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「北方領土」を再考する

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日本中が今、領土問題で危機に襲われている感がある。

尖閣諸島領有権問題で中国に牽制され、ロシアには所謂「北方領土」の問題で戦後永らく講和条約が締結できないでいる。

前者の帰結が日本か、中国かと云えば、日本が現実問題として占有を続けているのであるから、これを中国が武力で我が国から脅し取ることは極めて困難である。

それに反して、1945年、第二次戦争の結果、我が国がソ連を含む、連合国に無条件降伏を宣言して、ソ連の「北方領土」占有が始まった。

住民が日本に送り返されて以来65年間、今ではロシアが占有を続けているのが実情である。

北方領土の領有権主張問題では不思議にも、自民党も共産党もマスコミを含めて同じことを言っている。この問題に敢えて異議を差し挟むことが「タブー」視されている感がある。

即ち、これら4島は日本の固有の領土であり、ロシアによる占有は許し難く、速やかに返還されるべきだと云う意見である。

それなら北方領土に関する日本の主張の根拠は何に根差しているのだろうか?

最近になって、メドチェイエフ、ロシア大統領が自らそこに赴いて、ここはソ連が第二次大戦での日本の降伏で、合法的にソ連の領土となったと宣言した。

このロシア大統領自らの行動は“選挙対策”だとか“威力誇示”だとか云う噂があるが、日露の間の懸案を一気に終わらせたい意図であったことは疑いのないところであろう。

1875年5月7日、日本はロシアと、樺太と千島列島の交換交渉で、樺太全島をロシアに、千島列島(北方4島を含む)を日本の領土とすることに同意した。

この条約は同年8月22日に成立、批准書交換が行われ、その時点で樺太は正式にロシアの領土として組み込まれた。

そこで日本は千島列島を領有することになった。

今から105年前の1905年、日ロ戦争の終盤に於いて、アメリカ大統領、テェオドール・ルーズベルトの仲介で、アメリカ、ニューハンプシャー州ポーツマスに於いて日露講和交渉がもたれた。その結果、日本は賠償金の代償としてロシアより樺太の南半分の割譲を得た

日本海海戦(1905年5月27日)でロシア帝国の誇ったバルチック艦隊が日本に依って壊滅状態となったことが発端となりロシアでは停戦することに機運が傾いていた。

アメリカ大統領が、日露両国に休戦を正式に勧告したのが1905年6月9日(日本海海戦の12日後)であった。

日本海海戦の結果は世界中に強い印象を与えた。制海権の喪失でロシアには戦勝の機会はなくなった。

そこで小村外相は、もはや待つまでもなく平和交渉の幹旋をルーズヴェルトに依頼するように、高平小五郎駐米大使に訓令を発したのが同31日であった。

これを受けてルーズヴェルトは駐米ロシア大使カシニーに日本の意向を伝え、ロシアは正式に6月7日に平和交渉のテーブルに就くことに同意した。

この時点で、両国ともに戦争をこれ以上継続出来ない理由があった。日本側は経費、兵力の面で、ロシアは国内に不穏状態を抱え、すでに「革命」が始まっていたと云ってもよい状態であった。

この戦争の結果は世界中に知れ渡り、大国ロシア帝国が極東の、当時、その存在さえも知られていなかった“小国日本”に敗れたことが白日のもとに明らかになった。

この戦争は20世紀初頭における一大ニュースであり、ロシアの面子は丸つぶれとなった。

それ以後、ロシアの内政は混乱し、ロシアではユダヤ人の暴動で本格的「ロシア革命」に繋がった。(1917年)

革命の結果、王朝は崩壊し、ロマノフ二世を含む全家族が殺された。

従って、ロシア人にとっては日露戦争の敗北は大きな屈辱で、このことはロシア全国民が決して忘れることのできない事件である。

歴史を調べて明らかなことは、ロシアが和睦に同意した1905年6月7日頃には日ロ両国は休戦状態に入っていたと思われるが、しかし、日本では続いて樺太に対する侵攻が討議されていたことは意外である。

7月9日、それが現実のものとなり、第13師団による樺太侵攻が始まり、8月1日には樺太全島を占領してしまった

その間、日本の樺太占領に関係なく、ポーツマスに於いては両国の間で平和交渉は続いていた。

日露講和条約は1905年9月5日締結したが、その間の日本の樺太の占拠は既定の事実となっていた。結果的に日本は賠償金の代償として南樺太の割譲をロシアに認めさせることとなった。

その時のロシアの全権大使ヴィッテは、樺太はロシアの固有の領土であることを理由に最後まで抵抗したが、結局、この条件を呑まざるを得なかった。

1945年2月、アメリカ大統領、ルーズヴェルト、イギリス首相、チャーチル、ソ連の首相、スターリンがソ連の避寒地、ヤルタにて「ヤルタ会談」がもたれた。

そこではドイツと日本の問題が主に話し合われ、同時にソ連に対しては、ドイツの戦後処理が終わり次第、なるべく早い時期に日本の背後(満州)から侵攻をするように要請がなされたと云われている。

その時点では原子爆弾が未だ完成していなかったため、ソ連の援助が必要不可欠と思われていたのではないかと考える。

この会談でアメリカは、もしソ連が対日戦に参加すれば、当時日本領であった南樺太と千島列島の取得、満州、大連港でのソ連優先権、旅順港のソ連租借などをひそかに約束していたと云われている。(仲晃著“黙殺”ポツダム宣言の真実と日本の運命、下巻、P.58参照) 

米英及びソ連の代表がポツダム(ドイツ)にて、日本に対して発表したポツダム宣言(1945年7月27日)の最中に於いて、所謂「原子爆弾」の実験がアメリカで成功したことは歴史の皮肉と云わざるを得ない。

その時点では、エレノア・ルーズベルトは既にこの世になく、ハリー・トルーマンが大統領に昇格していた。

客観的に見て、その時期(1945年7月末)の日本の状態は既に戦力を殆ど喪失していたのであり、米英としても、原子爆弾を新兵器として使用できることが明白になっていた。

それなのに、対日戦争で何の貢献もしなかったソ連に後方支援を依頼する理由があったのだろうか?(米英はソ連に対するヤルタでの要請を無かったことに出来た)

その頃、作戦のテーブルに上っていたものは、九州地方から暫時陸上作戦を続行するもので、日本が白旗を揚げない限り白兵戦も否定できないと思われていた頃で、新兵器が使用可能になったことを知らされたトルーマンは正に天にも昇った気持になっていたと推測される。

トルーマンは、早速ワシントンにこの事の発表はしない様(do not release)に命令を出している。

しかし、全人類にとって不幸なことに、既にスターリンはアメリカが原爆実験に成功したことを在アメリカのソ連スパイを通して知っていた。

それで、ソ連側としてもアメリカが原爆を日本に投下する決定を下す前に、日本に侵攻して「実績」を挙げなければ戦後の分け前にあずかることが出来なくなることを悟ったと思われる。(筆者の推論)

果たして、ソ連は日本との不可侵条約を一方的に破棄して、米英首脳と約束した通り、1945年8月9日、日本に対して侵攻を開始したのであった。

8月9日は広島に続いて、長崎に2度目の原爆が投下された日であった。

その時になって、ようやく我が国は遅まきながらポツダム宣言を受諾、連合国に無条件降伏を宣言した。

ソ連の千島列島への侵攻は8月28日~9月5日に起きていることを考えると、そこに歴史の皮肉さを考えざるを得ない。

1945年を遡ること40年、1905年、日露戦争の結果ロシア固有の領土であった樺太の南半分を日本に割譲させられたことはロシア民族の立場に立って振り返ると慙愧にたえない屈辱であったことは否定できない。

太平洋戦争末期に於いて日本の指導者の決断力不足から終戦の時期を遅らせ、無駄な時間を費やし、その為、アメリカに原爆投下の機会を提供し、ソ連に千島への侵攻を許した責任は極めて重いと云わざるを得ない。

戦争終結の直前に、ソ連が行った千島の占拠と“シベリア抑留”は日露戦争の仕返しとしか筆者には映らない。スターリンは当時、“日ロ戦争の貸しは返した”と云う主旨の発言をしている。

最近「北方領土」をロシア大統領として初めて訪れたメドジェイエフの発言を集約すれば。①この問題の解決を次世代に残すことは考えられない。(2008年11月)②クリール諸島(千島列島におけるロシアの主権を疑問視するような試みは、日ロ両国の平和条約の促進には繋がらない。-麻生首相の“北方慮度に於いてロシアの不法占拠が続いている”との発言に対してー(2009年5月)③この問題から逃げるつもりはない。(2010年4月)鳩山首相に対してー④近いうちに必ずそこに行く。(2010年9月)⑤国後島で、ここでの生活はロシア中央部より必ず良くなる。(2010年11月)

メドジェイエフ氏は若い気鋭の大統領であり、決断力に優れている。これらの発言の目的はまさしく「強いロシア」の意思の表明と次期選挙用のプロパガンダとも取れなくはない。

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