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明治期の石清水八幡宮

石清水八幡宮(八幡市)の境内に明治期まで存続していた「太西坊」跡が確認された報道(産経新聞6月6日、2010年)を見たので少しばかり明治初期での文化行政の模様に就いて補足しておきたい。

新聞報道では、この度の境内遺跡分布調査で元禄時代の大石蔵之助討ち入りに際して、敵討ちをひそかに手助けしたとされる僧、覚連の僧坊「太西坊」跡など4か所の僧坊跡と1か所の仏塔跡が発見されたと事情を述べている。

  江戸時代中期の「八幡山上、山下惣絵図」には、神仏習合の宮寺であった石清水宮には多くの僧坊が存在していたが、明治元年に神仏分離令が発布されて、それらの殆どが破壊された。

太西坊跡は本殿裏にあって積もった枯葉に埋もれていたため見過れていたと思われる。

「男山考古録」には、“討ち入り”後、覚連は寄付を集めて太西坊を立派に再興したとあり、そのためか礎石も目立って立派な素材が使われていたらしい。

この度の調査では、その他3か所の坊跡と仏塔「宝塔院」礎石を発見した。

この報道では八幡市は石清水八幡宮の国の史跡指定に向け、遺跡分布調査を進めるとのこと。

宗教遺跡の破壊行為は多くの場合、国家権勢の移動期に起こる。最近ではアルカイダのアフガニスタンでの仏教遺跡の破壊、毛沢東の起こした「文化大革命」での文物破壊等が思い出されるがいずれも許し難い野蛮な示威行為には違いがない。

明治のごく初期には、仏教の排斥に追随して誤解による「旧物破壊」も横行した。即ち、福沢諭吉の“西洋事情”発刊(1866年)後、西洋文明崇拝の機運がおこり、西洋の文明を輸入するには旧例古格を破壊して人心を一新すべしとて、旧来の日本風をすべて排斥する風潮となり、古物や道具をもてあそぶ数寄者のごときは最も卑屈無益の徒とさげずまれる機運が全国にみなぎった。―高橋義雄(号、帚庵、1861~1937)参照。―

高橋義雄氏は福沢の門人で茶人でもあり当時の為政者と親交が深く、三越創始者の一人であった。

彼の著書“近世道具移動史”にその頃の事情を以下のように述べている。

“神仏分離の暴挙”(pp。25)「大幕府の滝壺の如き騒々しき明治初年に於いて、社会思想の混乱するのは当然の事で、この変動を我田引水に解釈して、各その信ずるところを遂げんとする者の中には、儒者又は国学者が多かったので、明治維新を王政復古と唱え、世は神国の昔に腹りたるが如くに考え、中央と云わず地方と云わず、政府当局者はかねて目の敵の如く思い居たる仏教徒を排撃するはこの時なりとて、神仏分離を実行せんとし、従来神社と併立して国宝と看做されたる幾多の仏閣を同境内より取り払い、従って貴重の仏像、仏具に損害を与え、或いは二束三文でこれを売却したるものさえ少なからず、現今世上の古物収蔵家に伝わる仏像、仏器、古文書等は多くはこの時に散逸したもので、幸いに数寄者の手によって保存せられたものは未だしも宣けれど、ドサクサ紛れに行方を失ったものが非常に多いのは惜しむべきことである、而してその損害の最も激しかったのは無論京畿地方で、彼の岩清水八幡宮の境内が如き無論神仏混合であったのを、明治初年これを分離するに就き、山内の三十六坊は悉く破壊され、有名なる瀧本坊、萩の坊の如き、つとにその建物を取り払われたばかりでなく所蔵の什具を車一輌何程と云う捨値で売却され、或いは留守番の不在中狼藉者に無断で取り去られ、その惨状見るに忍びなかったとは、之を目撃した古老の物語るところで、この神仏分離運動の為わが仏閣の状観を破壊し、貴重のの宝物を滅失したること果たして如何なるを知らず、斯る情勢中に在って、道具の珍重せらるべき謂われなきは今更言を待たず。」

この運動が最も徹底されたのが薩摩藩であったと云われている。

薩摩ではのべ、1616寺が廃され、還俗した僧侶2966人を数え、その内の3分の1が軍属になり、寺領は没収されたと伝えられている。

これに類する甚だしい例は奈良の興福寺でも見られた。

現在国宝指定を受けている興福寺の五重塔はその時、ただの金2円で売りに出さていたが幸いに取り壊されることなく今も昔の姿を留めている。

さすがに、この様な過激な運動に対する揺り戻しがあったせいか、明治4年(1871年)古文化財の保護を目的とした“古器旧物保存法が発布され、、その4年後には東大寺大仏殿にて正倉院、法隆寺の宝物を中心とした博覧会が行われ、ようや世情は平静を取り戻したのであった。

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