の存在も大事だが、教育の基本中の基本となる「本当の歴史」の探求こそ大切である。

戦後天皇の神格性は否定され、人間天皇となり、国の象徴となり直接統治しないことが決められた。

憲法論議もながながと続いて決着がつかない、

日本は何につけてもイエス、ノーがはっきりしないばかりか、“万世一系の天皇家の歴史”を国の特徴として誇示することがすべてに優先する明治の国家政策が未だに強く尾を引いている。

現在の宮内庁による仕分けでは、天皇、皇族の墓のうち、天皇・皇后・大皇大后・皇太后のものを陵(みささぎ・りょう)、それ以外の皇太子や親王のものを墓と呼ぶと定められている。陵墓の呼称で仕分けられている古墳は天皇陵41か所、皇后陵は11基、皇太子などの墓は34基と考えられ、それらから天皇、皇后、皇子名のものを差し引くと合計85基であるといわれる。

全国で北は山形県から鹿児島県まで歴代天皇陵112、皇后陵など76、計188、皇族等の墓が552、準陵が42その他、伝承を含めて114基、総数で896か所だが、同じ場所に所在するものもあるので、箇所数は465であると云う。(グーグル・ウイキペディア天皇陵参照)

これら陵墓では現在でも皇室による祭り事が行われ、研究者らが自由に立ち入ることは御法度である。

最近では地元の自治体などの合同調査を認めたり、修復などの調査に研究者に特例として立ち入り許可をする場合もあるらしい。

最初のころの前方後円墳は→大型方墳、円墳→八角墳(7,8世紀)と形状が変化した。奈良時代から平安初期では土葬であったが、仏教が入ってきてから(7世紀以後)火葬式が取り入れられ、分骨(散骨)が始まって(嵯峨天皇以後、9世紀)ますます複雑になったと考えられる。

江戸時代の末、尊王思想がおこり皇室の墓所が大型になった。公明天皇陵は大きな墳丘を持つ形で、又明治天皇陵は天智天皇陵にならって上円下方式が採用され、以降之にならって現在に至っていると云われる。

江戸時代では「修陵」と云って荒れ果てた陵を修復こともされたらしい。

特に元禄、万治、延宝、享保、文久などの時期に墳墓の修繕がなされた。そのうち、“文久の修陵”は大掛かりな土木修理であったと云われている。

京都の泉湧寺は今でも歴代の天皇家の廟所として有名である。

筆者は、もし、宮内庁が「皇室の尊厳」を第一義と考えるのならば、むしろ徹底的に科学的な調査を行って、歴代の天皇陵をはっきりさせる事こそ大切ではないかと思う次第。(参考文献:伊沢元彦)「逆説の日本史1」

前述の英語のタブロイド記述にもどって、アメイカ、ボストンの或る美術感館の所蔵品の中に(古くから)仁徳天皇陵からの出土品として大きな銅製鏡と刀剣が記録されていると云い、もしこれが真実ならばボストン美は盗掘品を展示していることになるがーこれに付いて宮内庁や文化庁は如何に思うのかーどうだろう。-あえてボストン美と限定していないー(“in Boston,  a museum has in its possession a large bronze mirror and  a sword with ring-shaped designs on its hilt.

The artifact s are said  to  be  from Nintokus  mausoleum.

If such is the case, the museum is exhibiting treasures looted from an Imperial burial mound.)

筆者はこれまでに、法隆寺の寺宝や正倉院からの収蔵品が明治から大正初期に市場に流れていたと云う事実を知っている。

古代のこれらの墳墓の多くが盗掘に逢っていることも判っている。

前述のタブロイド誌は“Shuukan shinncho quotes a Saitama Univ. professor as saying that the reason most of the key hole-shaped burial mounds are caved in on top is because they have been broken into.(週刊新潮の報じているところでは、或る、埼玉大学教授によると、鍵穴型の墳墓は上部から掘られて侵入されている)「この教授によると、江戸時代に仁徳陵の調査に入った学者の報告では”墓“は空っぽだったと述べている」(According to one record of some scholars entered the Nintokus tomb in the Mid-edo period and looked inside his coffin, but found that it was bare, the professor says

その他に、もし宮内庁がこれまでの天皇陵の指定が間違っていたと認めて指定を解除した場合、土地の所有権で民間からの訴訟もあり得ることを恐れているのではないかとも思われる。

宮内庁の勇断が待たれる!

|

歴史的な入札

 赤星弥之助(1853~1904)は鹿児島出身の実業家。古美術の蒐集家としても知られ、三井の大番頭、大茶人の増田孝(屯翁)とも親しかった人物と云われている。

 父は磯長孫四郎 で赤星家に養子として入り、日清戦争に際して大砲鋳造等で巨万の富を築いたと伝えられている。

裏千家13代の円能斎に学び、井上世外の邸宅を買収して度々茶事を催した。

明治371219日死去(52歳)。

弥之助の長男、赤星鉄馬氏が大正66月、先代の遺品の売却(第一回入札)を決行したのは、高橋帚庵著近世道具移動史によれば、”日本美術史上最も特筆大書すべき事件の一つ”であった。

 さらに、高橋は”この入札は第一回390万円、第二回89万円で第3回と合わせて(当時のお金で)約510万円に達し、無論空前であるが、前後10数年を経て昭和年代に及んでも尚、その半額に達するものさえないのは、蓋し絶後と云っても大過なかろうと思う”と述べている。

 当時、赤星鉄馬は未だ30代、大決心にて空前無比の大コレクションの売却を決行した。

以下、高橋帚庵の記述をさらに紹介すると、

”鉄馬氏は壮年紳士で、相当の教育もあり欧米の事情にも通じ、当時朝鮮に於いて農作事業に従事し、家事を老母堂にゆだねて自身は平常朝鮮に在住せるが、亡父弥之助は在世中道具の取り扱いを厳重にし、老母の他には殆ど何人にも手を触れしめず、老母も度々叱責せられて非常に苦心せし次第なるが、父の没後もほとんど自身一手にて取り扱い、亡父生前より道具係たりし80歳許の老僕一人を相手として、多数の道具を虫干しするなど容易ならざる骨折りならば拙者はこれを見るに忍びず、拙妻をして手助けを為さしめんとせしに、嫁に係る煩雑なる仕事を課するは我が心にあらずとて、老母は容易に聞き入れざれば、今や何とかしてこの問題を解決せざるべからざるに至れり、しかるに自身は道具につき何らの趣味をも有せず、ただ刀剣を愛好するものなれど、其の刀剣について思い合わさるるは、心なき者が刀剣を取り扱う乱暴さは往々拙者等の肝を冷やすことあり、道具を愛好する者より見れば蓋し同様に感あるならん、されば刀剣なり道具なり兎角好寄者にあらざれば、完全なる保護をなす能はざる筈なれば、自身が他日道具好寄と成りたらば、その時また改めて買入るべく、今日の状態にて長く母の手を煩はすは子として甚だ忍びざるところなれば今回断然これを売却するに決して貴下を煩はさんとする次第なり云々”。

参照:高橋義雄著「近世道具移動史」昭和41120日慶文堂書店刊、P。208

 筆者の考えるところ、弥之助氏は教養豊かで、かなり外国の事情に通じていたと思われる。想像するところ、嫡男の名を”鉄馬”とした意味は、もしかして、19世紀の中頃、アメリカの横断鉄道が貫通した時、原住民達が鉄製の機関車を畏怖の念を込めて”Iron horse”と呼んでいたところから取った名前ではなかったかと疑う。

 赤星家入札は、仙台の伊達家(大正5576日)、秋元子爵家(大正6518日)に引き続いて行われた歴史的な大入札会であった(大正6611日)。

 第一回が成功で終わったので、第2、第3と矢継ぎ早に3回の入札が挙行され、すべてが比較的成功裏に終わった。

 その中にあって筆者の認めるところの白眉は「梁階筆雪中山水図」(現在、東京博、国宝)落札価格、金21万円、並びに「傳金岡筆那智瀧図」(現在、根津美、国宝)落札価格、金85600円であり、筆者の最も記憶に残る作品である。

 実際、赤星家入札を境にして、その後では落札価格は次第に下降線をたどり、大正129月の東京大震災を迎えるにあたって市場はしばらく火の消えた様な状態となった。

 鉄馬氏(18831951年)東京都出身の実業家、大正銀行頭取の主なる趣味は馬の研究と、釣りとバラの栽培で、新橋の花柳界では粋人として有名を馳せた。文部省管轄としては日本で初めての学術財団となる啓明会を設立し、100万円を奨学資金として投資した。(1818年)早くから乱獲、ダム建設などでバランスの崩れた河川や湖の再起のため、美味で良く釣れて面白い魚”ブラック・バスをアメリカから輸入させ主に芦ノ湖に放流した。(1925年)(ブラック・バスは現在では既存の湖水の魚の分布を脅かす外来種として駆除が奨励されている事は誠に皮肉なことである)

 

 鉄馬氏の実弟、四郎氏と六郎氏はゴルフ界で活躍、プロの育成や数々のゴルフ場設計に尽力して日本近代ゴルフの礎を築いたことで有名である。1934年アントニオ・レイモンド設計になる赤星邸(現存)は有名である。

|

明治期の石清水八幡宮

石清水八幡宮(八幡市)の境内に明治期まで存続していた「太西坊」跡が確認された報道(産経新聞6月6日、2010年)を見たので少しばかり明治初期での文化行政の模様に就いて補足しておきたい。

新聞報道では、この度の境内遺跡分布調査で元禄時代の大石蔵之助討ち入りに際して、敵討ちをひそかに手助けしたとされる僧、覚連の僧坊「太西坊」跡など4か所の僧坊跡と1か所の仏塔跡が発見されたと事情を述べている。

  江戸時代中期の「八幡山上、山下惣絵図」には、神仏習合の宮寺であった石清水宮には多くの僧坊が存在していたが、明治元年に神仏分離令が発布されて、それらの殆どが破壊された。

太西坊跡は本殿裏にあって積もった枯葉に埋もれていたため見過れていたと思われる。

「男山考古録」には、“討ち入り”後、覚連は寄付を集めて太西坊を立派に再興したとあり、そのためか礎石も目立って立派な素材が使われていたらしい。

この度の調査では、その他3か所の坊跡と仏塔「宝塔院」礎石を発見した。

この報道では八幡市は石清水八幡宮の国の史跡指定に向け、遺跡分布調査を進めるとのこと。

宗教遺跡の破壊行為は多くの場合、国家権勢の移動期に起こる。最近ではアルカイダのアフガニスタンでの仏教遺跡の破壊、毛沢東の起こした「文化大革命」での文物破壊等が思い出されるがいずれも許し難い野蛮な示威行為には違いがない。

明治のごく初期には、仏教の排斥に追随して誤解による「旧物破壊」も横行した。即ち、福沢諭吉の“西洋事情”発刊(1866年)後、西洋文明崇拝の機運がおこり、西洋の文明を輸入するには旧例古格を破壊して人心を一新すべしとて、旧来の日本風をすべて排斥する風潮となり、古物や道具をもてあそぶ数寄者のごときは最も卑屈無益の徒とさげずまれる機運が全国にみなぎった。―高橋義雄(号、帚庵、1861~1937)参照。―

高橋義雄氏は福沢の門人で茶人でもあり当時の為政者と親交が深く、三越創始者の一人であった。

彼の著書“近世道具移動史”にその頃の事情を以下のように述べている。

“神仏分離の暴挙”(pp。25)「大幕府の滝壺の如き騒々しき明治初年に於いて、社会思想の混乱するのは当然の事で、この変動を我田引水に解釈して、各その信ずるところを遂げんとする者の中には、儒者又は国学者が多かったので、明治維新を王政復古と唱え、世は神国の昔に腹りたるが如くに考え、中央と云わず地方と云わず、政府当局者はかねて目の敵の如く思い居たる仏教徒を排撃するはこの時なりとて、神仏分離を実行せんとし、従来神社と併立して国宝と看做されたる幾多の仏閣を同境内より取り払い、従って貴重の仏像、仏具に損害を与え、或いは二束三文でこれを売却したるものさえ少なからず、現今世上の古物収蔵家に伝わる仏像、仏器、古文書等は多くはこの時に散逸したもので、幸いに数寄者の手によって保存せられたものは未だしも宣けれど、ドサクサ紛れに行方を失ったものが非常に多いのは惜しむべきことである、而してその損害の最も激しかったのは無論京畿地方で、彼の岩清水八幡宮の境内が如き無論神仏混合であったのを、明治初年これを分離するに就き、山内の三十六坊は悉く破壊され、有名なる瀧本坊、萩の坊の如き、つとにその建物を取り払われたばかりでなく所蔵の什具を車一輌何程と云う捨値で売却され、或いは留守番の不在中狼藉者に無断で取り去られ、その惨状見るに忍びなかったとは、之を目撃した古老の物語るところで、この神仏分離運動の為わが仏閣の状観を破壊し、貴重のの宝物を滅失したること果たして如何なるを知らず、斯る情勢中に在って、道具の珍重せらるべき謂われなきは今更言を待たず。」

この運動が最も徹底されたのが薩摩藩であったと云われている。

薩摩ではのべ、1616寺が廃され、還俗した僧侶2966人を数え、その内の3分の1が軍属になり、寺領は没収されたと伝えられている。

これに類する甚だしい例は奈良の興福寺でも見られた。

現在国宝指定を受けている興福寺の五重塔はその時、ただの金2円で売りに出さていたが幸いに取り壊されることなく今も昔の姿を留めている。

さすがに、この様な過激な運動に対する揺り戻しがあったせいか、明治4年(1871年)古文化財の保護を目的とした“古器旧物保存法が発布され、、その4年後には東大寺大仏殿にて正倉院、法隆寺の宝物を中心とした博覧会が行われ、ようや世情は平静を取り戻したのであった。

|

« 2010年5月 | トップページ | 2010年7月 »