« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »

温家宝中国首相東日本被災地を慰問

中国の温家宝首相が5月21日東京で開かれる「日中韓首脳会議」の為日本にやってくると北京共同の報道として京都新聞で知った。

温家宝氏はその折、東日本地震津波の被災地を訪れ、非難生活を送っている人々を「慰問」するらしい。

札幌医科大学教授で物理学者高田教授は、アメリカ科学雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」の2010年7月号“中国核実験は多数のひとを殺し、次世代を運命づけたのか?”、“中国が40年に亘り、核爆弾を爆発させたことで、放射能の雲は住民の上を覆った”と云う見出しの記事を掲載したことを指摘している。

1964年から96年までに40回、ロブノール地区を中心に核爆発実験を実施、周辺の数十万の住民が死亡した可能性を同誌は指摘している。

現在 英国やトルコを拠点としてウイグル人の放射能被害を研究するアニワル・トヒティー医師が、高田教授と「ロブノール・プロジェクト」と云う共同研究を進めている。そこで高田教授は“新疆ウイグル地区で放射能汚染の為、19万4000人が死亡、120万人が白血病などを発症したと発表している。

「サイエンティフィック・アメリカン」は、アメリカだけでなく国際的評価が高く、同誌が正面から報道した“シルクロードの核汚染”はその事実を否定してきた中国政府にも厳しい詰問となる“は真実味のある話題として筆者もとらえたい。

中国での核実験では、核の防護策がずさんで、被災したウイグル人に対する充分なケアーもなされず、129万のうち、多くが死亡したとみられる。

(中国核実験で19万人急死、被害は129万人に札幌医科大学教授が推計、2009年4がrす30日 産経新聞)

日本ウイグル協会も“旧ソ連では最低でも核実験を実施する地域を封鎖した。其れに対し、中国では現地の住民に知らさずに行った。その被害者はウイグル人にとどまらず、漢民族からも犠牲者が出て、人命をモルモットのように扱った”と発表。

1964年から96年までにシルクロードを訪問した日本人、27万の中には核爆発地点のごく近くや、「核の砂」の汚染地域に立ち寄った恐れがあり、今後こうした日本人への追跡調査が必要と高田教授も述べている。

中国北部の草原を対象に現地調査を行ったところ、深さ2センチまでの表土から比較的高濃度の137Csが検出された。

大陸の草原では 最近、砂漠化が進んでおり、丁度10年程前中国の北部は深刻な旱魃条件下にあった。このため特に2002年の春季には137Csを含む砂塵のはっせいが顕著になった。(@ 土壌環境研究領域 木方 展冶研究員、2010・03)

温家宝首相は、過去の中国政府が新疆ウイグル地区で行った度重なる核爆発実験により僅かでない人命が失われた事実と、それに対して中国共産党政府がどのような対策を講じてきたかを充分承知の上で、今回の訪日の際、大船渡市他、震災地を訪れ被災者にどのような慰問の言葉を述べるのだろうか。

高田教授は、NHKが永年、シルクロードの番組を放映し、多数の日本人観光客に核汚染の危険を知りながら事実を聴取者に知らすことをせず中国の核爆発実験について一切沈黙してきたことを遺憾と考えているが、其れに対してNHK側は、その(放射能汚染)事についての認識は、放送当時も現在も持っていないと回答している。

戦後国連理事国等が実施した核爆発実験のデーター記録の公表を日本の政府は要求し、今後の「核」に対する共通した対処認識をただすことが必要と考える。

今後の原発施設建設基準を作成、それを全世界が監視、検閲する部門を国連に設立して「世界のスタンダードを打ち立てることはできないものだろうか?

|

京都生まれの国際人、伊藤穣一

Photo

伊藤穣一、1966年京都生まれ、45歳は日本のベンチャー・キャピタリストの草分け的存在、本日の新聞発表によると、MIT(Massachusetts Institute of technology)のメディアラボの次期所長に選出された。(4月25日付)

このラボの創始者で、伊藤氏を誘った、ニコラス・ネグロポンテ博士(Nicholas Negroponte,b.1943)によると「穣一は未来へ前進するラボの所長として完璧だ。我々が扱う領域は脳科学から芸術まで拡大しているが、まさにジョーイの世界だ」と絶賛している。

これに対し伊藤氏は自分のブログで「恐れ多い気持」としながらも、教授陣や学生と話すうち、「僕は自分の仲間を見つけた。彼等は挑戦を恐れない」と刺激をうけたことの感想を述べている。

「学会、公的機関、企業、ジャーナリズムなどと手を結び、成果を上げているとメディアラボを評価。自身のネットワークを研究と結び付けることが使命の一つ」とも言っている。(産経新聞)

最先端科学と企業家精神の融合を期待するMITに対し、伊藤氏も「皆が協力すれば魔法が生まれる事を確かめたい」、米紙ニューヨーク・タイムズは「異例の選択」と伝えている。

彼は2008年米誌ビジネスウイークは「ウエブで最も影響力のある25人の一人」に選出、現在、ネット上で著作権保護の活動などに取り組む非営利団体「クリエーティブ・コモンズ」のCEO.

伊藤氏は4歳から14歳迄ミシガンに住み、タフツ大でコンピューターサイエンス、シカゴ大で物理を専攻。eBayの創始者。

多くのインターネット関連会社を設立。郵政省、警視庁等の情報通信関連委員会委員を歴任、経済同友会メンバー、国際教育文化交流財団理事。google調べ)

今回MITメディアラボの第4代所長に選出された日本の誇るべき国際人の一人である。

最先端科学と企業家精神の融合を望むMITに対して、「みんなが協力すれば魔法が生まれることを確かめたい」伊藤氏弁

米紙ニューヨーク・タイムズは「異例の選択だ」と伝えた。

伊藤氏は2008年、米誌ビジネス・ウイークの「ウエブで最も影響力のある25人」に選出、今、彼は著作権保護の活動に取り組み「クリエーティブ・コモンズ」の最高責任者。

|

航空工学技術を風車発電に利用

Photo_2

関西地方では初めて、公営企業として全国最大規模、大型風力発電所(風車1基の発電能力750kw)6基で年間8,500mwhが実現する筈であった京都府伊根町の「太鼓山風力発電所での実績がが結果的に予定の10%に留まっている。(2010年度)

これに携わったのは京都府公営企業管理事務所(発電開始、平成13年)。

又もや、お役所仕事の企画の甘さが問われる結果となった。(平均年間損害額約4500万円)

風車と云えば常識として、オランダの風景画に出てくる様な水平軸型の大型のプロペラ式を思い描く。

イギリスやスペインでもこの水平軸で発電しているのだが、航空運用システム研究所々長:野口常夫氏の意見では、水平型だと、どうしても風の方向の影響を受けることが宿命で、それに反して垂直縦型だと風の向きには関係されず、回転数が少なくても大きな回転トルクが得られる上に騒音も少ない利点があると言う。

「そよ風でも発電する小型風車を開発・インタービュー・環境goo」ページには高速道路の中央分離帯に“シグナスミル1015型小型垂直軸型発電機”をずらりと並べると、自動車の起こす風で羽根が回って電力が得られる。

此の電源を融雪に利用すれば豪雪地帯の道路もスムースな交通事情を期待できることとなるとの意見。

ビルの高い場所や、豪雪地帯では「厳寒」の状態となるが、野口氏が専門とする航空技術で飛行機プロペラに使用する「発熱テープ」を利用すれば容易に羽根への着氷が防げるとおっしゃっている。

ここで特に注意しなけらばならないことは強風の際の制御だが、シグナルミルは空力荷重や遠心力に対して充分な強度がある為台風のような風力にも影響されない。実験では12メートルの風で35kwを発電、振動や騒音は殆どでない性能とのこと。

シグナルミルは高層ビルに何百個も取り付けて複合的に利用することも可能で、場所や環境に合わせるため羽根の大きさ、枚数、回転直径などもアレンジ設計されている。

東京やニューヨークのような大都会特有のビルが発する「都会風」を利用、高層の建物に取り付けて実験すれば予想外の利便性が見つかることも夢ではない。

日本では台風もあれば、地域によって風の吹き方が全く異なると言われる。

ユーザーのニーズに合わせて個々に設計できることも魅力。

どんな場所でもいつも無風ということは決してない、従って、風向きに適合しながら手軽に発電が見込まれる小型垂直式発電機に筆者も直感的に便利性を認めたい。(挿絵シグナスミル発電機の羽根構造)

|

災害復興に小型「風車」利用

Photo

東日本大震災について、一部の韓国メディアが「日本沈没」の見出しで報道したことに対して、韓国国内で非難がまきおこったと云うニュースを我々日本人としてどのように受け止めればよいのか。

小松左京著の「日本沈没」は一時韓国でベストセラーの一つになったことは事実。過去に日本に支配された韓国人の心中に日本の災難を喜ぶ心理がないとはいえない。

しかしそれを中央日報とソウル新聞が公然と言うことは不適当ということなのである。

京郷新聞は一面に「最悪の地震10M津波「精神を失った日本列島」と伝え、東亜日報も「日本列島、驚愕・恐怖・混乱・悲しみ」と誇張的に報道したことで、“好奇の視線で報じるな”、“隣国の不幸をこんな風に報じるなんて韓国人として恥ずかしい”と云う新聞に対する非難ごうごうであるとの事。

“安全についての悪い噂”と云うものはそれを打ち消そうとすればするほどさらに悪いほうに向く。それならば無言で最善の努力を払って「絶対の現実」を打ち立て安全を広く認めさせなければならない。

今「フクシマ」は世界中に広がり「チェルノブイリ」と同義語になりつつあることは日本人として残念に思う。

我々はここに至って、これは“戦争”ととらえ、この悪評の払しょくに国民一丸となって努力すべきであると思う。

先日、菅首相は不用意にも、“この地には20年は住めない”と云ってしまった。ヤフーの知恵袋では、もっと悪い予想をしている。

“恐らく福島原発周辺の50から100キロの範囲は20年どころか30年以上は、住むことが出来なくなるのではないかと云う意見。

政府の発表ではセシュームの放出はチェルノブイリの一割程度と云っているが、チェルノブイリの場合は原子炉の爆発で一度に大量の放射性物質の放出があった。

しかし決死隊が繰り出して10日程度で終息させたことでそれ以後の放出を最小限に抑え込んだ。不幸にしてその時100人程の作業員が殉職した悲しい事実がある。

福島原発の場合、セシューム被害が一か月当たり、チェルノブイリの10%でも、沈静までに10カ月かかれば被害は結果的にチェルノブイリと並ぶことになるのでは?

現在そこでは1基以上の原子炉が破壊状態で有害なセシュームが放出され続けている状態である。

チェルノブイリの事件では「決死隊」の出動で抑え込んだが福島では「ソフトランディング」手法をとっているので沈静までどれ程の月日が必要なのかさえ不明な点が心配である。

筆者もいたずらに悲観的なことを書きたてることを好まないが、循環式冷却装置を再構築させ、燃料棒を完全に冷やすことに成功しても、周辺に発散してしまったプルトニュームやセシュームが人畜に無害となるまでに、はたして何年かかるのかを心配する。(ヤフー知恵袋20011//19、参照)

周辺土壌の汚染もまた問題で、菅首相の発言を完全に否定することは困難なことも事実。

韓国メディアの「日本沈没」報道も時期をわきまえない不用意な発表だが、菅直人首相の発言は、当たらずとも遠からずなのだろうが、タイミングを逸した不用意な、罪深いものであった。

これからは日本国民一体となってこの国難に立ち向かい、再び世界中から“奇跡の復活”と言わしめる努力をすべきである。

アメリカとしても、「広島」「長崎」の人道的な失策の汚名返上に一生懸命になり日本の救済に努力するべきである。

筆者は、喩え汚染され、当分誰も住めない場所となっても、そこには必ず風は吹く、そこで、最近は風速2メートルの風の力をキャッチ、発電可能な「小型風車」もあるとのこと、被災地の50キロ周辺を小型の風車発電の場所に利用することで産業復興の一助しもと思考する。



|

劣悪国家「中国」

Photo

去る3月11日の大地震、津波によって東電福島第一原発が被災し「放射能汚染」に依る被害が問題視されている。

これが1945年にアメリカによる2度の原爆投下と同質のものとすれば、我が国は合計3度のセシュームによる洗礼を受けたことになる。

東日本が原発被害を出したことに依って海外からの旅行者が激減したことで国中の観光地は悲鳴を上げている。

筆者は科学者でないので今回の「被ばく状態」の程度を正確に測り知ることが出来ないが、この原発の被害をそんなに危険視するのならば、これまで世界中で、主に国連理事国が中心に進められてきた千回以上にも及ぶ原爆、水爆実験を我々はどのように観察してきたのだろうか?

アメリカだけでも、1945~92年までに、実に1000回以上の核爆発実験を実施、それに負けまいと、ロシア、イギリス、フランス、中国らが加わり数知れない回数でセシュームを世界中にまき散らしてきた。

最近ではインド、パキスタン、北朝鮮が実験に加わり、イスラエル、やイランもこれに参加するのではとの憶測が飛んでいる。

最近の日本の新聞では中国、韓国が日本製品の輸入を危険視しているとのこと。

そもそも、アメリカが原子爆弾を世界で最初に人類に対して使いだした。今更ながらこの罪の深さに改めて、彼等は反省するべきだと思う。

それでは、中国はどうかと云うと、彼らの核実験場は主に新疆、ウイグル(少数民族)地帯で、30年ほど前にNHK番組「シルクロードの旅」が上演された地方であった。

ロブノルでの核実験は、総爆発出力は20メガトンと云われ、これは「広島」、「長崎」の約1,250発分相当を地表で炸裂させたらしい。

専門家によると「地表爆発」は空中や地下の実験に比べ物にならない程の被害を及ぼすとされ、さすがにソ連でも居住区での実験は避けてきたと云われている。

しかし、中国はそれを他民族の住域で強行、あらぬことか、政府はそれを公表していない。

多くのイノセントな日本人がNHK番組に刺激を受けて“シルクロード”を目指したが、日本国営放送は、その地方が核被ばく地帯と知りながら警告を出さなかったことの理由が今、問われている。

この事実を最初に問題視したのは英国の「チャネル4」のドキュメンタリー、“死のシルクロード”(1998年8月)、27分のこの作品は世界83カ国で放送され、翌年、優れたドキュメンタリー作品に与えられる“ローリーペック賞”を受けたと言われる。

この周辺に住む人たちは無教育なので高度な科学にたいする知識に疎いのは当然。

或る老人が、自分は神を見たと言い、“或る時、太陽の100倍位の明るい光を見た、地面が大きく揺れて、すさまじい嵐になった”。この表現はまさに我々が広島、長崎で聞いた事象ではないか?

こんなことを自国で実施して、何も発表しないで済む国は世界広しといえども中国以外にあるだろうか?

その頃、恐らく核に汚染された空気が偏西風に乗って、黄砂のように日本の上空まで届いていたかも知れない。

彼らに今更、日本は危険だと言う資格などない!

アメリカは過去の経験から、日本からの被害の拡散を恐れるあまり、忠告や指導を友好的に始めているが、これはいわば彼らの罪滅ぼしとして、又、素直な好意として受け入れるのが今の日本にとって懸命だと思考する。

(桜井よしこ「中国核実験の惨状」参照)

|

伊藤若冲

Photo

相国寺承天閣美術館に「伊藤若冲展」を訪れた。京都五山の一つで、如拙の「瓢箪鮎」画で知られる臨済宗の名刹である。

金閣寺(鹿苑院)は相国寺の塔頭の一つであるが、普段は一般の出入りが出来ないので、金閣寺内の伊藤若冲の墨絵の襖絵一切を公開しているのが見られた。

それは“芭蕉”と“葡萄”をモティーヴにした素晴らしい出来栄えである。

別室には若冲得意の鶏画や植物画が展示され、改めて若冲の技術の本髄に接した気持になった。

若冲は相国寺とは密接な関係があったことは知っていたが、同寺に伝来していた中国画のいくつかを模写していたことも判って興味深かった。

若冲は京都錦小路の八百屋の長男として生まれたが、商売には不熱心であって、暇があれば家の近くに住みついていた鶏を描くことに熱中している内にその鳥の習性を知りつくす迄になった。

若冲はその他、身近にあった野菜や、植物を好んで描いた。

画号を「斗米庵」と云い、一日に一斗の米さえ売れれば充分と思っていたらしい。

終生禅に傾倒して、相国寺の僧、大典顕常に参禅して「若冲居士」の号を得た。

若冲が精魂こめて描いた絹本着色の12福の鶏の大幅は明治時代相国寺から皇室に献上されて、今では「御物」となっている。

若冲は晩年、石峰寺に住み、寛政12年(1800)、85歳卒となっている。

墓所は石峰寺にある(写真)

一見の価値ある展示会として推奨したい。

|

北京天安門前から消えた孔子像

Photo_2

毎日新聞4月22日(金)によると、去る1月、北京、天安門広場東側の中国国家博物館前に出来上がった、或る有名彫刻家による、高さ9.5メートル、重さが17トンの巨大な孔子のモニュメントが4月20日、何の前触れもなく忽然と姿を消したと云う。(写真)

博物館はこの理由を一切明らかにしていないが、天安門広場、毛沢東の遺体が安置してある毛沢東記念堂と隣接している、中国にとっては重要な国家的象徴の場所で起こった事件なので、いろいろの憶測が生まれて当然と思われる。

この孔子像が公開された時(三か月前)呂章申館長は、新聞を通して“孔子は中国伝統文化の代表”と述べていたらしい。

その後、インターネット上などでこの石像設置について賛否両論となったとの事。

保守派の一部の意見では“封建思想の代表人物の像が、共産党の代表的人物(毛沢東)と共に国家の象徴的記念広場にあるのは不具合”がその結論。

文化大革命の頃(1966~1976年)、中国では孔子は封建的な道徳観を唱えた反革命の元祖と云われて悪人視された時があったが、それが80年代以降、政府の考えが変わり、国に対する忠誠、愛国心をあおる材料として孔子の再評価を促した。

そもそもこの孔子像を有名な彫刻家に造らせて、国家の象徴的広場の近くに設置を決めるには政府中枢決定機関の関与がなければ出来ない仕事であったに違いない。それが僅か3ヶ月で消滅したとすれば、一体何が起こったのか?

毎日新聞は、中国では“80年代以降、政府が愛国心を強調するため自国の歴史を重視し始め、孔子の再評価が進んだ。”とだけ書いているが、何故、今年の一月に首都北京の中心地、「天安門」に据えられたこの巨大なな孔子像が3カ月もたたないうちにその姿を消さなければならなかったのか?

周知の通り、孔子、孟子の教えは東洋の倫理感の礎で、仏教以外では東洋人が共有できる数少ない精神文明の源であると筆者は考えている。

これは中国共産党内部で何か重要な思想的変調が起きる前兆と考えるべきである。

翌近平氏が次の総書記に名指しされているとのことだが、果たして胡錦涛以後の中国にどんな変化が起こるのだろうか?

来る5月12日で、行方不明者8万人以上を出した四川大地震から3年になる。

この震災後の政府の被災者にたいする無責任な対応に不服を申し立てている遺族に非情な締め付けを行い、各地でデモが起きている情報もある。

云わば、国中に不満分子が充満していて、最近中東の各地で起きているデモや内戦に中国政府が神経質になっていることは事実。

孔子像を建立したことが、国民の倫理観を高揚する狙いであったならば、ともかく、国は国民に対して分け隔てなく愛情のこもった政治を行うべきである。

|

微風を捉えて発電する風車

Photo

京都市伏見区の生田産業工業が2006年に京丹後市に設置した「風力発電機」は風力2メートルの微風状態でも発電するユニークな形状の風車を製造している。(2011年4月20日京都新聞)

地球温暖化防止京都会議を機に、環境関連分野への進出を始めた。既にこれまでに計8機を学校など非住宅に取り付けた。(写真)

“このタイプの風車は縦型のプロペラでどんな風もとらえる。”(京都信用金庫枚方支店長真下隆三支店長談)

一見したところ、会場の高層風車に比較して可なり小型なので発電容量には限度があるとも考えられるが、ビルの屋上にでも据え付けが可能ならば、自然風利用自家発電には充分能力がありそうな感じ。

生田産業工業は京都産業エコ推進機構の「京都地から結集エコ住宅」の事業に09年の研究段階から参加、立命館大の酒井辰雄教授とは潮の満ち引きを利用した「

潮汐

(

ちょうせき

)

発電」組み合思考。

渡辺グループリーダーは「エネルギーを地産地消する「マイクログリッド」市場への参入を視野に入れ開発に努力中。

また“ニチコン”は06年度から北陸電力(富山市)などと共同で、蓄電機能付き風力発電システムを開発。昨年8月、志賀風力・太陽光発電センター(石川県、志賀市)で実証実験に入った。

太陽光発電と蓄電池を組み合わせた電気自動車向け充電器生産プロジェクトも、昨年から始動させている。

太陽電池増産に懸命な“京セラ”、アメリカ・ニューメキシコ州で10年度に開始した、自然光を蓄え、家庭内機器、設備を効率的に運転するシステム、“スマート・ハウス”の実験中と聞く。

京都の生田産業工業では“小型風車の場合は、従来の大型プロペラタイプにかわり今後は垂直軸型風車が今後主流になる”と強調する。

東海大学の関教授と30数年に亘り「垂直型風車研究」を追及し、実用化に向けた「本物の風車」を京都から生み出すと意気盛んである。

|

ビキニ原爆実験より半世紀

Photo

1946~1958年の12年間にアメリカは実に67回の海上、海底の原爆実験を“ビキニ環礁”で行った。

これはマーシャル諸島共和国に属する環礁で23の島からなり、面積は5944.1平方キロメートル。

ここは戦前、日本の統治領となっていたところでその当時ではマーシャル群島と呼ばれた。

最初の実験は1946年7月1日と同月24日(クロスロード作戦)に行われ、戦後最初の本格的原爆実験として注目された。

第一回は空中爆発であったが予定地より大きくはずれ成功には程遠かったが、24日の第2実験(水中)では1600mの水柱(写真)が上がり、爆心地から200m離れていた艦船「アーカンソー」が瞬間に沈没、1キロ離れていた戦艦「長門」数日後沈没、合計8隻の実験用艦船が沈没した。

正直言って、その頃のアメリカでは、原爆の及ぼす戦略的破壊力は既に「広島」、「長崎」で実証済みで充分認識していたが、核爆発の及ぼす第二次的被害(化学的影響)については深い知識に欠いていたと思われる。

海底爆発で多くの海の植物や魚類が如何なる被害を受けたかについて配慮に欠き、1954年3月1日の同地帯で行った「水爆実験」(キャッスル作戦)に至っては、原爆1000個分の威力(15Mtが炸裂、海底に約2km、深さ73mのクレーターが出来たと言われる。

この時、日本のマグロ漁船、第5福竜丸を始め約1000隻以上の漁船が“死の灰”をかぶった。

この実験を行う際、アメリカは島民を強制的にロングリック環礁へ、さらにはキリ島へと移住させた。これら島民は生地を離れ、未だに元の場所には戻れないでいる。

戦勝国が敗戦国領のマーシャル群島を選んで、広島、長崎に続いて、度重なる原爆実験を実施、その際、住民までを移住させ、戦利品の、大和、武蔵と並んで日本の誇った有名戦艦の「長門」を海底に葬むるといった、むごい仕打ちに怒りを感じずにはいられない。

それから57年が経過、現在では周辺の放射能レベルは短期間の滞在では問題のないところまで下がっているらしく、周辺にはリゾートホテルまで出来て、若者のダイビングスポットになっている。

原子力利用の廃止に全世界が団結して踏み切ることを望みたい。

|

琵琶湖の水位調節

Photo_2

滋賀県大津市旧南郷洗堰は琵琶湖の水位調節を計る為に明治35年(1902)に着工、同38年に竣工した明治の大事な治水工事である。

琵琶湖は四方を山に囲まれ、沢山の河川が流れこむ、その由一の出口が瀬田川であった。

瀬田川の川幅が南郷付近で急に狭く、流れにくい上に、大雨が降るたびに土砂が入って水はけが悪くなった。

(瀬田川、旧南郷洗いセキ)

又、渇水期になると琵琶湖の水位が下がり、付近に水不足問題が起こり、瀬田の水かさが増えると下流に洪水が生じると言う悪循環を断ち切るために人為的に水量をコントロールする為出来上がったのが“南郷洗堰”。

明治17年(1884)中井弘知事が提唱、大阪土木監督署の永沢技師が欧米視察の後、オランダの技術を取り入れて完成させた。

堰幅172.7M、幅1.8M、高さ5.9Mの石柱31の上に橋を懸けた。当初は木造であったが、後にコンクリート造に変更された。

琵琶湖疏水工事とほぼ同じ頃に施工された日本の近代的構築物の一つである。

堰は全部で32門、堰の操作は基本として琵琶湖の水面以下3尺までは下げない、しかし、増水時には堰桁を3尺にして琵琶湖の水位を保持、洪水時には下流の状態を調べて堰を閉じる。水位が4~5尺になれば解放することとなっていたらしい。

瀬田川は下流で宇治川となり、さらに淀川に合流、京都の鴨川も宇治周辺で合流して大阪方面の住民の飲み水、灌漑用水となる。

近江(滋賀県)は関西の水がめの役を果たす、大変重要なところである。

|

木をによじ登るアジサイ

Photo 京都府立植物園に世にも珍しいと思って感激のあまり記録しておいた(2007年)松の木の幹を巻くようによじ登りながら咲いていた美しい白色のアジサイ。(写真)

筆者の知る限り、どの本にも出ていない「珍種アジサイ」と思うのだが。

これは日本の種類ではなく、外国産とのことを、その時、手入れをしていた職員さん(下部)に伺った。

昨年訪れてみるとそこにはなかったので、尋ねてみると大風で大家さんの松が倒れて居なくなったと聞いてガッカリ!

考えてみると、その当時すでに木が倒れる心配から「添え木」の仕事が始まっていたことが判った。

出来ることなら再び蘇ってほしいと思っている。

|

伏魔殿「宮内庁」

Photo_2

由水常雄著「正倉院の謎」(中央公論社、1987年版)によると、8世紀以来、今日まで勅封によって守られてきたと信じられていた正倉院の宝物の数の増減について、実は、度々謎めいた移動を繰り返してきたことが指摘されている。

中世に於いては、時の権力者によって「開封」が行われ、そのたび問題が少なからず起こったことは良いとしても、明治維新後、政権の周辺の所謂「明治の元勲」の正倉院宝物への関心にも触れて筆者の興味を誘ったが、戦後になって本来あってはならないことが起こっていることに驚いた。

これは明治8年になって、東大寺が“東大寺正倉院三御倉宝器類の儀は、往昔より御伝来の御物類にて、国家の宝器に候処、これまで該寺において保護致し来たり候へども、追々寺院制度も御改革相成り、この末、永世保護の儀ははなはだ覚束つかなし」(正倉院の謎、P.268)と云う(東大寺の)理由で正倉院の宝物を内務省博物館の所轄とした。その後これが商務省に鞍替えされた。

しかし、その後、「正倉院」は誠に摩訶不思議な道どりをたどることになる。

少しながくなるが、著者由水常雄氏の説明をそのまま辿れば、明治17年、正倉院及びその宝物を、宮内省に専属させ、翌18年には、さらにそれを宮内省図書寮の主管に移した。

つまり、正倉院の宝物を皇室の御物としてしまう予備段階であった。

そして、ついに明治23年、正倉院宝庫を東大寺から皇室の世伝御料とした。

明治33年、帝国博物館はなぜか帝室博物館と名を変え、同41年、東京帝室博物館が正倉院の事務を統括することとなった。以後、正倉院は戦後に至るまでこのシステムには変更はなかった。

帝室博物館は東京、京都、奈良の三館であったが、1924年(大正13年)皇室の特別のお計らいで三館とも「恩賜博物館」と改名された。

即ち、皇室のものではなく、ご下賜によって国民の博物館になったことに他ならない。

正倉院は帝国博物館の所管であったがその名称が“帝室”にかわり(明治33年)、大正13年“恩賜”になってもその間のシステムには変わりがなく、正倉院宝物は宮内省とは無縁であったと思われる。

不思議なことに、終戦(1945年)後、日本国は民主政治となったに関わらず、昭和22年(1947年)、正倉院は帝室博物館の所管を離れて、再び宮内府図書寮の所管に逆戻り、正倉院警備についても皇室警察本部下におかれ、昭和31年(1956年)正倉院は宮内庁の付属機関になった。

筆者はかねがね宮内庁の存在自体に疑問を持ち続ける者である。

歴代天皇陵の問題、国内に点在する御苑や離宮の管理権限を握りしめ、皇室のコバンザメのように、身汚く生き残ろうとする官吏の心底が透き通って見えて来る思いである。

少なくとも桂離宮、修学院離宮等はアッサリ地方自治体の所轄として、広く民間の為に解放して、入場料を京都府の収入にあて、観光事業の一助とすべきであると思っている。もし皇室が東日本震災に対しご同情のお志を示されるのであれば、宮内庁にこれらの離宮の民間へご下賜を指示をいただければ結構だと思っている。

これについて大方の批判を頂ければ幸甚である。

|

夏時間

350pxdaylightsavingworldsubdivision 左の世界地図上で青色で示された処が「夏時間」を実施」(daylight saving time)している国々、或いは地帯である。工業化の進んでいる処では古くからこのシステムが実施されているが、押し並べて共産主義国家や労働組合の勢力が強い国、未開国、発展途上国では夏時間にはなじみが薄いことが判る。

東西に幅のある大国には時間差の関係で実施が難しいと判断できる。画我が国の場合はせいぜい時差が一時間なのであまり問題はない。

この歴史と特典を以下に挙げると、最初の提唱者は、18世紀アメリカで、物知りで、科学者であったベンジャミン・フランクリン。

しかし何故かその時には採用にまではゆかなかった。

次は第一次大戦中のドイツ、1916年4月30日~10月1日まで、イギリスでは同年5月21日~10月1日迄行われたといわれる。

アメリカでは1918年とその翌年に各7ヶ月行われたらしいが、その時は不評で廃止となったが、第二次大戦中に資源の節約目的で始められて今日に至っている。

アメリカの場合、現在では(2007年以後)、「包括エネルギー法案」の可決で3月の第2日曜日~11月の第1日曜日の8ヶ月間と決まっている。ただし時差の関係でハワイ州全土とアリゾナ州の一部では不採用となっている。

アメリカの占領下にあった頃では(1948~1951)日本でも強制的に実施されていた。

今年3月11日の大震災によって、特に関東地方では電力不足が叫ばれている中、何故この日商時間を有効に使える、daylight savingの世論が起こらないのか不思議でならない。

1995年頃(神戸、淡路島地震)の頃省エネ目的で国会で議論されたことがあったが何故かそれはいつの間にかトーン・ダウンして立ち消えになっている。

アメリカのように東西に距離があってその間の時差が3時間もある国でさえ国民は少々の不便にも耐えて行ってきた。

夏時間実施に対する反対論では、”生活のリズムが狂う”、”日本列島は東西に長い””高温多湿””時計の調整が面倒”など理屈にもならないこtろばかりである。

筆者の邪推かもしれないが、夏時間反対の旗頭は、主に日教組主体の労働組合の意見があるのではと疑いたくなる。

もともと小資源に苦しんでいる日本。それに加えて今回の国の将来を揺るがしかねない大震災に遭遇して、電力節減のために太陽光を有効に利用することを第一に優先して考えて当然と思う次第。(参考記録:グーグル)

|

京都東山周辺の変遷

Photo

いま京都はどこへ行っても美しい桜が咲き誇っている。有名な“円山のしだれ”は少し勢いがないが、明治30年代から「円山の夜桜」として親しまれてきた。

円山公園がどのように出来たかと云えば、明治の改革で、所謂「神仏混淆廃止令」発布(1868年)により、現在の円山公園一帯に存在していた祇園社のうち、宝寿院、宝光院、神福院、竹坊、鳥居坊、多宝塔など、仏教に関係ある一切の建物がすべて取り壊されたからである。(1900年頃の円山公園内の景色)

八坂神社は、その頃まで、どこにでもあったように、神様、仏様が合祀されていたお宮でありお寺でもあった。

それは“祇園感神院”、“祇園寺”、“祇園天神”のように呼ばれていたらしい。

その後少し山手にある安養寺付属の6坊の跡地を加え、安養寺の山号を取り入れて「円山」のネーミングが確立した。

始まりは、明治6年(1873年)、政府は“衆人群衆”の為のスペースを造成して「公園」を作ることを各府県に通達を発令した。

それ以後、さまざまな経過をたどりつつ、それが開園になったのが明治19年(1889年)であった。

土地収用法の発令で拡張されたが、ただ広いだけでは“公園”にはならないと、造園の名手、小川冶兵衛に命じていま見られるような回遊式公園となったのが大正3年(1911年)である。

琵琶湖疏水ができて、我が国最初の水力発電所が完成したのを契機として、岡崎地帯にあた“六勝寺”の跡地に「内国博覧会」を開催するため、平安神宮を中心として美術館、図書館、動物園が完成、明治天皇の行幸のもと、遷都1100年記念が挙行されたのが、円山開園から四年後の明治23年(1893年)であった。

1900年頃になって円山公園には西洋式ホテルが立ち並び始めている。

その先便をつけたのが“也阿弥ホテル”であった(挿絵参照)。その目的は近代日本の古都、京都に西洋人専用の様式宿舎をつくることにあった。

筆者の祖父(1946年没)によると、日露戦争後、捕虜となった多くのロシア将校が収監されていたとのこと。

そのように見て来ると、20世紀以前の京都東山周辺は、山を背に北は延暦寺から南は伏見稲荷まで神社仏閣のオンパレードであったことが判る。

岡崎に公園、平安神宮がなく、円山公園が出来上がるまでを考えても、その近辺では吉田神社から一直線に、知恩院、祇園社、高台寺、清水寺・・・と、数珠つなぎ状態であったことが判る。

筆者にとって歴史探訪の魅力は尽きない。(一部、毎日新聞、2011年4月13日、”外国人から見たKYOTO”、宮野力哉氏文より)

|

英知に富んだ復興思考

Daiseidou

此のたびの大震災で岩手、宮城と茨城地方で壊滅に近い被災状態になり、膨大な土地が家屋もろともインフラ部分まで根こそぎなくなってしまっところも少なくないと聞いている

毎日のように新聞、テレビで一日でも早く復旧を急ぐべしという意見が聞かれる。

本日の毎日新聞の「余禄」のコラムに、17世紀にロンドンで発生した大火災で市街の9割が灰燼になった時、一建築家の発案により、それまで不潔で悪評の高かったロンドンが一気に今日見るような近代都市に蘇ったと出ていた。

(ロンドン、セント・ポール大聖堂)

これは1677年でのロンドンの大火のことで、その時、セントポール大聖堂を建てたことで有名な、クリストファー・レン(Christopher Wren,16321723)の提案になる「再建法」が制定され、家屋はすべて煉瓦造り、或いは石造となり、道路の拡幅も行われた。その時から世界初となる火災保険も生まれている(1681)。―ロンドンの火災はローマ火災(64年)、明暦の大火(1657年)、ハンブルグ火災(1842年)、シカゴ火災(1871年)、サンフランシスコ地震と火災(1906年)とともに長く歴史に残る大火災の一つに数えられている。―

“災い転じて福となす”の喩のとおり、過ぎてしまったことを嘆くより、今後を如何に復興させるかを国民の得られる限りの英知を汲みとり、後世に悔いの残らない住みやすく、魅力ある地方に再生させることを一日も早く始めるべきと考える。

筆者が端的に発言を許されるとすれば、先ずこの際、見苦しい地上の電線を廃止し、遅れていた下水設備を造成、地方全体の色彩を均一制のあるものに定め、けばけばしく見苦しい広告等を出来るだけ制限することで美しい環境をもった地方を造成するべき良い機会ではないかと考える。

この国家的一大危機に際して、国連に対し災害資金援助を要請するべきではないかとも思う。我が国は戦後早期に復興を果し、多くの発展途上国に資金援助を試みてきた。)

日本が今回の東電原発での放射能漏れ処理を誤れば、恐らく被害は世界の広範囲に及び、我が国も経済的に苦境に陥ることが予想される。

災害発生後の民主党政権の行動を見ていると、これ以上の失政を冒すことを危惧するあまり「自己防衛」優先の姿勢が見て取れる。

冒頭の毎日新聞「余禄」の記述に戻るが、関東大震災後、1923年、後藤新平の招きで来日した米歴史家、ビアード(Charles Austin Beard,1874-1948)は後藤に送った書簡で、「貴下が計画を実行すれば、日本国民は先見と不撓の勇気ゆえに貴下を記憶するだろう、・・・・・千年後の歴史家も貴下を祝福するだろう」と述べたが、残念にも後藤の提案は議会の反対で大半が縮小されたとのこと。

「余禄」も言及しているが、復旧ではなく復興でなければならず、大胆で先見性に富んで、千年先をも予見したすばらしいアイディアーこそ生かされるべき時であると信じて疑わない。

日本政府は今こそ、恥も外聞にもとらわれず、世界から惜しみなく知識を取り入れて、後世に再び禍根を残さない「大英断」が必要なモーメントに違いない。

|

Spring is here to stay

Photo Photo_2 春の陽気に誘われて近くの京都府立植物園を再び訪れた。

幸い京都の著名庭師、佐野藤右衛門氏の手になる祇園丸山公園の”しだれ”の孫と云う見事な桜の満開の姿を見ることができた。

さすがに植物園の世話になる名物桜で、栄養が充分なのに加えて周囲に作られた菖蒲池のおかげで水揚げも良いせいか、まさにわが世の春を欧がしているかに見えた。

帰路、大きな”山つつじ”の淡い紫が咲き誇っている様を見かけた。

山つつじの寿命は長いが、何故桜花の命は短いのだろうか?「美人薄明」の譬えとは無関係。諸行無常である以上、移り変わる「時」とともに季節は移り行く。

さあー、元気を出して短い春の陽気を満喫しよう!

|

ゴルファー松山英樹

米国、ジョージア州、オーガスタ・ナショナル・ゴルフ・クラブで今年の”マスターズ・トーナメント”が終了した。(当地410日)

今回の「マスターズ・トーナメント」での日本のアマチュアゴルファー、松山英樹君の活躍は誠に見事であった。

和製「ボビー・ジョーンズ」の出現?

愛称Bobby Jones、本名:ロバート・タイアー・ジョーンズ・ジュニア(Robert Tyre Jones. Jr. 1902~1971)はアメリカ南部、ジョージア州、オーガスタ生まれの弁護士であったが、アマチュアでありながらプロをも凌ぐ実力の持ち主のゴルファで、1930年、28歳の時に当時、世界の4大タイトルと呼ばれていた、全米、全英オープンと全米、全英アマを制覇した。

それ以来1年間にこれらのトーナメントに優勝することを“グランド・スラム”と呼ばれるようになった。

驚くべきことは、ジョーンズは終生、アマチュアにとどまり、プロに転向することがなかった。

ボビー・ジョーンズは全米アマチュアの最高の賞、ジェームス・サリバン賞を受賞している。

その年、ジョーンズはゴルフ競技からの引退を宣言したが、その後、長くゴルフの仕事に関わりを持ち、オーガスタ・ナショナル・ゴルフコースを設計、“マスターズ・トーナメント”の創設者となった。

このたび松山英樹君のプレー振りをテレビで見て、彼の並々ならぬ技術に感服、4日間を通して筆者が心に描いていた「模範的ゴルファー」のイメージを見た気持である。

”オーガスタ“はアマチュアの殿堂である。

アマチュアのステータスは常にプロより上位と看做され、今回、松山君がマスターズ競技で、世界1のアマチュアゴルファーであることを証明したことは正に「一大快挙」と云っても過言ではない。

松山君は4日間を通して笑顔を絶やすことなく紳士的で、好感が持てた。

特に、第3日の競技では5アンダー、68のスコアーを達成、実力でも世界の一流プロ選手と決して技術力で劣らないことをも証明した。

誰もが優勝したのはシュワツエル(南ア)と考えがちだろうが、球聖“ボビー”の考えでは、実の勝者は松山英樹君であるに違いないと筆者は思う。

|

宝永地震と富士山

The_fuji_view

富士山には南側から見て、右の中腹あたりに「宝永山」と呼ばれる起伏が見えるが、それは宝永4年に(西暦1707年12月16日)、富士山の噴火によって出来たものである。

記録に依ると(武江年表)“天暗く雷声地震夥しく、関東白灰ふりて雪の如く地を埋む、西南しきりに雷光あり、白昼暗夜のごとくなり云々”と記されている。この噴火による噴出分量は約8億立方米と推定している。

筆者が特に驚いたのは、実はその大噴火の49日以前に東日本大震災より広範囲に亘って「宝永地震」が発生している事実である。

「宝永地震」とは、宝永4年10月4日(太陽暦10月28日)中部、近畿、四国と九州にわたる広い地域にまたがる、マグニチュード8.6の大地震であった。

最近、しげしげ新聞紙上で騒がれている、東海、東南海、南海地震が同時に発生し、大凡、北陸、近畿、山陽、四国と九州に亘って発生した。

地震後、津波が房総から九州に至る太平洋沿岸から八丈島にまで及んだと云われ、最も被害の多かった地域は高知沿岸、紀伊半島から伊豆半島西岸だった。

伊豆下田では5~7m、紀伊半島では510mの津波が来て各所で地盤沈下が発生、四国の道後温泉では145日の間温泉が止まったと云われている。

あくまで推計だが、家屋の倒壊、流失2900戸、死者は2万人に及んだとも云われている。

宝永地震から304年が経過しているが、その規模と震度が問題で、しかも、地震から49日目に美しい富士の姿を変えるような大噴火が起こったと云う事実に何か身震いがするような恐怖を覚える。

去る3月11日の東日本大震災から明日で30日が過ぎることとなるが、このまま日本列島が静まってほしいと願うばかりである。(記録参照元:グーグル検索)挿絵の富士は裏側の河口湖からのもので、したがって「宝永山」は見られない。

|

釈迦金棺出現図

Photo_2

釈迦金棺出現図と云う、お釈迦様が生き返って燦然と輝く後光を背にして起き上がっている様を描いた珍しい仏画がある。

キリストの復活Resurrection)は、キリストがゴルゴダの丘で十字架に縛られて亡くなったあとで棺から再び現れる云い伝えであるが、釈迦が入滅後、土に葬られたと云うことを、仏教徒でありながら不熱心な筆者は知るところがなかった。

これは他に類を見ない誠に稀な仏画の大幅である。

大コレクター、大茶人であった原三渓もこの仏画について「この種の図に於いて、殆ど類を絶ち群を絶す、・・・実に稀世の宝なり」と言わしめた程の珍品であることには違いない。

終戦後、10数年して、これを所蔵していた京都、長岡・長法寺が滋賀県の綾羽紡績の河本嘉久蔵氏に1000万円で売却したと云う噂がたった。

しかし、この取引、文化財の正式な移転届けなしの不法なものであったため不成立となった。

そこで持ち主の寺が国に購入を依頼したが、長い間、文化庁は何らの行動をとらなかった為、一業者、井上康弘氏が中に立ち、水谷集光堂に購入を依頼した。

その時点で、筆者の聞き及んだところではその価格は4000万円とのことであった。

当時、4000万と云う金額は大変な高額であった。

次に聞いた時、この珍宝は電力の鬼と云われた、九州電力の松永安左エ門(耳庵)が3700万円で買ったとのことであった。

これがあまりに高額な買い物であった為、さすがの松永氏も幾度か逡巡して、資金ねん出のために所蔵品を処分して支払ったとのことであった。

松永安左エ門は明治8年長崎壱岐の素封家の生まれ、慶応義塾卒業後、30代の若さで九州に電力会社を創設、その後電力業界に君臨、戦後70歳を超えて電力業界再編成に着手、「電力の鬼」と云われる人物であった。

茶の湯、数寄の世界でも有名で、三井の益田鈍翁、原三渓等のよき指導で美術品収集にも没頭した。

昭和46年6月、97歳の長寿を全うした。

松永記念館で執り行われた葬儀会場にはこの釈迦金棺出現図の大幅がかけられたとのことである。

耳庵の没後、子息、安太郎氏の英断で松永記念館が閉じられ、この仏画は国に完全無償で寄贈され、今では元あった京都国立博物館にて保管されている。

東日本大震災で東電が苦労しているが、どの重役も自己責任覚悟で英断を下すような輩が見当たらない。

政府民主党にしても、何事につけ後手にまわって思い切った政治決断も出来ない始末、釈迦ならぬ「電力の鬼」の出現が待たれる。

|

地震後の海底ケーブル状況

Photo (日本近海の海底ケーブル図)

海底には多く、通信のためのケーブルが敷設されている。

最近では日米間に「光ケーブル」が開通したことを知っていたが、先月に起こった東日本大震災後どのようになっているかを知るべくグーグルで検索して以下のことが判った。

やはり宮城県、茨城県沖での被害が大きかった。

調査会社テレジオグラフィー(Telegeography)がまとめたおおよその被害状況は:

APCN-2(日本、中国、香港、フィリッピン、韓国、マレーシア、シンガポール、台湾をつなぐケーブル)

PC-1 N及びPC—1 W(NTT子会社Pacific Crossingが提供する日米間海底ケーブル)

PacNet(パックネット)のEAC(East Asia Crossing)ケーブル

韓国KT(Korea Telecom)の日米間をつなぐケーブルネットワークの一部

被害のあったルーターの多くは、茨城県の阿字ヶ浦及び北茨城海底ケーブル陸揚曲に集中している。

通信各社では、衛星回線に切り替えるなどして対応したが近隣諸国を含むインターネット接続が一時途切れたり、通信速度が低下したことを報じている。

ホンコンから米国のWEBサイトにアクセスする際に、通信速度が落ちる可能性が起こる可能性ありと憂慮しているとのことである。

震災発生から一カ月経過した、新聞やテレビでは放射線の海産物や穀物、野菜への影響だけを報道しているがこのように目に見えないところにも被害が少なくない。

だからと云って頭を抱えて心配していてもきりがない、何でも来いとどっしり構えて各人がするべきことに専念、忍耐強く国の威信を取り戻すことに努力するしかないと筆者は考えている。

|

植物園も春本番

PhotoPhoto_2ぼけ”の漢名は木瓜(もっか)、バラ科の植物で低木、トゲがある。

我が国のものはクアボケ一種で早春に咲き、切枝用、盆栽用として喜ばれる。

植物園では紅白の金剛で色彩が美しく、つい足が止まった。

そめい吉野もしだれ桜も、本日、(4/8) からほぼ満開となった。

京都府立植物園の”しだれ”は祇園、丸山公園のしだれの孫にあたるとされ、佐野藤右衛門氏が自ら植樹されたと聞いている。

周囲に菖蒲が植えられ池となっているせいか水あげも良く

さすがに立派な枝ぶりで圧巻である。

ここでは敢えてお見せしないこととする。

また、チューリップ、山つつじ等も見ごろである。

西洋シャクナゲは未だつぼみの状態であったが、牡丹、バラ等も2~3週間のうちに咲き始め、これからが春本番である。

東日本大震災に遭遇された方々には気が引けるが、みんな元気を出して気持ちを開いて自然美をめでて欲しい。

|

春の知らせ

Photo_2久しぶりに植物園でさまざまな春の花に巡り合った。

今日、4月7日桜は7部咲きで残念だったが、雪やなぎ、プリムラ、チューリップ、紅白のボケなんかは今を盛りと咲き誇っていた。

今週末にはしだれ桜も満開でライトアップで夜空を背景にさぞいぇ美しいことだろう。

桜の幹には新芽も出て春野到来を告げていた。 Photo_3 Photo_5 Photo_4

|

相撲興行

Photo

最近新聞欄を賑わしている事件の相壁は、東日本大震災と八百長相撲問題である。

八百長相撲の問題はまさしく日本人の個性がむき出しに曝け出された、云わば“震災”ともとれる。

日本古来の“奉納相撲”と江戸時代から始まったとされる“興行相撲”は自ずと性質の違ったものであるべきである。

明解国語辞典(金田一京介)の「興行」を調べた。映画、演劇、相撲などを催すこと、興行師とは「興行」を職業とする者とある。

大阪の吉本興業はまさに興行師が主催する組織だと考えた場合、相撲も一種の芝居と考え、あまり理屈一点張りに相撲を考えることをしない方が良いと思う。

そもそも「八百長」と云う言葉は相撲から発生したものであり、云わず語らずのうちに“了解済み”として軽く流して終止符を打つべきではないかとも思う次第である。

この他に“痛み分け”も相撲言葉として、相撲などで取り組み中、一方が負傷したために“引き分け”になることとして国語辞典にある。

詰まるところ、相撲には心による相手に対する“いたわり”がなければならない。

相撲協会の規約を替えずして八百長問題だけを掘り起こしても問題は解決しないことを冷静に再考してほしい

相撲部屋に力士(十両以上)がいない場合と、いる場合に協会の待遇に格差があったり、相撲とりが力士の資格を亡くした場合の手当ての違いも問題である。

特に、力士が家族持ちであった場合、生活問題となり、力士同士が“いわずもがな”に星の譲り合いが起こっても、見逃すことも人間社会には必要だと考える。

明治維新後、東京と大阪の相撲協会が合体、1909年(明治42年)国技として発足した。

従って日本人の相撲にたいする考え方には大凡、三つの解釈があると考えられる。

相撲を「神事」、「芝居的興行」、「国技=スポーツ」の内、現在の相撲協会はどの角度から相撲の在り方を考慮しているのかハッキリすべきではないかと考える

筆者の考えからすると相撲は催し物(興行)として、相撲協会は観客を楽しませることに専念して欲しい。

|

チェルノブイリから学ぶべきこと

1986年ソ連、チェルノブイリ原発事故から5年間、放射能汚染除去作業の責任者:ユーリ・アンドレエフ氏を電話インタービューして直接、東電福島原発被害についての感想を聞いた産経新聞(4/2)の記事によると、ユーリ氏は「福島」では先ず、東電に関係のない独立した技術者特別チームの編成を急ぎ、被害の程度を早急に公表すべきであると言っている。

ユーリ氏はさらに、2号機は炉心や原子炉圧力容器が溶融している疑いが濃厚で、被害の程度は日本の発表の5ではなく、6以上であり、チェルノブイリの7に近いことを示唆している。

ユーリ氏はさらに、会社は利益優先なのでチームからは東電の関係者を外すこと、そこで、幅広い知識を持つ経験豊富な技術者を日本中から集めて特別チームを編成すべきことを強調している。

ユーリ氏も当時チェルノブイリでヘリから放水したり、原子炉の下に穴を掘ったり、無意味な作業で時間をとられたことを述べ、最後には核燃料は既に溶け出して残っていなかったとを正直に語っている。

ソ連当局は最初、事故の原因と規模を隠し、そのため状況を悪化させたので、日本の場合は今後、原子力政策と安全規制を同じ経産省に集約することを止め、完全に独立した委員会を作る必要を指摘している。

チェルノブイリでは「石棺」を作って放射線の放出を防ごうとしたが、これは残った他の原子炉の運転の継続を考えていた為で、福島では全部の廃炉ならば石棺は必要はいとの意見。

ユーリ氏はさらに、チェルノブイリでは原発の汚染除去に2年がかかったが、土壌や環境汚染除去は事実上不可能なのでそのまま放置されているとのこと。

「フクシマ50」と報じられた現場作業員はあまりにも少ない、これを5000人以上にすべきで、もっと完璧な防御服の着用が必須で、彼等は確かにサムライだろうが、出来ればロボットを多用することを進めている。

工場施設を2年かかって除去した後、周辺30キロはそのまま放置したと簡単に述べたユーリ氏だが、これは広いロシアでは問題ないとしても我が国では将来大きな問題ではないかと危惧している。(産経3/2‘11)

|

フランスからの贈り物

29

フランスは東日本大震災発生直後から日本への支援を申請、日本からの情報の提供を待っていたが、結局返事が得られなかったので、サルコジ大統領自身で日本に乗り込み、菅直人首相と直談判して、特殊ロボットの提供他、フランスが原子科学の先進国として仏原子力庁(CEA)、仏電力公社(EDF)、仏電力大手アレバ    からの「支援OK」を勝ち取った。

(三陸大津波の写真)

このたびのサルコジ大統領の訪日にはフランスのコシウスコモリゼエコロジー相、ビゴCEA長官、に加えて、5人の専門家を従えたアレバのロベルジョン最高経営責任者(CEO)、ルビュサール放射線防御原子力安全研究所(IRSN)所長、ジャメASN委員等、いわばフランス政府総出の専門家団体派遣旅行となった。

フランスの言い分は誠に筋が通っている。

フランス国内の世論、“この期に及んで与野党、政府、東電の間で責任のなすりあいをしている時ではない”(仏記者)があることに加えて、“東電が海水投下を決めたのは遅すぎた、海水で廃炉になるのを恐れたのでは、と云った疑問があったので仕方なく大統領自ら日本の説得に駆け付けた”(仏記者)。

フランスは国内に59基の原発を持つ“原発王国”であり今回の事件発生直後から情報の分析を行い注視し続けていたとのことである。

今回の事故は世界を驚愕させるような規模の大地震、大津波であったが、それらに加えて「核爆発」と云うこれまでになかった憂慮すべき問題が起こったからフランスは国会の決議を経て今回の大統領(サルコジ)派遣になったのだろうか?

それとも、度重なるフランスからの警告を日本が受け入れないのでやむを得ず大統領が直々に自分の判断で東京まで飛んできたのだろうか?

我々は謙虚にフランスの好意と技術支援に感謝するべきであると思う。

これは筆者ぼ素朴な質問だが、日本に最も緊密な関係を保っていると思われているアメリカからも元首の訪問を受ける以前に、滅多に来たことのないフランスから忽然としてサルコジ氏が飛んできてくれるとはさぞかし菅直人首相も驚いたことであろう。

筆者は、これがフランス外交の真髄なのかと、今更ながら教えられた思いである。

|

« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »