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中尊寺経と高野山

恵心僧都の筆になるとされて有名な釈迦二十五菩薩来迎図の大幅が、信長が比叡山焼き討ちの際、延暦寺から持ち出され高野山に運ばれたことは既にブログで記した。

同時に、高野山にはそのほかに、「中尊寺清衡一切経」の一つの“紺紙金銀交書一切経(1126年)4200巻が寺宝として収蔵されていることも紹介した。

清衡は奥州にあって京都の文化に傾倒し、平等院を模して中尊寺に阿弥陀堂を建立し、延暦寺にあった金銀交書法花経にならって、叡山より自在坊蓮光を招いて写経の監督に当たらせて膨大な量の一切経を8年を費やして書かせた。

1590年(天正18年)小田原攻めに続いて、秀吉は秀次、伊達正宗、蒲生氏郷らに津軽反乱制定に向かわせた際、収集好きの秀次が4200巻に及ぶ一切経を京の聚楽第に運ばせた。

総数4500巻と云われる一切経の内、現在平泉に残っているのは僅かに15巻、その内の4200巻程を秀次が持ち帰り、残り300巻は市井に散逸してしまった。

数か月以前の京都新聞に依ると、予てより京都博物館に寄託されていた、左京区の壇王法林寺の所蔵経典2巻が中尊寺経と認定されている。

田中塊堂著「古写経綜観鍳」(昭和17年)によると“高野山には承安2年(1172)3月2日付の秀衛の寄進状と云うものが偽作して伝わっているが、収集家の元祖とも云うべき秀次がその権勢に任せてしたことであるから何ら疑う余地はない”と述べている。

関白秀次は此の膨大な量の経典を聚楽第に持ち帰り楽しんでいたが、文禄4年(1595年)7月8日、秀吉の命で高野山に追放され出家する羽目になった。

延暦寺の釈迦二十五菩薩来迎図大幅もれっきとした素性を持つ宝物だが、残念にも何時誰が如何にしてそれを高野山まで運んだかは明らかでない、しかし、中尊寺紺紙金銀交書四千何百巻にかんする限り、それらが何時、誰によって高野山に運ばれ納められたかが判っている。

前述の田中氏の著述にもある通り、高野山には承安2年付秀衛筆の謎めいた寄進状があり、筆者の想像では、秀次が高野山に向かう際、貴重な中尊寺経を今後世話になる高野山に寄進することを考え付き、わずか5年前に略奪したものを寄進するに際して、寺に頼んで秀衛の寄進状を偽造させたのではと思う。

もし、この時、高野山が秀次からの要請で秀衛の「偽寄進状」を作成、あたかもこれらの経典が12世紀の昔から高野山にあったものとしてしまっていたのならば、これは立派な共犯となり「犯罪行為」に加担したことになりはしないかと思う次第。

秀次はその後、関白から豊禅閤(ほうぜんこう)と改名させられ、1595年7月15日に青巌寺・柳の間で切腹(享年28)させられた。

切腹とは斬首とは違い、名誉を重んじた死刑であるが、秀吉はその後、秀次の一族・妻妾、息子、娘、家臣の殆どが粛清され、その時、秀次の首も四条河原に曝されたと云われる。

ひつこい様だが、高野山は、いすれにしても中尊寺経に関して敬虔な仏教徒として、なんらかの筋の通った釈明を世間に公表すべきではないかと思う次第である。

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