« レンブラント・ピール画”ルーベンスとゼラニューム鉢” | トップページ | 中尊寺経と高野山 »

ミス・デントン

Doushisha

フローレンス・デントン(Florence Denton,1857-1947)は京都にある教育施設「同志社」にとって忘れ難い人物である。

筆者の母(明治40年生まれ)も死ぬまで“デントンさんは怖い先生、しかし、心の優しい先生”と言っていたことを記憶している。

1857年、米国はネヴァダ州の生まれ。1887年、パサデナの小学校の校長を務めていたとき、休暇で帰国中のゴードン氏と出会い同志社で働くことを勧誘され、決心、1888年に来日した。

当時、彼女はハウラーと云う青年と婚約していたが、回心して(解消?)日本にやって来た

その後、60年間、昭和22年(1947年12月)迄、日本の女子教育の為に尽くした立派な人物である。

その間、デントンは全精力、全生命を同志社の女子教育の為に尽力し死後、勳三等瑞宝章を受けている(昭和23年)。

自分の生活を極限まで切り詰め、質素な生活に徹し、その間、同志社に必要な建物を造る資金集めに尽力した。

デントンは1917年に元の婚約者、ファウラー氏より同志社のために2万ドルの寄付を受けていた。(当時のアメリカの労働者の日当1ドルの時代)

デントンは同志社が迎えた8人目の宣教師と云われている。

同志社女子校の設立されたのは、1876年(明治8年)、従ってデントンは同校設立12年目に着任したことになる。

彼女は同志社で聖書の他、英語、地理、動物植物学、天文、科学、料理法、看護学等を指導したが、特に聖書、英語、料理に重点を置いていた。

怠ける生徒には厳しく、いつも“勉強、勉強、勉強”連発していたと言われる。

しかし、人情に厚く、一度、ある生徒が腸チフスにかかった時には、病院の制止も聞き入れす、自ら親身になって看病し、母親から、「実に、親も及ばないことをして頂いた」と感謝された。その時、自分でアイスクリームを作って届けたこともあったらしい。

建設者としての彼女の実績は目を見張るものがある。

関係者に言わせると、同志社女子部の殆どがデントンさんが建てたものと告げている。

自己の生活を極端に近い程切り詰め、その間、資金集めに献身して、「家政館」、「平安寮」、「静和館」、「ジェームス館」、「ブリンプト館」、の完成に助力し、「デントン・ハウス」を世界中からの訪問者を迎える“サロン”として同志社の為に利用した。

ファウラー氏は彼女と別れて何十年、その間、独身をつづけていたが、或る日、デントンを訪れて「どうぞ、神さまの為に使って下さい」と云って彼女に差し出した資金が同志社の誇る「栄光館」建設の約3分の1の資金となったと言われてる。

ファウラー氏について知るところは少ないが、若き日の婚約者、デントン嬢のために尽くした人物として同志社関係者の忘れられない篤志家である。

彼の善行はきっと後世に迄語り続けられることと思われる。

仏教徒、キリスト教徒を問わず、人間の善意は同質、その心は比較できるものではないと筆者は考える。

フローレンス・デントンは今、京都、相国寺内の長得院の墓に眠っている。

また、若王子の同志社墓地にも分骨された墓がある。

|

« レンブラント・ピール画”ルーベンスとゼラニューム鉢” | トップページ | 中尊寺経と高野山 »