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日本国民と在日米軍基地

Satou 1972年、佐藤政権の折、アメリカの「沖縄返還」が行われた。これにより沖縄列島が日本領土に再び組み込まれ、沖縄は“本土復帰”したこととして歓迎された。

佐藤栄作氏は「核廃絶に貢献した」理由でその後、ノーベル平和賞をうけることとなった。(1974年)

この結果、沖縄の米軍基地はかなり縮小されることなった。

使われなくなる基地を民間使用に復元することで必要となる費用、400万ドル(当時の換算で約10億円)を或る密約で日本が立て替えたのではないかと、大問題となり、その内情を暴露したとして毎日新聞の西山太吉氏が逮捕された。

日本共産党や社会党は「核抜き、本土並み」条件で返還された筈の沖縄米軍基地に核兵器が未だに存在するとして、“日米安保”に反対している。

この度、北朝鮮が韓国の離れ島を砲撃したことで、にわかに沖縄の米軍基地の存在価値が現実、文句なしに再認識されることとなり、前の選挙公約で米軍基地は「少なくとも沖縄県外」とすることを国民に約束して選挙に勝った民主党政権は今後どのような問題解決法を考えるのだろうか?

今、現実に“日本をどのように防衛するか“が問われることとなった。

戦後65年が経過している。このような大問題を何故真剣に考えてこなかったのかと云うと、「日米安保」が存在する、“日本はアメリカが外敵から守ってくれる”と云う漠然とした安堵感がありはしなかったか?

筆者は日本政府がかねてより唱えている「日米地位協定」を持ち出す前に、何故、沖縄はアメリカの治外法権の及ぶ地域ではないことをアメリカ政府に認めさせないのか疑問に思う。

少なくとも沖縄返還に際して、日米間で取り交わされた条約文の全体を公表して、沖縄列島の隅々までが日本領土であることを確認する必要があると思考する。

筆者は何も沖縄におけるアメリカの存在を否定するものではない。1972年佐藤栄作氏とニクソン・アメリカ大統領との間で沖縄返還に際して取り交わされた国家間の条約の内容が未だにハッキリとしないことが問題であると思っている。

この際、すべてをうやむやにすることは止めにして、“現実はこうだった”と両政府が正式な共同声明の形で発表することから始めてみる方がbetterだと思っている。

今のままでは、在日米軍基地および公務中の構成員・軍属は在日米軍地位協定によって日本の裁判権の管轄外とされている。上記のアメリカ関係者が基地内で起こした犯罪、および「公務中に基地外で起こした犯罪」に対しては日本の法律が採用されない。(グーグル、ウイキペディア)

このような現実問題が何故おこるかと云うと、在日米軍基地全体に於いて日本政府がアメリカに対して「治外法権」を認めているからである。

1995年10月の日米合同委員会により、殺人や強姦と云う凶悪犯罪に限って、犯人の身柄を日本警察に引き渡して日本の司法に依って裁判を行う合議がなされたが、このような事例でも何かの理由で、いつの間にか被疑者が帰国して、その後不問になっているケースがあることを聞いている。

アメリカが日本の中に軍事基地を持つことについて、日本国民がどのように思っているかが基本的問題であり、この事実を是認したくなければ代替の施策を日本が自己解決する以外にない。

先ずは、沖縄全体が果たして「日本の領土」であるか否かを確かめるべきだと思う。

何故アメリカは日本に沖縄を返還することを言い出したかも合わせて考えてみることも無駄ではないと考える。

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アメリカの国勢調査と人種分類

Photo アメリカは国の憲法(第1条2項)が各州の人口の増減を10年毎に調査して、選挙に於いて、下院議員数が決められることになっている。

従って、10年ごとに各州の人口が下院議員数を決めることとなり、我が国で問題視されている一票の占める重みの問題は起こらないと云われている。

2000年に行われた人口調査の結果、1990年~2000年間で、3270万の人口増加がみられた。

今回、20世紀以後、初めて、全州で人口が増えたことが判明した。しかし、13.1%の増加で、1950年~1960年でのベビーブームの人口増加率18.5%には及ばなかった。

アメリカの歴史上、10年間に最も人口増加がみられたのは1790年~1800年間の35.1$が最高率であったとの事。

アメリカの総人口は1990年では24870万人であったが、2000年の国勢調査では28140万(3270万人増)であった。

その間、西部と南部での人口増加が顕著で、中でもネヴァダ州では66.3%の人口増が見られ、(理由?)その他は、アリゾナ40%、コロラド30.6%、ユタ29.6%、アイダホ28.5%と続いている。

南部では、ジョージャ州の26.4%の増加が最高であった。

中西部ではミネソタ州の12.4%、北東部ではニューハンプシャー州が同じく12.4%の人口増となっている。

ノース・ダコタ州は0.5%しか増えなかったが、以前から1票であった為議席数を減らすことにはならなかった。それに反してニューヨーク州は人口の5.5%増に関わらず、総人口が多いため2票を失う結果となっている。

議席を増やした州は:アリゾナ州(2)、フロリダ州(2)、ジョージャ州(2)、カリフォルニア、コロラド、テキサス、ネヴァダ、ノースカロライナの各州が各々一票ずつであった。

議席数が減少したところは、ニューヨーク(2)、ペンシルヴァニア(2)、

カネティカット、イリノイ、インディアナ、ミシガン、ミシシッピー、オハイオ、オクラホマ、ウイスコンシンの各州が一票ずつ減らしている。

10年毎に行われるcensus(国勢調査)の結果で憲法に定められた通りに下院議員の席数を決めるアメリカの政治に対する姿勢はフェアーであり、是非、我が国でも実施される様に努力を払うべきだと思考する

また、人口の増減で地方に配布される予算額が決まることについては、筆者は日本の制度に不案内なので何とも言えない。

年齢別で人口を調べると以下の通り:

5歳以下: 19,176,0006.8%)、5~13歳、37,025,00011.8%)、14~17歳、16,903,0005.7%)、18~24歳、27,143,0009.6%)、25~34歳、39,891,00014.2%)、35~44歳、45,149,00016%)、45~64歳、61,902,00022%)、65歳以上、34,992,00012.4%)、85歳以上、4,240,0001.5%

合計:281,422,000、平均年齢:35.3

今回初めて太平洋での島々に居住する人種とアジア人種が別に分類された。

特殊な例では:

白人とアメリカ先住民の混血,868,395、白人と黒人との混血、784,764

白人と他の人種の混血、2,200,0003種以上の混血、410,2854種以上の混血、38,4085種以上の混血、8,6376種以上の混血、823が筆者の目を引いたが、はたしてどの様な仕分けをしたのか不明である。

次に人口の多い10州を列記すると:

  カリフォルニア、33,871,648、②テキサス、20,851,820、③ニューヨーク、18,976,457、④フロリダ、15,982,378、⑤イリノイ、12,419,293、⑥ペンシルヴァニア、12,281,054、⑦オハイオ、11,353,140、⑧ミシガン、9,938,444、⑨ニュージャージー、8,414,350、⑩ノースカロライナ、

8,049,313

  以上、New York Times 2009年のALMANACより抽出。

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NATOの変貌なるか?

Photo_2 北大西洋条約機構((North Atlantic Treaty organization, NATO)は1949年4月4日にアメリカ合衆国を中心に、北アメリカ・ヨーロッパ諸国により結成された軍事同盟のことである。最初の目的は東欧諸国を支配する共産主義のソヴィエト連邦に対抗することと、ドイツに対する徹底した脱工業化(非ナチ化)が主たる目的でスタートした。西欧諸国が助け合って共産国家ソヴィエトに対抗する目的で、最初から加盟国の内、どの国が外部からの攻撃を受けても共同で応戦、参戦の義務を負うものと規定された。(集団的防衛義務)

しかし、1989年のベルリンの壁の崩壊以来、ソ連邦の解体が進み、東欧、西欧の感覚が薄れるに従って、当条約機構の存在意義が薄れてしまったことは事実である。

終戦当時では、世界の脅威と思われていたソ連の存在であったが、その国が資本主義国家として歩み始めたことを確認するかのように、最近ではヨーロッパが一丸となって域外の新たな脅威に立ち向かう条約機構に変化する傾向が顕著になりつつあると認識したい。

NATOとロシアとの首脳会談が、去る11月20日、リスボンで開催され、今後はロシアとの関係改善に務め、ミサイル防衛(MD)を中心にロシアのポテンシャルを利用して、イランの脅威に対して圧力を加え、同時にパキスタン、アフガン戦線に近接するロシア領域内通過の物資輸送ルートの確保を想定した会談がもたれたと思われる。

今や世界情勢は日ごとに変化していると思われる、特に北極海の海上航路が可能になるに及んで、ロシアの極東、西太平洋地域への影響力は増加するものと考えなければならない。

最近の「北方領土」をロシアの領土とする、メドジェイエフ、ロシア大統領の宣言は正に“機を見て敏”と云われるロシア外交の真髄を垣間見た感がある。

ロシアを加えて、全西欧が一気に姿を変えて一体となる、新北大西洋軍事機構(NATO)の出現の未だ見えざる姿は、アジアの一員である日本人には不気味にさえ映る。

悲しいかなアジアは西欧のようには一朝一夕には団結が出来ないばかりか、内輪もめがこれから始まろうとしている。

一世紀前、福沢諭吉が唱えた「脱亜論」の理想は夢と消え、今や我が国は力なくアジアの一隅に蟄居するような小国に変貌した。

アジア諸国はその成り立ちから、西欧に見られるような国家間が相互に血縁関係で結ばれるような状態にはない。

しかも中国、韓国、日本等が同等の関係で軍事同盟を結ぶような空気にないとすればアジアの将来の展望は決して明るいものではないことは確かであろう。

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ケネディー大統領暗殺から半世紀

Kenedhi

昨晩、(11月21日)NHKのBS放送でジョン・F ケネディー大統領暗殺(11/22/63)事件解説番組を見た。

アメリカの歴史中で4人の大統領が殺されているがケネディー事件程謎めいていて不可解な事件はないと思われる。

事件以来既に半世紀が過ぎようとしているが、未だにスッキリとした解決に至っていないように思えてならない。

それは1963年11月22日の正午頃、テキサス州ダラスで起こった。

1968年には実弟のロバート・ケネディー(当時、司法長官)も暗殺された。

テキサスは共和党の地盤であったが、選挙を翌年に控えて民主党の票を少しでも確保するべく当選後初めてジャックリーヌ婦人をも同行した。

しかし、この遊説旅行の前日にも、ダラスを訪れた国連大使が暴漢に襲われたり、当日のダラス・モーニング・ニュース紙上に、反対派による中傷記事が掲載されるなど険しいムードに包まれていた。

翌年に選挙を控え、国民に親しみやすいイメージをアピールする意図で、当地警察の忠告を退けて、オープン・トップリムジンの防弾カバーを外して市内パレードが始まった。

これには副大統領。リンデン・ジョンソンがテキサス出身であり、ジョン・コナリー州知事が大統領の車に同乗することで安全と思ったのかは今になっては真実は不明である。

大統領一行が市内のデイリー・プラザ地区に差し掛かった時、銃声が聞こえ、第一弾が大統領に命中、2弾目もケネディーの頭部に命中、致命傷となった。コナリー州知事も同じ弾で胸部に被弾し重傷を負っている。

結果として、挙動不審として職務質問を試みたJ,Dデーヴィッド巡査を射殺した容疑者、リー・ハーヴェイ・オスワルド(24)が容疑者として逮捕された。

しかし、犯人と疑われていたオスワルドが2日後、警察署から拘置所に送られようとしているところを、市内でナイトクラブを経営していたジャック・ルービンシュタインに目の前で射殺されてしまった。

これは全く予想もしなかった事件であった。白昼、しかも警官や報道陣が取り囲んでいる場所で、マフィア系の人物ルービーに射殺されたことで、一時、ダラス警察の関与も疑われる事態となった。

ルービーはダラス市の裁判所で起訴され、死刑の宣告を受けたが、、その後、上級審でルービーの弁護側が“ダラスでは正当な裁判が受けられなかった”と訴えたため、死刑判決は取り下げられ、再度の審理(4年後、1967年2月)に持ち越されたが、66年12月ルービーは病に倒れて死亡した。

その後、数々の容疑者や関係者が原因不明の死を遂げていることもこの事件の複雑さを物語っている。

ケネディーを継いだジョンソンは事の重大性から1963年11月29日(事件発生の1週間後)第三者機関の調査を始め、責任者に最高裁所長官、アール・ウオーレンを指名した。

ウオーレン委員会は10カ月後の1964年9月、膨大な報告書を発行して結論を下した。その結論はオスワルドの単独犯と云うものであった。

多くの専門家の意見では、オスワルドの使用したと云われるイタリア製のライフルでは、距離的にも、時間的にも三発の銃弾発射で、2発を命中させることが至難の業と考えられること、傍観者の多くが銃弾が複数の方向から発射されていると指摘していることから、とてもオスワルド一人の仕事とは考えられないと云う意見が大勢であった。

アメリカの歴史上大統領の暗殺事件はケネディーの前に3度あったが、すべて犯人がはっきり判明して逮捕されている。

アメリカ歴史上稀に見る重大な出来事にも関わらず、ケネディー大統領暗殺事件は最初の被疑者オスワルドが2日後に射殺されると云うことで追及不能となり事件決着の烙印が押された。

これにはアメリカと云う移民の国の複雑な背景があったことは当然だが、全国民が納得しないまま幕を引かざるを得なくなったことは充分考えられる。

その一つの要因として「マフィア主犯説」があるとされる。

サム・ジアンカーナを名乗るマフィアのボスがケネディー本人や、ジョセフ・ケネディー・シニアに依る依頼で、ケネディー陣営の資金集めを手伝った(不正?)が、その後ケネディーが司法長官フーヴァーや弟、ロバートの忠告(?)でジアンカーナや、共通の友人、フランク・シナトラ(歌手、俳優)との付き合いを断り、その後、マフィアの壊滅作戦を進めたことを“裏切り行為”と捉え、報復行為に及んだとする説がある。

実際にケネディーの一方的なマフィアとの関係断絶に対しシナトラが激怒、ジアンカーナや、ルービー、オスワルドとも面識があったことが判明しているテキサス州を縄張りとしていたカルロス・マルセロが、しばしばケネディー暗殺を仄めかしていたことがFBIの盗聴で判っていたとされている。(グーグル・ウエキペディア)

ケネディー一家を恨んでいた人物による犯行も軽視できないし、ケネディー家がアイルランド系移民で、カトリックであった事もWASPwhite, Anglo・saxon,Protestant)が主流であるアメリカ上流社会から異端視されていた事実も有力な要因とも考えられなくもない。

しかし、何といっても対マフィア恐怖からの事件隠ぺい説は最も説得力があるように思えてならない。

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政治家仕分けは必須事項

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柳田稔法相の国会軽視発言で政治家の質が問われている

国会で官房長官が「自衛隊は暴力装置」と公言、野党からたしなめられて発言撤回するような騒ぎが続いている。

国の経費のうちで、国会の運営費をグーグル検索で調べたところ、大凡、一日当たり3億円(非公式)と書かれていたがこれは果たして信用に足る数字だろうか?

もしこの数字が正しいとすれば、国会が9:00~17:00迄8時間開かれたとして計算すると、その出費は毎分当たり62万5千円となる。

国会討論を見ていると、質問者は些細なことで同じ質問を繰り返し、答える側の与党の大臣達も役人の作文したものを棒読みしていることがしばしばである。

国会の運営費を知ったなら、テレビで国会中継を見る国民としては無駄な税金を使わないで欲しいと思うのが当然である。

民主党の行っている“事業仕分け”で政治家が公務員の税金無駄遣いを指摘して得意になっているが、国民から選ばれた政治家こそ、率先して改めるべきことが山ほどあるように思うのだが。

民主党は先の参議院選挙の公約として、衆議院比例定数の80削減(枝野氏)、玄葉光一郎氏は選挙運動中、先ずは自らが身を削るべきだと発言をしている。

役人の天下り防止で人気とりをする前に、先ず国会議員の給料を削り、衆参議員の人数の大幅な削減を約束出来ないものかと国民の立場から発言したい。

1950年には衆議院議員数449人、参議院250人(合計699人)であった。

2005年には衆議院480人、参議院242人(合計722に人)となっている。

参議院議員は8人減っているが、衆議院で31人増加している

3年前、2007年の国会議員一人当たりの年収、約2900万円をかけ合わせると総額は約210億円である。

国会議員に果たしてボーナスは必要なのだろうか?

“年収ラボ“によると、国会議員の推定年収(平成19年度)は:

内閣総理大臣の年収は5141万円、最高裁長官も同額で、衆参両院議長、4857万円、国務大臣、4857万円、事務次官、3011万、国会議員、2896万となっている。

国会議員はその他に諸々の特権を付与されている。

即ち、不逮捕特権、免責特権、歳費特権、JR前線無料、航空機無料の他、議員宿舎があてがわれ、普通50万円が相場と思われる、新赤坂地区の3LDKのマンションが9.2万/月と云う具合である。

名古屋では、河村市長が市会議員の給料半減と議員数半減を提案して市会から嫌われているが、国民の感情からすれば河村氏の主張に拍手を送りたい。

野党時代の鳩山由紀夫氏は、もし自分の公設秘書が検察に逮捕されるような悪事を働いたなら自分が責任をとって議員バッジを返却して議員辞職をすると公言していたが、自分が総理大臣に上り詰めると、考えが変わってしまった。

昔と違って、最近では、すべての言動が克明に記録されて言い逃れは出来ないと思うのだが、彼らの厚顔ぶりには驚嘆するばかりである。

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中国からの脱出始まる

Photo 石平氏、(知日、帰化、一世中国人)のChian Watch(産経、11月18日)によると、「バラ色の中国の未来」に望みをかけて中国への進出を試みようとする数多の日本の企業への警告をこめて“始まった「中国からの大逃亡」”の見出しで意見を述べている。

それによると、中国の国内紙「経済参考報」が、中国では現在、1970年代の末、以来の3度目の移民ブームが起こっていることを報じている。

2009年に中国人が6万5千人アメリカに移民したが、その他、カナダ、オーストラリア又はシンガポールにも可なりの中国人のexdosが起こっている、その大半はエリートや富裕層とのこと。

70年代末、自分達の祖国が先進国と比較してあまりにも大きな経済格差があことがわかり、教育のある国民の海外への「逃亡」が始まった。

石平氏は、1990年代には2度目、昨年からは3度目と思われる事態が起こっていると主張。

殊に今回の現象は、これまでのものと様子が全く違っていると云われる。

中国経済は世界の他の国と比較して「繁栄」の様相を呈しているなか、中国が日本を追い抜いて世界第二位の経済大国だと意識すべきところの富裕層やエリートの人達が何故昨年から群をなして他国へ逃げて行くのか?

それは、知れば知るほど、自分達の国家が信用できないことを察知し出したからだと前出の「経済参考報」が述べている。

中国国内の環境汚染、、食品や医薬品の安全性、劣悪な公共サービス、法体制の不備、共産党権力の横暴等が主な理由に挙げられる

総括すれば、主に知識層が中国に不信感を持ちだしたことに他ならない

「英才」と云う月刊誌が過去10年間に、中国から年間平均45万人(10年で450万人)が外国に移り住んだことと、それに伴って2500億ドルの資産が持ち出されたと報じている。

世界の平均的民主国家では国民は選挙に参加でき、そこで自分の意思を表明出来るが、それが出来ない国に不満を抱いている中国人の出来る意思表明は、国外逃亡しか残されていないわけである。

石平氏はこの現象を「大逃亡」と表現しているが、庶民層は未だ中国の内情に不案内だが、これまでに外国を見てきた知識層や富裕層は自国の未来を“不安定”と判断を下して行動を起こしていることが明らかになりつつあり、特に中国最初のノーベル平和賞の取り扱いに関する政府のとった措置は、平均的世界観を身に付けた国民としては、失望を禁じ得ない心持でいるに違いないと筆者も考える。

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農業システム改革

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農業改革が差し迫った問題として語られている。

戦後、1947年(昭和22年)、占領軍の命令で農地の所有制度改革が行われ「農地開放」と云う言葉が使われた。

アメリカとしても自国ではとても出来得ないような実験を日本で試みたのであるが、考え様では準共産主義的施作ともとれるのではないかと思われる。

つまり、地主の土地を強制的に安値で国が買い上げて、それを小作人に売り与えたことを「農地開放」と呼んだ。

これが全国的に実施されて、実に7割余りの農地が地主から小作人の所有に変わり、それ以後、北海道を除いて我が国では大規模農業が事実上不可能となった。

日本の農業の弱点は、毎年老年化する働き手と、少子化による後継者不足が主な理由とされているが、実際は戦後に零細農家が増えすぎたことがあると筆者は考える。

1962年の農業協同組合法と農地法の改正で、農業法人(農)が生まれた。

耕作地を総括して法人化、(株式会社化)する構想は来るべき新たな「黒船」に対抗する場合必要な手立てと思うのだが?

即ち、小さな小川や農地の囲い込みを取り払って、灌漑のための水路を一本化して、アメリカやオーストラリアに見られるような機械化が可能な農地を造成して、土地所有の大小によって持ち分を決め、希望者は社員としてそこで働いて収入を得られる方式ならば“米価”に於いて外国に対抗できると思われる。

制度が出来ればこれに融資制度や税の優遇を設けて、農地の習得に際しての便宜を図ればこれによる土地の高騰は未然に防止できるのではないだろうか。

気候やそれぞれの土地環境を考慮に入れて、適材適所の考えで作物をその地に適したものに組み替える努力もコストと品質の管理にも必要になると思う。

今問題になっている環太平洋パートナーシップ(TPP)に参加を決める迄に、何といっても、最初に出来るだけ国内農業の成り立ちを変えてかからなければ国際競争に立ち向かえないのではと思う次第。

これは云うに易く、古くから存在する仕来りを壊して「改新」するには相当の覚悟と時間が必要であることは確かだが。

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新発見、豊臣秀吉座像

Photo_3 この度、年号及び作者がはっきり判明した豊臣秀吉の等身大の座像が世に出たと云う発見談。

無責任ながら、筆者未だ自ら確認できていないが、筆者の過去の経験から、作品の出現の場所、同像に認められる記述から、ほぼ真物と認識している。

問い合わせご希望の方:京都古文化保存会、℡075-561-1795迄

豊臣秀吉の肖像画で広く知られて、しかも生前の秀吉の面前で描いたと云われている(確証なし)は現在逸翁美術館(大阪、池田市)の伝狩野山楽筆と、京都、東山の高台寺蔵の伝狩野山楽筆のものが有名である。

二つの例ともに容貌が非常に近似した作品である。

今回京都で発見された木彫の秀吉座像の足の下部分に慶長4年6月28日、又、頭内には慶長8年6月中旬の年号とともに「豊国大明神」の文字と「七条大仏師康住」「子康巌」に、作者の花押と思われる墨書が認められる。(11月13日、毎日新聞)

多くの例から推測して、頭部と体の部分は別々に造られたと考える。

この座像、高さ、71.4センチの略等身大、再度の火災に逢い、表面彩色がところどころ剥がれているが、新聞発表の写真から判断して、ほぼ原形を留めている。

大津市の楽浪文化財修理所の高橋利明氏に依ると、氏の40年に亘る経験で制作年、作者及び対称名この様にはっきりと判明する例はごく稀であると云う。

秀吉の没年は慶長3年(1598年)、その頃から、秀吉にゆかりのあった大名や社寺は、秀吉を神格化して早速、礼拝用として「豊国大明神」の名称の画像や彫像を制作したことが知られている。

この度、京都市左京区の西方寺で発見された秀吉座像は、従って秀吉の容貌を近い処でとらえた好例と認めることが出来るとして貴重な発見と考えたい

あごひげの形や風貌は上記2例の肖像画に可なり近似していることが認められる。

絵画と彫刻では表現方法が異なるため、どちらが実像に近いと決めつけることは難しい。

文禄4年(1594年)秀吉は奈良の大仏に倣って東山に方廣寺を建立した。

作者、康住、康巌が“七条大仏師”を名乗っているのも何か方廣寺に関係ある仏師であったとも考えられなくもない。

秀吉の時代には西方寺は中京区にあって、秀吉に仕えた中川某武将に縁が深かったこの寺に伝わったらしい。(毎日新聞)

寺はその後、宝永5年(1708年)と昭和7年(1932年)に火災に逢い、現在は左京区に移っている。作品のクオリティーはともかく、考古学見地から参考資料として貴重であると思い、ブログで発表した次第。

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「北方領土」を再考する

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日本中が今、領土問題で危機に襲われている感がある。

尖閣諸島領有権問題で中国に牽制され、ロシアには所謂「北方領土」の問題で戦後永らく講和条約が締結できないでいる。

前者の帰結が日本か、中国かと云えば、日本が現実問題として占有を続けているのであるから、これを中国が武力で我が国から脅し取ることは極めて困難である。

それに反して、1945年、第二次戦争の結果、我が国がソ連を含む、連合国に無条件降伏を宣言して、ソ連の「北方領土」占有が始まった。

住民が日本に送り返されて以来65年間、今ではロシアが占有を続けているのが実情である。

北方領土の領有権主張問題では不思議にも、自民党も共産党もマスコミを含めて同じことを言っている。この問題に敢えて異議を差し挟むことが「タブー」視されている感がある。

即ち、これら4島は日本の固有の領土であり、ロシアによる占有は許し難く、速やかに返還されるべきだと云う意見である。

それなら北方領土に関する日本の主張の根拠は何に根差しているのだろうか?

最近になって、メドチェイエフ、ロシア大統領が自らそこに赴いて、ここはソ連が第二次大戦での日本の降伏で、合法的にソ連の領土となったと宣言した。

このロシア大統領自らの行動は“選挙対策”だとか“威力誇示”だとか云う噂があるが、日露の間の懸案を一気に終わらせたい意図であったことは疑いのないところであろう。

1875年5月7日、日本はロシアと、樺太と千島列島の交換交渉で、樺太全島をロシアに、千島列島(北方4島を含む)を日本の領土とすることに同意した。

この条約は同年8月22日に成立、批准書交換が行われ、その時点で樺太は正式にロシアの領土として組み込まれた。

そこで日本は千島列島を領有することになった。

今から105年前の1905年、日ロ戦争の終盤に於いて、アメリカ大統領、テェオドール・ルーズベルトの仲介で、アメリカ、ニューハンプシャー州ポーツマスに於いて日露講和交渉がもたれた。その結果、日本は賠償金の代償としてロシアより樺太の南半分の割譲を得た

日本海海戦(1905年5月27日)でロシア帝国の誇ったバルチック艦隊が日本に依って壊滅状態となったことが発端となりロシアでは停戦することに機運が傾いていた。

アメリカ大統領が、日露両国に休戦を正式に勧告したのが1905年6月9日(日本海海戦の12日後)であった。

日本海海戦の結果は世界中に強い印象を与えた。制海権の喪失でロシアには戦勝の機会はなくなった。

そこで小村外相は、もはや待つまでもなく平和交渉の幹旋をルーズヴェルトに依頼するように、高平小五郎駐米大使に訓令を発したのが同31日であった。

これを受けてルーズヴェルトは駐米ロシア大使カシニーに日本の意向を伝え、ロシアは正式に6月7日に平和交渉のテーブルに就くことに同意した。

この時点で、両国ともに戦争をこれ以上継続出来ない理由があった。日本側は経費、兵力の面で、ロシアは国内に不穏状態を抱え、すでに「革命」が始まっていたと云ってもよい状態であった。

この戦争の結果は世界中に知れ渡り、大国ロシア帝国が極東の、当時、その存在さえも知られていなかった“小国日本”に敗れたことが白日のもとに明らかになった。

この戦争は20世紀初頭における一大ニュースであり、ロシアの面子は丸つぶれとなった。

それ以後、ロシアの内政は混乱し、ロシアではユダヤ人の暴動で本格的「ロシア革命」に繋がった。(1917年)

革命の結果、王朝は崩壊し、ロマノフ二世を含む全家族が殺された。

従って、ロシア人にとっては日露戦争の敗北は大きな屈辱で、このことはロシア全国民が決して忘れることのできない事件である。

歴史を調べて明らかなことは、ロシアが和睦に同意した1905年6月7日頃には日ロ両国は休戦状態に入っていたと思われるが、しかし、日本では続いて樺太に対する侵攻が討議されていたことは意外である。

7月9日、それが現実のものとなり、第13師団による樺太侵攻が始まり、8月1日には樺太全島を占領してしまった

その間、日本の樺太占領に関係なく、ポーツマスに於いては両国の間で平和交渉は続いていた。

日露講和条約は1905年9月5日締結したが、その間の日本の樺太の占拠は既定の事実となっていた。結果的に日本は賠償金の代償として南樺太の割譲をロシアに認めさせることとなった。

その時のロシアの全権大使ヴィッテは、樺太はロシアの固有の領土であることを理由に最後まで抵抗したが、結局、この条件を呑まざるを得なかった。

1945年2月、アメリカ大統領、ルーズヴェルト、イギリス首相、チャーチル、ソ連の首相、スターリンがソ連の避寒地、ヤルタにて「ヤルタ会談」がもたれた。

そこではドイツと日本の問題が主に話し合われ、同時にソ連に対しては、ドイツの戦後処理が終わり次第、なるべく早い時期に日本の背後(満州)から侵攻をするように要請がなされたと云われている。

その時点では原子爆弾が未だ完成していなかったため、ソ連の援助が必要不可欠と思われていたのではないかと考える。

この会談でアメリカは、もしソ連が対日戦に参加すれば、当時日本領であった南樺太と千島列島の取得、満州、大連港でのソ連優先権、旅順港のソ連租借などをひそかに約束していたと云われている。(仲晃著“黙殺”ポツダム宣言の真実と日本の運命、下巻、P.58参照) 

米英及びソ連の代表がポツダム(ドイツ)にて、日本に対して発表したポツダム宣言(1945年7月27日)の最中に於いて、所謂「原子爆弾」の実験がアメリカで成功したことは歴史の皮肉と云わざるを得ない。

その時点では、エレノア・ルーズベルトは既にこの世になく、ハリー・トルーマンが大統領に昇格していた。

客観的に見て、その時期(1945年7月末)の日本の状態は既に戦力を殆ど喪失していたのであり、米英としても、原子爆弾を新兵器として使用できることが明白になっていた。

それなのに、対日戦争で何の貢献もしなかったソ連に後方支援を依頼する理由があったのだろうか?(米英はソ連に対するヤルタでの要請を無かったことに出来た)

その頃、作戦のテーブルに上っていたものは、九州地方から暫時陸上作戦を続行するもので、日本が白旗を揚げない限り白兵戦も否定できないと思われていた頃で、新兵器が使用可能になったことを知らされたトルーマンは正に天にも昇った気持になっていたと推測される。

トルーマンは、早速ワシントンにこの事の発表はしない様(do not release)に命令を出している。

しかし、全人類にとって不幸なことに、既にスターリンはアメリカが原爆実験に成功したことを在アメリカのソ連スパイを通して知っていた。

それで、ソ連側としてもアメリカが原爆を日本に投下する決定を下す前に、日本に侵攻して「実績」を挙げなければ戦後の分け前にあずかることが出来なくなることを悟ったと思われる。(筆者の推論)

果たして、ソ連は日本との不可侵条約を一方的に破棄して、米英首脳と約束した通り、1945年8月9日、日本に対して侵攻を開始したのであった。

8月9日は広島に続いて、長崎に2度目の原爆が投下された日であった。

その時になって、ようやく我が国は遅まきながらポツダム宣言を受諾、連合国に無条件降伏を宣言した。

ソ連の千島列島への侵攻は8月28日~9月5日に起きていることを考えると、そこに歴史の皮肉さを考えざるを得ない。

1945年を遡ること40年、1905年、日露戦争の結果ロシア固有の領土であった樺太の南半分を日本に割譲させられたことはロシア民族の立場に立って振り返ると慙愧にたえない屈辱であったことは否定できない。

太平洋戦争末期に於いて日本の指導者の決断力不足から終戦の時期を遅らせ、無駄な時間を費やし、その為、アメリカに原爆投下の機会を提供し、ソ連に千島への侵攻を許した責任は極めて重いと云わざるを得ない。

戦争終結の直前に、ソ連が行った千島の占拠と“シベリア抑留”は日露戦争の仕返しとしか筆者には映らない。スターリンは当時、“日ロ戦争の貸しは返した”と云う主旨の発言をしている。

最近「北方領土」をロシア大統領として初めて訪れたメドジェイエフの発言を集約すれば。①この問題の解決を次世代に残すことは考えられない。(2008年11月)②クリール諸島(千島列島におけるロシアの主権を疑問視するような試みは、日ロ両国の平和条約の促進には繋がらない。-麻生首相の“北方慮度に於いてロシアの不法占拠が続いている”との発言に対してー(2009年5月)③この問題から逃げるつもりはない。(2010年4月)鳩山首相に対してー④近いうちに必ずそこに行く。(2010年9月)⑤国後島で、ここでの生活はロシア中央部より必ず良くなる。(2010年11月)

メドジェイエフ氏は若い気鋭の大統領であり、決断力に優れている。これらの発言の目的はまさしく「強いロシア」の意思の表明と次期選挙用のプロパガンダとも取れなくはない。

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オレゴン・トレイルとララミー砦

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ララミー砦は日本では“シェーン”の名で放映された、アラン・ラッド主演映画で注目を帯びたが、その歴史的背景についてはあまり知られていないのであらましを述べてみたい。

去る、9月、シアトルに用事があったためアメリカ西海岸、シアトルからオレゴン州周辺を旅した。

それで、ユタ州のソートレーク(Salt Lake City)に飛び、ワイオミング州のイエローストン国立公園(Yellowstone National Park)内を回遊、帰路、マウント・テトン国立公園(Mt.Teton National Park)を訪れた。

そこで知ったのは、この周辺が19世紀半ばに幌馬車を連ねてカリフォルニアを目指すフロンティアーの集団が必ず通らなければならない関所のような、有名な“オレゴン・トレイル”(The Oregon Trail)の入口であることを知った。

ララミー砦(Fort  Laramie)ー写真下ーは最初、毛皮貿易者(Fur Trader)の集会所と原住民との商取引所として、1834年にフランス人、ウイリアム・サブレットが“ウイリアム砦”の名で建てた貧しい木造の建物であったが、1841年になりそれがアメリカ毛皮会社(American Fur Co.)に売り渡された。

毛皮貿易の全盛期が過ぎた1849年に、カリフォルニアの金鉱山の発見でにわかに押し寄せてくる何万人の山師たちの受け入れと、入植者を凶暴なスー族(Sioux Tribe)から守るため、アメリカ政府が買い取って堅固な砦を築いた。

挿絵写真(教会の窓から見える山並み)でも判るように、目前に万年雪をかぶったロッキー山脈が迫って見える所で、幌馬車隊が一息入れて後、目前にそびえる山々を眺めて「ロッキー越え」の決心を付けなければならない場所でもあった。

大半の入植者たちは西の肥沃な、“約束された土地”(Promised Land)、カリフォルニアを目指したが、中には危険を恐れてここから引き返す人々も少なくなかったと云われている。

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アメリカ政治学者「ナベサダ」とジャズ・コンサート

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ジェラルド・L・カーティス氏(Gerald L.Curtis 1940~)、アメリカの政治学者、コロンビア大学(1968卒)政治学博士号取得。早稲田大の公共政策研究所客員教授、東京財団上席研究員・仮想制度研究所フェロー。

カーティス氏は知日派のアメリカ人政治評論家として我が国では広く知られている。

筆者も、毎日曜日、午前5時半から始まるチャネル④の政治番組に時々出演して、流暢な日本語で政治解説するので覚えているが、今回「ナベサダ」こと日本では知らない人も少ないジャズの大御所、渡辺貞夫と来る20日、“新宿ピット・イン”で「ジェリーカーティス トリオ」の名称でデビューするとの記事(毎日、11月5日)を読んで驚いている。

一年の半分は日本で過ごすと云う70歳の大学教授、ナベサダさんに出会ったのは今年の春、スッカリ意気投合して、早速この度の出演となったとのこと。

チケットは既に完売とは、またまた驚きである。

ナベサダさんを特別ゲストとして、中村健吾さん(ベース)、大坂昌彦さん(ドラム)との豪華メンバーで日本での初出演であると云う。

当のカーティス氏によると、10代でピアノにはまり、学生時代より夏休みにはリゾート地のホテルでピアニストとしてアルバイトに励んだらしい。

ところが数年前突然、自分の音が嫌いになって、再び本格的レッスンを受けたり、音楽理論を研究していたところで渡辺貞夫氏に巡り合って“出演”を決心したらしいが、老政治学者が他国の大都会の真ん中で玄人に交じってコンサートを決行する思い切りの良さには少なからず驚いた次第。

日本の学者や政治家には新しい刺激剤となること間違いない。

カーティス氏の今後の研鑽を願ってやまない。

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反省を要する中国の世界観

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中国の民主活動家、劉暁波氏に与えられる今年のノーベル平和賞授与式が来月行われる。

このことは劉氏の個人的問題であるべきで、ましてや国家がこれに異議を差し挟むべきでないことは誰にも明らかである筈。

これに関して中国政府がノールウエー、オスロー駐在の各国大使に対して授与式に主席しないように求める書簡を送付している事実をAP通信が伝えている。

中国は既に正式にノーベル賞委員会に授与しないように要求しているが、その理由は劉氏が“犯罪者”であること以外にはない。

これは明らかに劉暁波氏が中国の非民主的政策に反対を唱えたことを捉えて犯罪者と断定し投獄したためである。

世界的見地から判断して劉氏が世界の平和に貢献した事実の理由を中国は大局的見地にたって考えるべきである。

ノーベル賞委員会に授賞式式場で劉氏の功績をあえて発表しないように要請したことを知って、改めて中国の国家としての認識の不足を感じずにはいられない思いがする。

ノーベル研究所のルンデスタット所長は世界に送付済みの千通以上の招待状の内、中国宛てに送られたものはすべて未開封のまま返送されてきたと述べている。(京都新聞)

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中国は正式な国連常任理事国か?

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国連常任理事国に何故「中国人民共和国」(中国)が名を連ねているのか理解に苦しむ。

第二次世界大戦の終わった1945年の国連創立時では中華民国(総統:蒋介石)が常任理事国入りとなったが、中華民国が内戦で毛沢東の中共に敗れて台湾に避難した。

筆者の知る限り、1949年、中国人民解放軍が、現在の中華人民共和国として独立宣言をしますが、国連はその時、中国を独立国と認証していなかったのでは考える。

その理由として、1950年に始まった「朝鮮戦争」では、韓国側を支援したアメリカを中心とした国連軍に対して北朝鮮を支援したのは中国人民解放軍であったと記憶する。

筆者はこの時点で反共産国家のアメリカをはじめとした、所謂“連合国”が蒋介石の中華民国を1971年以後、国連の常任理事国から除名した理由は何であったのか理解に苦しむとこである。

何時から何故、毛沢東の中国が国連の常任理事国の椅子を得たのでしょうか。

中華民国は未だに存在する独立国として存続していることは世界が認めるところ。

筆者はこの辺の事情を説明する国連本部としての正式な声明文の内容を知りたいと思っている。

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