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IBMに続いてNECも中国の軍門に下る!

Pasokonn

NECと云えば日本のパソコンの先駆と云われる。

一時は業界一の売り上げを誇っていた会社であったが、このたび中国の聯想(レノポ)グループとの合弁会社を創設、そこにNECのパソコン事業を移管する商談が成立した。

レノポは既にアメリカのコンピューター産業のパイオニアー、IBM社を買収済み、これで日米両国のパソコン事業の大手2社が中国企業の傘下に入れることとなった。

30年ほど以前では、パソコンはどちらかと云えば“趣味のツール”程度にしか思われていなかったが、そのパソコンをビジネスにとって不可欠の機械として普及させたのがほかならぬIBMであった。

インテルの演算用半導体CPUとマイクロソフトの基本ソフト(OS)が加わり現在のパソコンの世界基準が形成された。

我が国では日本語仕様の確立がパソコン普及の最大目標であったが、最初に国産のトップシェアーを獲得したのがNECであったと云われる。

筆者もその頃、(1980年始め),1機50万円程した、MS-DOS仕様のNECのパソコンを子供と電気屋街に出かけて買ったのを覚えている,

聞くところによると、IBM90年代に入って日本語表示をスフトウエアーだけで可能にする製品を開発したことで、NECの存在が薄れてしまったらしい。

日本語ソフトの障壁がクリアーされたことにより安価な外国製パソコンが日本の市場に流入、CPUOSは同じものを使用でき、パソコン業界は熾烈な価格競争時代に突入したと云われている。

現在ではインターネットを使って、独自の仕様を発注することで、中国で組み立てられたパソコンが宅配で受け取れる時代になりつつあり、このビジネス全体が単なる流通業となってしまった。

既にNECは海外のパソコン事業からは撤退済み、従って今後は国内のビジネスもレノポ系統経由に移行され、現実では第一線から退くことになる。

すべてがデジタル化され、パソコン組み立ては現実、殆どすべてが汎用品化されて、どのメーカーの部品を使っても大差が生まれない時代になってしまった。

技術開発段階では専売的ポジションを維持できても、基本技術が解明され、部品が汎用化されだすとビジネスそのものが一気に戦国時代のように混戦状態になる。

今流行りのスマートフォーンやタブレット型端末もやがてはパソコンと同じような運命をたどるのではと云われている。(毎日新聞、2011129日)

中国の強みは、事業のノウハウを考え出す努力をせずとも「既製品」を継ぎ足して、より大きな事業に組み立てることに何の躊躇も表さないことである。

世界の標準的モラルを無視してでも突き進む中国の“特殊性”は果たして何時まで通用するのだろう。

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American Bison(バイソン)

American_bison 北アメリカ大陸には18世紀の末頃にはバイソン(Bison or American buffalo)、が約2000万匹群れをなして生息していた。

その群れは、時には、40kmの長さになることもあったと云われている。

しかし、19世紀末になるとその総数は1000匹にまで減少していた。

ノース・ダコタ州で牧場を経営していた、アメリカ第26代大統領:セオドール・ルーズベルト(19011919)は、1888年に、“大平原にバイソンを見かけることが殆どなくなり、その反面、野ざらしで白く変色した彼らの頭蓋骨が目立つようになった”述べている。

その翌年の1889年、動物学者:ウイリアム・ホーナデイ(William .Hornaday,18541937)が政府に提唱して始まった保護政策の結果、現在では50万匹が生息している状態で、その内約54000匹食用にするために飼育中。

アメリカ大陸では”bison”,ヨーロッパ大陸では”wisent”と呼ばれるこの総称バッファロー(buffaro)と呼ばれている-野牛の原産はインドだと云われている。

( Oxford English Dictionary)

草食性で、英語では牛と同じく、オスはbull,メスはcowと呼ばれる。

オスは発情期以外は単独行動で生活し、発情期にはオスはメートをめぐって奪い合いを演じるが、滅多に死に至ることはない。

押し並べておとなしい性質の動物である。

アメリカのバイソンはヨーロッパの種類のものより足が短く、ずんぐりしていて、また、角の形状も違っている。

何故、彼等は100年の間に殆ど絶滅に近い状態になったかと云えば、18世紀以前、ヨーロッパ人が、その当時では北アメリカには存在していなかった馬に加えて火器(鉄砲)を持ち込み先住民がそれらを使用しだしてから減少の度合いが激しくなったと云われている。(バイソンの破壊、”The destruction of the bison,アンドリュー・アイゼンバーグ著、Andrew C.Isenberg, Cambridge Univ. Press)。

先住民が馬を持たず、弓矢に頼っていた頃には、先ず、野火をおこして獣を驚かせ、彼らを一か所に追いつめて仕留める手段による狩猟であったため、一度に多くは殺戮できなかった。

オスのバイソの大型になれば、軽く重さ、1頓のも少なくない。

群れが何かに驚いて走り出す時の破壊力はすさまじく、その音は平原に轟き、人工の柵や家をもなぎ倒して進む。

彼らが急速に移動する現象を”stampede”(スタンピード)と呼び、アメリカの原野では竜巻と同じように恐れられていた。

1820年頃からバイソンはミシシッピーの東部からその姿が見られなくなったが、その西の地帯には2000万匹が未だ生存していたと云われる。

1850年代には1千万頭が未だ西部の大平原に見られた。

1860年、南北戦争勃発当時、鉄道の開通でバイソンの毛皮がもてはやされ始め、西部地帯からも頭数の減少が始まった。

バイソンがその数を急激に減らしはじめたのは、ホームステッド・アクト法(Homestead Act)が制定された頃であったされる。

ホームステッド・アクトとは、1862520日に連邦議会で決められた土地法で、アメリカ市民、又は、アメリカ市民となる意思を表明した人に、160エーカー(約65,000㎡)の公有地を自営地として無償で付与することを規定した法律。

この規律で土地を得たものは、そこに家を建て、耕作を開始して、5年後に土地の私有が認められた。(この法律の制定で、1900年迄に約8000万エーカー、略32万平方キロが私有地となった)

たちまち、そこに住みだした開拓者は土地の私有権に訴えて柵を作った為、バイソンの繁殖範囲は絞られ、先住民の居住区が次第に西北部に移り、小さくなるに比例して、バイソンも次第にその数を減らした。

19世紀中頃から、白人社会でバイソンの皮のローブが流行したこと、バイソンの皮革をなめし皮にする技法の発達と、皮革ベルトの流行で、1830~1875年の間に凡そ1600万匹がダッッジ・シティー(カンサス)から東部へ送られたと云われる。

1905年、アメリカン・バイソン協会(American Bison Society)が設立され、1960年には2万頭に増加、現在では全米50州でバイソンがみられる状態となった。全米とカナダには約45万頭が確認されている。また、先住民(57民族)の社会では約15000頭の生存が確認されている。

(参考資料:American History ,Oct.2010,.PP.22

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ロシア国防次官択捉島視察

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人間の「性善説」に立脚してか、戦後、インテリ・ロマンティストの声だかな“非武装中立論”と“護憲”に沈黙させられ、ロシア革命当時のコミュンテルン思想を掲げる一握りの教育者の立ち上げた「日教組」が推し進めた初等教育が、その後、半世紀が過ぎ去った現在「日本国」の権威を著しくあやめたことが鮮明になりつつある。

昨年末、ロシアのメドチェーエフ大統領が前もって宣言した通り、「北方領土」を訪問して、4島はロシアの固有の領土で、日本の領土権主張が誤りであると主張した。

日本の同盟国、アメリカはこれについて何の反応も示していない。

21世紀を生きている日本人の中で、どれ程の人が日清戦争直後の「三国干渉」と、その本当の意味を知っているだろうか?

日清戦争後、日本が清国から割譲された遼東半島をドイツ、フランスとロシアが共同声明を発して、日本の清国への返還を迫った事件である。

明治政府は当時の世界情勢を考慮して断腸の思いでこれに応じた。

「臥薪嘗胆」と云う言葉がその当時の日本人の心中を示している。

昨日、1月6日、択捉島にブルガコフ国防次官が訪れた。この訪問が意味するところは、ソ連崩壊後縮小していた4島の軍備再強化にむけた具体的検討に入ったことである。

ロシアでは国後水道を“エカテリーナ海峡”、択捉水道を“フリーズ海峡”と呼び、年間を通じてオーツク海から太平洋に通過できる不凍ルートとして大変重要視している。

江戸の末、1875年の日露協議で、ロシアは樺太全島を、日本がクリール諸島(千島列島=北方4島を包含する)を領有することで合意に達している。

筆者の想像だが、ロシア帝国はオスマン帝国、フランス、イギリスを敵にして凄惨きわまりないクリミア戦争(1853~1856年)を戦った。

その戦いはカムチャッカにまで影響が及んだと云われるほど広範囲となり、ロシアの財政は底をついたとも云われている。

その窮状打破のため、1867年になり当時、東ロシアと呼ばれていたアラスカをアメリカに売り渡し、ロシアの東方進出の夢は破れ去った。

それまでのロシア帝国の領土は、シベリア以東、樺太、千島列島、カムチャッカを経て、数百とも云われる島と共にアラスカまで及んでいた。

日本に樺太全島の交換として千島列島を割譲することに応じた1875年は、筆者の考えるところ、アラスカの売却8年後で、ロシアにとってはクリール諸島(千島列島)の領有は必要性が薄くなったことから、日本にその権利を譲る見返りとしてサハリン(樺太)の領有を望んだと思われる。

世界的な地球温暖化現象の結果、ロシアが半ば占有している北極海が航行可能となり、ロシアとしては太平洋へのアクセスが自由になりつつある。

海中資源が豊富な北極海の存在価値は今世紀になって世界中から重要視されてきた。

ロシアとしては大国、中国を牽制しながら、太平洋まで勢力圏を広める足掛かりとして「北方4島」は欠かせない存在となったことは事実である。

ロシア太平洋艦隊にとって、年間を通して自由に航行できる「エカテリーナ」、「フリーズ」海峡の支配は欠かせない戦略的拠点となりつつある。

サハリン及び千島列島とその東北に位置するカムチャッカ半島等を最初に発見したのはロシア人である。

ロシアの側に立って考えると、1855年にロシアは徳川幕府との話し合いでサハリンを両国の共同所有にすることで合意した。

その後、前述したように、1875年以後では、サハリンをロシア領として日本が認めていたにも関わらず、1905年、7~8月間に何の断りもなく日本が上陸、占領してしまった。

ロシアは日露戦争の結果、ポーツマスにおいて敗戦国として不利な条件でサハリン南半分を我が国に割譲させられ、その後40年間、そこは地図の上で日本の領土として存在していた。

第二次大戦の結果、日本が固有の領土として訴え続けている北方4島は確かにソ連(ロシア)が1945年~2011年間占領を続けている。

我が国はソ連邦と永い間第二次世界大戦後、戦争の結果ソ連邦に占領された4島の返還交渉を続けている。(失地回復交渉)

これの返還が為されない為、半世紀以上の間、日露間には平和条約も結ばれていない。

日本はこの交渉では不利な立場にある、何故ならばロシアが返還に応じなければ実力行使では解決できないからである

第一次戦争で連合国側に立った日本は、ドイツが清国からの割譲で支配していた青島を占領、マリアナ群島を日本の統治下に置いた。その後も日本は同周辺の島々を第二次戦争終了まで領有した。

ソ連邦は日露戦争の結果失った満州での権益や領地を奪取する目的で、1939年、満蒙周辺のノモハンで日本に戦いを挑んだが思わしい結果を生まずに撤退している。

台湾、朝鮮半島は半世紀近く日本が支配し続けた。

アメリカの沖縄の占領は軍事基地以外の場所では解決をみたが、筆者の見解では、沖縄全土をアメリカは日本に返還したとは思っていない。

「北方領土」も「憲法改正問題」も「再軍備」も日本では永い間、政治の道具として弄ばれた感がある。

戦前から「北方4島」に住み、終戦で帰還を余儀なくされた元島民にとっては残念なことだが、これを解決させる策は当分見当たらないのではないだろうか?

我が国の指導者は現実を直視してこれの打開に全力を傾倒すべきだと考えるが果たして、その道は開けるのだろうか?

ロシアはグルジア紛争での兵力の立ち遅れを痛感、それ以来陸軍の増強に力をつぎ込んできた

さらにロシアは最近になり、フランスから強襲揚陸艦を調達、北方領土の周辺に配備しているとの報道もあり、我が国も対抗手段として、その周辺の防衛のために何らかの措置をとるべきだと考えるのだが。

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中国の新技術「人体標本」

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京都市で開催中の「人体の不思議展」に不思議にも加工された人間の遺体が並べられているのではと云う、チョット、我々の常識では考えられないことが起こった。(産経新聞、2011/01/19

もし標本が本当の遺体であった場合、特定場所以外の保管には自治体の許可が必要。この記事では、遺体の取り扱いに関する死体解剖保存法に抵触する可能性を疑っている。

京都府警も違法性の有無について捜査する方針を決めたらしいが、何故こんなことが起こった理解に苦しむ。

この標本が中国から日本に持ち込まれた経緯に不透明な部分があるらしく、京都府保険医協会が昨年暮れ民間団体などで構成する同展実行委員会を京都府警に刑事告発、主催者側や、京都市に対し開催の中止を求める運動が始まっている。

これは中国の「プラストミック」と云う新技術(?)らしいが、人間の遺体を実際に利用していることは確かな事実。

死亡した人間の水分や脂質をシリコン、ポリエステル樹脂に置き換え、半永久的に保存できる中国で開発された新技術。

これら標本は生前(標本提供者)の遺志に基づき合法的に作られた作品を主催者が中国から賃借した展示品と云われる。

これを知ってから、今、岡崎の“みやこ・めっせ”の「人体の不思議展」に足を運ぶ気持ちになる人はいるだろうか?

全身標本が10数体標示され、体の一部や臓器が輪切りにされたものや、血管が露出した呼吸器系標本、胎児の標本など約170点が会場に展示されている。

これは人体をホルマリン漬けにすることなく、しかも湿気や臭いがない上に、手で触れることもできるので画期的な「新技術」だと中国が主張するとすれば、まさに我々の常識と彼等のそれには可なりの乖離があるのではと思えてならない。

これはまさに常識的な日本人のヒューマニティー感覚が中国人には欠けているとしか思えない。

このような人体標本を新技術として外国に輸出することに何の反省も示さない国家と、オリンピックや世界博覧会を主催して文化国家を標榜している国家が同じであると考えたくもない。

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日本の伝統産業「和紙」

Photo( ひだか和紙製造機)

ひだか和紙有限会社(代表:鎮西まり子氏)

資本金:500万円、設立:1987年、従業員;14名、売上1億200万

ショウチャンが、本日紹介したい此の会社は上記のような小企業だが、やっている仕事の内容が素晴らしいと思うのでブログに取り上げさせて頂くことにした。

セールスポイント:

○手漉き和紙からの伝統の手法を、現代技術でアレンジして提供している。

○こうぞ原料処理から抄紙に至るまで、自社で一貫して製造。

○薄い紙は、3.5/㎡から抄紙する。

○その他、染色。噴霧塗装、スリッター、断裁等、各種加工引き受け。

和紙の産地は日本中にかなり存在しているが、ひだか和紙㈲の特殊性はごく薄の紙製造技術であり、手漉きの製造法を機械化した点にあるのではと筆者は考える。

既に、古文書の修復に貴重な材料として世界中で認められているところがスバラシイと感じた次第。

“ナノテク”と云われるごく小さいものを作る技術は日本が得意とする分野だが、“ひだか和紙”もその薄さと軽量の点で、まさに“ナノテク”なのである。

1㎡の紙の重さが3.5グラムは想像してみても可なり軽いのではないかと考える。

筆者は以前に関わっていた職業柄、国宝やその他の文化財修理の仕事ぶりを見ていて、古い経典や紙本の絵画、巻物等はすでに半分ほど炭素化してしまっている材料もある。

それらを修理するには、透視出来るほどの、ごく薄の紙が使われることが多い。

日高村、日下という谷合の里に土佐典具張紙協同組合10軒が集まって輸出典具帳紙協同組合が昭和24年(1949)に出来た。

初めのころには主にタイプライター用紙等を作って輸出していたが、「懸垂式短網抄紙機」が昭和44年(1969)に考案され、それが稼働してから“ひだか和紙”の方針が変わった。

伝統的原料処理の根本を生かしながら「和紙製造」という日本ならではの産業を守り、そこえ新技術を持ち込んだところに筆者は意義を見出した。

2009年3月5日、高知新聞掲載:「極薄土佐和紙、世界へ」

2009年11月20日、高知新聞掲載:「日高村のひだか和紙、世界一薄い和紙開発」

2010年1月6日、朝日新聞掲載:「四国経済インタービュー、薄さ0.02mmまさに神業」

ひだか和紙㈲の主な実績:1979年 高知県 土佐紙品評会最優秀賞の受賞

社長談“土佐典具和紙の手漉きから、時代の要求に沿えるように伝統の原料処理活かし、和紙製造一筋に取り組んでまいりました。時代ごとに変化する、お客さまの厳しい要求を頂き、解決することにより、自社の技術的グレードの向上、新しい技術の開発に努め、小さいながらも特色のある抄紙に育てて頂きました。”

代表取締役 鎮西まり子 〒781-2152 高知県日高郡日高村沖名3486-1

/fax: 0889-247857/0889-247858

ホームページ:http//www.hidakawashi.com/

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ピュリツアー賞

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アメリカでは文学、ジャーナリズム、音楽に貢献した人たちに毎年与えられる名誉ある賞、ピューリッツアーメダルがある。

これはニューヨーク・ワールド(New York World)の発行者であったJoseph Pulitzer(18471911,ジョセフ・ピュリッツアー)が、ノーベル賞が始まった17年後の1918年にコロンビア大学に遺贈して始めた運動である。

発足当時の金額は不明だが、現在ではそれぞれの部門の賞金は1万ドル、言うまでもなくノーベル賞と同じように、特にアメリカ作家にとっての名誉はハリウッドでのアカデミー賞(1927年開始)と同じくアメリカにおける名誉賞である。

ピュリッツアーはハンガリーからの移民で、1864年、イリノイ州、セントルイスに住み始めた頃は馬追いやウエーター等の職業を転々としていたが、彼のドイツ語の巧みなところを見染められて、ウエストリッチ・ポスト(Westliche –Post)の経営者、カール・シュルツ(Carl Schurz)にリクルートされた。

間もなく、彼は新生間もない共和党に入党、ミズーリ州の共和党議員議員となって1872年、第18代大統領、ユリシス・グラント(Ulysses S.Grant)の二期目の選挙に対抗馬、ホレース・グリーリー(Horace Greeley)を支持した。

1872年、プユーリッツアーはセント・ルイス・ポスト社(St.Louis Post)を3千ドルで買収した。

その6年後、セント・ルイス・ヂスパッチ社(St.Louis Dispatch)を2,700ドルで再び買収した時点で、その当時からピュリッツアーは政治腐敗、ギャンブル、脱税撲滅に向かってジャーナリストとしての正義を貫くべく“ペン”による運動を開始した。

その頃のアメリカは大不況の嵐が吹きまくっていたころで、特に73年~74年にかけてニューヨーク市の労働者の1/4~1/3程は失業状態であった。

それは南北戦争(1860~1865年)後、大都会への移民の流入が激しくなり労働抗議集会」が各所におこり(例:ニューヨーク市、トンプキン広場の騒動、(874年)、メリカ史上に残る「労働争議流血」の世代であったのである。

その混迷の時代に居合わせたピューリッツアーは時代の寵児になるべく存在したような人物となった。

1888年には彼は裕福なジャーナリストとなり、ニューヨーク・ワールド(New York World)を34万6千ドルで買収、年間四万ドルの赤字を垂れ流していた新聞社を、”Expose all fraud and sham,fight all public evils and abuses,and to batlle for the people with earnest seincerity.”(虚偽やすべての悪に立ち向かい熱心で誠意に満ちた市民の見方)をスローガンにして立派に立て直した。

1889年、ピュリッツアーは女性、ネリー・ブライ(Nellie Bly)の要請にこたえて80日で世界一周コンンテストを挙行、彼女が72日6時間」11分14秒の記録を打ち立てニューヨークに帰還レコードを打ち立てたとき、100万人がこれに参加したと言われている。

不幸にもピュリッツアーは43歳の若さで失明という不幸に見舞われた、その後、第一線から退きながらも編集の仕事を続け、有名を馳せることとなった、黄色のシャツを着た”Yellow Kid”を紙上に登場させ、一生のライバル、ニューヨーク・ジャーナル社オーナー、ウイリアム・ランドルフ・ハースト(William R. Hearst)と後世有名となる新聞戦争を戦った。

パナマ運河会社(French Panama Canal Co.,)と政府との間で不正の事実を暴露したことで、ルーズベルト大統領、よびJ.Pモルガン銀行から訴えられる事件があったが終局的にマスコミとしての正義が認められ起訴猶予となった事件は有名である。

ピュリッツアーは1911年世を去るが、遺言でコロンビア大学に200万ドルを投じて“新聞学校”を設立、その他、毎年文学、ドラマ、音楽とジャーナリズム分野で活躍した人物にピュリッツアー賞を授与する取り決めをした。また、1922年以後それは漫画家(Cartoonist)分野にも広げられた。

以下に主だったプリッツアー受賞者の名を列記すると:

文学部門:マーガレット・ミッチェル(1937)風と共に去りぬ、ジョン・スタインベック(1940)怒りの葡萄、ジェームス・ミッチナー(1948)南太平洋、アーネスト・ヘミングウエー(1953)老人と海、その他、ウイリアム・フォークナー、ノーマン・メーラー等が続く。

劇作家では:ユージン・オニール、4回、ロバート・シヤーウッド2回、に続いて、テネシー・ウイリアム(1955)熱いトタン屋根の猫、アーサー・ミラー(1949)セールスマンの死、テネシー・ウイリアム(1948)欲望という名の電車らが日本では知られている。

その他の部門、歴史、伝記、自叙伝、アメリカ詩文、ノン・フィクション、音楽等は都合で割愛する。参考文献:The World Almanac and book fact 2010,N.Y.Times.

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日本の農業問題の再検討必至

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“主食”と“副食“とは一体何のことを指すのだろうか?

日本人はヨーロッパ人の主食はパンと思っているのではないだろうか?

もしそうだったら、その辺から日本人は外国人の生活を理解していないと言える。

ヨーロッパの食事の内容から「おかず」と思えるものはない。彼らの食べているものは日本人的感覚からでは、すべてが「おかず」になってしまう。

ご飯と言えば米の食事で、これを我々は主食と言っている。(米を食べる=主食)

西洋では日本人が「おかず」と呼んでいる種々雑多なものを食べて、それが「食事」となっている。

筆者も、この感覚の違いに気付いたのはごく最近のことだった。

西洋では、もちろんパンも食べるが、それは彼らの食事の一部と考えているし、イタリア人が好んで食べるスパゲッティーも食事の一部であって決して彼らはそれを主食とは思っていない。

イギリスの植民地であったアメリカからヨーロッパにもたらされたジャガイモ、トウモロコシ等もステーキやサラダ、バナナも当然に食事の一部として考えている。

極端な場合、コーヒとアイスクリームだけで昼食に決めている人もいる。

砂糖の世界史の著者、川北稔氏(岩波ジュニア新書)によると、紅茶や砂糖の接収は穀物と同じくらい大きな意味を持っていて、イギリス人は平均してカロリーの15~20%を紅茶入りの砂糖と、スウイートと呼ぶ夕食後のデザートから摂取している。

最近の我が国での米の消費傾向は明らかに下降傾向にある。

このことは国民の食に対する趣向が「米食」より他に移りつつあることを示していることは明らか。

しかし、自民党の支持票の大きな根源であった農協関連団体は将来にわたって農業は国の保護下以外で生き残れないことに決めている感がある。

”あまやかし”の農業政策は民主党が政権をとっても続いているかに見える。

しかし、最近、政府が控訴を取り下げた諫早ダムの問題から新しい民主党の方針の変化が見て取れる思いがする。

菅首相は最近、T.P.P.(環太平洋戦略的経済連携協定)にかなり前向きな発言をしている。

一昨年、9月政権の座についた民主党は、その後の度重なる失策と内部の亀裂発覚で窮地にある。

そこえ、朝鮮半島での政治的緊張、沖縄米軍基地関連で、アメリカから圧力がかかって、この辺で何か具体的なパーフォーマンスを示さなければならないので、T.P.P.協定規約に妥協して、当面の窮地脱却策にしたいのではと思えてならない。

「米」と「憲法」の問題は戦後日本の最も難しい政治主題であった。

最近“防衛問題”が日本の死活にかかわる事案として真剣に語られ始めている。

人口の減少と食事にたいする趣向の変化で、米の自給が将来にわたって、

ほぼ目安が付いた今日、農業問題は他の産業と同じように扱われてしかるべきだと筆者は思っている。(農地規模の改定、農業法人化等による)

自由競争ができる態勢ずくりに農業を導くことこそ政治家の仕事であり、自分たちの「票田」を得るために農民を利用するべきではない。

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アラスカ旅行

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筆者は昨年(2009年)9月、突然アラスカに行きたくなりシアトル経由でアンカレッジへと向かった。

目的は北アメリカの最高峰、マッキンレー連峰を上空から眺望することと、カトマイ国立公園での野生のヒグマの視察、氷河地帯をこれも上空から眺望することであった。

9月中頃になると、さすがに冬が近く、天候も定まらなかったので、曇り空が続いて、マッキンレー上空からの眺望は満足度から程遠かった。

アンカレッジからフェアバンクス間を走っている展望車付きの列車行は、日本ならさしずめ1時間半くらいで到達する距離を、実に7時間もかけてゆっくりと走った。

途中に動物を見つけたり、遠方に美しい景色を望める場所に来れば、アナウンスして止まって写真を撮らせてくれたり、沿線の歴史等を話してくれたり、のんびりとして一日を楽しむことが出来た。

氷河見物も一日かかっての悠然たるエクスカーションであった。

圧巻はカトマイと云う半島に水上飛行機で半時間で行けるブルックスキャンプ行であった。

そこはヒグマの島で、人間は全くの訪問客、至るところに熊がわが物顔で歩きまわって、河に産卵にやってくる何万匹と云う鮭を食べにくる様子を

密かに拝見するといった格好であった。

そこにはロッジが沢山建っていて、予約客は宿泊できるようになっているが、われわれは日帰りであったが、パーク・レンジャーの案内でヒグマの通行を妨げないように用心しながら彼らの鮭狩りを物陰から見させて頂いた。

ほぼ10~20メートルのところをノッソ、ノッソと歩いて通りすぎる大小のヒグマ達、捕まったならば命はない、スリル万点の経験を味わった。

アラスカでもカナダでも湖が何千と存在するので、水上飛行機がモーター・ボートの同じ数程存在する。

外海では波が高くなるので利用は奨励されないが、湖上や河ではこれほど便利なものはないと思った。

離陸までの滑走距離はせいぜい100~300メートル程で簡単に離陸して、しかも低空を飛ぶので下界の景色は万点である。

自然を大切に保ちながら野性的な生活様式を満喫している人達の暮らしぶりを羨ましく感じながら帰路に着いた。

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センター試験についての感想

Photo_3 大学入試「センター試験」(元共通一次試験)が明日、1月15日(土)から始まるが、天気予報によると全国的に今冬最大の寒波が日本列島に到着するとのこと。

毎年なぜこの時期に全国的に大学入試のための試験をする必要があるのか?

統計的に1月半ば頃は一番寒くなることが判っている。

昨年も北陸地方に大雪が降り、遅刻しそうになった女子高生を親切なダンプの運転手が親切にも自分の仕事をも顧みずにその生徒を試験場まで送り届けた美談を新聞各紙が取り上げて、チョットしたニュースになったことを記憶している。

春の大学の入学試験時期にあわせて「センター試験」がこの時期にならざるを得ないということがその理由なのだが、文部科学省は何故この入試日程を改めないのか疑問を持たざるを得ない。このまま何ぼ反省もなく続けているといずれ人身事故が起こる可能性も無きにしもあらず・・・・・。

毎年、大雪で遅刻する受験生のために後日特別試験を行うことまでしている。親の心配、関係者の特別配慮を排除してまで何故、危険を冒してまでこの時期に試験を決行する必要性があるのだろう。

世界的に考えて学校の新学期は9月となっている。それが日本は伝統的に桜の咲く4月が常識、国民感情からこのシステムを変えられないとでも考えているとすれば日本の政治家の常識に疑問を持たざるを得ない。

筆者も経験があるので日本の学期制度に反対を唱える者だが、大学卒業生が、たとえば、アメリカに留学するとすれば、4月~8月末まで半年以上時間の無駄が生まれる。

最近、日本からの外国留学生が減少していると言われているが、我が国の特殊な学期制度もこれに関連しているかもしれない。

受験生や家族に何も事故が起こらないことを祈りたい。

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戦後教育の反省

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戦後日本の犯した大失策は「教育」である。第一に“我が国は戦争によって近隣の国々に数々の迷惑をかけた”と云うこの懺悔ともとれる観念を子供たちの頭に教え込んだ。

日本は中華民国以外の近隣の国々とは戦争を起こしていない。

日本が相手にしたのは英米蘭と中華民国の4国であり、侵攻したアジア各地は英米蘭の3国が植民地としていた場所であっ、国家ではない。

日本の目的は主にアメリカ、イギリスとオランダの軍隊をそれらの植民地から駆逐することが主眼であった。

戦勝国にだけ正義があって敗戦国には罪だけが残って、全ての罪を背負わされることはあってはならない。

第二次世界戦争の終結から既に65年が過ぎ去った。我が国も謝罪外交を中止して、今後はもっと建設的外交で世界の平和に貢献すべきである。

我が国の「懺悔教育」の反対に、中国、韓国などでは、初等教育の時点から“日本憎し”の教育を徹底して行ってきた結果、今では平均して65歳の国民すべてに反日本帝国主義の考え方がゆきわたっていると考えられる。

その反対に、筆者も最近気がついた事柄だが、我が国では初等教育の教科書に「日本海海戦」も「下関条約」ものっていない、いわば歴史的にみて、欠陥教科書を使っていた。

歴史は忠実に語られるべきで、いたずらに歪曲されたものは歴史学ではない。

もうひとつの失策は英語教育と弁論教育である。

筆者の経験では、アメリカの学校では初等教育の段階から人前でしゃべることを教える。その結果、若者は成長してから、自分の言葉でスピーチが出来るようになる。

我が国では天皇陛下をはじめとして、総理大臣まで、臣下や官吏の作文を伝い読みする風習が出来上がってしまった。

ましてや、自分の云いたいことを外国語でしゃべる事なんかは論外の話である。

筆者は以前、このブログで日経新聞が平成9年(1997年)中に3度も社説で、我が国における英語教育の改善の必要性を述べていることに注目し、発表した。

一回目は6月8日(日)の社説、“英語ができなければ国が危うい”、2回目は同年8月20日(水)で、“「英文和訳」思考から脱却を”、3回目は12月31日(水)で“教師の再訓練と能力向上ヲ」図れ”(英語を考える)であった。

日経新聞も世界がIT時代を迎え、世界語となった英語の必要性に注目したに違いない。

現にアジアの中で英語を国語としているフィリッピン、マレイシア、シンガポール、インド、バングラディッシュなどの発言力が増していることは事実で、今まで地球上で僻地と考えられていたオーストラリアやニュージーランド等もコンピューターを駆使して居ながらにしてビジネスが頻繁に、簡便に行えるようになった。

このままでは日本は他国に比べて英語力においてあまりにも立ち遅れが激しく、将来に希望が持てないが、以前にも指摘したが、アメリカに日本政府の資金で英語専門学校を設立して、産業界からの参加を促しながら、政治家や企業家のエリートの為の英語教育を促進しては如何かと考える。

英語を教える側も日本の歴史、風習、常識を身に付けた人材でなければならない。

ハワイやアメリカ西部には、日本語を話せる、3世、4世の日本系のネーティヴ・スピーカーを探すことは不可能ではない。アメリカも現在、就職率の低下と不況に苦しんでいる。人材の募集も現在ではそんなに難しくないのではと考える。

楽天やユニクロでは社内での会話、会議が今後全て英語で行われるとのこと、今後はこれに続く企業もますます多くなるとすれば、個人企業で始めてもやり甲斐のある企業として考えられないこともない。

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沖縄米軍基地の法的解釈

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今朝の毎日新聞の記事にアメリカオバマ大統領が昨年公約したキューバにあるガンダナモ収容所の閉鎖を見送ったとの報道があった。アメリカが何時頃からキューバにこの施設を保持しているかは知るところではないが、アメリカは明らかに独立国であるキューバ共和国内にガンダナモ収容所を治外法権の及ぶかたちで支配下に置いていることがわかる。

それでは沖縄の米軍基地は日米間でどのような取り決めで存在しているのだろうか?

我が国がかねてより堅持していると云い続けてきた「非核三原則」の公約は今では守もまれていないことは明白で、アメリカの原子力潜水艦、大型原子力空母はフリーハンドで横須賀海軍基地を出入りしている。

既に日本の警察は米軍基地に対して警察権が及ばないことが明らかになっている。

このことは在日米軍基地に於いてアメリカは治外法権を持っていることを物語っていることは明らかである。

非核三原則が日本が堅持するかしないかは別問題として、少なくとも沖縄の米軍基地がどちらの支配下にあるのかどうかを日本政府は国民に説明する義務があるのではないかと思うのだが。

もし、アメリカが沖縄軍事基地に治外法権をもっていると解釈しているとすれば、日本は未だにアメリカの支配下に置かれていることを国民は知るべきである。

何事につけ日本人は物事をはっきりさせない悪い性癖をもっていることは残念である。

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路上のホームレスがD.Jに!

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アメリカは良きにつけ悪しきにつけ、何がおこるか予測のつかないところが面白い。

どちらにしても、元D.J.(ディスク・ジョッキー)のウイルアム氏(Ted. William)にとっては新年からの朗報となった。(挿絵)

アメリカンドリーム未だ健在と云えるニュースは、オハイオ州、コロンバスの路上で“今は不遇な路上生活者のテッド。ウイリアム、元は天から授かった美しい声のアナウンサーです”と手書きのサイン・ボードをかざしてハイウエーに立っているところの写真が話題になり、地方新聞に取り上げられてチョットしたニュースになった。

それが瞬く間に、E-メールや、ツイッターの間で広がって、何万人からの問い合わせが殺到して、今やテッド君は全米の話題になっている。

当のウイリアム氏、もとは美声で人気を得ていたれっきとしたアナウンサーであったが、酒と麻薬に手を出したことから、身を滅ぼし、結局ホームレスとなってしまっていた。

しかし、勇気を出して手製のボードを作って道行く人々に訴えて、拾ってもらう機会を夢見ていたところ、それがメディアの注意を引き、噂が広がった。

今度は衰えていなかった彼の美声をラジオで“ホームレス・DJ”の名前で売り出したら、それに400万のファンがついたと云う。

今ではテッド君、職安通いの用事から解放されたばかりか、自分から職業案内や銀行ローンの案内もしていると云う。

アメリカンドリーム未だ健在かと問いかけたくなる朗報である。

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贋作物語ー1

Photo_5 日本美術史における贋作発覚事件の主なるものに筆者の知る限り、「永仁の壺事件」、「佐野乾山事件」と「春峯庵事件」が先ず頭に浮かぶ。

永仁の壺事件は、大正の初期に見つかったとされていた永仁2年(1294年)の彫り銘の見られる古瀬戸の瓶子にまつわる事件を指す。

文部技官であった陶芸家の小山富士夫がこれを真作で、日本で最古の年号を持つ陶磁器として重要美術品に指定する提案をした。

国宝保存会議が開かれたが、その席上、或る委員から銘文の彫り方に疑問が出され、その場での指定は見送られた。

昭和34年(1959年)になり、類似品で同じ銘文があることで知られていた瓶子が所在不明となっていること知った小山氏が、その海外への流出の可能性を指摘、重要文化財の指定を重要文化財保護委員会に推奨し認められた。

同年行われた展覧会で「永仁の壺」が重文として出品されたが、多くの識者からその形状、銘文の不自然さ、重さ等で再び問題提起された。

そこで、その発見場所と云われた、陶芸家、加藤唐九郎の窯跡が調べられた結果、小山氏が根拠としていた陶片の真贋も含めて、加藤唐九郎に対する贋作疑惑が持ち上がり、唐九郎の長男が制作に関わったことを認め、その後、パリにいた唐九郎自身もその事実を確認したことで、昭和36年(1960年)永仁年号銘瓶子の重文指定が取り消された。

佐野乾山事件は更に複雑である。

筆者は予てより模造者(贋作製作者とも呼ばれる)は制作にあたっては、一般のその道の識者、学者より周到な研究を重ね、優れた知識を持っていると思っている。

従って、大がかりな制作発表にあたっての“お膳立て”には専門家でしか知り得ないと思われるポイントを最初に用意している場合が多い。

瀬戸物(古瀬戸、志野、織部等)は時代の判定が難しいとされるが、緒方光琳の実弟、緒方乾山の作品鑑定は玄人でも至難とされる。

筆者は、作者はこれに目を付け、予め作っておいた「手控え帳」を後日出現させて関係者の目を欺いたのではないかと憶測している。

昭和37年(1962年)、乾山が晩年住んでいたと佐野(栃木県)で作ったと思われる作品がその2年程前から200点以上もマーケットに出現した。

それには乾山直筆と云う「手控え帳」がついていて、専門家がこれを真筆と判断したと云う触れ込みであった。(筆者もその当時、或る国立博物館の技官からホットニュースとして聞いたことを記憶している)

面白いことに、陶磁研究者、美術史家達が肯定派、古美術商、陶芸家らの大半が否定派となったことであった。新聞や雑誌社もこの問題を大々的に取り上げた。

問題提起の中心人物は名古屋の森川勘一朗氏(如春庵)と東京国立博物館陶磁室々長、林屋晴三氏。これには京都国立博物館工芸室長、藤岡了一氏の他、イギリスの陶芸家、バーナード・リーチ氏まで加わって50年に亘る論争が続いている。

専門家と認められて発言力、影響力のある、専門家達がこぞって「佐野乾山」を真作と認める背景に何か事情がありはしないか、奇奇怪怪な事件と云うのが筆者の意見。

少し長くなったので春峯庵事件は後日に譲ることとする。

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アメリカ・インディアンの戦士ジェロニモ

Geronimo

アメリカ先住民(インディアン)の内で、ショーニー族のテクムシ(tecumseh、1768~1813年)と、シャイアン族のジェロニモ(Geronimo本名:Goyathlay,1229年~1909年)の二人は共に、アメリカではリンカーン大統領と同じ程、有名戦士である。

テクムシは父親がアメリカ人に、ジェロニモは一族が、メキシコ軍によって殆ど皆殺しにされた時から、前者はアメリカ人、後者はメキシコ人への終生の復習を誓った。

テクムシは抵抗するにはあまりにも強力すぎる力と知りながら「インディアン・ナショナリズム」と云う彼の夢の達成に、ジェロニモは残酷で礼儀を重んじないメキシコ人に復讐を誓う獰猛な戦士に変貌した。

メキシコ人は確かに、他民族人を排斥する性質があり、白人(彼らはグリンゴと呼んだ)インディアン、シナ人等には特に冷酷で、メキシコ革命の戦士、パンチョ・ヴィラは“シナ人を見たら全て何のためらいも無く殺す”と豪語していたらしい。

ジェロニモとはスペイン語でメキシコ人のつけたあだ名、“ヘロニモ”、英語読みでは“ジェローム”。

アパッチ語でゴヤスレイ(Goyathlay)―,その意味は“あくびをする人”―、ウエキペディアに依ると、彼はネドン・アパッチ族の酋長を祖父に持つ。

1848年、17歳で結婚、3~4人の子供を授かる。メキシコ政府は早くから(1837年頃)アパッチ族の頭皮1枚に、男なら100ペソ、女、50ペソ、子供、25ペソの賞金を懸けていた。

冒頭に述べた殺戮事件は、1858年3月6日に起こった。そこで400人のメキシコ兵がジェロニモのキャンプを襲い、そこで彼は、妻、子供、母親を殺されたのであった。

その時からジェロニモはメキシコに対する復讐の鬼となった。

彼は山岳戦士としての訓練を積み、例えば、不眠に耐える訓練、水を口に含んだまま、吐き出さずに山岳地帯を走ると云ったものもあったと伝えられている。

夜陰に乗じて村を襲ったり、牛馬の略奪は云わば彼らの生業であった。

ジェロニモは度々敵の攻撃にあって重傷を負ったが不思議と80歳になる迄生き延びている。

南北戦争が終わって、アメリカ政府は本格的に先住民に追い打ちをかけ、居留地を定めて彼らをその地に閉じ込める戦略を始めた。

従って、フロンティアー運動の終焉の近ずいた1870年以降では、主に北西部に於いてアメリカ騎兵隊との間で激戦が交えられた。

最後まで騎兵隊を悩まし続けたのがジェロニモの率いるアパッチ族であった。

ハリウッドに於いてもジェロニモにまつわる映画が数多く作られた。

1856年から86年の間にジェロミノの一団は寝る間も無い程、アメリカ騎兵隊に追跡され続け、遂に1886年、第4騎兵隊のネルソン・マイルス司令官と、B大隊のヘンリー・ロートン大尉により捉えられた。(4回目)

一時はフロリダに送られたが暑さと湿度に悩まされ、最後にはオクラホマ州、フォート・シルに移送された。

ワシントンに於いて行われた、テオドール大統領の二度目の就任式のパレードには35000人の参加者達(カウボーイ、ハーバード大学生、ラフライダース、炭鉱労働者、海兵隊等)がブラスバンドと共に行進する場に、コマンチ、スー、ブラックフート等のグループと共にその当時最も恐れられていたジェロニモも参加が許された。

ジェロニモはその後オクラホマに帰り、1909年その多難な生涯を閉じた。現在、彼の子孫は彼の遺骸を生地のコロラドに持ち帰るべく申請を政府に申請しているが未だ解決には至っていない。

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黒潮とウラン

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「海水から有用希小金属を捕集できる魔法の布」を発明した高崎研究所材料開発部照射利用開発室 室長 須藤 高信氏は最近日本近海を流れる「黒潮」(海水)に含まれているウランの回収に成功し、特許を取得した。

黒潮に含まれるウランの両は現在の推定世界ウラン埋蔵量を上回る520万トンと云われる。

日本の年間のウラン消費量を約6万トンとすれば、もし黒潮が含んでいるウランの0.1%を毎年回収できたとすれば自給自足でき、この技術が採算的に可能ならば日本のエネルギー問題の一挙解決につながる朗報と云える。

現在我が国は原子力発電の燃料となるウランの100%を輸入に頼っている。

世界の陸地での総ウラン埋蔵量は500~600万トンと推定されているが、日本の近海を流れる黒潮(何故、黒潮なのか不明だが)には1年間で520万トンのウランが含まれているらしい。これは陸地の総埋蔵量と略同じ量に相当する。

世界の海全体のウランの量と加算うれば約45億トン、海の底の岩盤には、海水に溶けずに残っているウランが更に45億トンも含有されていると推定sれている。

その他希少金属のパナジュームの年間使用量の300倍、コバルトも年間使用量の400倍が1年間分の日本近海を通過する黒潮暖流に含有されている事実がわかったとの事。

毎年黒潮中に含まれるウラン、パナジューム、コバルトの0.3%のキャッチに成功すれば年間国内使用料エネルギーの全てを賄えると云う夢のようなお話。

これが成功すれば、ウラン他全ての有用希少金属の100%を輸入に依存していた我が国の最大問題解消が目前に近ずいたと云う朗報である。

保獲方法:

高崎研究所(℡:029-346-9233)の発表によると、“ウランなどの重金属だけを選んで吸着する不織府布(フェルト)の開発に成功、それを海に沈めておくだけで捕集が可能”。

その仕組みは:

“ウランは海水に沢山溶けていると云っても、その濃度は希薄。海水を蒸発させると塩が残るが、塩の粒34000個の中に含まれている1個のウランを逃さずにキャッチできる布が同研究所によって開発した不織布”

これには重金属だけに敏感に反応する「アミドキシム基」と云う構造を不織布に付着させ、電子線を照射して分子の動きを活発化させる、次に、アクリル繊維の原料を反応させ、「枝」を作り、それにアミドキシム基を付け、「グラフト重合」を仕上げた“

以上の工程で出来上がった不織布130枚を一組にして、ネズミ捕りのような篭「吸着床」(直径4メートル)を100個並べて海底に沈めておくと1年間に1トンのウランが回収でき、その他、パナジューム、コバルトなどの重金属類もウランより多く捕集できると云う。

この方法で捕集された重金属は濃度の違った塩酸で洗浄すれば簡単に分離が出来、ポンプで海水をくみ上げる様な手間なしに目的の成分のみを海中から回収できて、将来は日本が得意とする海産物養殖の技術の応用で有用希少金属養殖も夢でなくなるとの予想も考慮中らしい。

この開発にいか程の資金が必要なのかは詳細には発表されていないが、「特殊不織布」は我が国の先端技術として将来性が有望と考えられる。

写真:高崎研究所材料開発部照射利用室 室長:須郷 高信氏

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別項“ジョセフとショウジの英語イディオム”はジョセフの病気で中断しています。(ブログ:ジョセフとショウジの英語イディオムを訪問下さい)

残念ながらジョセフの回復が長引いていることで、この際、方針を変更して、ショウジ独自で再開いたすことにいたしました。

15年程前にショウジが愛用したことのある“ウイッキーさんの59動詞の英語塾”を骨格として、Webster New World American Idioms HandbookMcGraw-Hill’s Dictionary of American Idioms & Phrasal Verbsを副本に使用して英会話及び簡単な口語体の英文の作例をブログ上に紹介することとしたいと思っています。

Anton Wickyさんは30年以上日本に生活して日本人の間違いやすい英語を熟知していました。この小冊子は㈱三笠書房刊(東京都文京区後楽2-23-7)-ISBN-8379-0760-1 C0182-です。

筆者の専門は美術史と文化史ですが、それらのジャンルでは解釈の仕方こそまちまちですが、基本的に伝統的に伝えられた史実を後世に伝達することです。その点、語学でも基本に忠実に決まった云いまわしを伝えることに於いて共通しています。

今後如何に英語慣用語句を読者にお伝え出来るか不安ですが勇気をもって出発することに致しますので宜しくお願い致します。     ショウチャン

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