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新島八重

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新島八重サンの生涯が次回のNHK大河ドラマの主題として取り上げられることを知って筆者は喜んでいる。

彼女の生きた時代(1845年―1932年)、は世界的に観察しても未だ女性の地位が社会的に確立されていなかった頃であった。

特に東洋では女性は教育はおろか、政治運動にも参加することおぼつかない頃の頃である。

近代看護教育の生みの親として有名な、イギリス生まれのフローレンス・ナイティンゲール(Florence Nightingale,1820-1910,黒人奴隷解放に努力したアメリカの女性解放運動家、ハリエット・タブマン(Harriet Tubman,1820-1913)や、アメリカにおける女性参政権獲得に献身したエリザベス・スタントン(Elizabeth Cady Stanton,1815-1902)達の一群の女性運動家と比較されうる稀有な日本近代女性の代表ではないかと考える。

新島八重(時には八重子)は会津藩の大砲術の師範をしていた山本権八の娘で戊申戦争に男に変身して(断髪・男装)で戦いに参加、若松城籠城の時にはスペンサー銃で奮戦し、後には幕末のジャンヌ・ダルクの異名をもらったほどの噂になったと言われている。

一時結婚した川崎尚之助とは戦争中にお互いに離れ離れとなり事実上離婚した。(詳細不明)。

その後、明治4年(1871年)、京都府顧問であった兄の山本覚馬を頼って上京。その翌年、覚馬の推薦を受けて、当時京都女紅場(丸太町川端)、後京都府立第一高女に教道補佐の職を得る。13代裏千家宗室(円能斎の母の指導を受けて茶道に親しむ。

ここで兄、覚馬の知人であった新島襄にめぐり合う。

明治8年(1875年)10月新島と婚約した。ところが新島がキリスト教伝道の仕事をしていたことから、婚約直後、八重は女紅場での仕事を失うこととなる。

そのような境遇にありながら新島と八重は翌年1月3日(1876年)京都で最初となる日本人同士のキリスト教式を挙げた。

アメリカでの教育を受けていた新島は当時日本では考えられなかった、いわば“レディー・ファースト式の生活パターンを八重に許し、かえって世間から夫をかしずかせ、人力車にも女が先に乗る姿の八重を「悪女」として噂し、悪評を買ったとも云われている。

新島の女性感は、むしろ女が、男からズーット東を向いていろと云われてその通りに従うタイプの女性は自分の好みではないとも云っている。

その点、しっかりとした自分の意見を持ち、何事にも動じない八重の性格が新島の心をとらえたのではと思われる。

若松城に男装で籠城して、一時は幼いながらにも死を覚悟した経験を持つ八重は恐らく尋常な女ではなかったことは疑いのないところだろう。

誰にでも自分の意見を率直に述べられる女性は、確かにその頃では珍しがられたに違いなく、人前で夫を「ジョー」と呼び捨てにする八重の所作を見て伝統的な古い習慣に慣れていた京都人にはまるで八重は異邦人として写ったのではないだろうか?

新島と八重の夫婦生活は順調だったが、明治23年(1890年)新島が病に倒れて帰らぬ人となった。

夫なき後、八重は茶道に進みながらも、日清、日露の戦争の間、篤志看護婦として尽力し、その功績で、当時まで皇族以外の女性には縁のなかった勳二等を受賞している。

京都と云う所は古い伝統を誇る都市でありながら、時として、日本の「魁」となるような奇抜な出来事や、人物を生む不思議な場所である。

それは敢えて申せば“進取の気性”と“温故知新”が同棲している世界でも珍しい性格を持ち合わせた場所であると筆者は考える。

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