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京都東山周辺の変遷

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いま京都はどこへ行っても美しい桜が咲き誇っている。有名な“円山のしだれ”は少し勢いがないが、明治30年代から「円山の夜桜」として親しまれてきた。

円山公園がどのように出来たかと云えば、明治の改革で、所謂「神仏混淆廃止令」発布(1868年)により、現在の円山公園一帯に存在していた祇園社のうち、宝寿院、宝光院、神福院、竹坊、鳥居坊、多宝塔など、仏教に関係ある一切の建物がすべて取り壊されたからである。(1900年頃の円山公園内の景色)

八坂神社は、その頃まで、どこにでもあったように、神様、仏様が合祀されていたお宮でありお寺でもあった。

それは“祇園感神院”、“祇園寺”、“祇園天神”のように呼ばれていたらしい。

その後少し山手にある安養寺付属の6坊の跡地を加え、安養寺の山号を取り入れて「円山」のネーミングが確立した。

始まりは、明治6年(1873年)、政府は“衆人群衆”の為のスペースを造成して「公園」を作ることを各府県に通達を発令した。

それ以後、さまざまな経過をたどりつつ、それが開園になったのが明治19年(1889年)であった。

土地収用法の発令で拡張されたが、ただ広いだけでは“公園”にはならないと、造園の名手、小川冶兵衛に命じていま見られるような回遊式公園となったのが大正3年(1911年)である。

琵琶湖疏水ができて、我が国最初の水力発電所が完成したのを契機として、岡崎地帯にあた“六勝寺”の跡地に「内国博覧会」を開催するため、平安神宮を中心として美術館、図書館、動物園が完成、明治天皇の行幸のもと、遷都1100年記念が挙行されたのが、円山開園から四年後の明治23年(1893年)であった。

1900年頃になって円山公園には西洋式ホテルが立ち並び始めている。

その先便をつけたのが“也阿弥ホテル”であった(挿絵参照)。その目的は近代日本の古都、京都に西洋人専用の様式宿舎をつくることにあった。

筆者の祖父(1946年没)によると、日露戦争後、捕虜となった多くのロシア将校が収監されていたとのこと。

そのように見て来ると、20世紀以前の京都東山周辺は、山を背に北は延暦寺から南は伏見稲荷まで神社仏閣のオンパレードであったことが判る。

岡崎に公園、平安神宮がなく、円山公園が出来上がるまでを考えても、その近辺では吉田神社から一直線に、知恩院、祇園社、高台寺、清水寺・・・と、数珠つなぎ状態であったことが判る。

筆者にとって歴史探訪の魅力は尽きない。(一部、毎日新聞、2011年4月13日、”外国人から見たKYOTO”、宮野力哉氏文より)

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