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高野山にある中尊寺一切経再考

Photo 「中尊寺清衡一切経」は藤原清衡が京都、延暦寺の金銀交書花経に倣うべく叡山の僧自在坊蓮光を招いて監督せしめ、十数人の写経僧を加え、富力に任せて中尊寺に世に有名な紺紙金銀交書の華美なお経を完成させた。

これらを納められていた経蔵は金色堂の右にあって現在の蔵内両側に設けられた棚には漆匣が266合ある。しかし金銀経は僅か16巻を残すのみである。

写経研究の大家、田中塊堂氏は自著「古写経綜漢鍳」昭和17年(1942年)9月25日觹故郷舎出版部発行、349ページでは、当初4500巻余存在したと言われるこれら貴重な金銀経が中尊寺に16巻認められるのみに対して、大半の部分が高野山に所蔵されていることは一寸不思議に考えられるが、”これは豊臣秀次が奥州巡覧の際同寺より高野山に移したものである”

田中塊堂氏はさらに”高野山には別に承安2年3月2日付の秀衛の寄進状と云うものを偽作して伝わっている。収集家の元祖ともいうべき秀次がその権勢に任せてしたことであるから何ら疑う余地はない。”

田中塊堂氏は、続いて、”水原堯栄氏の説によれば寛永5年4月17日興山寺(高野山)第3世文殊院応昌が快舜和尚を請待して興山寺の後山に東照大権現堂を経営し、紺紙金銀交書の秀衛経をその経蔵に納めたことは彰明な事実であると言うから秀次はこれを興山応其上人に託したようである。”と述べていることを集合して考察すると、高野山に秀衛の寄進状と称して、承安2年の年号のある書状までそなわっている事実はだれが考えても納得できない。

藤原家が奥州の地に都の平等院を模して金色燦然たる御堂を建立し、その後、比叡山から専門家を招き金色堂に次いで前代未聞の豪華な一切経を一家の富を尽くして8年の年月をかけてまでして完成させた「家宝」を完結から100年程で手放し、天台宗の中尊寺から真言宗の高野山に寄進状とともに献上する理由は誰が考えても起こり得ない事実である。

以上、前回の筆者の「中尊寺一切経の顛末の不思議」に付記して、たとえ数百年が経過した平成の時代においても、「過去の間違がった事件」の再考証をおこない、正すべきは勇断を持って行うべきであることを仏門にて名をなされた高僧方の常識にお預け申し上げ解決のご努力あらんことをお願いしたい。

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