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延暦寺、中尊寺と高野山

Photo 筆者は3年ほど前に奥州の中尊寺を訪ねた、そこには京都の平等院阿弥陀堂を写したと云われている御堂があり、周辺の美しい景色と、松島湾を見渡せる旅館で一泊した。

今から考えると筆者にとっては幸運であった。東日本震災以後ならば風光明媚なところを散策出来なかったかもしれない。

中尊寺は義経が兄、頼朝に追われて都落ちした時、世話になった奥州藤原氏の菩提寺であった。

そこに、俗に「中尊寺経」と呼ばれる紺紙に金銀で書かれた美しい経巻4500巻があった。

その内、いま中尊寺に残っているものは、たったの15巻と云う状態、そのほとんどが散逸してしまったと云われるが。最近京都三条大橋東詰の団王寺に数巻残っていることがわかった位である。

しかし、驚くなかれ、高野山の宝物館にはこのうちの4200巻があって未だに、これが公然の秘密となっている。

この御経、正しくは紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)と呼ばれる藤原時代の貴重な文献である。厳島の平家納経と同じくらい有名な代物。

何故こんな大切なものがこれほど大量に高野山にあるのかと云えば、秀吉が養子の秀次を天正18年(1590年)小田原の北条氏政を攻めさせた時、秀次は帰路、勝手に中尊寺に立ち寄り、ごっそりとこの御経を京都に持ち帰ってしまったからである。。

その後、秀吉に嫡男、秀頼が生まれて、秀次が邪魔になり、高野山に追いやって切腹させた。その時秀次が慰みのために携帯、高野山に残したのが、この4200巻の中尊寺経とされたている。

信長が元亀2年(1571年)秀吉、光秀に命じて比叡山の延暦寺を焼き討ちした時、平安時代から延暦寺に伝わっていた「釈迦二十五菩薩来迎図の大幅が姿を消した。それが後に高野山に持ち込まれたことが判っている。

これも中尊寺経と同じく、公然の秘密となって、両方の宝物とも国宝となって高野山にある。

この二十五菩薩来迎の掛物は下の部分に琵琶湖の景色が描かれている名物で、以前には比叡山にあった宝物である。

筆者が何故このことを持ち出すかと云えば、「中尊寺経」も「二十五菩薩来迎図」も今に至っても歴史的に元の所在と所有者が歴然としていて、歴史的に証明できるのではと思うからである。

中尊寺も延暦寺も、この際勇気を出して、高野山を被告として、”平成の返還訴訟”を戦ってはどうだろうと提案したいからである。

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