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リビアとアメリカの深い因縁

Photo (トリポリ湾内で炎上するアメリカ軍艦フィラデルフィア、1804年2月)

18016610日トリポリはアメリカに宣戦を布告した。

その当時、トリポリはチュニス、アルジェとともにオスマン帝国の保護下にあり、バーバリ諸国と呼ばれていた。

地中海に面しているこれらの3国はオスマン帝国の保護下で、この周辺を通過する商船の船籍国から通行料と称する上納金を徴収、時には商船を襲ってキリスト教徒の捕虜を人質に身代金を取り立てるような海賊行為を行っていた。

独立して間なしのアメリカは強力な海軍力を持たなかった為、人質となっている自国民の救済とこの周辺の通行料として毎年、国の歳入の約五分の一に相当する約200万ドルをこれらイスラム諸国に支払わされていた。

1803年10月31日、アメリカ軍艦フィラデルフィアーがトリポリ沖で座礁、艦長以下乗組員307名がトリポリ側の捕虜になる事件が発生した。

アメリカはその翌年、1804年2月16日76名の志願兵を募ってトリポリに奇襲を決行、フィラデルフィア艦上に火をつけて炎上させた。

この戦争はその翌年まで続き、1804年4月27日アメリカ側が人質の身代金として6万ドルを支払って講和が成立した。

アメリカ独立後の最初の敵がトリポリであったことを知ってオバマがリビアに強硬姿勢をとっているとは思えないが、アメリカの為政者たちは、オスマン・トルコと地中海沿いの北アフリカの海賊国家に、ひと時、大変な屈辱を受けたことは歴史を通して忘れないでいることは確かであろう。

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メキシコ産”紅こうがん”

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べにごうかん又はひごうかん(Calliandra eriophylla Benth)

メキシコ原産の2M程のに成長する低木で、よく分枝して茂り、我が国では初夏6月から10月頃まで直射日光の下で育てられる。

ねむの木によく似た緋紅色の花をつける。

一般のまめ科植物と異なり、花弁」は5枚で濾斗状に深裂し、花糸が長く糸状になって突出しているので多数集まって朱房のようになって咲く。葉は羽毛状で再出複葉である。

越冬には摂氏4度を確保。(温室植物:牧野富太郎原色図鑑ライブラリー)

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初日の出に輝る雪景色

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今年(2011年)の早朝7:30)、寝室のカーテンを引くと、外は一面の雪景色、東に目をやると、東山の頂上が明るくなっている事に気が付いた。

初日の出に雪に覆われた街路樹の頂上が明るく照らされている。

その様子が何とも言い難い、正に、“元旦の朝日に輝る雪景色!”

その一瞬、寒さも忘れて筆者はカメラを持って飛び出した。写真①

筆者の立っている前を一台の車が通過して、交差点で止まった。

赤い二つのストップ・ライトが、一面の雪景色の中で印象的だった。②

これが筆者の今年の初仕事となった。

(京都市北部の雪景色)

世界的な温暖化が叫ばれているが

今年は大雪のニュースが飛び交っている。

日本では南九州地方で火山の噴火、南半球のニュージーランドでは大地震。

北アフリカでは政情不安で大国の

エジプトの崩壊に次いで、リビアにも飛び火して、独裁者、カダフィー大佐が失墜寸前。

果して、次にはどんなことが何処で起こるのか。まさに何でもあり!

日本自身も今や風前の灯と見えないでもない!   

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可憐なバラの花

Photo_2 筆者はどちらかと云うと豪華に天に向かって絢爛に咲いている勢いみなぎるバラは好きではない。

このバラは昨年の5月末に京都府立植物園で写したものだが、如何にも盛りを過ぎてしぼんで行く寸前の姿を捉えているものさびしい姿が好きで書斎にかけて楽しんでいる。

バラはその種類が何万もあり調べてもきりがない程多い。

赤、黄のハッキリとした色調より、この種類(?)もように紛らわしいぼやけた系統に何処となく気品を感じる。

バラは日本中部では5月と10月頃に咲く代表的な美しい種属である。

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洋ラン”バンダ”

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洋ラン、バンダ属(VANDA)の原種は主にサジアの原産で、インド北部から東南アジア一帯、オーストラリア北部にかけて70種余りが分布大部分は気生ランである。

現在ではハワイを中心に大輪、大弁で美しい花色を持った交配種は数万とも云われている。

その中で、色彩から筆者はこの紫色のものが好きである。

朝に水をもらった花弁の反射する様は気品に富んだ美を表現している。

デンドロビュームやパフィオ、カトレアやオンシジュームなど数々の美しい”ラン”が絢爛な美を競って植物園の温室を飾っている。

無邪気に咲く花を見ていると騒がしくて、欲望をさらけ出して争っている今の世相の無意味なことを悟らせてくれる。

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くじゃくサボテン

1 ハス、睡蓮に続いて、本日は情熱的なサボテンの美しい種類の花を紹介する。

京都府立植物園の温室で見かけた珍しい大型の花。

くじゃくサボテン”はメキシコ中央高原地方で古くからされていた原種のnaopalxochiaの交配種で数百の品種が存在するといわれている。

葉状茎が長さ30センチから1メートルに及ぶものもあるとのこと。

扁平な多肉で、その基部は柄となり、花径は10~25センチのものまであり、昼咲き、2~5日の寿命とのこと。

色は多種多様で、熱帯の花らしくいずれも非常に鮮明である。

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「北方領土」論理では片付かない!

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今や日本中が外国による領土侵犯が差し迫った危機として声高に叫ばれている感がある。

筆者はこの期に及んで訴えたいことは、日本の政治家たちはこれ以上時間をむなしい論議に費やすことを止めにして、現実に差し迫った外交問題を客観的に眺め、国を正しい方向に導くことである。

筆者は、何故オーストラリア政府主導の「シー・シェパード」が捕鯨調査船を追い回して、クジラの保護を世界に訴え、日本人の嗜好品である黒マグロの捕獲までを妨害し、挙句の果てには隠し撮りまでして日本人がシャチを湾に追い込んで虐殺するシーンの映画を作って宣伝するかに注目すべきと考える。(黄禍論ポスター)

この傾向は一介の理屈では解決できない複雑な歴史から派生した心情であるので、筆者は敢えて、ここでは論議したくはない。

しかし、シー・シェパードの行動を観察して、それが他愛もない以下の心情の発露ではないかと疑いたくなるので簡単にそのバック・グラウンドとなった歴史を記して批判を仰ぎたい。 

19世紀中頃から、欧米で黄禍論(黄色人種に対する危機感を助長する主義主張)がオーストラリアから始まり、それ以後、ドイツ、ロシア、アメリカと拡張していった。

西欧社会で黄禍論が真剣味を帯びて語られ出したのは日露戦争後であり、その旗頭となったのが日露和睦を取り仕切ったアメリカ第26代大統領セオドア・ルーズヴェルト(Theodore Roosevelt)であった。

白人種の代表格はロシアで、具体的に“黄禍”と云うスローガンを掲げたのはドイツ皇帝ウイルヘルム2世と云われている。

日本の国民が正当性を主張し続けている「北方領土」の問題は、極論を言えば、我が国が日露戦争でロシアから南樺太を取り上げていなければ今のような状態にはなっていなかったとも思われる。

「白」が「黄」に無残な負け方をしたと世界中の国から非難されたロシアの屈辱感を日本人が客観的に観察する心を持ち合わせることが出来るかどうかが問われている。

筆者は、我々は、北方領土問題をこれ以上突き詰めて論議することより、少し冷静に世界情勢を高所から観察し、実践的に将来にわたって何が祖国の利益になるかを考えるべきと思う。

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時流に乗り遅れるな!

菅直人、仙石由人、鳩山由紀夫や小沢一郎ら民主党の要人たちは、すべて戦後生まれである。

即ち、これらの政治家は皆「日教組」作成の教科書で日本史を学んだ連中である。

戦後発刊された小中学校の歴史教科書には、明治以後の重大事件、例えば、「日本海海戦」、「三国干渉」や「樺太占領」の記述はオミットされて記述がない。

歴史は過去の事柄の記述であり、正直なジャーナル(Journal)でなければならないことは云うを待たない。

英国では1805年のトラファルガー(Trafalgar)海戦の勝利を国家の偉業として子供達に教えているし、アメリカでも独立革命以後に英国に勝利した1812年戦争事件も教科書から削除していない。

1905年の日本海海戦で、日本がロシア艦隊に勝利したことは世界中に知れ渡っている大事件であるにかかわらず戦後日本の文部省は何理由で敢えてこれらの重要史実を歴史教科書から削除したのか不思議である。

従って自国の建てた偉業をも敢えて国民に教えなかった日本の文部行政が現在の日本のみじめな姿を形成させたと考えざるを得ない。

こんなことは今更書くこともないのだが、日本海海戦での大勝利(1905・5・27)が終わるや否や、(3日後)5月31日、小村寿太郎外相はロシアの意向を待たず、ワシントン駐在高平小五郎行使に即刻、アメリカ大統領、セオドール・ルーズヴェルトに日露和平交渉を依頼するように打電している。

この頃、日本側は兵力消耗と資金不足、ロシア側の事情は海軍の壊滅と、本国での不穏状態が差し迫った問題で、両方とも既に厭戦機運にあったことは偽らざる事実であった。

ロシアも6月9日、講和のテーブルにつく意向をアメリカ側に伝えていた。

戦争行為が停止状態になっているにも関わらず、同6月17日に日本側は当時ロシア領土であった樺太攻略作戦を決定、7月4日作戦部隊を派遣、8月1日までに樺太全島を占領した。

ここで、ロシアは1875年以来の正当な自国固有の領土を日本に奪われたことになった。

ポーツマスでの日露講和会談では雰囲気としてロシアが不利な立場であった為、結果的に樺太南半分は日本に引き渡されたが、以後40年間ロシアは其の時に受けた屈辱感は忘れなかった。

1945年8月、日本はロシアを含む所謂「連合国側」に無条件の形で降伏せざるを得なくなり、同年9月、ソ連はクリール諸島及び南樺太を占領した。

ソ連は40年以前に被った損害を日本からお釣り(シベリア抑留)を付けて取り返したことになった。(筆者推定)

民主党政権は「日本固有の北方四島」返還をロシアに要求し続けているが、果してこの主張が国際法上正当か否かを過去に遡って考証しなおすべきではないだろうか?

日本の立場はロシアが提唱している四島の再開発に加わることは、領土の放棄に繋がるとして消極的な姿勢を保持している。

その間に時は流れ、かわって韓国や中国に貴重な漁場の権利をも奪われることにでもなれば政府は国民にどのように謝罪するつもりなのだろう。

ロシア対日本の力関係から考えて今更、我が国には四島を取り返すことは不可能に近い。

ソ連時代では、戦後奇跡的に経済発展を成し遂げた日本の経済援助を期待して彼等は日本に、一時的な外交上の“方便”として北方領土返還の可能性を示唆したことがあったが、これをソ連の本心だと受け取った日本の政治家の幼稚さこそ問題である。

福沢諭吉の格言を待つまでもなく”might is right”、(力が正義)の不文律を銘記して我が国が半世紀以上の長い間怠ってきた偏った戦後教育の反省をするべきであると筆者は考える。

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熱帯種「睡蓮」

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スイレン属はNymphaeaと云われるところから、ニンフ、即ち、水の妖精と形容される花である。

そのように観察すると「睡蓮」は確かに神秘性を秘めた容姿に見える。水上に茎を高くして咲くものと水面すれすれに花をつけるものがある。

熱帯や温帯に50種類程あるそうだが、ここに紹介するものは京都植物園の温室に咲いていた熱帯性の美しい睡蓮である。

太陽の光を目指して首を長く伸ばす性質のある植物であるところはハスと同じであり、泥沼から生えて清楚な花をつけるところも似ている。

先日ご紹介した京都の法金剛院のハスと同じように筆者の傑作のショットとして掲載ご紹介に及びます。

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大陸横断鉄道

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アメリカでの話だが、1861年(南北戦争の始まった年)有名なセントラル・パシフィック鉄道を敷設することが議決された。

この事業を引き受ける事業家には線路の用地の両側1.6キロ当たり8平方キロの土地が無償で供与された。―これは16キロの線路の両側に80平方キロメートル(約194万坪)の用地が企業家の手に入る計算―、さらに、線路を担保に1.6キロにつき平地で16000ドル、丘陵地で32000ドル、山間地で48000ドルが年5%の金利で30年間を貸し付ける契約であった。

これは当時でも破格の好条件で、この計画に参画した商人は鉄道での利益はともかく、約束された土地が目当てであったことは云うまでもない。

政府としても目の前に差し迫った「南北戦争」を有利に展開する目論みもあったが、毎年増え続ける移民を西部に移動させる手立ても考えられ、それと同時に、牛を含む西南部の生産物を工業化の進んだ東北部に輸送する手段として大陸横断鉄道の敷設は是非とも必要であった。

1864年、議会はこの公有地の付与の規模を2倍にする法案をリンカーン大統領に認めさせた。(これに参加した会社は議会に工作して膨大な利権を得ることになる)

ロッキー山脈越えの工事は難航し多くの犠牲者を出したが、その時一番の働きをしたのがシナ人移民であった。

これらクーリー(苦人)はゴールド・ラッシュ当時に移ってきた者たちで、低賃金でストライキもせず危険な労働に従事してアメリカ西部鉄道史にその名を残した。(枕木1本ごとに中国人が埋められているとも云われる)

1869年、ユタ州のプロモントリーで、東西から進められた線路が繋がり大陸横断鉄道は完成した。

この年はスエズ運河の開通の年であり、最初の日本人移民がカリフォルニアの地面を踏んだ年でもあった。

1867年、アラスカをロシアから買収カナダ(イギリス)をけん制しつつ、世紀末にはスペインと交戦、キューバ、グアム、フィリッピンに加え、ハワイ王国をも合併して後、パナマ運河を完成(1916年)させてアジア進出の足場を確固たるものにした。

即ち、この鉄道の完成で西海岸を身近に引き寄せ、それを境にしてアメリカの野望は太平洋を越えてアジアに移った。

シベリア鉄道の完成を待って(1904年)、ヨーロッパに至る鉄道と豪華客船で世界を1周する遠大な計画が生まれつつあった。

ところが、日露戦争の結果、日本が満州に利権を追及する姿勢を披歴した途端、白人(アングロサクソン)の野望は水泡に帰したのであった。(筆者推察)

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法金剛院のハス

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京都の西、花園の地に「法金剛院」がある。

ここ、双ヶ丘周辺は、平安時代から都近郊の景勝地として貴族、天皇の別荘が多く存在していたところらしい。

京都新聞(2・3)によると、830年(天長7年)右大臣清原夏野がここに山荘を建てた。

死後、「雙丘寺」となったが、その後、文徳天皇が天安寺と改名、またまた、1130年(大冶5年)に、後鳥羽天皇の中宮、待賢門院璋子によって現在の法金剛院と命名された複雑な歴史を持つ寺院であることが判る

中古記と云う書物によると、天安寺の跡地には大池が掘られ、池の西には御堂、大門。東に御所、御門が造られ、その規模は約一町と伝えている。その後、工事が続けられて、1139年(保延5年)までに、滝、北斗堂、三重塔、経蔵、南御堂に加えて三昧堂が出来て、最盛期ではその規模、南北約360メートル、東西約240メートルであったらしい。

1996年の調査でほぼ過去の規模の大きさが再確認された。

筆者は昨年の夏、ここを訪れ、小さいながらも昔の優雅な姿を残している白砂に囲まれた浄土式庭園にある蓮池で写真を撮ることが出来た。

ここに掲げる挿絵は早朝に、正に開かんとするハスの美しく、清楚な姿がおさまったと自画自賛する作品としてご紹介したい。

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Levi Strauss’s Blue Jeans

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ローブ・シュツラウス(Loeb Strauss)は1829年生まれのドイツ人移民である。

最初、家族とともにケンタッキーに住んだが、18歳のとき、単身ニューヨークに移動、そこでカリフォルニアでの金発見のうわさを聞いて、カリフォルニアに移動、1853年兄と服地関係の仕事を始める。

ゴールド・ラッシュの最中のカリフォルニアであったが,彼は金の掘削には手を染めず、金堀りの人たちに作業着を中心に幌馬車用テント布地等を売り出した。

金塊探し連中と付き合っているうちに、作業着やズボンがすぐに破れて長続きしない苦情の多いことに着目、強いキャンパス地を使って彼らの衣服を縫製する仕事を始めた。

これが金堀り仲間の間に好評となり、忽ちのうちに手持ちの材料不足になる程であった。

そこで、ローブは、これまで使用していた生地から“デニム”と呼ばれるものに取り換えることを考え出した。(フランスのNimes産の”serge de Nimes”と呼ばれる生地、後にデニムの俗称を得る)

ローブ・シュテュラウスはその後、ジェーコブ・デーヴィス(Jacob Davis)と云うユダヤ人仲間の洋服屋の忠告を受け、ポケットをしっかりさせるブロンズ製の鋲(リヴェット)を取り付けることを思いつく。

このアイディアーが好評であったため、これを特許申請してパテントを取得した。(1873年、U.S. Patent No.139,121

同時に生地をインディゴ系の青色に染めることとして売り出し、今日のブルー・ジーンズのスタイルを確立させた。

Blue jeansは今やアメリカ人のシンボル的な存在になったが、それはこれを付けていることで、すべて「平等である感覚」を得られるという暗示に取りつかれる為なのかも知れない。

アメリカ・フロンティアー(American Frontier)精神を身につけ、大地を踏みしめて歩く快感が生まれる錯覚を生んだのもジーンズであったのかも知れない。

Loebはその後Levi(リーバイ)と改名して、Levi Strauss & Companyを設立、ポケットに黄銅のボタンを付け、ペアーの馬模様を取り付け(1886年)、左後ろポケットに赤いタブを縫いこんで(1936年)、遠くからでもリーバイのジーンズであることが誰にも認識できるように考案したが、これらのすべてのデザインが登録済みであることも如何にもアメリカらしい。

リーバイ・シュテュラウスはゴールド・ラッシュのお陰で大富豪になり”pants of Levi”の名で一世を風靡するまでになった。

彼はこのような機会を与えてくれたカリフォルニアに感謝の念を表す為、後にバークレーのUCLA(カリフォルニア大学)に28科目の奨学金を遺贈(1897年)している。

また、1906年のサンフランシスコの大火で焼失した工場跡を小学校の建設地として寄贈しているところも如何にもアメリカ人らしい。

21世紀の現在でも”Levi”の名声は衰えず、ジーンズのブランドとして業界に君臨している。

参考:ask.comウイキペディア。

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対露外交の行方?

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菅直人首相対露発言「許しがたい暴挙」は日本国民に向けた選挙用の発言であって決して本音ではないことは誰にでもわかっている。

その発言を受けてのロシアの「日本側の領土的野心は受け入れがたい」と云う声明は正式であり、今後その発言の撤回の可能性はゼロとなったと云っても過言ではないと思われる。

それを判っていながらロシア出張をしなければならない前原外相の心中や哀れとしか言いようがない。

それならば、彼の任務は何なのか?

ロシアは2009年、樺太とカムチャッカ半島の中間にあるオーツク海の大陸棚の延長を国連に申請している。このロシアの主張が受理されれば化石燃料や水産物の豊富な海域の自国領への取り込みが成功する。

中国も東シナ海で日本側への延長を申請中と聞く。

大陸棚の資源獲得を巡る競争が世界各地で激しさを増してきている。

日本が北方4島を失うことが決定的となれば、この地域(オーツク海)での漁業権はおろか、周辺すべての国際的権限の放棄に繋がる。

ロシアの領土に対する野望は何百年の間続いている。

前々回のブログで記したように、19世紀、ロシアがアラスカを売り渡すまで、ロシアの関心はアメリカ大陸西部(今のワシントン州、オレゴン州とカリフォルニア州)にあった。

ロシアは我が国に対しても、サハリン(樺太)とクリール諸島(北方4島を含む)、アリューシャン、アラスカをつなぐ要衝として我が国の蝦夷地帯(北海道)の獲得を目論んでいた。

そのことは、第二次大戦の終了時に千島列島の占拠と合わせて北海道へのソ連軍の進駐を連合軍に要請したがアメリカの反対で実現しなかった事実からも明らかである。

ロシアがオーツク海においての自国の大陸棚延長を最初に申請したのは2001年、その面積は四国のほぼ3倍にあたる5万6400平方キロに及ぶ海域。

これが認められれば現在では公海の海底と地下に眠っていると推定される資源の探査、開発でロシアは主権を手中にすることになる。さらに加えてカニに代表される、豊富な海産物の独占的補獲の権利をも得ることは当然である。

2007年8月にロシアが北極点付近の海底にチタン製のロシア国旗を立て、ロシアの大陸棚がこの周辺にまで及ぶことを主張してアメリカ、カナダ、ノールウエー、やデンマークなどから反発を受けたことは未だに記憶に新しい。

南極海でもイギリスが数年来、自国大陸棚延長を主張していると聞く。これに対し周辺のチリ、アルゼンチン等が強く反発している。中国も日本の沖の鳥島の存在を疑問視、日本の海洋権益に反対している。

北方4島を含むクリール諸島の開発事業にロシアは今後積極的に中国、韓国の企業に参加を呼びかけている、これの意味するところは、自国の領土の復興事業計画を競争入札の形で周辺諸国に呼びかけていることに他ならない。

日本の将来を危ぶむ国民は多い!

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エジプト内乱の性質を考える

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現在エジプトで起こっている事態は筆者には何か不気味に思えてならない。エジプト大統領のムバラクはアメリカのテレビとの会見でオバマ大統領は“エジプトの文化を知らない”と怒っているらしい。

その理由として、今退陣すればイスラム原理主義のムスリム団体がとってかわって、以前にイランで起こった革命と同じ結果が起こることをアメリカが理解していない点を挙げている。

毎日新聞の本日(02・06・2011)の社説では“今回のエジプトでの反政府運動の背後にムスリム同胞団がいるとのムバラク氏の懸念には首をかしげるばかり”と疑問視して、“今の民衆運動の中心は、どう見てもイスラム組織ではない。職を求め、日々の生活に苦しむ庶民たちだ。ムバラク氏の目には、そうは映らないのか。”とかなり断定的な論説に筆者は注目した。

それでは、毎日新聞はオバマ大統領と同じくムバラク氏の言い分を全く信用していないことになる。

エジプトは大国である。今回の騒動がただの国内紛争で外部からの干渉を受けていないのなら問題は小さい。

近い過去にエジプトの周辺でどんなことが起こったかを見渡すことも無駄ではない。

「チュニジア」、「イエメン」、「ヨルダン」、「アルジェリア」、「シリア」に過去10年以内にどんなことが起こったかを振り返ってみたい。

先ずシリアを覗いてみるとこの国には数多くの疑わしいファクターが目につく。

イラクをアメリカが急襲したときの主な理由は、ブッシュ政権がイラクが確実に、近代秘密兵器を隠し持っていると信じていた。ところがアメリカがイラクに攻め入ってフセイン大統領は逮捕できたが、目的の秘密兵器は発見できなかった。

シリアはイラクと国境を接し、その距離は恐らく何百キロにも及んでいる。シリアは当時イラクとは友好関係にあり、アメリカの攻撃の始まる以前に問題の武器がシリアに運び込まれたとしても何の不思議もない。

しかもシリアはイラク以外にレバノン、ヨルダン、イスラエル、パレスチナと隣接する複雑極まる、ヒスボラ、パレスチア支援を続ける中東での中心的問題児であることには違いない。

ここでは1970年以来、アサド大統領の独占国家であり、氏の没後、2000年から息子のパシャールが独占を続けている。

チュニジアでは1987年来先制支配を続けていたベンアリ大統領が退陣して国外に亡命した。

極貧国、イエメンでは数千人規模のデモが相次ぎ、サレハ大統領が退陣の意向を表明するに至っている。

ヨルダンではアブドラ国王が民衆の怒りの焦点、リファイ内閣を退陣させた。

アルジェリアは1992年2月に宣言された国家非常事態が未だ完全に収まったとは聞いていない。この周辺で最も問題が多い国と思われる。

9.11事件以来、10年が経過したが、UNを中心とした連合軍はアフガンとパキスタンに釘ずけの状態で苦戦を強いられている。

その間、アフリカの多くの場所で紛争が絶えることなく続き、世界中に波風が吹き荒れている。

エジプトの地理的位置を考慮入れて考えると、イスラム原理主義者集団が何時、何処で問題を起こしても不思議でない時期に、今回のエジプトの内乱を単なる国民の不満の暴発として簡単に片づけることこそ危険だとは思はないのだろうか?

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八百長問題

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野球賭博疑惑事件に続いて、今度は「八百長」の問題が新聞報道を賑わしているが、「八百長」が相撲界古来の伝統を象徴した言葉であるならば、今更特に驚くに当たらないと筆者は考える。

相撲稽古は誠に激しいものであり、そのつらい修行を積んで勝ちあがってきたものが目指すのが“後楽”、多くの付け人に囲まれて威張っていられる身分を誰もが目指すのが相撲取りの人生である。

しかし、その仕組みについて考え直す要素が多く残されていたのではと考えざるを得ない。

伝統を守ることは大切だが、江戸時代と21世紀の人間性の違いに関係者は考慮するべきではと考える。

2月3日付け毎日新聞によると番付によって“天と地”の差別待遇が見られる、のが角界の仕来たりである。

力士とは十両以上のことで、それ以下は、まるで力士どころか人間の尊厳さえ認められていないような待遇システムを伝統の名のもとに引きずっているのが相撲界の現状と筆者は考える。

角界には「番付一枚違えば家来同然、一段違えば虫けら同然」と云う表現がある。(毎日新聞)

勝ち越し(8勝以上)、負け越し(8敗以下)によって次回からの番付が上下することは自明に事実、力士としては、生活を守るため、負け越さないように必死になるのは当然である。

同誌の伝えるところでは力士は月給制で、

横綱:282万、大関:234.7万、三役:169.3万、幕内:130.9万、十両:103.6万となっている。

しかし、ここからが問題で、力士と認めてもらえない幕下以下には給料ゼロと云う非情とも云うべき待遇制度がある。

それ以外に、関取には絹製のまわしに大銀杏を結ふことがゆるされ、部屋も大部屋ではなく個室がもらえる。それに反し、幕下では黒の木綿のまわしにちょんまげ姿、ちゃんこ番やその他雑用も多くその待遇は関取たはくらべものにならない程違う。

原則として番付は一つ勝ち越せば一つ上がり、一つ負ければ一つさがるのだが、千秋楽の日に7勝7敗の力士には次の場所での立場が、がらっと違ってくる可能性がある。

特に十両の身分のかかっている力士にとっては正に天国と地獄のチョイスの戦いになる。

相撲界での人間性無視のシステムを改めない限り、いくら風紀の粛清を叫んでもこの特異な「八百長問題」は根絶不可能と筆者は考える。

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