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American Violence

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アメリカ第7代大統領アンドリュー・ジャクソンが1830年に施行したインディアン移動法、又は除去法(Indian Removal Act)によってチャロキー族をはじめ5民族がミシシッピー以西に追いやられることとなった。

当時ミシシッピー以西は全くの荒野で、白人種の住める場所とは思われていなかった。

従って、白人種が住めない土地にインディアンを放逐したジャクソン大統領の当時の趣旨では、先住民とのかかわりあいを絶つ目論見であったことはいなめない事実。

それが32年後(1862年)白人移民の増加で、ミシシッピー以西にまで開拓民が金鉱を求めて押し寄せた結果、ホームステッド・アクト(Homestead Act)が発効し、白人移民優遇のため、先住民たちは再びより小さい居住区に押し込められ、やがて「フロンティアーの終息」を迎えた。

註。homestead act ,1862は16歳以上の白人男性のアメリカ市民に160エーカーの土地を農地耕作用として無償で授与する法律、但し、家族には80エーカーと決められていた。)

ウーンデッド・ニーの虐殺(Wounded Knee massacre)は、1890年12月29日の早朝、サウスダコタ州、で第7騎兵隊が先住民(350名、内女性、子供120名)に対して行ったジェノサイド行為であった。

第7奇兵隊は先住民を近くの居留地に誘導するため、12月28日、ウーンデッド・ニーで共にキャンプをしていたが、早朝、アメリカ側が武器の引き渡しをす命じた時、先住民の中の一人が不審な行動をとったことから衝動的に発生した事件とされている。

発砲したのは奇兵隊の方で、結果的に、これは全くの皆殺し行為に終わった。

しかし、アメリカ政府はそれを虐殺とは名付けず、「ウーンデッド・ニーの戦い」として、虐殺を実行した第七奇兵隊には議会勲章まで授与している。

この戦いを最後に先住民とフロンティアーとの戦闘行為は完全に終了、インディアン達は白人によって生活環境を破壊され、絶望のどん底に追いやられ、それ以後、暫く部族内に狂気のゴースト・ダンス(Ghost dance)が流行したと言われている。

セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)は著書(1905年)でフロンティアーの終息を”the winning of the west”(西部の制圧)と表現し、さらに、英語民族の繁栄“spread of English –speaking peoples”と表現、WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の出現を予言した。

このたび、アメリカ特殊部隊がパキスタン国内で、パキスタンの主権を侵犯、オサマ・ビンラディンを虐殺して裁判にもかけずに勝手に海中放棄した。

この行為は正に120年前にアメリカ人が先住民に行ったと同類のアメリカ特有の蛮行で、国際法の番人を標榜しているアメリカらしくない違法行為以外のものではない。

ウーンデッド・ニー虐殺には無抵抗の先住民をホッチキス重機関砲(Hotchikiss gun)

で打ちまくった。(写真)

(ホッチキスMle1914重機関銃は主に第一次世界大戦中に採用された、フランス製、但しフランス語ではHが発音されない為「オッチキス」と呼ばれる。筆者は日露戦争で日本軍が採用した機関銃はこれではなかったかと思っている。アメリカでは機関銃の普及がヨーロッパ諸国より遅れていて、メキシコ革命(1911年)当時でも、ガトリング銃の使用が記録されている。又、戊辰戦争で使われた機関砲もガトリング・ガンである。)

ウンッデド・ニーの殺戮は、それより60年前の1830年5月18日、アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)大統領が最初に採用した”Indian Removal Act”(インディアン移動(除去)法)が完結したシンボル的な出来事としてアメリカ先住民としては決して忘れられない事件である。

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