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ミス・デントン

Doushisha

フローレンス・デントン(Florence Denton,1857-1947)は京都にある教育施設「同志社」にとって忘れ難い人物である。

筆者の母(明治40年生まれ)も死ぬまで“デントンさんは怖い先生、しかし、心の優しい先生”と言っていたことを記憶している。

1857年、米国はネヴァダ州の生まれ。1887年、パサデナの小学校の校長を務めていたとき、休暇で帰国中のゴードン氏と出会い同志社で働くことを勧誘され、決心、1888年に来日した。

当時、彼女はハウラーと云う青年と婚約していたが、回心して(解消?)日本にやって来た

その後、60年間、昭和22年(1947年12月)迄、日本の女子教育の為に尽くした立派な人物である。

その間、デントンは全精力、全生命を同志社の女子教育の為に尽力し死後、勳三等瑞宝章を受けている(昭和23年)。

自分の生活を極限まで切り詰め、質素な生活に徹し、その間、同志社に必要な建物を造る資金集めに尽力した。

デントンは1917年に元の婚約者、ファウラー氏より同志社のために2万ドルの寄付を受けていた。(当時のアメリカの労働者の日当1ドルの時代)

デントンは同志社が迎えた8人目の宣教師と云われている。

同志社女子校の設立されたのは、1876年(明治8年)、従ってデントンは同校設立12年目に着任したことになる。

彼女は同志社で聖書の他、英語、地理、動物植物学、天文、科学、料理法、看護学等を指導したが、特に聖書、英語、料理に重点を置いていた。

怠ける生徒には厳しく、いつも“勉強、勉強、勉強”連発していたと言われる。

しかし、人情に厚く、一度、ある生徒が腸チフスにかかった時には、病院の制止も聞き入れす、自ら親身になって看病し、母親から、「実に、親も及ばないことをして頂いた」と感謝された。その時、自分でアイスクリームを作って届けたこともあったらしい。

建設者としての彼女の実績は目を見張るものがある。

関係者に言わせると、同志社女子部の殆どがデントンさんが建てたものと告げている。

自己の生活を極端に近い程切り詰め、その間、資金集めに献身して、「家政館」、「平安寮」、「静和館」、「ジェームス館」、「ブリンプト館」、の完成に助力し、「デントン・ハウス」を世界中からの訪問者を迎える“サロン”として同志社の為に利用した。

ファウラー氏は彼女と別れて何十年、その間、独身をつづけていたが、或る日、デントンを訪れて「どうぞ、神さまの為に使って下さい」と云って彼女に差し出した資金が同志社の誇る「栄光館」建設の約3分の1の資金となったと言われてる。

ファウラー氏について知るところは少ないが、若き日の婚約者、デントン嬢のために尽くした人物として同志社関係者の忘れられない篤志家である。

彼の善行はきっと後世に迄語り続けられることと思われる。

仏教徒、キリスト教徒を問わず、人間の善意は同質、その心は比較できるものではないと筆者は考える。

フローレンス・デントンは今、京都、相国寺内の長得院の墓に眠っている。

また、若王子の同志社墓地にも分骨された墓がある。

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レンブラント・ピール画”ルーベンスとゼラニューム鉢”

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眼鏡の青年が左手で赤い花の植物の植木鉢を抑えて、こちらを見ている絵(写真)が

1998年の競売で407万ドル(競売での最高値)でアメリカ国立美術館(National Gallery of Art)に買われたものと誰が思うだろう?

「ルーベンス・ピールとゼラニューム」(Rubens Peale with a geranium,1801))(写真)はアメリカでは可なり昔から有名な作品であった。

この作品の作者はルーベンス・ピールの兄のレンブラント・ピール(1778-1860)、ルーベンス・ピール(1784-1865)はその時、17歳であった。

ピール一家はアメリカ独立当時の最も有名な職業画家であった。

初代のチャールス・ウイルソン・ピール(Charles Willson Peale,1741-1827)は生まれはイギリスだが、後にアメリカで最も有名な肖像画家となり、同時に軍人、博物学者でもあった。

独立当時の有名人、ジョン・ハンコック、トーマス・ジェフアソンやアレキサンダー・ハミルトンの肖像で最もよく知られているが、特に旧プリンストン大所蔵のジョージワシントンの等身大の肖像画は、2005年1月、2130万ドルの値を付けたことでも有名である。

ルーベンスはチャールスの4番目の息子で、幼少の頃より目が悪く、一度イギリスに渡ったが戦争の為帰国、ペンシルヴァニア大学に進んだが、その後、父、チャールスの創立した美術館の初代館長となった。(1810-1821

この「ルーベンスとゼラニュームの肖像」が評判になった訳は、この絵の内容にある。

ゼラニュームは南アフリカ原産で、イギリスに1714年にもたらされ、この絵の描かれた1801年頃にアメリカにもたらされたと伝えられる。

6人兄弟の末っ子のルーベンスは一家の中で最も植物に詳しく、ゼラニュームが乾燥を特に嫌うことを知ってか、彼の右手指は鉢の湿気具合を探っている。

眼鏡をかけながら、何故左手に他の眼鏡を握っているのかも謎だ、それでいて、ルーベンスの優しそうな表情が自然を愛する若者の気持を良く表している。

チャールスは息子たちにヨーロッパの有名画家の名を付けているところも面白い。

American History,Aug.2011より翻訳)

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異色の人物「バロン・サツマ」

1 薩摩治朗八氏はれっきとした現代人、1901年(明治34年)近江商人の「木綿王」と云われた薩摩冶兵衛の孫として東京は駿河台に生を受けた。

その邸宅たるや一万数千坪の旧大名屋敷跡、祖父が鹿鳴館時代に、そこに豪邸を建て、その西洋館披露宴には海軍軍楽隊付きで数多の在留外国人まで招いてワルツを踊ったと言われる。

二代目冶兵衛は事業を初代から受け継いだが事業を専ら番頭たちにまかせて美術品収集を趣味としていたらしいが、三代目の治朗八こそ、稀代の型破りな世界人として有名を馳せる人物に育った。

治郎八はロマンティックな夢に満ちた青年で、19歳の時ロンドンに脱出、番頭に命じて月々、略一万円ばかりの生活費を送らせて豪勢に暮らしていた。

表向きは経済学専攻であったが、彼の探求は専ら「美」と「肉」に関するものであったらしい。最新流行の英国紳士スタイルで、最新型の高級車ダイムラーをを乗り回し、劇場巡りやアート・ディーラーで収集に努めた。

1921年、パリにわたり、そこでは社交界の花形として噂に上った。挙句は女のことで或る侯爵と決闘騒動を起こし騒がれたらしい。

25歳で、山田英夫伯爵の令嬢千代と結婚、美貌のカップルとして社交界を騒がした。

常時、純銀製ボディーの瀟洒なクライスラーを愛用、運転手にはアゲハ蝶紋付きの制服を着させて、カンヌ・エレガンス・モーター・レースに出場、特別大賞を獲得している。

治郎八も粋な美男で、彼の若き日の容姿は、六代目菊五郎の生き写しで魅力的との噂が残っている。パリの社交界では、バロン・サツマ、マダム・サツマの奇抜な服装が噂を生み、それまで黒色と決まっていた燕尾服も治郎八の着た紺色を見て、彼らの伝統の常識を替えさせたとも云われている。

パリの郊外に各国が留学生のため衛生的なドーミトリーを建設する構想が発表された時、日本政府の要望で若冠25歳の治郎八が引き受け、さつま屋敷を建てた話は有名である。

こんな剛気な男性は今の日本では“金のわらじ”ででも探し当てられない事請け合い!

後に、治郎八はフランス政府からレジョン・ド・ヌール勲章も受けている。

花のパリで王様の生活を送った治郎八であったが、その後中風となり、58から75歳になるまで四国、徳島で愛妻の世話になりながら波乱に満ちた一生を閉じた。

(以上、Sunday Nikkei,瀬戸内寂聴「奇跡まんだら」#119、2010年1月17日より抜粋)

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細川ガラシャ

Hosokawa

先週のNHK番組「歴史秘話ヒストリア」で光秀の女、細川ガラシャの悲劇的運命の顛末を放送していたが、その後、筆者の古新聞蔵をひっくり返して見つけたのが、京都新聞(2007年11月28日)の“ふるさと昔語り”(#192)細川ガラシャ隠せいの地。

京丹後市弥栄町味土野と云う地名だが、調べてみると、それは丹後半島の中心付近の山深い場所で、そこから最も近い町は峰山。

里から、つずら折りの細い山道を約5キロも登りつめた奥地(標高400m)にある、冬になれば今でさえ里から閉ざされる豪雪地帯である。

ここを「女城」と呼ぶそうだが、戦前、地元婦人会によって石碑には「細川忠興夫人隠棲地」と刻まれている。

そもそも何故この様な場所に隠れなければならなくなって、彼女だけが犠牲になったのかと云えば、ガラシャは明智光秀の娘で名前は玉。

細川忠興に嫁したが、光秀が本能寺の変で逆臣となった。

玉の身に危険が迫ることを予想した忠興が彼女を当時では誰も予想もつかない僻地、味土野の山奥に運んだと思われる。

現在でも電話が繋がっているかどうか判らないような場所である為、細川としては安心していたと思われる。

郷土史愛好家の芦田行雄さんによると、此の場所は丹後随一の米どころ、行者山と呼ばれた近くの金剛童子山には当時から修験者の往来があり、食糧や情報が集まる場所だったのではと話す。

その時、玉は愛する子供からも別れて2年余をさびしく暮らしていたと言う。そこで残した玉の句に“身を隠す里は吉野の奥ながら花なき峰に呼子取り鳴く”と心境を表現している。

その後、玉は秀吉の計らいで大阪に帰り、キリスト教の洗礼を受けて(25歳)ガラシャの名を授かった。

秀吉没後、関ヶ原の役で忠興が東軍(家康)方に加担した為、石田光成から大阪城に入ることを強要されたがガラシャは拒否し、細川家屋敷(大阪玉造付近?)に敵の来るまでに家老に命じて自分の胸を突かせて果てたと言われる。(38歳)

何とも強い意志の女性であったと驚くばかりである。

細川家の墓所は京都大徳寺塔頭「高桐院」と大阪、崇禅寺にある。

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笠置寺と東大寺

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笠置寺の磨崖仏は30年程前に見物したので記憶にあったが、摩耗が激しく、殆ど何が彫られているのか識別が難しかった。

この寺の創建は7世紀、白鳳時代に遡るとされている。元の寺名は「鹿鷺寺」であったらしいが、いつの間にか笠置になったと言われている。

真言宗智山派の仏教寺院。本尊は弥勒仏。開基は天武天皇との伝承(笠置寺縁起)、歴史的には奈良の東大寺や興福寺と関係が深く日本仏教史上重要な寺院である。

30年ほど前に訪れた時、周囲の風景の美しさに見とれていたばかりに肝心のご本尊の巨大な(高さ15m)磨崖仏(弥勒)のことはすっかり忘れていた。

本日、京都新聞「凡語」欄で表面が戦乱の火災(元弘の変、1331年)と風雪により摩耗がひどく識別が殆ど難しかったが、最近、寺の依頼で、関西学研都市のベンチャー企業が高精度ノデジタルカメラで岩を撮影。

その結果、画像処理でかすかに残った肩部分と足元の蓮華座などの線刻を見つけることが出来た。

この映像を鎌倉時代の「笠置曼荼羅図」などを参考に元の姿に近いものをデジタル画像で蘇らせたと云うニュースを知ることが出来た

ここで50年以上住職を務める小林慶範さん(75)、「うちのご本尊ですから、どんなお姿だったのか復元するのが永年の夢でした、これを第一歩に、何時の日か実際に岩に弥勤さまを刻んで元の姿に戻したい」と述べている。

この画像は写真パネルにして磨崖仏の傍の「正月堂」に置かれて一般に公開されているとのこと。

(そこで筆者は思う。このような場合にデジタルカメラの威力で文化財復元に利用することはスバラシイと思うが、最近、観光寺院がデジタルカメラを使って原物と見間違うような映像を展示し、そこで”拝観料”を徴収する行為は許しがたい。)

笠置寺の所在地は、京都府と奈良県境にある笠置町にあり、東西に流れる木津川の南岸。

筆者の想像だが、昔から近隣の寺院建造の資材であった材木は、周辺の位置関係から考えて笠置町から運ばれたのでは?従って、この地は重要な商業都市であったのではと考える。

「今昔物語集」巻11には笠置の地名の起源と笠置寺の弥勤磨崖仏の由来について書かれているが、ここでは省略する。(グーグルウエキペディア参照)

最後に重要なこととして、笠置寺には東大寺開山の良弁(689-773)や、その弟子で、奈良「お水取り」の創始者と云われる実忠の伝承が残っている。

笠置寺の本坊を「正月堂」と呼ぶわけは、東大寺には二月堂と三月堂は存在するが、不思議にも「一月堂」は無い。従って、東大寺で行われているお水取りは。以前はこの笠置寺の「正月堂」から始まった可能性が考えられるとして興味深い。

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アメリカ大統領の報酬

Photo 前回に引き続き、2010年販ニューヨーク・タイム社、Almanac記載のアメリカ、オバマ大統領、バイデン副大統領の年俸と必要経費を紹介したい。

これが既に日本で周知の事実であればお許し願いたい。

オバマ大統領の年俸は$400,000(税込)、バイデン副大統領は$227300(税込)。

(交換レート、1ドルを80円とすると、オバマ:3200万、バイデン:1818万)

その他、大統領の経費,$50,000、年間交通費$100,000、交際費$19,000(以上、無税)

ホワイトハウス関係経費として$3,850,000が割り当てられている。

ウエブサイトは:Website:www.whitehouse.gov/administration/president_obama/

E-mail:comments@whitehouse.gov

又、各省の長の報酬も公表されていて、これは不思議に、一律$196,700と案外低報酬に抑えられている事に驚く。

各官庁の住所、及びウエブサイトも公表されていて、各州のキャビネットについてもこのalmanacに細かく記載されている。

10年ごとに行われる国勢調査に基づく各州に割り当てられる、比選挙人の数はすでにこのブログで紹介したが、アメリカ50州の州知事と州議会構成員の名前、及びそれぞれの年俸額もこの本に克明に書かれている。

アメリカ50州全部を記述することはできないが、一例として、ニューヨーク州に付いてお知らせすると、

Governor: David Paterson, $ 179,000  (1432万円)

L.T. Gov.: Richard Ravitch,. 85,000   (680万円)

Sec. of State: Lorraine A. Cortes –Vasquez, 120,800 (965万円)

Comproller: Thomas Dinapoli,  $151,500 (1212万円)

Atty.Gen.Andrew Cuomo,  $151,500 (1212万円)

Legislature:  $79,000 (632万円)   

上院議員数:62, 下院:150  212

因みに、ニューヨーク市長:Bloomburg氏の年俸は1ドルとのことで、この考え方は名古屋市長の河村氏とかなり接近している。

2009年度の上院議員数の内訳は、総数100名の内、民主党58名、共和党40名でその他の党1名。

下院議員は、会員総数435名の内、民主党256名、共和党178名、空席1となっている。

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2008年度調査のアメリカ不法移民数(国別)

アメリカは移民国家であるが、コンスタントに違法滞在する移民が絶えないことがアメリカの苦悩である。

以下に示す10カ国はアメリカに不法滞在する人種の代表格で、主な原因は婚姻によって生じる問題が多いとされる。

例えば、人種間の混血や、人種識別が時が経過するに従って困難になることも多い。

日本人はこれには入っていない事は日本人に順法精神があるからと思われる。

2008年アメリカに於ける違法移民人口  総人口:11,600,000

国別人口

メキシコ:                     7,030,000

エルサルヴァドール                  570,000

ガテマラ                       430,000

フィリッピン                     300,000

ホンデュラス                     300,000

韓国                         240,000

中国                         220,000

ブラジル                       180,000

エクアドル                      170,000

インド                        160,000

その他                       2,000,000

2000年の調査からの増加率: トータル:+37%

メキシコ:50%、エルサルヴァドル:35%、ガテマラ:48%、

フィリッピン:51%、ホンデュラス:81%、韓国:37%、中国:14%、

ブラジル:72%、エクアドル:50%、インド:29%

その他にある2,000,000人は何を意味するか不明である。2008年の不法移民人口は

1160万人である。

(2010年、New York Times ,The World Almanacより抽出)

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イスラエル防衛は可能か?

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オバマ米大統領のミドルネームが「フセイン」と云うことで、政府内で“オバマもイスラム教徒だ”と云う根も葉もない中傷が保守派とユダヤロビーで常に囁かれていることは確からしい。

これは明らかに保守派(共和党)のプロパガンダには違いない。しかしオバマ大統領はイスラエルの首相ネタニヤフと反目することはアメリカの利益にならないことは重々承知だが、アラブ側、ムバラクカダフィー、サウジのアブドラ国王にも信用が薄いと言われる。

イスラエルは今までエジプトに圧力をかけて占領地「ガザ」を危険から守ることを続けてきたが、エジプトがムバラク排除後、態勢が変わったことで、プロハマスになりつつあり、パレスチナ人側に態度をシフトさせ、秘密裏に武器供与を始めれば、イスラエルも今後「ガザ」を守ることに腐心せざるを得ない。

ガザに接続するシナイ半島にもハマス勢力が繰り出し、イランも軍用船をスエズ経由でシリアに到着させた。イスラエルは現在、四面楚歌の状態にある。

シリアやリビアで民主化を叫んでいる反政府集団が今後どのような態度をとるかは未定で、必ずしも西側の望んでいる「民主化」に向かう保証はどこにもない。

イスラム諸国に共通する感情は“反ユダヤ”=“反イスラエル”が平均的方程式である。

カダフィーを懲らしめても、ウサマ・ビンラディンを排除したとしても中東の平和には繋がらない。

もしイスラエル国内で9・11のようなテロ行為が起これば、それはアメリカ、イギリスにも飛び火する危険性がある。

イスラエルの自衛は今後困難の度を増していくだろうが、イスラエルが今までのような強硬姿勢一点張りの態度を取り続けるならばアメリカを窮地に立たせることになるだけだ。

この危機状態の背後の中国の今後の行動も無視できない。

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憂国

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2009年9月、民主党が総選挙の結果「大勝」を博した。

その時の民主党代表であった小沢一郎の心境は恐らく天にも昇りつめたような異常な状態ではなかったかと想像する。

何を思ったのか、小沢一郎の最初に行った公式的行為は、数百人の若手新人の議員を引き連れて北京に赴き、胡錦涛中国共産党主席を訪れて彼らに握手させた。これは何を意味するのか小沢には判っていたのだろうか?

当時の小沢は「自分は日本の次期首相」と信じていたに違いないと筆者は確信する。

その人間が頼まれもしないのに(事前調停済み?)、“今後私ともども宜しくお願いします”と、他国の代表者にお辞儀して、今後日本を牽引する野望に満ちた若人たちと握手させた時、小沢の行ったことは明らかに「越権行為」であった。(未だに誰もこの行為を公式に追及していない)

対中国との主従関係も決定的となり、国民に小沢は国民の預託なしに世界に恥を売ったと言われても仕方がない。

小沢は次に、中国の次期代表との噂のある、翌近平氏を、宮内庁を強引に説き伏せて、天皇に謁見させる工作をとり、自分の存在感を誇示すると言う誠に幼稚極まる手段を強行した。

雑誌「選択」3月号では“群狼の咆哮の前で震えている子羊”と今の日本の対外姿勢を形容している。

自国の領海を侵犯され、衝突事故まで起こした漁船長を中国の要求通り釈放した弱腰の外交姿勢を確認したロシアのメドジェイエフ大統領、みずから、永らく日露間の重要懸案事項となっている「北方領土の国後島」を訪問、今後は北方海域を要塞化すると発表した。

上記一連の出来事はすべて民主党が政権の獲得を果した後に発生している。

何故このような傍若無人な、いわばめちゃめちゃな暴挙を隣国が始めたのか?

それは、現在、我が国が東日本大震災のさなかで身動きもできない状態にあるからかも知れない。

前首相鳩山由紀夫がアメリカ大統領に大見えを切った後、“少なくとも県外”にすると云った沖縄米軍基地移転の案件も一歩の前進もしていない。

それで日本がゆいつ“友達”と信じているアメリカからどうして信用されると思えるのだろうか?

東日本大震災は全く予期することのできない事件であった。

しかしこの事後処理を間違うと、第二の“チェルノブイリ”となり、海外から何事につけ警戒されて、観光事業はおろか人の往来も途絶えがちな世界から隔離される国家になるのではと心配がある。

かって19世紀に朝鮮半島につけられた不名誉な名称、”Hermit Country”(隠者の国)になり下がる日本を決して望まない。

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118年前の電気自動車

Electric_car アメリカ、アイオワ州の発明家になる4人乗り(surrey)electric automobile (写真)

これは1893年シカゴ万博に出品された。

発明、製作者はウイリアム・モリソン(William Morrison).以前からの旧式からスムースでしかも、再充電可能なところ、かなり時代を先取りしている感ンがある。

この形式はアメリカ最初の実用型電気自動車となった。

ラック&ピニオン式ハンドルと悪路でも乗り切れるハイ・スポークの車輪を備えている。

モリソン自身、1895年のロードレースに参加、6インチの雪の積もった悪路53マイルの内13マイルを走り、そこでパワー切れとなった。

その後始まった生産、1900年にはアメリカ中で4000台以上の電気式自動車が走ったと云われる。

しかし、その後ヘンリー。フォードの「T型フォード」の出現で姿を消したと思われる。

もし、ガソリンエンジンの進歩がもう少し遅れていたなら電池パワーの車の出現があったかもしれない。

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二つの肖像彫刻

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奈良、唐招提寺開山、鑑真和尚坐像は、我が国最古の肖像彫刻である。

鑑真は中国唐の揚州江陽県生まれで我が国に奈良時代に聖武天皇の要請で戒律を指導するために渡海して(5回失敗)到来、その後帰化して唐招提寺を起こし、天平宝字7年(763)77歳で示寂した高僧である。

筆者の考えるところ(確信はないが)この像は世界最古の肖像彫刻である。

宝字7年春、弟子の僧忍基は夢に鑑真が遷化する様子を見て、弟子数人と和尚のお姿を描き、それに基ずいて座っている姿の鑑真の坐像を造ったとされる。

残されている文書によると、常日頃から、僧思託に“我れ若し終亡せんときは、坐死を願う、汝、我がために戒壇院に於いて別に影堂を建て、旧住房は僧に与えて住まわしむべし”とある。

つまり、私が死んだら座っている自分の姿を写して別房を造って、寺の建物には僧たちに住まわせてほしいと遺言を述べていたのである。

従ってこの像は殆ど間違いなく西暦763年、鑑真入寂後間もなく作成されたものであろう。5回の失敗を顧みず仏教の戒律を我が国に紹介、苦難を重ねる間に盲目になったと言われている。その盲人の容貌をリアルに捉え、まるで鑑真が生きてそこに座っているかのように感じさせる、我が国が世界に誇れる「秀作」の肖像彫刻だと思う。

ところが、昨年(11月)大津、三井寺(園城寺)の特別展で鑑真像に匹敵する肖像彫刻を拝見する機会をえた。(写真)

それは国宝、智証大師坐像である。この像は正面を向いた、別名、円珍(中尊大師)の彫刻である。

寛平3年(891)、円珍の寂滅時、弟子により等身大坐像を造って、その像内に遺骨を納めたことで「御骨大師」と呼ばれるものである。

舎利(釈迦の遺骨)が釈迦として信仰された如く、胎内に遺骨を入れることでその人の像となり、後世に至るまでそれを智証大師として崇め尊んだ。

見るからに特徴のある容姿で唇にも個性が見られ背筋が通った生前より座禅で鍛えたと思われる体形である。それでいて、肩には余分な力が入っていない極く自然態なお姿で正に、これが“肖像”でなくて何だろうと云う感想を誰もが感じるのではないか?

智証大師に関しても彼は門人に、“われ滅度の後、我が像を造り、骨をその中に蔵し、唐坊に安置せよ”と云い残していた。

弟子たちはその命を守って、円珍の死後、2体の像を造って、一つを叡山に留め置き、他の一つを唐坊に置いて、砕骨を納めたと記録されている。

筆者の記憶では、これら2体の彫刻は世界でも稀に見られる、厳密に考証して、最古の「肖像彫刻」と考えたので紹介することした。

(京都新聞2010年11月1日、大津国宝の旅、小林剛著“肖像彫刻”吉川弘文館、参照)

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古地図調査の重要性

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週刊ダイヤモンド6月11日号によると、最近、埼玉県立図書館に首都圏の不動産業者の姿が目に付くようになった。

その理由は同館所蔵の関東地方中心の古地図を調べ、“昔は沼地であった”場所を調査する目的だと云う事が判ったと記している。

最近、ニュージーランド南島のクライスト・チャーチが地震に見舞われ、多くの一見、頑丈なビルが液状化状態になった地盤沈下で崩壊、大きな損害を出したことは記憶に新しい。

又、去る、311日の東日本大震災で千葉県浦安地域の多くの住宅や地盤が液状化の地盤沈下で大きな損害を出したことで不動産の購入前に過去の周辺の状態を調べる必要性が出てきたと思われる。

同誌は、地名に、水、沼、田、津、洲、沢、池、落、浦、瀬、浅、窪、島、川等の字が入っている処は要注意と言っている。

又、「梅」「桜」も危険サインとして、大阪の梅田は「埋め田」から由来していることを示唆している。

東京でも江東区、港区の湾岸エリアー、溜池や三河島などは、現在ではどこにも水を見ることがないが昔の状態ははたしてどんな様子だったかは不明。

従って、「地名は先人が残してくれたサイン」(郡司准教授)と思って高価な土地購入以前に古地図を調べる風潮が出てきたわけ。

東京、大阪に限らず、京都にも昔から巨大な池があったことは周知の事実である。

即ち、桂川、宇治川、木津川の三つの川が合流して淀川となる周辺に大きな水域があった。

それらの川の手前の低地ではあふれ出た水が滞留し、やがて常水池となり拡がっていく。この常水的な処を人々は大池と呼んだ。

京都の小椋池の呼称は近代になって付けられた名称らしいが、地図で見れば一目瞭然で、淀城のあった地域は川の合流地帯で、その周辺の水流を巧みに利用するため有名な「淀の水車」が造られた。

京都市内の地図で、現在の国道一号線(旧五条通り)より南で、東山連峰と醍醐山の間の土地は、最近迄、(昭和中頃)少なくとも「沼地」であったことが判っている。

その空間が戦後住宅ブームで大々的に埋め立てられ住宅地に変貌した。

明治時代の地図をみれば、この小椋池が如何に大きかったことがわかる。

同誌が述べる如く、戦後の宅地開発では伝統ある地名を消し、○○丘、××野などと凡庸な地名に変えてきた。

しかし、旧地名を調べると、土地本来の姿が見えて来ると警鐘ともとれる記述を試みている。

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延暦寺、中尊寺と高野山

Photo 筆者は3年ほど前に奥州の中尊寺を訪ねた、そこには京都の平等院阿弥陀堂を写したと云われている御堂があり、周辺の美しい景色と、松島湾を見渡せる旅館で一泊した。

今から考えると筆者にとっては幸運であった。東日本震災以後ならば風光明媚なところを散策出来なかったかもしれない。

中尊寺は義経が兄、頼朝に追われて都落ちした時、世話になった奥州藤原氏の菩提寺であった。

そこに、俗に「中尊寺経」と呼ばれる紺紙に金銀で書かれた美しい経巻4500巻があった。

その内、いま中尊寺に残っているものは、たったの15巻と云う状態、そのほとんどが散逸してしまったと云われるが。最近京都三条大橋東詰の団王寺に数巻残っていることがわかった位である。

しかし、驚くなかれ、高野山の宝物館にはこのうちの4200巻があって未だに、これが公然の秘密となっている。

この御経、正しくは紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)と呼ばれる藤原時代の貴重な文献である。厳島の平家納経と同じくらい有名な代物。

何故こんな大切なものがこれほど大量に高野山にあるのかと云えば、秀吉が養子の秀次を天正18年(1590年)小田原の北条氏政を攻めさせた時、秀次は帰路、勝手に中尊寺に立ち寄り、ごっそりとこの御経を京都に持ち帰ってしまったからである。。

その後、秀吉に嫡男、秀頼が生まれて、秀次が邪魔になり、高野山に追いやって切腹させた。その時秀次が慰みのために携帯、高野山に残したのが、この4200巻の中尊寺経とされたている。

信長が元亀2年(1571年)秀吉、光秀に命じて比叡山の延暦寺を焼き討ちした時、平安時代から延暦寺に伝わっていた「釈迦二十五菩薩来迎図の大幅が姿を消した。それが後に高野山に持ち込まれたことが判っている。

これも中尊寺経と同じく、公然の秘密となって、両方の宝物とも国宝となって高野山にある。

この二十五菩薩来迎の掛物は下の部分に琵琶湖の景色が描かれている名物で、以前には比叡山にあった宝物である。

筆者が何故このことを持ち出すかと云えば、「中尊寺経」も「二十五菩薩来迎図」も今に至っても歴史的に元の所在と所有者が歴然としていて、歴史的に証明できるのではと思うからである。

中尊寺も延暦寺も、この際勇気を出して、高野山を被告として、”平成の返還訴訟”を戦ってはどうだろうと提案したいからである。

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何処も同じ女の願望

Photo_2 日本の有名大手化粧品メーカーの中国進出30年を記念するセレモニーが先日、北京市内のホテルで開催され、好評であったらしい。(産経)

筆者の義弟が永く中国滞在の商社マンであったが、持ち帰って、あちらで間違いなく最も喜ばれるのが有名S社の化粧品だと言っていたのを思い出した。

新聞報道では中国の”化粧人口”はすでに1億人となったとのこと。

13億を超す総人口からすれば未だ10%にも満たないと考えるが、それでも既に日本の総人口(1.3憶)の76%ではないか?

そう思うと中国が如何に巨大市場であることに改めて感心せざるを得ない。

会場の一流北京ホテルに来るような人種は裕福層の女性である可能性大。

また、化粧品は一度「肌に合う」ことを確認すれば、めったなことがない限り定着客となりやすい(筆者夫人談)

何処の女性でも、生活に余裕ができれば”美貌”への関心は増すことはあっても減少することは考えられないと云う。

中国の”化粧人口”は2015年に2億、20年には3億5000万に膨れ上がることが予想され、この数字は日本総人口の3倍と、メーカーにとっては決して失いたくない市場となる。

既に世界中の化粧品メーカーも市場シェアー獲得を狙ってしのぎを削っているらしい。

報道によると中国人旅行者が日本で高級化粧品を買い占めている事実は噂になっている。

中国のファッションや化粧品へのセンスは日本と似通っていて、逆に中国から輸入することもあると云う。(化粧品メーカー)

中国での貧富の差は、今ではかなり大きいが、自動車のような値がさの品物でないので、逆に貧困層からでも「化粧する魅力」の意識を広めれば、(女性本能の刺激)化粧品はあちらで伸びる市場の上にランクされそうである。

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