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細川ガラシャ

Hosokawa

先週のNHK番組「歴史秘話ヒストリア」で光秀の女、細川ガラシャの悲劇的運命の顛末を放送していたが、その後、筆者の古新聞蔵をひっくり返して見つけたのが、京都新聞(2007年11月28日)の“ふるさと昔語り”(#192)細川ガラシャ隠せいの地。

京丹後市弥栄町味土野と云う地名だが、調べてみると、それは丹後半島の中心付近の山深い場所で、そこから最も近い町は峰山。

里から、つずら折りの細い山道を約5キロも登りつめた奥地(標高400m)にある、冬になれば今でさえ里から閉ざされる豪雪地帯である。

ここを「女城」と呼ぶそうだが、戦前、地元婦人会によって石碑には「細川忠興夫人隠棲地」と刻まれている。

そもそも何故この様な場所に隠れなければならなくなって、彼女だけが犠牲になったのかと云えば、ガラシャは明智光秀の娘で名前は玉。

細川忠興に嫁したが、光秀が本能寺の変で逆臣となった。

玉の身に危険が迫ることを予想した忠興が彼女を当時では誰も予想もつかない僻地、味土野の山奥に運んだと思われる。

現在でも電話が繋がっているかどうか判らないような場所である為、細川としては安心していたと思われる。

郷土史愛好家の芦田行雄さんによると、此の場所は丹後随一の米どころ、行者山と呼ばれた近くの金剛童子山には当時から修験者の往来があり、食糧や情報が集まる場所だったのではと話す。

その時、玉は愛する子供からも別れて2年余をさびしく暮らしていたと言う。そこで残した玉の句に“身を隠す里は吉野の奥ながら花なき峰に呼子取り鳴く”と心境を表現している。

その後、玉は秀吉の計らいで大阪に帰り、キリスト教の洗礼を受けて(25歳)ガラシャの名を授かった。

秀吉没後、関ヶ原の役で忠興が東軍(家康)方に加担した為、石田光成から大阪城に入ることを強要されたがガラシャは拒否し、細川家屋敷(大阪玉造付近?)に敵の来るまでに家老に命じて自分の胸を突かせて果てたと言われる。(38歳)

何とも強い意志の女性であったと驚くばかりである。

細川家の墓所は京都大徳寺塔頭「高桐院」と大阪、崇禅寺にある。

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