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2010年ノーベル平和賞の行方

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1989年、北京天安門事件で反政府運動家として投獄され、その後、一時釈放されたが、今年2月再び国家政権転覆扇動罪のかどで懲役11年の刑が確定している中国の民主活動家劉暁波氏(54)が、今年のノーベル平和賞の最右翼にノミネートされているとの噂を知った中国の外務省の要人が去る6月にノールウエーのノーベル賞委員会に対し、もし劉暁波氏にノーベル平和賞を授与することにでもなれば今後、ノールウエーと中国の関係は悪くなると露骨に圧力をかけていたことが判明した。

この平和賞は10月8日にオスローで発表されることとなっている。

昨年アメリカ大統領オバマ氏がその平和賞の受賞者となったが、もし今年の受賞者が中国の反政府活動家が獄中で受賞者にでもなれば前代未聞のスキャンダラスな大ニュースとなるだろう。

中国はグーグル情報は隠ぺいできても自国の政治犯が中国初のノーベル賞の栄誉に浴する一大ニュースを如何にして隠し通せるか?

ノーベル賞委員会のルンデスタット事務長が去る28日、同委員会は1989年にチベット仏教の最高指導者ダライラマ14世に同賞を授与しており、“賞の選考が中国の圧力に影響されることはない”と明言している。

この動向は注目に値するのではないだろうか?

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イチロー(鈴木)の功績と評判

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今回のアメリカ旅行でシアトルに立ち寄ってマリナーズの商品展示場に立ち寄って孫の土産に“イチローグッズ”を買い求めた。

案内してもらった女性によると、殆どの日本人旅行者は必ずと云ってよい程ここに立ち寄るとおっしゃっていた。

先日帰国(9月14日)して数日後イチローがまたもや今年のヒット数を200にのせた報道がされた。さぞや彼地では大変なにぎわいであったことだと思われる。

755本の本塁打を打った、トミー・アーロン(Tommie Aaron)に勝るとも劣らない、10年間毎年200本以上のヒットを重ねたイチローは正に野球殿堂入りにふさわしい偉大な選手となったことは日本人として誇らしいことであると心から喜んでいる次第。

ところが、彼地ではイチローの活躍ぶりが、我々が日本で騒ぎ立てている程のニュースになっていないと云う人もいることは事実。

アメリカは野球に限らず、すべての分野で活躍している“アメリカ人”は殆どが「純粋」ではないことを知るべきだと思ったとき、騒いでいるのは日本人だけと云う事実もうなずける。

そもそも、NHKが毎日のようにMLB(メージャーリーグ野球)を早朝から放映していることが不思議でならない。

しかもその目的が、日本を諦めて他国に本拠地を移したプレヤーを追いかけまわして報道しているに過ぎないではないか?

アメリカの大リーグ野球の報道をするのらともかく、云わば“都落ち”した選手(個人)を追いかけまわして永い時間を費やして準国営放送局が国民の意見を無視して流していることは全くパットしないと思う次第。

もし、彼らに関する報道に期待を寄せている“ファン”が多いのならば民間放送がスポンサーを募って報道すれば充分だと思っている。

イチローが何故アメリカで我々が思っている程騒がれないのか?これにはイチローの日常の所作、振る舞いがあまりにも控え目で、アメリカ人の目からはショーマンシップに欠けているように映るからだと筆者は考える。

野球人として、ファインプレーやホームランを打てば嬉しいに決まっているが、イチローはあたかも当たり前のことをしたと云う様なジェスチャーしか見せない。(この典型が大相撲)。

かってのモハメド・アリ(ボクサー)やマラドーナ(サッカー)のように大げさなジェスチャーで喜びを外に出さない、

なにかスナビッシュなところがアメリカ人にはもう一つ「面白くない」ところだと思っている。

以前筆者はこのブログでも取り上げたが、この辺が東洋人と西洋人の人間性の相違の源ではないかと思う。

静かな思考的に見える人は東洋では無条件に“徳を積んだ人物”に写る場合が多い。

その反面、陽気でオシャベリな人は印象として軽んじられる傾向が多い。

英語にもこのような表現がる。”Still waters run deep”、これは、静かに(音もなく)流れる川は深いと云う表現で、沈思黙考の人物を指すのか、或いは、腹黒のひとを指すのか定かでないが、せせらぎの様な軽やかな、さわやかな底の見透かせる浅い流れでないことは確かである。

イギリス人は前者を好むだろうし、イタリア人は後者を良しとするのではと考える。

いずれにしても今後のイチロー選手の益々の栄光を期待している。

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「門構え}の思想

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最近チャンスを得てアメリカの大西部を旅した。

広大な草地に点々と散らばっている住居は殆どが白が主体である。

大小取り混ぜて、前庭は緑の芝生、周辺は幅の広い板がこいのフェンス、冬の雪対策の為か急斜面のゲーブルの屋根は赤や緑の瓦で彩られている典型的なアメリカの田舎風景を眺めていると気持ちが和やかになった。

帰国して、関空から予約していた送迎バスの椅子に身を沈め、周囲の景色を眺めていると今更ながら彼我の規模の違いを見せつけられ、我ながらみじめな気持にならざるを得なかった。

しかし、どんなに小さな形式の家でも我が国では、必ずと云って良い程「門」と「塀」がくっついている事を再認識させられた。

門や塀がなければ少しでもその分大きな家が建つはずだが。

我が国では「門構え」が偉大であれば家の格があがると云う“見栄”を重んじる気風が未だにある。

それに加えて、どんな小さな家も「塀」に囲まれている。

門構えと塀は家を城と考える伝統から守られている気風なのではないかと思わざるを得ない。

田舎に行けば、時として門と母屋のバランスがとれていない面白い農家に出くわすことも珍しくない。

備州ヒノキの角材に大型の鬼瓦、透かし彫りが施された門扉がいやが上にもにも目に入るが、後ろに控える母屋といえば「門構え」とはアンバランスなみすぼらしいもので笑いを禁じ得ないことが時としてある。

家を建てる場合、先ず住み家、それから必要ならば家の周辺に必要に応じてい入り口やフェンスを付加するのが常識。

日本人の「門」と「塀」に対する思想を変えることが出来れば建築費用が可なり節約できるのではなかろうかと云うのが筆者が最近の感想である。

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