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アメリカ・インディアンの戦士ジェロニモ

Geronimo

アメリカ先住民(インディアン)の内で、ショーニー族のテクムシ(tecumseh、1768~1813年)と、シャイアン族のジェロニモ(Geronimo本名:Goyathlay,1229年~1909年)の二人は共に、アメリカではリンカーン大統領と同じ程、有名戦士である。

テクムシは父親がアメリカ人に、ジェロニモは一族が、メキシコ軍によって殆ど皆殺しにされた時から、前者はアメリカ人、後者はメキシコ人への終生の復習を誓った。

テクムシは抵抗するにはあまりにも強力すぎる力と知りながら「インディアン・ナショナリズム」と云う彼の夢の達成に、ジェロニモは残酷で礼儀を重んじないメキシコ人に復讐を誓う獰猛な戦士に変貌した。

メキシコ人は確かに、他民族人を排斥する性質があり、白人(彼らはグリンゴと呼んだ)インディアン、シナ人等には特に冷酷で、メキシコ革命の戦士、パンチョ・ヴィラは“シナ人を見たら全て何のためらいも無く殺す”と豪語していたらしい。

ジェロニモとはスペイン語でメキシコ人のつけたあだ名、“ヘロニモ”、英語読みでは“ジェローム”。

アパッチ語でゴヤスレイ(Goyathlay)―,その意味は“あくびをする人”―、ウエキペディアに依ると、彼はネドン・アパッチ族の酋長を祖父に持つ。

1848年、17歳で結婚、3~4人の子供を授かる。メキシコ政府は早くから(1837年頃)アパッチ族の頭皮1枚に、男なら100ペソ、女、50ペソ、子供、25ペソの賞金を懸けていた。

冒頭に述べた殺戮事件は、1858年3月6日に起こった。そこで400人のメキシコ兵がジェロニモのキャンプを襲い、そこで彼は、妻、子供、母親を殺されたのであった。

その時からジェロニモはメキシコに対する復讐の鬼となった。

彼は山岳戦士としての訓練を積み、例えば、不眠に耐える訓練、水を口に含んだまま、吐き出さずに山岳地帯を走ると云ったものもあったと伝えられている。

夜陰に乗じて村を襲ったり、牛馬の略奪は云わば彼らの生業であった。

ジェロニモは度々敵の攻撃にあって重傷を負ったが不思議と80歳になる迄生き延びている。

南北戦争が終わって、アメリカ政府は本格的に先住民に追い打ちをかけ、居留地を定めて彼らをその地に閉じ込める戦略を始めた。

従って、フロンティアー運動の終焉の近ずいた1870年以降では、主に北西部に於いてアメリカ騎兵隊との間で激戦が交えられた。

最後まで騎兵隊を悩まし続けたのがジェロニモの率いるアパッチ族であった。

ハリウッドに於いてもジェロニモにまつわる映画が数多く作られた。

1856年から86年の間にジェロミノの一団は寝る間も無い程、アメリカ騎兵隊に追跡され続け、遂に1886年、第4騎兵隊のネルソン・マイルス司令官と、B大隊のヘンリー・ロートン大尉により捉えられた。(4回目)

一時はフロリダに送られたが暑さと湿度に悩まされ、最後にはオクラホマ州、フォート・シルに移送された。

ワシントンに於いて行われた、テオドール大統領の二度目の就任式のパレードには35000人の参加者達(カウボーイ、ハーバード大学生、ラフライダース、炭鉱労働者、海兵隊等)がブラスバンドと共に行進する場に、コマンチ、スー、ブラックフート等のグループと共にその当時最も恐れられていたジェロニモも参加が許された。

ジェロニモはその後オクラホマに帰り、1909年その多難な生涯を閉じた。現在、彼の子孫は彼の遺骸を生地のコロラドに持ち帰るべく申請を政府に申請しているが未だ解決には至っていない。

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