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平成の大発見:陽宝剣と陰宝剣

Photo_2 本日、(2010・10・26)殆どの主要新聞朝刊の第一面に奈良東大寺大仏の足元付近から明治40年(1907)に発見され、昭和5年(1930)に一括国宝指定となり、その後、奈良国立博物館に保管されていた刀剣一対が東大寺の宝物庫であった正倉院から756年12月26日に何者かに持ち去られたと云われていた「陽宝剣」、「陰宝剣」である事が判明した

明治40年の大仏殿修理の時に大仏の足元付近でこの一対の剣が銀の壺や、水晶の合子と共に発見され、その後昭和5年に一括国宝指定されていたが、二本の剣を元興寺文化財研究所がエックス線で調らべたところ、剣の柄の付近にそれぞれ“陽剣”、“陰剣”の文字が象眼されていたことを発見した

東大寺大仏への献納品を示した五つの目録「東大寺献物帳」の内の“国家珍宝帳”(聖武天皇が死去し49日目にあたる天平勝宝8年6月21日に献納された目録)の武器リストの筆頭に記されていた陽宝剣、陰宝剣が正にこの一対の剣を指していたことを実に1250年後に実証できたことになる

聖武天皇の妻であった光明皇后が天皇の遺品として蔵から密かに持ち出し、大仏の足元付近に埋蔵したと考えられる

六百数十点の献納物を記載した国家珍宝帳からは、陽宝剣と陰宝剣は、その他7点の品と共に「除物」の付箋をつけられて今日まで忘れられていた。(この他の6点とは明治期の修理の際同時に発見されたものである可能性もある

これら一対の剣は鉄製で、長さはいずれも一メートル弱。鞘は木製の漆塗りで金銀の金具で装飾されている

明治の修理の時に作業用の柱を立てる際、台座の傍に穴が掘られたが、剣は大仏の右ひざの近くから出土、その時に発見された別の太刀、銀製の壺、水晶合子などと共に「東大寺金堂鎮壇具」と名付けて1930年に国宝指定を受けている

陽剣、陰剣の銘が見つかった剣には、柄にサメ革や金具の材質なども国家珍宝帳の記載と一致。皇后が756年、聖武天皇の49日法要に献納した宝剣であると断定しても差し支えないと思われる

皇后がこれらの宝物を蔵から持ち出した759年12月は彼女の死去した半年前であったが、光明皇后のその時の心中は今となっては誰もはかり知ることはできない

しかし、夫の聖武天皇が心から帰依して、例え天皇であっても二度と出来ない様な大偉業、大仏建立を傍観していた皇后が、夫の49日の法要に夫の遺愛の太刀を本尊の下に埋めて祈願した気持ちは理解できないでもない

奈良博の西山厚学芸部長は、正倉院の別の除物で、太刀と共に姿を消した聖武天皇と光明皇后の結納品「封箱」について、宝剣が埋納された頃、光明皇后の発願で法華寺でも地鎮祭があったと伝わることから、「国分寺、国分尼寺」の代表として、みなされる東大寺と法華寺の安寧を願って、男寺の代表格の東大寺の鎮壇具には宝剣一対、女寺の代表格の法華寺の鎮壇具として「封箱」が使われたのではと推測している

これに対し奈良大の東野教授は太刀が東大寺の峻工後に埋納されていることから「鎮壇具」ではなく個人的な信仰による行為とし、大仏の周辺から出土した「歯」が聖武天皇の歯で、これにも皇后の何かの思いがあったのではと発言している

藤原仲麻呂の出兵を危惧していた政治的混乱の頃で、東大寺の宝蔵から大事な品物を取り出し、大仏の近くに埋めたのではと云う東大寺長老の推測を交えて未だ結論には至っていない

いずれにしてもこの珍ニュースは正に“平成の大発見”と云っても過言ではない

この事実が考古学者にとって、1200年以前に記録されていたもので、一旦は「除物」として行方不明であった大切な遺品の「正体」が科学的に証明されると云うことはミラクルとも云え、日本の考古学史にとっても大変稀な出来事と言えるのではないかと考える

歴史万歳

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