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ピュリツアー賞

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アメリカでは文学、ジャーナリズム、音楽に貢献した人たちに毎年与えられる名誉ある賞、ピューリッツアーメダルがある。

これはニューヨーク・ワールド(New York World)の発行者であったJoseph Pulitzer(18471911,ジョセフ・ピュリッツアー)が、ノーベル賞が始まった17年後の1918年にコロンビア大学に遺贈して始めた運動である。

発足当時の金額は不明だが、現在ではそれぞれの部門の賞金は1万ドル、言うまでもなくノーベル賞と同じように、特にアメリカ作家にとっての名誉はハリウッドでのアカデミー賞(1927年開始)と同じくアメリカにおける名誉賞である。

ピュリッツアーはハンガリーからの移民で、1864年、イリノイ州、セントルイスに住み始めた頃は馬追いやウエーター等の職業を転々としていたが、彼のドイツ語の巧みなところを見染められて、ウエストリッチ・ポスト(Westliche –Post)の経営者、カール・シュルツ(Carl Schurz)にリクルートされた。

間もなく、彼は新生間もない共和党に入党、ミズーリ州の共和党議員議員となって1872年、第18代大統領、ユリシス・グラント(Ulysses S.Grant)の二期目の選挙に対抗馬、ホレース・グリーリー(Horace Greeley)を支持した。

1872年、プユーリッツアーはセント・ルイス・ポスト社(St.Louis Post)を3千ドルで買収した。

その6年後、セント・ルイス・ヂスパッチ社(St.Louis Dispatch)を2,700ドルで再び買収した時点で、その当時からピュリッツアーは政治腐敗、ギャンブル、脱税撲滅に向かってジャーナリストとしての正義を貫くべく“ペン”による運動を開始した。

その頃のアメリカは大不況の嵐が吹きまくっていたころで、特に73年~74年にかけてニューヨーク市の労働者の1/4~1/3程は失業状態であった。

それは南北戦争(1860~1865年)後、大都会への移民の流入が激しくなり労働抗議集会」が各所におこり(例:ニューヨーク市、トンプキン広場の騒動、(874年)、メリカ史上に残る「労働争議流血」の世代であったのである。

その混迷の時代に居合わせたピューリッツアーは時代の寵児になるべく存在したような人物となった。

1888年には彼は裕福なジャーナリストとなり、ニューヨーク・ワールド(New York World)を34万6千ドルで買収、年間四万ドルの赤字を垂れ流していた新聞社を、”Expose all fraud and sham,fight all public evils and abuses,and to batlle for the people with earnest seincerity.”(虚偽やすべての悪に立ち向かい熱心で誠意に満ちた市民の見方)をスローガンにして立派に立て直した。

1889年、ピュリッツアーは女性、ネリー・ブライ(Nellie Bly)の要請にこたえて80日で世界一周コンンテストを挙行、彼女が72日6時間」11分14秒の記録を打ち立てニューヨークに帰還レコードを打ち立てたとき、100万人がこれに参加したと言われている。

不幸にもピュリッツアーは43歳の若さで失明という不幸に見舞われた、その後、第一線から退きながらも編集の仕事を続け、有名を馳せることとなった、黄色のシャツを着た”Yellow Kid”を紙上に登場させ、一生のライバル、ニューヨーク・ジャーナル社オーナー、ウイリアム・ランドルフ・ハースト(William R. Hearst)と後世有名となる新聞戦争を戦った。

パナマ運河会社(French Panama Canal Co.,)と政府との間で不正の事実を暴露したことで、ルーズベルト大統領、よびJ.Pモルガン銀行から訴えられる事件があったが終局的にマスコミとしての正義が認められ起訴猶予となった事件は有名である。

ピュリッツアーは1911年世を去るが、遺言でコロンビア大学に200万ドルを投じて“新聞学校”を設立、その他、毎年文学、ドラマ、音楽とジャーナリズム分野で活躍した人物にピュリッツアー賞を授与する取り決めをした。また、1922年以後それは漫画家(Cartoonist)分野にも広げられた。

以下に主だったプリッツアー受賞者の名を列記すると:

文学部門:マーガレット・ミッチェル(1937)風と共に去りぬ、ジョン・スタインベック(1940)怒りの葡萄、ジェームス・ミッチナー(1948)南太平洋、アーネスト・ヘミングウエー(1953)老人と海、その他、ウイリアム・フォークナー、ノーマン・メーラー等が続く。

劇作家では:ユージン・オニール、4回、ロバート・シヤーウッド2回、に続いて、テネシー・ウイリアム(1955)熱いトタン屋根の猫、アーサー・ミラー(1949)セールスマンの死、テネシー・ウイリアム(1948)欲望という名の電車らが日本では知られている。

その他の部門、歴史、伝記、自叙伝、アメリカ詩文、ノン・フィクション、音楽等は都合で割愛する。参考文献:The World Almanac and book fact 2010,N.Y.Times.

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