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有刺鉄線の発明

Barbed_wire_2

産業落命の端緒は18世紀末イギリスであったとしても、主な機械工学に基づく近代的なアイディアーの発生は19世紀に起こっている。

その代表的な例と云えば、「写真」(1835、フランス)、「モールス信号」(1844、アメリカ)、蒸気船(フルトン、1817、アメリカ)電灯(エディソン、アメリカ)電話(ベル、アメリカ)ミシン、タイプライター、ジッパー等々であるが、発明として人々があまり注目していないものに有刺鉄線(barbed wire)があった。

これはアメリカ特有の事情による「発明」となった。

以前にもこのブログで簡単にその成り立ちを記載したことがあるが、今回は改めてアプローチを試みたい。

床屋、barberはこれから発生した言葉であるが、即ち、“よじれている”意味である。

これはfenceをつくる為に、アメリカの西部に於いて考え出された発明であった。

ミシシッピー以西を西部と呼んでいるが、そこは、アメリカがメキシコからカリフォルニアを購入した1848年までは先住民の居住地区で多く占められた未開地であった。

しかし、丁度その頃金鉱が発見されたことで所謂“ゴールド・ラッシュ”が始まり、その後も西部の所々で鉱物発見が相次いだため、一挙に人口が増え混雑する状態となった。

農業、牧畜が盛んになるに従って各所に「仕切り」が必要となって、例えば「牛追い」などで自分の土地を荒らされないように私有地の囲みこみが大きな仕事になった。

南北戦争開始の翌年、1862年にホームステッド・アクト(Homestead Act)に基づき、未開発の土地、1区画160エーカー(約65ヘクタール)を自営農地として21歳の男子に(条件:12X14フィート面積の住宅建設、5年以上定住)を無償で払い下げることがリンカーン大統領によって発効された。

筆者が計算したところ、1エーカー、約4000㎡として、160エーカーならば、64万㎡即ち、もし、その土地をフェンスで囲むとすれば、(一辺8km)、トータル、32kmの有刺鉄線が必要となる勘定。

杭と杭の間に最低3本の有刺鉄線を使ったとすれば、その3倍の、殆ど96kmの有刺鉄線が必要となってくる。隣接しているところを互いに折半するとしてもその費用は決して安価なものではなかったと思われる。

有刺鉄線は、今では誰でも知っているが、石臼を使って複数のワイアーを編み上げ、各所に突起部分を作って、それに触れると痛みを感じることで牛や馬も近づかない“有刺鉄線”は最初、1863年になってミッチェル・ケリー(Michael Kelly)が考案したとされる。

ところがケリーがこれの特許の申請を怠った為、10年後の1873年になってジョセフ・グリデン(Joseph Glidden),ジェーコブ・ハイシュ(Jacob Haish),アイザック・エルウッド(Isaac Ellwood)の3名がそれぞれの手法で特許獲得を競い合ったが結局、1874年ジョセフ・グリドン(Joseph Glidden)が勝者と決定、彼とエルウッドが組んで、The Barb Fence Companyを設立することとなった。

その後、暫くの間このパテント闘争は繰り広げられたが、グリドンが結局”Father of Barbed Wire”の名声を勝ち取った。

広大な大西部を舞台として戦われた「有刺鉄線戦争」、これの勝者は正に億万長者を約束されていたのであった。

これは、とても日本では考えも出来ないビジネス・チャンスであった。

20世紀となり日露戦争、第一次世界大戦、では図らずも「防衛線」の役割を果たすこととなった事までをグリドンは考えていたかどうかは不明である。

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