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マンションの更新料システム

一年は12ケ月であることは当然で、賃貸マンションの月額の家賃が1ヶ月10万円とすれば年間の家賃総額は120万円の筈

通常マンションの最初の契約は2年の使用とされている場合が多いと聞いている。

入居者は普通「更新料」と云う奇妙なシステムが存在することを知らないで契約書に同意すると、2年が経過して契約を更新する時、1年ごとに1ヶ月の割で、次の2ヶ年分の更新料20万円を支払わなければ継続して住めない仕組みになっている、いわばローカルなルールが存在する。

今そのことに就いて更新料システムが消費者契約法に違反しているとしてNPO法人「京都消費者契約ネットワーク」が10月29日、不動産会社「ジェイ・エス・ビー」(本社京都市)に更新料条項の使用差し止めを求める訴訟を京都地裁に起こした。(産経10/30)

訴状ではジェイ社との契約には、1年ごとの契約更新時に約3ヶ月分の更新料支払いを求める条項があると指摘。同じようなケースで昨年8月に更新料を無効と判断した大阪高裁判決を引用し、このシステム自体が消費者にとって過酷過ぎるとの意見。

不動産業者にしてみれば契約の際に記載済みの条件に同意しているのだから、もし履行しなければ使用者の契約違反だと云う姿勢。

筆者の個人的意見は、それなら、はじめから1ヶ月の家賃を値上げすれば、以後何ら問題が起こる筈がないと考える。

昔から1年は12ケ月と決まっているのだから、場合によっては借家人から13ヶ月~16ヶ月分の家賃を請求できる悪弊を廃止して、どちらにもフェアーな商法に改革する方に努力すべきと考える。

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小沢一郎の選択

Photo_5  昨年秋、民主党が自民党に大勝し政権を掌中にし、欣喜雀躍北京に多数の一年生議員を引き連れ胡錦涛詣でを決行した時点で小沢一郎は正気を失いかけていた。

そこで小沢は自分の実力を相手に印象ずけるために(頼まれもしないのに?)、中国としては世紀の祭典「北京五輪」を陣頭指揮した次期の国家主席の最右翼、翌近平胡氏を天皇陛下と会見させる妙案(?)を持ちかけた。

小沢はこのようなことを一個人が、宮内庁との折衝なしで行えることが規定違反であることぐらいは知っていた。

しかし小沢はその時点で、どうすれば相手が喜ぶか、その上、自分の存在を相手に誇示できるかを考えていたと思われる。

昨年9月に行われた中国共産党中央委員会総会に於いて次期中央軍事委員会副主席に選出されることが確実視されていた翌近平氏がその人選に漏れたことが“異変”と思われていた時期であることを小沢は熟知していたのではないか。

中国では国の最高指導者になるには「軍」の掌握が不可欠であり、翌近平がこの総会での選出に漏れたことで翌氏周辺に或る種の焦りが生まれていた。

小沢にとっても念願の政権奪取に成功して間なしであり、ポスト胡錦涛を念頭に入れて、是非この際、翌近平氏に近ずく“特効薬”として日本の天皇との会見を持ちかけたのではないかと推測する。

今後少なくとも4年の政権党のボスとして、その地位が確実と信じての小沢の行動であったに違いない。

3年後に控える2012年の中国共産党の党大会で翌近平国家主席と硬い絆の構築が民主党の向かうべき道との確信を持っていた頃の小沢一郎の姿が見えてきた時期であった。

思い返せば、胡錦涛も副主席として訪日した1998年に天皇陛下と会見している。

従って胡錦涛としても自分の後継者と考える翌近平氏を日本に派遣し、天皇に謁見させて、次の国家代表は翌氏であると云う印象を海外に伝えるメリットを認めたのではないだろうか?

小沢は以前に日米安保条約を継続するとしても日本が自衛のために必要としているのは、アメリカ第七艦隊だけであって、沖縄の米軍基地不要とまで言い放っていた。

この小沢発言はアメリカとしても記憶に新しいことであり決して忘れることはない。

民主党が前政党に変わって与党となったことは事実だが、小沢がだしぬけに、あたかも日本代表者のように中国訪問を決めた理由はどこにあったのだろうか理解に苦しむところである。

小沢一郎はその時点では自分が次期総理となる自信のもとこの行動を始めたことは疑いの余地はない。しかし彼は何故最初の訪問国に中国を選び、最大の友好国であるアメリカを無視したのか理解に苦しむところである。

しかも、翌近平氏を力ずくで天皇に謁見させた事は平均的日本国民から理解に苦しむところであり、これが小沢一郎の個人的スタンドプレイであったと見られても仕方がない。

小沢が未だ正式な日本国政府の代表に選出される以前に、国会の承認なしに行った上記の行動は無謀なにものであり、決して許されないものないと考えるが。

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琵琶湖疏水を利用して淡水魚水族館を京都に

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筆者は最近、京都商工会議所が琵琶湖疏水竣工120周年記念出版として、「琵琶湖疏水と京都の産業・企業―京都ベンチャーを生んだその流れーと云う書物を入手した。

その冊子のカバーの一節に、“琵琶湖疏水をどう使えばいいのか?”と書いてあるところに注目した。

琵琶湖疏水は明治23年(1890年)に完成、それ以来この疏水は120年の間、その姿を変えることなく流れ続けていると記されている。

疏水の提案者である京都府知事、北垣国道知事が京都市会で琵琶湖疏水の必要性について演説している。

その一節に、(東京遷都の後)このままでは京都の繁栄は永く続くことは考えにくい。

ならば、西洋式の機械を使って産業を興す必要を説いて、火力か水力に頼らねばならないが、火力利用には莫大な費用が必要だが疏水の流れを利用すれば鴨川、白川、桂川を併せ持ってもかなわないような水力利用が可能になることを力説している。(原文は古文調)

この本によると、明治、大正期、京都には水車を利用して可なり多くの家内企業が存在していたことが紹介されている。

筆者のこのブログの主題としたい論点は、“琵琶湖疏水をどう使えばいいのか?”と云う著者の問いかけに対してのものである

筆者の考えるところ、現在の疏水は明治期に比べて必要性が乏しくなり、ますますその存在価値が疑問視されることになりはしないかと思っている。

確かに疏水の流れを見ることで心を癒されている市民が多いことには異論を持たないが、疏水の産業としての利用は殆ど皆無に近くなっているのではないだろうか?

明治23年、疏水の貫通で内国博覧会が岡崎にて遷都1100年事業として行われ、明治天皇の行幸もあり、周辺には平安神宮や図書館に加えて市立の動物園も完成したのである

これは1851年ロンドンのクリスタル・パレス万博に刺激されて、自然科学振興のために造成されたと思うが、それより120年も過ぎ去った今日、動物園の存在意義が違ったものとなってしまった。

テレビの時代になって京都に動物園は必要欠くべからざる施設なのだろうか?

琵琶湖疏水を最も経済的に京都市民の福祉の為に利用する方法に思考をめぐらしていたのであるが、この際、思い切って費用の点、衛生面で問題の多い動物園を諦めて、その代替施設として、手近な処を流れる琵琶湖疏水から引き水をして、この町が世界に誇れる、屈指の淡水魚水族館を考えては如何だろうか。

市民の中には、自宅の水槽の中に珍しい熱帯魚を飼育して研究心に燃えている方々も少なくないと考える。

100万人の人口を持つ観光都市京都に、世界各地から将来された珍魚と共に琵琶湖産の魚も交え、立派な淡水魚水族館が完成すれば必ずや評判になること請け合いと信じる。

京都商工会議所観光部のさらなるご一考を期待して止まない。

筆者:ショウチャン

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捨てる決断

Ipad 本日の日経新聞“一目均衡”の欄に、21世紀最初の10年間で最も輝かしい偉業を成し遂げた企業として、一時は経営危機の瀬戸際まで行っていた会社が株式時価総額のIT部門で世界一のポジションを勝ち得たアメリカのアップル社を揚げている。

マキントッシュで知られたこの会社は、一時、ライバルのマイクロソフト社に打ちひしがれ、倒産瀬戸際まで追いやられたが、創業メンバーであった現CEOスティーブ・ジョブスが1997年にアップル社に復帰して先ず行ったことは、驚くなかれ、宿敵のマイクロソフト社の当時の会長のビル・ゲイツに、恥も外聞をもかなぐり捨てて二つのことを頼んだ。

その一つが「ワード」に代表される敵社の応用ソフトをアップル社の製品にでも動かせるように改良してほしいと頼んだ事、又大胆不敵にもビル・ゲイツ氏に資金援助まで要請して応諾を取りつけた。

それでアップル社はいわば一命を取り留めたと云われている。

日経の編集委員:西條氏曰く、“スティーブ・ジョブズの選んだ決断とは「捨てる決断」であった”。

同社は2001年にこれまでの基本ソフトに見切りをつけ、OSXと呼ぶ新しいソフトに切り替え、多くの顧客の反対にも関わらずすべて彼個人の独断専行に徹し、10年も経ずしてパソコンともテレビともつかない“iPad”を作り上げたのである。

筆者はこれこそ、まさに捨て身に近い「大変身商法」であると称賛したい。

日経編集委員:西條郁夫氏の言を借りれば「今の日本を見渡せば、以前のアップルのような会社が多いのではないか。」

過去にはそれなりの実績があったが新時代に対応出来ず、展望が開けない。

そんな時は、従来の経営の“基本ソフト”を捨てて、新たな道に踏み出すのも一案」。

何から何まで過去を捨てる必要もないが“過去にしがみつくリスク”、“既成の歴史をあえて捨てきれないリスク”こそ問題で、すぐ先に瀑布の音を聞いていて舵を切れない経営者はアップル社の「捨てる決断」を知るべきだと云わんばかりである。

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平成の大発見:陽宝剣と陰宝剣

Photo_2 本日、(2010・10・26)殆どの主要新聞朝刊の第一面に奈良東大寺大仏の足元付近から明治40年(1907)に発見され、昭和5年(1930)に一括国宝指定となり、その後、奈良国立博物館に保管されていた刀剣一対が東大寺の宝物庫であった正倉院から756年12月26日に何者かに持ち去られたと云われていた「陽宝剣」、「陰宝剣」である事が判明した

明治40年の大仏殿修理の時に大仏の足元付近でこの一対の剣が銀の壺や、水晶の合子と共に発見され、その後昭和5年に一括国宝指定されていたが、二本の剣を元興寺文化財研究所がエックス線で調らべたところ、剣の柄の付近にそれぞれ“陽剣”、“陰剣”の文字が象眼されていたことを発見した

東大寺大仏への献納品を示した五つの目録「東大寺献物帳」の内の“国家珍宝帳”(聖武天皇が死去し49日目にあたる天平勝宝8年6月21日に献納された目録)の武器リストの筆頭に記されていた陽宝剣、陰宝剣が正にこの一対の剣を指していたことを実に1250年後に実証できたことになる

聖武天皇の妻であった光明皇后が天皇の遺品として蔵から密かに持ち出し、大仏の足元付近に埋蔵したと考えられる

六百数十点の献納物を記載した国家珍宝帳からは、陽宝剣と陰宝剣は、その他7点の品と共に「除物」の付箋をつけられて今日まで忘れられていた。(この他の6点とは明治期の修理の際同時に発見されたものである可能性もある

これら一対の剣は鉄製で、長さはいずれも一メートル弱。鞘は木製の漆塗りで金銀の金具で装飾されている

明治の修理の時に作業用の柱を立てる際、台座の傍に穴が掘られたが、剣は大仏の右ひざの近くから出土、その時に発見された別の太刀、銀製の壺、水晶合子などと共に「東大寺金堂鎮壇具」と名付けて1930年に国宝指定を受けている

陽剣、陰剣の銘が見つかった剣には、柄にサメ革や金具の材質なども国家珍宝帳の記載と一致。皇后が756年、聖武天皇の49日法要に献納した宝剣であると断定しても差し支えないと思われる

皇后がこれらの宝物を蔵から持ち出した759年12月は彼女の死去した半年前であったが、光明皇后のその時の心中は今となっては誰もはかり知ることはできない

しかし、夫の聖武天皇が心から帰依して、例え天皇であっても二度と出来ない様な大偉業、大仏建立を傍観していた皇后が、夫の49日の法要に夫の遺愛の太刀を本尊の下に埋めて祈願した気持ちは理解できないでもない

奈良博の西山厚学芸部長は、正倉院の別の除物で、太刀と共に姿を消した聖武天皇と光明皇后の結納品「封箱」について、宝剣が埋納された頃、光明皇后の発願で法華寺でも地鎮祭があったと伝わることから、「国分寺、国分尼寺」の代表として、みなされる東大寺と法華寺の安寧を願って、男寺の代表格の東大寺の鎮壇具には宝剣一対、女寺の代表格の法華寺の鎮壇具として「封箱」が使われたのではと推測している

これに対し奈良大の東野教授は太刀が東大寺の峻工後に埋納されていることから「鎮壇具」ではなく個人的な信仰による行為とし、大仏の周辺から出土した「歯」が聖武天皇の歯で、これにも皇后の何かの思いがあったのではと発言している

藤原仲麻呂の出兵を危惧していた政治的混乱の頃で、東大寺の宝蔵から大事な品物を取り出し、大仏の近くに埋めたのではと云う東大寺長老の推測を交えて未だ結論には至っていない

いずれにしてもこの珍ニュースは正に“平成の大発見”と云っても過言ではない

この事実が考古学者にとって、1200年以前に記録されていたもので、一旦は「除物」として行方不明であった大切な遺品の「正体」が科学的に証明されると云うことはミラクルとも云え、日本の考古学史にとっても大変稀な出来事と言えるのではないかと考える

歴史万歳

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中国製原発は安全?

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アメリカのアジア向けラジオが去る5月に中国広東省大亜湾原子力発電所で稼働以来最悪の放射能漏れが発生したと報じ、これを中国政府はパニックを恐れてか事実を隠ぺいし続けていると報道した。

これに対し、中国政府は「軽微なトラブル」として真剣に応じなかったが、6月15日になって香港政府が上記の事故が放射能漏れであったことを報じた。(週刊文春10月28日号)

同誌によるとこの事故は「2号基の地下パイプで何かが漏れた」。(同原発運転士談)

この発電所には2基が動いていて、第1基はフランス製、第2基は中国が“独自の技術”で完成させたと公表しているもの。

中国には現在11基の原発が稼働中との事だが、政府の計画では2020年までに100基の原発を完成させることを発表している。

中国が何本の高速鉄道を作ろうとも誰も心配はしないが、ことが危険な欠陥原発となると万年風下に位置する我が国としては黙ってはいられないと思うのだが。

結局はこの事故の性質は“燃料棒にできた穴から放射性物質が漏れ、原子炉の放射線濃度が上昇した”(広東核電集団)。

この大亜湾原発は過去に、1994年~97年にかけて実に21回もの事故や故障を起こした前歴を持っているらしい。

最大の問題は中国政府の秘密主義である。今回でも5月に発生した事故を3週間も隠ぺいし続けていたことで、それも報道を受けて後のことである。

東シナ海の小島で起きた些細な事件はすぐさま全国に報道されたが、核汚染のような大事件を指摘されるまで隠し通すようでは世界が中国不信になるのは当然である。

今の状態で中国は今後10年間に90基の原発を建造しようとしていると聞けば我々はどうすれば良いのか?

中国が今まで主力だった石炭火力発電を環境破壊の憂いから在来の発電施設を増やし続けることが不可能になると考えての方向転換とも考えられる。

実はアメリカも同じ問題を抱えている。スリーマイル島原発事故(1979年3月28日)からアメリカは原発建設を自制して未だに豊富な石炭資源に依存し続けている。(自国産業保護もある)

それでは中国は危険を冒して、何の目的で世界最大と云われる三峡ダムを作ったのか疑問になる。

中国は今後自国で建設する原発に、東芝やアメリカのウエスティングハウス社の原子炉「AP1000」等の導入を考慮中らしいが、はたして原子炉を動かせる専門技師の養成をどのように考えているのだろうか。

さらに現在稼働している11基の原発にしても、フランス、カナダ、ロシアなど様々な国の技術を導入している関係から炉型がバラバラで未だに一貫した技術態勢が整っているとは考えられないらしい。

譬え発電装置が優秀であってもそれを納める建物の耐久性にも専門家は疑問を持っている。

最近発生した四川の大地震のときでも新築と云われていた学校や病院が簡単に倒壊しているシーンを見るとなをさらである。

ソ連チェルノブイリ原発の惨状を見るにつけ我々としては決して中国であのような事件を起こされないことを願うしかない。

中国では最近地震が多発している。中国政府が事故を発表しないうちに原発事故による“放射能汚染”が海を越えて襲来するのではと考えるとあまり良い気分にならない。

あちらからは黄砂と越前くらげで充分と云いたい。          

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専守防衛

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1967年4月、即ち今から43年前に佐藤栄作首相が衆議院予算委員会で、1)共産圏、2)国連決議で武器禁輸になっている国、3)国際紛争の当事国或いはその恐れのある国に対する武器輸出は輸出貿易管理令で承認しないと答弁、またその9年後、三木武夫首相は、上記“3原則”地域への輸出を認めないと再確認した。(グーグル知恵袋2010より)。

さらに「武器」についての定義―常識―を、ご丁寧にも、「軍隊が直接戦闘用に使うもの、人を殺傷、物を破壊する機械、危惧装置」と日米共同で発表したことを今後見直すと北沢俊美防衛大臣が昨夜、アメリカのゲーツ国防長官に伝えた新聞記事(産経)を読んで今更ながら日本の外交の稚拙(幼稚)さを知らされた思いがした。

戦後日本は戦争放棄を宣言して後、苦し紛れで「専守防衛」と云う意味不明なスローガンを作成した。

これは攻撃はしないが必要な防衛は違法でないと云うことである。

堅固に国を守ることで平和が保たれることは言うまでもない。

21世紀になって世界の情勢は日ごとに変化している。次期新衛戦闘機(FX)などの国際共同開発にも「3原則」に縛られて全く身動きの取れなくなった防衛生産技術、世界の先端レヴェルにある日本の軍事産業能力を他国に示すことによって「専守防衛」の主旨が生きるのではないだろうか?

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内部崩壊を恐れる中国

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2010年のノーベル平和賞には中国の個人評論家暁波氏(54)が選ばれた。

劉氏は2008年12月、人権の自由や人権の確立、民主的な選挙を通じた三権分立の実現を訴えた文書「0八憲章」をインターネット上に発表した。

この憲章について意見がネット上で次々に転載され、賛同者を集めることとなり、結果的にその総数が1万以上の署名となった。

中国政府はこの現象に少なからぬ脅威を覚え、発表直前に劉氏の身柄を拘束、直ちに起訴して今年二月、国家政権転覆扇動罪で懲役11年の判決を確定させた。

昨年からの米社「グーグル」との情報開示についての論争から神経をとがらせていた中国当局として国内情報の漏えいに厳格な態度をとった結果と考えても、何らの実行行為を伴はず、インターネット上の言論のみを理由としてこの様な重刑が課せられたのは中国でも前例がないとのこと。

劉氏はかねてより気鋭の政治評論家として有名な在米中国人であったが、1989年北京の天安門広場を中心におこった民主化運動に参加するため急遽帰国した。

同年6月始めには戒厳令に反対する一方、学生に撤退を呼び掛けてハンストを開始した。

しかし、6月4日の軍隊の騒動鎮圧後、逮捕されて獄中生活を送ったが、それ以後も北京にとどまり執筆をつづけた。“

天安門事件から「08憲章」へ(藤原書店)は日本語に翻訳、出版され、そこで劉氏は中国での民間の権利意識の高揚と真の自由の探求を通じて基本的人権の確立のため長期に亘る非暴力による闘争を行った事をノーベル委員会が認知したと表明している。

人権や自由、民主主義など、人類が長い歴史上で培ってきた普遍的思想を中国はこれからも”西洋の価値観“として無視続けられるのだろうか?

今中国におこっている現象は単なる階級闘争ではない。一握りのギャングによって思惟的に構築された中国共産党組織を如何に堅持させるかが彼らの目的なのである。

中国共産党内の権力闘争は今後も絶えることなく継続すると云われている。

世界第二の経済大国となりつつある中国の内部事情も正確な情報開示なしには計り知れない。

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朝青龍

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元横綱朝青龍(ドルゴルスレン・ダグワドルジ)の断髪式が昨日、10月3日両国国技館で行われた。

会場には森喜朗元首相やモンゴルのバトボルド首相及び多くの政財界要人約360人がハサミを入れ、師匠だった高砂親方(元大関朝潮)が最後に大銀杏を落とした。

彼は現役時代に歴代3位の優勝25回の記録を立てたが、数回の不謹慎な行動を指摘され角界を去ることとなった。

筆者から見れば、朝青龍は彼の現役中、不謹慎で、横綱の品格にふさわしくない言動を重ねたことで叱責され引退を余儀なくされたが、日本の相撲界の「常識」が彼から見て異常であったのではなかったのかと思っている。

朝青龍が何年日本で生活したのか知らないが、言葉もわからない10歳代の子供のころから、日本人でさえも想像できないような特殊な相撲の社会で鍛えられ、横綱まで出世した人物はただの人間ではない。

若人らしい、人間らしい人物として筆者は彼の天真爛漫な性格を褒めるべきだと思っている。

誰から教わったかは知らないが、朝青龍は引退にあたって“自業自得”と云う言葉を使ったと聞いた。

普通日本ではこの表現を良い意味では使わない。

四字熟語では“自分の行いの報いを自分で引き受けること”とあり、注として、一般的に悪い報いを受ける場合に用いるとある。

筆者がそこでほほえましく思ったのは、昨日の断髪式での彼の行動を観察していて、彼はもしかして、自業自得を良い行動の報いと思っているのではないかと勘違いしそうになった程である。

彼が理想の人物の尊敬していたのが元横綱千代の富士であったらしいが、それを聞いて再び納得させられた次第である。

未だ30歳の青年である朝青龍、これから世間の常識を学んで大人物に成長してほしいと思う。

最後に彼を育ててくれた土俵にキスをし、思い切り大きなジェスチャーで拳を何回も振り上げて観衆の声援にこたえて去って行った姿は実に印象的であった。

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JUSTICEとは?

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我が国は1945年8月の敗戦の後、制定された所謂「平和憲法」によって再び武力を行使して他国に侵略的行動はとらないことを誓った。

それから65年間、我が国を取り巻く世界の客観情勢の変化に関係なく攻撃的軍装備はしないこととなっている。

就中、憲法第九条の主旨は厳格に解釈すれば、如何なる場合に於いても交戦も自衛も禁じているかに理解され、国家の存続にとって不合理な解釈をとっている。

その間、左派系の政党の主張では非現実的な「永久の非武装、中立論」に貫かれていたこともあった。

新渡戸稲造(1862~1939)の「武士道」(Bushido,the Soul of Japan)

を読んでセオドール・ルーズベルト大統領は日本人の義侠心に共感を持ったと自叙伝でも述べている。

筆者は“義を見てせざるは勇なきなり”の表現は、正に日本武士道の真髄ではなかろうかとも思っている。

戦前、アメリカ人はルース・ベネディクト(Ruth Bennedict,1887-1948)著の「菊と剣」から日本人の義侠心を学んだと云われている。

残念ながら過去、少なくとも10年以上,我が国の国会では理解に苦しむ“集団的自衛権”論議に明け暮れしている。

これは、考えようでは全くの“詭弁”で利己的国防論に他ならない。

高い税金を浪費しながら、こんな理屈にもならない“小田原評定”を繰り返している間に国家の実質的な防衛力が近隣諸国から軽視される状態にまで低下してしまったことは国民全体の責任である。

主義主張に固執することなく、世界情勢に臨機応変に対応じて、国家の方針を決め、国民を正しく導く賢明な政党の出現を宿望する。

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