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歴史的な入札

 赤星弥之助(1853~1904)は鹿児島出身の実業家。古美術の蒐集家としても知られ、三井の大番頭、大茶人の増田孝(屯翁)とも親しかった人物と云われている。

 父は磯長孫四郎 で赤星家に養子として入り、日清戦争に際して大砲鋳造等で巨万の富を築いたと伝えられている。

裏千家13代の円能斎に学び、井上世外の邸宅を買収して度々茶事を催した。

明治371219日死去(52歳)。

弥之助の長男、赤星鉄馬氏が大正66月、先代の遺品の売却(第一回入札)を決行したのは、高橋帚庵著近世道具移動史によれば、”日本美術史上最も特筆大書すべき事件の一つ”であった。

 さらに、高橋は”この入札は第一回390万円、第二回89万円で第3回と合わせて(当時のお金で)約510万円に達し、無論空前であるが、前後10数年を経て昭和年代に及んでも尚、その半額に達するものさえないのは、蓋し絶後と云っても大過なかろうと思う”と述べている。

 当時、赤星鉄馬は未だ30代、大決心にて空前無比の大コレクションの売却を決行した。

以下、高橋帚庵の記述をさらに紹介すると、

”鉄馬氏は壮年紳士で、相当の教育もあり欧米の事情にも通じ、当時朝鮮に於いて農作事業に従事し、家事を老母堂にゆだねて自身は平常朝鮮に在住せるが、亡父弥之助は在世中道具の取り扱いを厳重にし、老母の他には殆ど何人にも手を触れしめず、老母も度々叱責せられて非常に苦心せし次第なるが、父の没後もほとんど自身一手にて取り扱い、亡父生前より道具係たりし80歳許の老僕一人を相手として、多数の道具を虫干しするなど容易ならざる骨折りならば拙者はこれを見るに忍びず、拙妻をして手助けを為さしめんとせしに、嫁に係る煩雑なる仕事を課するは我が心にあらずとて、老母は容易に聞き入れざれば、今や何とかしてこの問題を解決せざるべからざるに至れり、しかるに自身は道具につき何らの趣味をも有せず、ただ刀剣を愛好するものなれど、其の刀剣について思い合わさるるは、心なき者が刀剣を取り扱う乱暴さは往々拙者等の肝を冷やすことあり、道具を愛好する者より見れば蓋し同様に感あるならん、されば刀剣なり道具なり兎角好寄者にあらざれば、完全なる保護をなす能はざる筈なれば、自身が他日道具好寄と成りたらば、その時また改めて買入るべく、今日の状態にて長く母の手を煩はすは子として甚だ忍びざるところなれば今回断然これを売却するに決して貴下を煩はさんとする次第なり云々”。

参照:高橋義雄著「近世道具移動史」昭和41120日慶文堂書店刊、P。208

 筆者の考えるところ、弥之助氏は教養豊かで、かなり外国の事情に通じていたと思われる。想像するところ、嫡男の名を”鉄馬”とした意味は、もしかして、19世紀の中頃、アメリカの横断鉄道が貫通した時、原住民達が鉄製の機関車を畏怖の念を込めて”Iron horse”と呼んでいたところから取った名前ではなかったかと疑う。

 赤星家入札は、仙台の伊達家(大正5576日)、秋元子爵家(大正6518日)に引き続いて行われた歴史的な大入札会であった(大正6611日)。

 第一回が成功で終わったので、第2、第3と矢継ぎ早に3回の入札が挙行され、すべてが比較的成功裏に終わった。

 その中にあって筆者の認めるところの白眉は「梁階筆雪中山水図」(現在、東京博、国宝)落札価格、金21万円、並びに「傳金岡筆那智瀧図」(現在、根津美、国宝)落札価格、金85600円であり、筆者の最も記憶に残る作品である。

 実際、赤星家入札を境にして、その後では落札価格は次第に下降線をたどり、大正129月の東京大震災を迎えるにあたって市場はしばらく火の消えた様な状態となった。

 鉄馬氏(18831951年)東京都出身の実業家、大正銀行頭取の主なる趣味は馬の研究と、釣りとバラの栽培で、新橋の花柳界では粋人として有名を馳せた。文部省管轄としては日本で初めての学術財団となる啓明会を設立し、100万円を奨学資金として投資した。(1818年)早くから乱獲、ダム建設などでバランスの崩れた河川や湖の再起のため、美味で良く釣れて面白い魚”ブラック・バスをアメリカから輸入させ主に芦ノ湖に放流した。(1925年)(ブラック・バスは現在では既存の湖水の魚の分布を脅かす外来種として駆除が奨励されている事は誠に皮肉なことである)

 

 鉄馬氏の実弟、四郎氏と六郎氏はゴルフ界で活躍、プロの育成や数々のゴルフ場設計に尽力して日本近代ゴルフの礎を築いたことで有名である。1934年アントニオ・レイモンド設計になる赤星邸(現存)は有名である。

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