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片手落ち裁判

Photo JR福知山線事故は、平成17年4月25日に西日本旅客鉄道(JR西日本)の福知山線の塚口駅~尼崎駅間で発生した列車の脱線事故である。その時、運転手と乗客合わせて107人が犠牲となった。

JR西日本の当時の社長、山崎正夫被告(68)の論告求刑公判(岡田信裁判長)は29日「多くの人の人生を奪った責任は重大だが、事故の直接原因は死亡した運転手にある」として、禁固3年を求刑した。

犠牲者の遺族は、”被告を有罪にするには証拠が不十分と感じた”と裁判結果に同情しながら、無罪が適当だという意見も出たとの事。

筆者は以前に、このブログで述べたことがあったことを記憶しているが、事故現場付近は確かに急カーブで、運転手には減速運転の義務を怠った罪を負う責任があったことは確かである。

会社も、この危険個所で電車を自動的に減速させる器具が取り付られていなかったとすれば、それを見逃していた責任者(社長)の罪が問われて当然である。

では何故、横転した車両に乗り合わせていた乗客が100人以上、むごい死にかたをしなければならなかったのか?

その主な原因を作ったのは、その個所に建っていた「鉄筋マンション」でしかない。

当マンションの地下部分に突入した前部車両に乗り合わせていた乗客が主な犠牲者なのだ。

これは筆者の想像だが、この被害を大きくした対象物の”マンション”は恐らく鉄道敷設以後に設計され、国交省の許可で建てられたものだと思う。

急カーブで電車が草原で横転しても一時に100名以上の犠牲者がでることは到底考えられない。

危険個所と知りながら、その場所に鉄筋建造物を設計した建築士と、それに許可を出した役所は何故罪に問われないのかを知りたい。

「鉄道敷設」も「建築許可」も同じ国交省の仕事であるべきで「役所」だけが罪に問われないのは「片手落ち」と思うのだが?

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夢多き19世紀のアメリカの1ページ

Photo (メキシコ戦争当時のイラスト)

アメリカ歴史の中で領土の拡大に努力を払った、最も精力的な大統領は第11代のジェームス・ポーク(James K. Polk)であった。

オレゴンの拡大では北緯49度を国境とすることでイギリスと好戦的にやりあい、アメリカの条件を呑まなければ戦争だと吠えたことで有名を馳せた。

ポークはメキシコに対してもテキサスの南部の国境線を強引にリオグランデ河線上にまで拡大すると主張、2500万ドルを提示して、現在のカリフォルニアとニューメキシコの買収をするべく派遣した使節をメキシコが]拒絶したことを知るや、3方面から攻撃を仕掛けて、メキシコ半島の要衝、ベラクルーズに上陸した部隊が一気に首都メキシコ・シティーに迫って、それを陥落させ、僅かに1年半足らずですべての条件をアメリカ有利に平和会議に導いた。

ガダルーペ・イダルゴ条約(Treaty of Guadalupe Hidalgo)の名で呼ばれる平和会議ではカリフォルニアとニューメキシコの両州を1500万ドルでメキシコに割譲させた。

しかしアメリカの兵隊の損害も1万人を超えた大戦争であった。

この戦争を境に「フロンティアーの終焉」が叫ばれ、この条約締結直前の1848年1月、アメリカ中を湧きかえらせた所謂“ゴールド・ラッシュ”が始まった。

メキシコにしてみれば全くのトンビに油揚げを攫われたかたちになってしまった。

アメリカはその後、リンカーン大統領が暗殺される事件があったが、彼の副大統領であった、ジョンソン大統領の時期の1867年、当時“東ロシア”の名で呼ばれていたアラスカを700万ドルで買収したが、再びその直後にアラスカのゴールド・ラッシュでアメリカ中が湧きかえった。

筆者もチャップリン演ずるアラスカノゴールド・ラッシュのハリウッド喜劇映画(サイレント)を見た記憶がある。

かの有名な作家、マーク・トウエインもカリフォルニア迄出かけて狂気に沸いたその頃の様子を克明に描写している。

これも“アメリカン・ドリーム”で、何が何時、何処で起こるか想像もできない夢多き新大陸、アメリカ史の1ページに違いない。

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「一票の格差」問題の解消に努力必要

Photo アメリカの選挙で最も問題にされるのが「下院議員数」であり、それは10年ごとに行われる国勢調査で、アメリカ全土、50州の選挙人の数を決定する。

最近では所謂“サン・ベルト”と呼ばれている、カリフォルニア、テキサスを含む15州。即ち“日の当たる州”グループ、そこでは人口増加が最近著しく、繁栄が見られる地方のこと、それに反して、ノース・ベルト(或いはフロスト・ベルト)即ち、冬に雪や霜に悩まされかねない、昔栄えた、北東部、北西部の各州は、人口の減少が見られ議員数が減少が反対に進んで、悩んでいるところである。

次期選挙では2010年に行われた国勢調査が参考になることだろうが、少し古いが、1990年度の結果と1970年度と比較した結果(地図で読むアメリカ、雄山閣出版平成11年発行参照)カリフォルニヤ9票増で、52、ノースカロライナ1増で12、ジョージア1増で、11、アリゾナは2増で、6となっているに反して、ニューヨークは8減で、31、ペンシルヴァニアは4減で21、イリノイは4減で20、オハイオは3減の19、ミシガンは3減で16、ニュージャージー2減の13、マサチューセッツは2減の10となって、政治の中心が北東部から南西部に移動しつつあるかに見える。

勿論、北東部各州(ニューハンプシャー、メイン、ヴァーモントやロードアイランド等)も人口数が減少しつつあり、かってはアメリカ文化、財力の中心地帯であった北東部の勢いが失われつつあることが感じられる。

しかし、アメリカは、さすが堅実に憲法の規定に誠実に政治を行っている姿勢が見て取れ、総選挙ごとに「一票の格差」問題が持ち上がり、憲法違反を窘める政治家も出現しない闇に覆われた「暗い政治」に反対を唱える勇気を持てず、ただ、目をつむっている日本の国民も責任を持つ覚悟が必要だと筆者は叫びたい!

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大きなヌードは貴重な財産

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フロイドは有名な心理学者、Sigmund Freud(1856生まれ、1939没、オーストリア系ユダヤ人)は世界中、誰も知らない人はいないと思われるが、写真のような大型女性を描いた画家、Lucian Freudについては知る人が少なかったことは事実。

ルシアン・フロイドは1922年ベルリン生まれは、先日、永い闘病の後他界した。(88歳)

ルシアンの絵の対象題材として最近まで活躍していたSue Tilley(スー・ティリー)によると”最近ではあまり会う機会がなかったが自分の題材の絵がそんなに高価なんてまったく知らなかったと驚いている”と告白。

ルシアン・フロイドはイギリスでは既に半世紀ほど以前から有名な画家であった。彼は以前に女王陛下の肖像も手掛けている。

それがごく最近(2011年7月22日)実はルーベンスやレンブラントより資産的に人気の高い芸術家であることが証明された。

彼は有名な心理学者の曾孫、1933年にナチスに追われるようにしてロンドンに来て、1944年21歳で画家をめざし、ロンドン・セントラル・スクール美術科で修業した。その後、ダーハム、ゴールドスミス・カレッジに学んだ現実派画家だったが、やはりルシアンの主なジェンルはヌードであった。

先月、ルシアンの「ほほ笑む女性」(1959年作)が4,745,250ポンド、[a boy on a sofa]はオークションで1,497,250ポンド、昨年「タクシードライバーに殴られた自画像」は28,000,000ポンドの値を付けたと言われている。

確かにこの女性像を見るとルーベンス(17世紀)、ルノワール(20世紀初期)のモデルよりはるかに重いのではと想像できる。

フロイドを半世紀近く見てきた美術評論家、ウイリアム・フィーバー(William Feaver)はルシアン・フロイドは20世紀の最大の画家と評してはばからない。

最近行われたクリスティーの競売ではルシアンの作品が天文学的値を付け記録を更新したとのことである。

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世界のメディア王、マー^ドック氏の大ピンチ

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世界的メディア王の代名詞、ルパート・マードック(80)、創刊168年と云う英国の日曜大衆紙「ニューズ・オブ・ザ・ウオールド」(News of the World)社内スキャンダルが騒がれ出した先週、早々と廃刊を決意、10月号を最後に正式に最終版(写真)を発表、問題が社主に及ぶ以前に幕引きを図ったがまさに時、既に遅しの感があった。

英国皇室、有名人、政治家を中心にした一連の盗聴によるニュースの取得の犯歴は実に05年度までさかのぼり、これまでにワールド紙盗聴に加担した私立探偵5人まで逮捕されている。

決め手は、今月初め誘拐殺人事件の被害者、当時13歳の少女の所持していた携帯電話もニュース・ソースの手段として利用していた事実が判明して英国社会の大衆からも非難がまきおこった。

これを聞いたキャメロン首相も“吐き気がする”と云い、刑事捜査を見守りながら、時期を見て「公聴会」を開くと約束した。

ニューズ・オブ・ザ・ワールドの盗聴事件をめぐり贈収賄疑惑など本紙との癒着関係が問題になるなか、警視総監ポール・スティーブンソンが辞任を発表、ワールド紙元副編集長との個人的な関係についての「憶測」からだと釈明しているが、ロンドンの警視総監にまでこのスキャンダルの疑惑が及んでいるところ、少し種類は違うが、1920年代アメリカで禁酒法や脱税、殺人で騒がしたアル・カポネを思い出させる程の乱脈ぶりである。

ワールド紙側が警察当局者に現金を渡し、英王室の電話番号リストなどの情報提供を受けていた疑惑以外に、警視庁が捜査に手心を加えていた懸念もあるとのこと。

07年の王室関係者の電話盗聴事件でワールドの記者ら2名が逮捕され、実刑判決を受けた。その後も、ワールドのより広範囲な盗聴疑惑が報じられたが、警視庁は捜査に消極的で、「新たな証拠は見当たらない」としてもみ消しをはかった。

考えるところ、一連の事件の火元はワールド紙のレベッカ・ブルックス元編集長(43)ならびに、「警視庁内部」と思われ、盗聴の共謀と警察への贈賄容疑だが、筆者の考えるところ、此の事件は根が深く、いずれはユダヤ系社主、ルーパート・マードック氏に迄波及する懸念がしてならない。

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スイスの旅で感じたこと

5 Photo 6月半ばから10日程、チューリッヒ(Zurich)からサン・モリッツ(St.Moritz)までスイスの景色を楽しむ機会を得た。

サン・モリッツから南西のイタリア国境のトリアノ(Triano)まで、箱根鉄道と姉妹関係にある山や湖の間を縫うように走る100年の歴史を誇る列車の旅は、途中、車窓の両側にすばらしいアルプスと中世時代を想像させる草原の中に広がる村の平和な景色を満喫させてくれた。

ディアヴォレツア(Diiavolezza,2973m),ベルニナ・ディアヴォレツア(Bernina-Diavolezza)らはケーブルとゴンドラを乗り継いで頂上まで登り氷河と見渡す限りの雪山のつながりの素晴らしい景色を楽しむことができた。

終点のティラノのポスキアヴォ(Poschiavo)は峡谷の間に広がる平野の村、ここもイタリア語が母語のボヘミアン的古いところ丁度国際音楽フェスティヴァルが行われていて多くの外国人であふれていた。

スイスは今、どこえ行っても建設が進んでいて景気上昇を感じさせ、周辺のユーロ圏の景気衰退がどこ吹く風といった景気の堅実さが感じられた。

1スイスフランがほぼ100円のレートなので買い物もあまり考えることもなかった。

何故こんな小国で、重工業や、ハイテク産業を持ち、貿易収支良好という条件を永く続けていると聞く。もちろん、「観光」が売り物の国でありながら、国民皆徴兵制で国防にも充分注意を怠らないバランスの良い国家は、日本が習うべき要素が沢山あるように思う。

挿絵下はサン・モリッツで6日泊ったホテル、ラ・マーニャ(La Margna)の窓の外に広がる景色、湖の彼方に雪に覆われた連峰があり、実に美しいところで、真下に見えるのはサン・モリッツの駅。聞くところによると、馬車時代に建てられたホテルの中で最も汽車に乗りやすかったとか。

さん・モリッツの街は湖を見下ろすように山にへばりつくように広がっている美しいところで、以前、冬季オリンピックの開催地となった。

アメリカの野性的雰囲気を見慣れている筆者にとって「本当の文明」を勉強させられた感があった楽しい旅であった。

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百貨店と通信販売業の起こり

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多種類の多くの商品を種類ごとに仕分けて陳列販売する店舗を世界で初めて開設し、それを[Department Store](デパートメント・ストアー)と名付けたのはジョン・ワナメーカー(1838-1922、アメリカ)であった。

しかし、ワナメーカーとは少し手法は違ったが、アレキサンダー・ターニー・スチュアートが1848年にニューヨークのブロードウエーで婦人用輸入雑貨を扱う大型店、マーブル・パレスを始めている。

どちらにしても、これらは今日云うところの百貨店の魁である。

スチュアートはさらに、1862年、ブロードウエー九町目角に、キャスト・アイアン・パレスと云う名の8階建てビルの同種店舗を開いている。

アメリカでニューヨークのような大都会で百貨店が競い合うように出店しだしたのは、南北戦争が終わって再び北部に平和がやってきた頃であった。

ここに揚げた挿絵は1873年1月13日、Frank Leslie’s illustrated Newsapaper に発表されている、当時”Lord & Taylor’s Dry Googs House”と呼ばれていたロード・アンド・テーラー百貨店に登場したエレヴェーター内部のイラストである(筆者蔵)

ここでは新しい大型小売店(a new retail store,at corner of Broadway 20th St.)と書かれている。恐らくアメリカで最初に登場したエレヴェーターには大勢の顧客が集まったことだろう。

百貨店だけに多くのスペースを裂くことはできないので、今度は広大な領土のアメリカならではの「メールオーダー式百貨店」を紹介したい。

Mail Orderは、今でこそ誰でも使うシステムの小売り商売だが、リチャード・ウオレン・シアーズは1863年ミネソタ生まれ、1895年からシカゴで宝石、時計類の通信販売から始めた。

1908年、シアーズとローバックの始めた通信販売業は世界最大の通信販売会社に成長した。筆者も終戦直後、アメリカ軍人が見せてくれた、まるで東京都の電話帳程の厚みのあるオールカラーのカタログで注文してもらったことを覚えている。

シアーズの他に同じくらい有名な通信販売業は「モンゴメリー・ウオード社」であるとされるが、終戦当時、アメリカ軍のPX(Post Exchange)に常備されていたのはシアーズであったと記憶している。

ケンタッキーやワイオミングに住んでいる人たちが都会の最新ファッションや電気製品を手紙や電話で直接注文できることで人気を集めた事業であった。

シアーズ・ローバックのカタログは20世紀初頭で既に200万部を売り上げ、アメリカ文化の象徴と云われたほどであった。

今でも続いているカタログにはOffice Depoらが有名で、これはオッフィス器具や文房具類専門と記憶している。

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有刺鉄線の発明

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産業落命の端緒は18世紀末イギリスであったとしても、主な機械工学に基づく近代的なアイディアーの発生は19世紀に起こっている。

その代表的な例と云えば、「写真」(1835、フランス)、「モールス信号」(1844、アメリカ)、蒸気船(フルトン、1817、アメリカ)電灯(エディソン、アメリカ)電話(ベル、アメリカ)ミシン、タイプライター、ジッパー等々であるが、発明として人々があまり注目していないものに有刺鉄線(barbed wire)があった。

これはアメリカ特有の事情による「発明」となった。

以前にもこのブログで簡単にその成り立ちを記載したことがあるが、今回は改めてアプローチを試みたい。

床屋、barberはこれから発生した言葉であるが、即ち、“よじれている”意味である。

これはfenceをつくる為に、アメリカの西部に於いて考え出された発明であった。

ミシシッピー以西を西部と呼んでいるが、そこは、アメリカがメキシコからカリフォルニアを購入した1848年までは先住民の居住地区で多く占められた未開地であった。

しかし、丁度その頃金鉱が発見されたことで所謂“ゴールド・ラッシュ”が始まり、その後も西部の所々で鉱物発見が相次いだため、一挙に人口が増え混雑する状態となった。

農業、牧畜が盛んになるに従って各所に「仕切り」が必要となって、例えば「牛追い」などで自分の土地を荒らされないように私有地の囲みこみが大きな仕事になった。

南北戦争開始の翌年、1862年にホームステッド・アクト(Homestead Act)に基づき、未開発の土地、1区画160エーカー(約65ヘクタール)を自営農地として21歳の男子に(条件:12X14フィート面積の住宅建設、5年以上定住)を無償で払い下げることがリンカーン大統領によって発効された。

筆者が計算したところ、1エーカー、約4000㎡として、160エーカーならば、64万㎡即ち、もし、その土地をフェンスで囲むとすれば、(一辺8km)、トータル、32kmの有刺鉄線が必要となる勘定。

杭と杭の間に最低3本の有刺鉄線を使ったとすれば、その3倍の、殆ど96kmの有刺鉄線が必要となってくる。隣接しているところを互いに折半するとしてもその費用は決して安価なものではなかったと思われる。

有刺鉄線は、今では誰でも知っているが、石臼を使って複数のワイアーを編み上げ、各所に突起部分を作って、それに触れると痛みを感じることで牛や馬も近づかない“有刺鉄線”は最初、1863年になってミッチェル・ケリー(Michael Kelly)が考案したとされる。

ところがケリーがこれの特許の申請を怠った為、10年後の1873年になってジョセフ・グリデン(Joseph Glidden),ジェーコブ・ハイシュ(Jacob Haish),アイザック・エルウッド(Isaac Ellwood)の3名がそれぞれの手法で特許獲得を競い合ったが結局、1874年ジョセフ・グリドン(Joseph Glidden)が勝者と決定、彼とエルウッドが組んで、The Barb Fence Companyを設立することとなった。

その後、暫くの間このパテント闘争は繰り広げられたが、グリドンが結局”Father of Barbed Wire”の名声を勝ち取った。

広大な大西部を舞台として戦われた「有刺鉄線戦争」、これの勝者は正に億万長者を約束されていたのであった。

これは、とても日本では考えも出来ないビジネス・チャンスであった。

20世紀となり日露戦争、第一次世界大戦、では図らずも「防衛線」の役割を果たすこととなった事までをグリドンは考えていたかどうかは不明である。

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「奇妙な果実」とビリー・ホリデイ

Photo奇妙な果実」とは処刑され木からぶら下がっている人間の姿の情景を形容した唄の題名のことで、有名な黒人女性歌手のビリー・ホリデイ(Billie Holiday,1915-1959)がプロのデビュー曲として選んだ"strange fruites"のことである。

南北戦争後急に増えた自由奴隷の行動に敏感になった南部の白人が「法廷外裁判](extralegal trial)によって民間裁判の形で黒人にむごい仕打ちを行った。

「レディー・デイ」の呼び名で有名な、サラ・ボーンやエラ・フィッツイラルドと並び称せられる、女性ジャズ歌手、ホリデイがデビュー曲として選んだ「奇妙な果実」、あまりにもショッキングな唄なので彼女が歌い終わったときには会場がシーンとしていたが、唯一人の徴収が拍手した途端、一斉に拍手喝さいとなったと言われている。

この挿絵のような光景は1860年から1950年頃まで、南部の何処にでも見られるお祭りのようなもので、これを見るために大勢の観衆が集まったと言われる。

南北戦争の結果、リンカーンが暗殺され、一時は人種問題が下火となったかに見えたが、内面的にはかえって白人の差別感は逆に辛辣化、黒人社会に失望感が増加した。

ビリー・ホリデイは最初、ジョン・ハモンドに見出されベニー・グッドマンやテェヂーウイルソン(黒人ピアニスト)の楽団で活躍、一時は一世を風靡し、世界的黒人女性歌手となったが、(2000年にロックの殿堂入りを果たした)家庭的に恵まれず、彼女自身も病魔に悩み続ける一生であった。

自伝に”lady sings the blues"がある。”血族集団”の白人社会と、有色の世界の融合は口で言うほど簡単に片付く問題ではない。

世界で最初にナポレオンに勝利し独立を果たした奴隷国家ハイチ、東洋では、ロシア帝国を破った日本がともに大地震の為に苦しんでいる現状を「白人諸国」はどのように見ているのだろうか?

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マークトウエインの122年前の予言

Photo この写真は,A history of US(1865-1890)"アメリカの再建”著者:Joy Hakimの最初のページを飾る、19世紀後半の「新文明開化」の頃の象徴的シーンを描いた挿絵のコピーである。

南北戦争後、大陸横断鉄道が完成し、西に向かって拡張を続けるアメリカと新時代文明の開花と力に自信に漲っていた一こまを如実に描いている。

著者ハキム氏はこの図と文豪:マーク・トウエイン(1835-1910、Mark Twain,本名:Samuel L.Clemens)が詩人、ウオールト・ホイットマン(Walt Whitman(1819-92)の70歳の誕生を祝って書き送った手紙の文章をそのまま書いている。

即ち”ウオルト・ホイットマンえ、あなたの生き抜いた70年こそは人類にとって最も偉大で有益な時代であります。この70年は過去5世紀の中で人類と他の動物の知恵がさらに広がった時でもありました。(進化論?)

あなたは何と沢山の発明を見たことでしょう!、アイロン、蒸気船、鋼鉄の船、鉄道、綿繰り機、電信、蓄音器、ガス灯、電灯、ミシン機・・・それらはすべて奇抜ですばらしい発明で、あなたはそれをすべて見て生きられた、だがもう少し見ていて下さい、本当の文明の発展はこれからです、これから30年もすれば、ますます科学は発展を続けて、今まで想像もできなかったことが、恐るべきことが起こり、またさらに発展するのです、あなたはその進展のすべてを見ることでしょう!” 1889年5月24日 マーク・トウエイン

これはマークトウェインが詩人の友人ホイットマンの70歳記念日に書いた手紙だが、ちょうど南北戦争が終わり、アメリカにおおいかぶさっていた暗雲が風と共に去った後、カリフォルニアやネヴァダに金脈が見つかり、ゴールド・ラッシュに湧き、大陸横断鉄道の完成と、フロンティアーの西進が進み、ダーウインの進化論がもてはやされて、国土の拡大に湧きかえっていたころの「金ピカ時代」のアメリカをマーク・tプエイン自身も意識して書いた手紙として貴重だと思われる。

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アラスカ購入(1867年)当時の新聞報道

1867 筆者所蔵、古新聞の山の中から、1867年5月5日付Harper's Weekly 新聞記事にアメリカの東ロシア(アラスカ)購入の記事と3面の挿絵を見つけたので、その記事内容と当時の事情を書きとめたいと思う。

何時か以前に紹介申し上げたが、アメリカはロシアの要請で戦略目的、経済的理由でアラスカを国土に加えることを考慮していた。

当時の大統領はエブラハムリンカーンの死後大統領に就任した第17代のアンドリュー・ジョンソン(Andrew Johnson,1865-1869)であった。

しかしこれの購入に実際に直接関わったのは国務長官のシュワードであった。それで、国費$700万をも費やしたことで民衆から”シュワードの冷蔵庫”のあだ名まで付いた。

以前、ジェファーソンがナポレオンから”ルイジアナ”を$1500万で買ったときと同じように、民衆から罵倒される原因を作った。

ハーパー紙によると、第一に重要なこととして、フロンティイアーの押し寄せる西部、特に「ゴールド・ラッシュ」後のカリフォルニアでの住民宅建設用の原木確保ができる事を特筆している。

ロシアとの交渉の結果同年3月30日、アメリカがアラスカ全土を$700万で購入する決定がなされ、上院特別委員会の審議で4月9日正式承認を得たことが記されている。

アラスカの面積について:広さ:481,276平方マイル。

これは、ニューイングランドに中部州のを足した面積の3倍、ニューヨーク州の約10倍、テキサス州の2倍程度の広大な領土が新たにアメリカのものとなったことを誇らしげに伝えている。

人口は約60万ー70万、その5/6がエスキモーで、この数はワシントンDCに匹敵すると言う。

主だった山はセント・エライアス(現在のマッキンレー、先住民名:デナリ)17,900フィート(約7300メートル)で、それまで最高峰だった、タコマ富士、マウント・レニエーより高く、全米での最高峰となった。

実際には、新たに金鉱が発見される以前では、石炭の埋蔵量が多いことに加えて毛皮の獲得と、鯨油(ローソク用)を重要視していた。

Seal Skin:10,000頭、sea otter,1,000頭、Beaver,12,000頭、Land otter,25000頭の存在が推計されている。

その頃、モールスによる信号が出現し、ぺりー・コリンスの全世界テレグラフ網計画に加え、ハリマンの鉄道及び蒸気船の世界一周計画が具体化する気運が持ち上がり、その後左官となるフレデリック・ジャクソン・ターナーが唱える”フロンティアーの終焉論”を助長し、南北戦争後のアメリカの太平洋圏進出の先駆け機運を盛り上げたことは確かである。

その後、20世紀に入って後のアメリカの勢力の拡大と、世界制覇に近い躍進の原動力にアラスカが如何に役立ったかは誰の目にも明らかである。

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高野山にある中尊寺一切経再考

Photo 「中尊寺清衡一切経」は藤原清衡が京都、延暦寺の金銀交書花経に倣うべく叡山の僧自在坊蓮光を招いて監督せしめ、十数人の写経僧を加え、富力に任せて中尊寺に世に有名な紺紙金銀交書の華美なお経を完成させた。

これらを納められていた経蔵は金色堂の右にあって現在の蔵内両側に設けられた棚には漆匣が266合ある。しかし金銀経は僅か16巻を残すのみである。

写経研究の大家、田中塊堂氏は自著「古写経綜漢鍳」昭和17年(1942年)9月25日觹故郷舎出版部発行、349ページでは、当初4500巻余存在したと言われるこれら貴重な金銀経が中尊寺に16巻認められるのみに対して、大半の部分が高野山に所蔵されていることは一寸不思議に考えられるが、”これは豊臣秀次が奥州巡覧の際同寺より高野山に移したものである”

田中塊堂氏はさらに”高野山には別に承安2年3月2日付の秀衛の寄進状と云うものを偽作して伝わっている。収集家の元祖ともいうべき秀次がその権勢に任せてしたことであるから何ら疑う余地はない。”

田中塊堂氏は、続いて、”水原堯栄氏の説によれば寛永5年4月17日興山寺(高野山)第3世文殊院応昌が快舜和尚を請待して興山寺の後山に東照大権現堂を経営し、紺紙金銀交書の秀衛経をその経蔵に納めたことは彰明な事実であると言うから秀次はこれを興山応其上人に託したようである。”と述べていることを集合して考察すると、高野山に秀衛の寄進状と称して、承安2年の年号のある書状までそなわっている事実はだれが考えても納得できない。

藤原家が奥州の地に都の平等院を模して金色燦然たる御堂を建立し、その後、比叡山から専門家を招き金色堂に次いで前代未聞の豪華な一切経を一家の富を尽くして8年の年月をかけてまでして完成させた「家宝」を完結から100年程で手放し、天台宗の中尊寺から真言宗の高野山に寄進状とともに献上する理由は誰が考えても起こり得ない事実である。

以上、前回の筆者の「中尊寺一切経の顛末の不思議」に付記して、たとえ数百年が経過した平成の時代においても、「過去の間違がった事件」の再考証をおこない、正すべきは勇断を持って行うべきであることを仏門にて名をなされた高僧方の常識にお預け申し上げ解決のご努力あらんことをお願いしたい。

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新島八重

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新島八重サンの生涯が次回のNHK大河ドラマの主題として取り上げられることを知って筆者は喜んでいる。

彼女の生きた時代(1845年―1932年)、は世界的に観察しても未だ女性の地位が社会的に確立されていなかった頃であった。

特に東洋では女性は教育はおろか、政治運動にも参加することおぼつかない頃の頃である。

近代看護教育の生みの親として有名な、イギリス生まれのフローレンス・ナイティンゲール(Florence Nightingale,1820-1910,黒人奴隷解放に努力したアメリカの女性解放運動家、ハリエット・タブマン(Harriet Tubman,1820-1913)や、アメリカにおける女性参政権獲得に献身したエリザベス・スタントン(Elizabeth Cady Stanton,1815-1902)達の一群の女性運動家と比較されうる稀有な日本近代女性の代表ではないかと考える。

新島八重(時には八重子)は会津藩の大砲術の師範をしていた山本権八の娘で戊申戦争に男に変身して(断髪・男装)で戦いに参加、若松城籠城の時にはスペンサー銃で奮戦し、後には幕末のジャンヌ・ダルクの異名をもらったほどの噂になったと言われている。

一時結婚した川崎尚之助とは戦争中にお互いに離れ離れとなり事実上離婚した。(詳細不明)。

その後、明治4年(1871年)、京都府顧問であった兄の山本覚馬を頼って上京。その翌年、覚馬の推薦を受けて、当時京都女紅場(丸太町川端)、後京都府立第一高女に教道補佐の職を得る。13代裏千家宗室(円能斎の母の指導を受けて茶道に親しむ。

ここで兄、覚馬の知人であった新島襄にめぐり合う。

明治8年(1875年)10月新島と婚約した。ところが新島がキリスト教伝道の仕事をしていたことから、婚約直後、八重は女紅場での仕事を失うこととなる。

そのような境遇にありながら新島と八重は翌年1月3日(1876年)京都で最初となる日本人同士のキリスト教式を挙げた。

アメリカでの教育を受けていた新島は当時日本では考えられなかった、いわば“レディー・ファースト式の生活パターンを八重に許し、かえって世間から夫をかしずかせ、人力車にも女が先に乗る姿の八重を「悪女」として噂し、悪評を買ったとも云われている。

新島の女性感は、むしろ女が、男からズーット東を向いていろと云われてその通りに従うタイプの女性は自分の好みではないとも云っている。

その点、しっかりとした自分の意見を持ち、何事にも動じない八重の性格が新島の心をとらえたのではと思われる。

若松城に男装で籠城して、一時は幼いながらにも死を覚悟した経験を持つ八重は恐らく尋常な女ではなかったことは疑いのないところだろう。

誰にでも自分の意見を率直に述べられる女性は、確かにその頃では珍しがられたに違いなく、人前で夫を「ジョー」と呼び捨てにする八重の所作を見て伝統的な古い習慣に慣れていた京都人にはまるで八重は異邦人として写ったのではないだろうか?

新島と八重の夫婦生活は順調だったが、明治23年(1890年)新島が病に倒れて帰らぬ人となった。

夫なき後、八重は茶道に進みながらも、日清、日露の戦争の間、篤志看護婦として尽力し、その功績で、当時まで皇族以外の女性には縁のなかった勳二等を受賞している。

京都と云う所は古い伝統を誇る都市でありながら、時として、日本の「魁」となるような奇抜な出来事や、人物を生む不思議な場所である。

それは敢えて申せば“進取の気性”と“温故知新”が同棲している世界でも珍しい性格を持ち合わせた場所であると筆者は考える。

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コロンボ刑事の死

Peter_falk ”家のかみさん”を連発しながら、愛犬だけで、奥さんは一度もスクリーンに登場させなかったロス市警刑事コロンボ。

オンボロのレイン・コートとポンコツ車を乗り回し、体裁に無頓着だが、何か好感を抱かせる辛辣な刑事役でテレビ画面にファンをつなぎとめたピーター・M フォーク(Peter Micheal Falk,84)が去る6月24日夜、ロス郊外の自宅でアルツハイマー病のため帰らぬ人となった。

ニューヨーク出身、3歳の時、悪性腫瘍のため右目を失明、それ以後義眼で通した。

主な出演:The Princess Bride,The great race and next. 1960年、Murder Inc.(殺人会社)、1961年、Pocketful of miracles(ポケットいっぱいの奇跡)で2回アカデミー主演賞にノミネートされている。

コロンボ・シリーズで4度、エミー賞(Emmy Award)受賞、ゴールデン・アワード賞1度受賞の経験がある。ウイリアm・フレドキン監督(William Friedkin)はピーター・フォークの1978年の主演映画"The brinks Job"でのフォークの演技を評して”ピーターは真剣なドラマからコメディーの演技で観客のを泣かせたり、笑わせたりする特技を持っている”と言っている。

刑事役のシリーズはNBCで、から1971年から78年まで続き、しばらく間をおいて、ABCで1989年から2003年まで茶の間をにぎあわせた。

水戸黄門劇のように、殆どが、筋書きの展開、それに結末が、おおよそ想像がつく展開の殺人事件だが、それでも観客はピーターのひょうきんな仕草、表情、個性的な動作に興味を覚え、つい最後までお付き合いをしてしまう、他に比較できない特徴を醸し出す「刑事コロンボ」のシリーズは世界中で歓迎された数少ない番組であった。

やはりピ-ター・フォークは卓越した技量をもった性格俳優として永くファンの記憶にとどまることであろう。

70本近いコロンボ作品はCS放送や、DVDで何時でも見ることができる。「コロンボ刑事」は国境を越えて世界に多くのファンがいるそうだが、晩年アルツハイマーに罹り、養女との折り合いが悪くなり、財産の継承で訴訟問題になったとも聞いている。

何はともあれ、筆者は刑事・コロンボの冥福を祈りたい。(ニュース・ソース:ask.com,wikipedia article、他)

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メーデイの起源と推移に付いて

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我が国では去る3.11震災の結果「メーデー」(May Day)どころでなくなったが、西洋諸国では春の労働者の祭典として各地で騒動が起こっている。

これについて、お隣の世界最大の共産国家「中華共産共和国」(中共)では平静が保たれて大層な事件は起こっていない。

筆者はメーデー(5月1日)はどのような事がきっかけで始まったのかを知りたくて、アメリカのask.comのウイキペディアで調べることとした。

“May Day on May 1 is an ancient northern hemisphere apring festival and usually a public holiday”(メーデーは北半球の春の祭典で普通は休日)との記述で始まり、19世紀の終わり頃から、それは世界の労働者の日(International worker’s day. or labor day, a day of political demonstrations and celebrations organized by communists ,anarchists, socialists, unionists, .and other groups)として、それまでの春の到来を楽しむ、“メーデー”の感覚が一変した。

今ではメーデーは、共産主義者、社会労働者団体、無政府主義団体が主催する政治運動の祭典と殆ど同義語の感覚を帯びるようになったと説いている。

ロシアのロマノフ王朝の圧政に不満を抱いていたユダヤ人を中心にした無政府主義者が19世紀末から運動を始め、フランスの5月革命にならって運動を起こしたことから

庶民の圧政に対する示威運動を起こす日と考える傾向があるが、昨今で我が国でも次第に考えが変化している。

大がかりな労働者の資本家に対する所謂「労働運動」(ストライキ)は、むしろ資本主義国アメリカに端緒を見ることが多い。

その代表格と看做される20世紀以前に起こった労働運動の主なものには、1713年の”Bread Riot in Boston”, ”Mast Tree Riot(1734)”New Jersey Tenant Riot(1745-54年)、”Anti-Bank Riot in Baltimore(1835年)”Flour Riot in New York”(1837年)”Squatter’s Riot(1850年)”Louisiana Sugar Strike(1887年)”Homestead Act”(1892年)”Coeur D’Alene”(1892年)と、1894年に発生した”Pullman Strike”等があげられる。

アメリカでは独立戦争以前から植民地人の団結をめざして宗主国(イギリス)の圧政を嫌って、反抗的性格が次第に盛り上がり、それが主従関係離反(資本家対労働者、人種問題)に広がっていったからである。

極論と取られるかもしれないが、ボストン・ティーパーティー事件もそのたぐいの運動と言える。

筆者の望みはMay Dayを今後は、労使対立の示威運動の日と看做さず、国民こぞって何か建設的な社会奉仕を行う日となればと願っている。

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ゼラニュームの美しい窓

Photo_2 ゼラニュームの原産地は南アで、イギリスには既に1710年代に将来され、新大陸にも18世紀初頭までには輸入が始まっている。

ハーブの一種とされるが、特殊な臭いを放つので虫がつきにくく、手入れが簡単なため西洋では最も好まれる種類である。

筆者は最近スイスを訪れ、チューリッヒからサン・モリッツ周辺を歩いたが、ほとんどの処でゼラニュームに出会った。

彼らは自宅の窓辺を花で美しく飾り立てて楽しむ風習があるが、よく見るとほとんどが赤のゼラニュームであることが判った。

それは手入れが簡便で、乾燥にも強く、蟲害の心配がないからである。

挿絵の窓にもゼラニュームが飾られていたが、白色や黄色は好まれないせいか殆ど見ることがなかった。

最近、わが国でも”アメリカーナ”の名称でピンク・ローズの派手やかな美しい種類を見ることが多くなった。

わが国でもいずれ、スイスのように自宅の窓辺を美しい花で飾って、道行く人達の目を楽しませる心の余裕が持てる日がやってくることを願いたい。

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相撲のあるべき姿

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“痛み分け”と云う表現は相撲言葉で、取り組中で相手が怪我をした場合のその番組を「引き分け」とする処置のことだ。

スポーツと云う言葉は西洋言葉で、人間同士が技術と力で一定のルールのもと勝負するものである。

「武士道」と「騎士道」と云う表現は、古今東西にそれぞれの地方に発展した人間同士のルールである。

7月10日、大相撲名古屋場所が久しぶりに正式に行われることとなった。永らく「八百長」問題であれやこれやの子供じみた論議がなされたが、結果は正に“大山鳴動してネズミ一匹”も出なかった。

唯、注目を浴びたのは、力士が一年中、6場所(90日間)をガチンコで取り組みを消化することはとても無理であると言う或る親方の言葉であったらしい。

放駒親方が相撲についてどんな見識をお持ちかは知らないが、日本では相撲は「興行」であって、その点、歌舞伎芝居と同じレベルで気楽に考えてみれば彼の肩の荷がもっと軽くなったのではと思う次第。

相撲は確かに近代スポーツの形式に基づいているかに見えるが、その歴史(成り立ち)を考えると観衆を喜ばせる芝居に似た興行なのである。

八百長を否定しながら「タニマチ」風習を排除すると言う言葉は依然聞かれない。

タニマチあっての相撲はこのまま存続することだろう。

土俵際で、一方が勝負を諦める「寄り切り」は八百長相撲に多いとみているらしいが、押し出されて土俵から転落、その結果自分は足を怪我し、砂被りで見物しているお客様にもけが人が多く出るようなことになれば相撲見物は危険視されて「興行」成績下落につながりかねない。

どんなスポーツにも相手の立場を考えずに、強い者が勝つのでは、そこに人間味が見いだせない。(例えば、ボクシングで相手が負傷した目を集中的に攻撃する場合)

立ち合いで頭をぶつけあいすることも決して奨励出来ないし、“張り手”手法で相手の隙を突く事も決して奨励される取り口とは思えない。

(筆者の記憶では“張り手”の元祖は大関、前田山と記憶している)

100キロ超同士がぶつかり合う立ち合いでは、さぞかし怪我も多くなるのではと筆者は今から心配している。

どんな場合でも人情を無視した「勝負」はあってはならないと思っている。

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中尊寺経と高野山

恵心僧都の筆になるとされて有名な釈迦二十五菩薩来迎図の大幅が、信長が比叡山焼き討ちの際、延暦寺から持ち出され高野山に運ばれたことは既にブログで記した。

同時に、高野山にはそのほかに、「中尊寺清衡一切経」の一つの“紺紙金銀交書一切経(1126年)4200巻が寺宝として収蔵されていることも紹介した。

清衡は奥州にあって京都の文化に傾倒し、平等院を模して中尊寺に阿弥陀堂を建立し、延暦寺にあった金銀交書法花経にならって、叡山より自在坊蓮光を招いて写経の監督に当たらせて膨大な量の一切経を8年を費やして書かせた。

1590年(天正18年)小田原攻めに続いて、秀吉は秀次、伊達正宗、蒲生氏郷らに津軽反乱制定に向かわせた際、収集好きの秀次が4200巻に及ぶ一切経を京の聚楽第に運ばせた。

総数4500巻と云われる一切経の内、現在平泉に残っているのは僅かに15巻、その内の4200巻程を秀次が持ち帰り、残り300巻は市井に散逸してしまった。

数か月以前の京都新聞に依ると、予てより京都博物館に寄託されていた、左京区の壇王法林寺の所蔵経典2巻が中尊寺経と認定されている。

田中塊堂著「古写経綜観鍳」(昭和17年)によると“高野山には承安2年(1172)3月2日付の秀衛の寄進状と云うものが偽作して伝わっているが、収集家の元祖とも云うべき秀次がその権勢に任せてしたことであるから何ら疑う余地はない”と述べている。

関白秀次は此の膨大な量の経典を聚楽第に持ち帰り楽しんでいたが、文禄4年(1595年)7月8日、秀吉の命で高野山に追放され出家する羽目になった。

延暦寺の釈迦二十五菩薩来迎図大幅もれっきとした素性を持つ宝物だが、残念にも何時誰が如何にしてそれを高野山まで運んだかは明らかでない、しかし、中尊寺紺紙金銀交書四千何百巻にかんする限り、それらが何時、誰によって高野山に運ばれ納められたかが判っている。

前述の田中氏の著述にもある通り、高野山には承安2年付秀衛筆の謎めいた寄進状があり、筆者の想像では、秀次が高野山に向かう際、貴重な中尊寺経を今後世話になる高野山に寄進することを考え付き、わずか5年前に略奪したものを寄進するに際して、寺に頼んで秀衛の寄進状を偽造させたのではと思う。

もし、この時、高野山が秀次からの要請で秀衛の「偽寄進状」を作成、あたかもこれらの経典が12世紀の昔から高野山にあったものとしてしまっていたのならば、これは立派な共犯となり「犯罪行為」に加担したことになりはしないかと思う次第。

秀次はその後、関白から豊禅閤(ほうぜんこう)と改名させられ、1595年7月15日に青巌寺・柳の間で切腹(享年28)させられた。

切腹とは斬首とは違い、名誉を重んじた死刑であるが、秀吉はその後、秀次の一族・妻妾、息子、娘、家臣の殆どが粛清され、その時、秀次の首も四条河原に曝されたと云われる。

ひつこい様だが、高野山は、いすれにしても中尊寺経に関して敬虔な仏教徒として、なんらかの筋の通った釈明を世間に公表すべきではないかと思う次第である。

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