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太平洋上での日米海軍最初の遭遇

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前号のブログでハワイ王国と我が国との接触について記したが、少し誤りがあることから、訂正しながらその後の日米関係に就いて筆者の感想を書き足すこととしたい。

1881年カラカウア1世は訪日して明治天皇、伊藤博文外務卿と接触して、将来の日本からの移民策について会談したが、筆者はカラカウアが最初の訪問国を日本と定め、姪の王女カイウラニの婚姻の相手として日本の皇室を希望して密かに打診したことは、只の思いつきからのものでなかったと信じる。

先に述べたようにカラカウアの心境は、差し迫ったアメリカの圧力を感じ、穏やかならざる脅迫感に駆られていたことが判る。

現にカラカウアに影のように随行していたのは二人のアメリカ人であり、恰も監視つきの旅行であったとも思える。

その頃のハワイ王室の正装姿は、その後、日本でも流行する西洋風のいでたちであった。

現にその頃に完成したイオラニ宮殿は、我が国の赤坂離宮そのもので、ハワイ王朝がすでに社会面から、政治面からも西洋色から抜けだせない状態(日本の鹿鳴館時代の感覚?)であったことがわかる。

アメリカ人のハワイ人に対する心情は、正にフランス人がタヒチ人、また、イギリス人がニュージーランドのマオリ族に対し持っていた、見下す姿勢が顕著に見て取れる。

1887年にアメリカの助言のもとに制定されたハワイの憲法は俗にBayonet Constitution(拳銃憲法)と呼ばれる如く、アメリカの威嚇に晒されて出来たものであったらしい。

カラカウア王はこのような事態を憂慮しながら近い将来には外国勢力に屈して植民地化されるハワイの運命を憂いての日本訪問であったに違いない。

日本も明治維新3年後のことでもあり、とても外国の事情まで心配りが出来る状態ではなかった。

カラカウア1世はその10年後、サンフランシスコで客死するが、彼の後を継いで王位に就いたのが、妹のリリウオカラニ(53)であった。

彼女は即位2年後、1893年に憲法の改正を計ったが、アメリカの反対勢力の扇動で暴動となり、アメリカは軍艦ボストンの海兵隊の上陸で政治介入を行い、女王は軟禁されて、その後釈放されないまま失意のうちにその人生を閉じた。

リリウオラニが幽閉中に作曲したのがその後、不滅のメロディーとして世界中で歌われる名曲「アロハ・ウエ」である。

日本の巡洋艦「浪速」(艦長:東郷平八郎)と「金剛」はその時、非常事態に於いての在留邦人保護の名目でホノルルに赴いていて、アメリカ軍艦ボストンと並んでハワイ島の港に停泊していたと云われている。

このことをアメリカ政府がどのように解釈したかは今となっては知るよしもないが、その時に日本とアメリカの海軍が太平洋の真ん中で鉢合わせしたことは何の奇遇でもなかったと筆者は考える。

だがアメリカの軍艦ボストンと海兵隊の派遣は明らかにハワイ王国に対する軍事介入の目的を持ってなされた行為と考えられる。

日本の軍艦2隻のハワイ方面派遣も名目は“在留邦人の保護”であったがアメリカに対する威嚇の意味あいをもってなされた示威行為であった疑いは濃厚である。

その後の日本からの開拓移民へのアメリカ政府の待遇を見るにつけ、アメリカは既に我が国を太平洋上の仮想敵国と考えていたのでないだろうか?

日本はその翌年(1894)清国と戦う運命にあり、アメリカも5年後の1898年、キューバのハバナで起こった米戦艦メーン号の沈没事件を機にスペインに戦いを挑み、キューバ、プエルトリコ、太平洋上のグアム、ミッドウエイ、フィリッピンを瞬く間に占領して、その後は太平洋上の覇権を日本と競う運命となった。

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