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相撲のあるべき姿

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“痛み分け”と云う表現は相撲言葉で、取り組中で相手が怪我をした場合のその番組を「引き分け」とする処置のことだ。

スポーツと云う言葉は西洋言葉で、人間同士が技術と力で一定のルールのもと勝負するものである。

「武士道」と「騎士道」と云う表現は、古今東西にそれぞれの地方に発展した人間同士のルールである。

7月10日、大相撲名古屋場所が久しぶりに正式に行われることとなった。永らく「八百長」問題であれやこれやの子供じみた論議がなされたが、結果は正に“大山鳴動してネズミ一匹”も出なかった。

唯、注目を浴びたのは、力士が一年中、6場所(90日間)をガチンコで取り組みを消化することはとても無理であると言う或る親方の言葉であったらしい。

放駒親方が相撲についてどんな見識をお持ちかは知らないが、日本では相撲は「興行」であって、その点、歌舞伎芝居と同じレベルで気楽に考えてみれば彼の肩の荷がもっと軽くなったのではと思う次第。

相撲は確かに近代スポーツの形式に基づいているかに見えるが、その歴史(成り立ち)を考えると観衆を喜ばせる芝居に似た興行なのである。

八百長を否定しながら「タニマチ」風習を排除すると言う言葉は依然聞かれない。

タニマチあっての相撲はこのまま存続することだろう。

土俵際で、一方が勝負を諦める「寄り切り」は八百長相撲に多いとみているらしいが、押し出されて土俵から転落、その結果自分は足を怪我し、砂被りで見物しているお客様にもけが人が多く出るようなことになれば相撲見物は危険視されて「興行」成績下落につながりかねない。

どんなスポーツにも相手の立場を考えずに、強い者が勝つのでは、そこに人間味が見いだせない。(例えば、ボクシングで相手が負傷した目を集中的に攻撃する場合)

立ち合いで頭をぶつけあいすることも決して奨励出来ないし、“張り手”手法で相手の隙を突く事も決して奨励される取り口とは思えない。

(筆者の記憶では“張り手”の元祖は大関、前田山と記憶している)

100キロ超同士がぶつかり合う立ち合いでは、さぞかし怪我も多くなるのではと筆者は今から心配している。

どんな場合でも人情を無視した「勝負」はあってはならないと思っている。

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