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異色の人物「バロン・サツマ」

1 薩摩治朗八氏はれっきとした現代人、1901年(明治34年)近江商人の「木綿王」と云われた薩摩冶兵衛の孫として東京は駿河台に生を受けた。

その邸宅たるや一万数千坪の旧大名屋敷跡、祖父が鹿鳴館時代に、そこに豪邸を建て、その西洋館披露宴には海軍軍楽隊付きで数多の在留外国人まで招いてワルツを踊ったと言われる。

二代目冶兵衛は事業を初代から受け継いだが事業を専ら番頭たちにまかせて美術品収集を趣味としていたらしいが、三代目の治朗八こそ、稀代の型破りな世界人として有名を馳せる人物に育った。

治郎八はロマンティックな夢に満ちた青年で、19歳の時ロンドンに脱出、番頭に命じて月々、略一万円ばかりの生活費を送らせて豪勢に暮らしていた。

表向きは経済学専攻であったが、彼の探求は専ら「美」と「肉」に関するものであったらしい。最新流行の英国紳士スタイルで、最新型の高級車ダイムラーをを乗り回し、劇場巡りやアート・ディーラーで収集に努めた。

1921年、パリにわたり、そこでは社交界の花形として噂に上った。挙句は女のことで或る侯爵と決闘騒動を起こし騒がれたらしい。

25歳で、山田英夫伯爵の令嬢千代と結婚、美貌のカップルとして社交界を騒がした。

常時、純銀製ボディーの瀟洒なクライスラーを愛用、運転手にはアゲハ蝶紋付きの制服を着させて、カンヌ・エレガンス・モーター・レースに出場、特別大賞を獲得している。

治郎八も粋な美男で、彼の若き日の容姿は、六代目菊五郎の生き写しで魅力的との噂が残っている。パリの社交界では、バロン・サツマ、マダム・サツマの奇抜な服装が噂を生み、それまで黒色と決まっていた燕尾服も治郎八の着た紺色を見て、彼らの伝統の常識を替えさせたとも云われている。

パリの郊外に各国が留学生のため衛生的なドーミトリーを建設する構想が発表された時、日本政府の要望で若冠25歳の治郎八が引き受け、さつま屋敷を建てた話は有名である。

こんな剛気な男性は今の日本では“金のわらじ”ででも探し当てられない事請け合い!

後に、治郎八はフランス政府からレジョン・ド・ヌール勲章も受けている。

花のパリで王様の生活を送った治郎八であったが、その後中風となり、58から75歳になるまで四国、徳島で愛妻の世話になりながら波乱に満ちた一生を閉じた。

(以上、Sunday Nikkei,瀬戸内寂聴「奇跡まんだら」#119、2010年1月17日より抜粋)

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