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黄昏の日本

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国家公務員、662万、地方公務員、728万、公立高校教員、776万、

公立小・中学校教員、742万、消防士、717万:これはそれぞれの職業についている公務員の平均年収である。

昨年の国の税収の総額は約40兆9270億円であったが、公務員の人件費は約32兆(或るサーチ・エンジン調べ)が国民の税金から支払われているらしい。

国会議員の一人当たりの収入がザット4400万。これに衆参議員数をかければ大体の総額が判るが、バカらしくて計算する気にもならない。

民間企業の経営者や社員の年間の手取りは、企業の規模や種類によって違いがあるので一概に言えないが、少なくとも、違法行為を働いていなければ、企業収益の税引き利益から支払われていることは云うまでもない。企業配当も同じ。

公務員やその組合員の喜びそうな政権「マニフェスト」を掲げて2年前に選挙を戦ったのが民主党。

どうにかそのマニフェストに多分の虚偽があったことが判って、民主党は昨年の参院選には大敗してしまった。

民主、自民の議員は永い間、議員数の削減と議員の得ている特権について再考慮を約束しながら何の行動もおこしていない。此の点はいつも保革両陣営の意見は一致している。

国会の経費が1日当たり2億7500万とのデーターも同じサーチ・エンジンからとった数字だが、もしこれが正しいとすれば、1分間の経費はいくらなのだろう?

普通のビジネスベースから考慮して、総売り上げの人件費の占める割合は、恐らく1/3以下だろう。

年間の税収、約41兆円だが、それと略同額の赤字国債を発行して、その殆どが公務員と政治家の手当て化けてしまうのでは国民はたまったものでない。

2011年の一月、鹿児島県の阿久根市の竹原市長は「市民の平均所得は200万円なのに市の職員の過半数が700万円以上の年収がある、それで阿久根市の税収10億に対して、市職員の手当てに24億円が出ていることを知って、公務員は税金ドロボーだと叫び、市の職員、市会議員達の給与とボーナスを半額にした。

これで市長は労働組合、議員、職員の連合軍から突き上げられた結果、市長のリコールに発展、再選挙の結果、竹原氏は敗退した。

この敗因は市長が市議、職員等を、まとめて敵に回したからであった。

特に公務員の労組は参加率100%(天引き)なのだから、彼等の票を手にした民主党が2年前の選挙に圧勝した理由もうなづける。

最近の「円高」で、輸出企業の利益は今後ますます減少、そこへ、企業の海外への転出に勢いがつけば、国の税収は今後は勢いを増して減少せざるを得ない。

東日本の大震災救済への出費が嵩み、日本国債の評価が下がり始めている。

東証株の平均も底値に近いところまで下落している。

現在は円高なので外資もすぐさま手出しを躊躇っているが、外貨をため込んでいる隣国の出方には今後は要注意と考える。

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死ぬにも「党」の承認が必要な中国

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月刊誌「選択」8月号によれば、中国では元国家の「最高指導者が死去する際は、党幹部の了承が必要」と云う。

こんなことは今までに聞いたことが無かったので驚いているが、これは嘘でないらしい。

しかし、筆者は死ぬのにも幹部の了承がなければ死ねない国なんか聞いたことがない!

日本でも死亡説が囁やかれている江沢民前国家主席の安否に関して、中国から何の確たる報道も聞こえてこない。

それについて共産党の幹部の説明として、江沢民の死去の際は、党の正式な認知が必要と語った事らしい。

例えば、1997年の鄧小平の死亡の時、党の中央委員、約400人の承認を得て「死亡」と決定、発表したことは事実らしい。

今回の江沢民の場合、彼の支援を受けている幹部が多くいる。従って来年予定されている共産党大会の指導部の人事をめぐり、こんな重要な時に親分に死んでもらっては困ると思っている幹部達が「死去」に反対しているとみられる。

江沢民は、昨年の春の上海万博の開幕式にも姿をみせていない。それから江沢民の重病、死亡説が流れだした。

日経新聞出版社の「翌近平時代の中国」佐藤賢著、によると江一派がその健康不安説を払しょくするため、日本の要人と会談したと云う。

その要人とは、福田康夫元首相の事。その時、江氏は福田氏に“上海万博以降は北京に滞在して、その昔、毛沢東も利用したといわれるプールで水の中の散歩をする”とはなしていたとのこと。

これが事実であるか否かは福田元総理に尋ねるしかないが、よく考えると、これに近い考え方をしている政治家は我が国にいるかも知れない。

例えば、明日(8月29日)予定されている「民主党の総裁選挙」。これは

民主党の内輪の政争であるが、もし、小沢一郎の死亡説が今夜報道されたとすれば、どんなことになるかを想像すると、結果は明らか。それならば、我が国も中国もあまり差がないのではと思う次第。 

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中国は国内問題解決を優先せよ!

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中国革命の父として崇められた孫文が、1919年に立案した長江ダム構想は、87年後の2006年5月20日完成され、それを祝賀する完工式が執り行われたと聞いている。

それを推し進めたのは中国指導部の胡錦涛国家主席であり、李鵬前総裁であった。両者ともに発電技術師であり、「三峡プロジェクト」のそもそもの提唱者であった。首相の中国国務院の温家宝総理も、三峡工程建設委員会主任を兼ねた、云わば当工事の中心人物である。

三峡ダムの完成式は2006年5月20日に挙行されたが、そのような大事な行事に彼等は一人としてその式典に姿を見せなかったといわれている。

このような世紀の国家事業の節目において最高責任者がそろって欠席したことが事実だとすれば、それこそ“異常事態”と考えざるを得ない。

1983年、三峡ダム事業化調査報告が提出された。しかしこのプロジェクトには最初から賛否の意見が拮抗し、全人代の議論にも影響を与え、一時はその着工の延期が語られた。しかし、天安門事件(1989年)が起きて、それまで着工に反対を唱えていた分子の一人、戴晴が逮捕され、それを機に李鵬首相が急きょ着工を決定した。

1992年、第7期全人代の第5回会議で、出席者2633名中賛成が1767名、棄権664名、反対177名無投票25名の結果が出た。

専門家は、これまでの全人代は全会一致が基本であるべきところが、これほど棄権、反対、無投票がでるのは正に異例のケースと云わざるを得ないとの事。

1993年、事業主体である「長江三峡工程開発総公司」と資金集めの「三峡証券」が設立された。

1994年に着工式、それに続いて本工事開始となった。2003年には、早くも一部貯水、発電開始、第3期工事に移り、2006年の完工式となり、2009年すべての発電所を含めた全プロジェクトが出来上がった。

その間、2007年までに140万人が強制移住を余儀なくされ、予定では2020年までに更に230万人の退去が予定されている。

「三峡移民」と云われる人々の多くは少ない補償金でかたずけられ、貧困層へと転落しているのが現実で、各所で社会問題化しつつある。

揚子江の沿岸には多くの名所旧跡が多く、それらが水底に沈み、文化財を中心とした観光地が姿をけすこととなり、古代からの多くの中国文化を自ら葬り去っていることは考えてもさびしい。

それに沿岸の水質の悪化に依る、生態系の破壊、在来の動植物に与える悪影響、地滑り、がけ崩れの発生、進むダム内での土砂堆積、水の圧力増加に依る地震発生の恐れ、等々、数えだしたらきりのない自然保護に不利な環境への移行が急速に進行していることは誰の目からも否定できない事実である。

最近起こっている中国の異常気象を三峡ダムに結び続けて不吉に感じている者は少なくない、

最近始まったチベットでの多数のダム建設は何の目的なのだろうか?

昨年の8月22日の毎日新聞報道では、甘粛省のチベット族自治州舟曲県で土石流が発生、1800人の死者・行方不明が出たが、それが砂防ダムの手抜き工事が原因だと批判されて温家宝が被災地を訪問して、今後は“科学的計画”のもと復興を進めるようにと云う、理解に困るような指示をしたと云われている。

同誌は土石流で破壊されたダムは少なくとも6基で、壊れたダムを調べると、セメントは外側だけで内部には砂と小石が詰められていた云う程の稚拙な工事であったらしいと報じている。

今年発生した高速鉄道衝突事件も、云わば公務員の不慣れな経験から起きた人災でった。

ここに至って、貴方達は何に向かって、そんなに急いでいるのかと糺してみたい気持になるのは決して筆者だけではないと思う。

グーグル・ウイキペディアは中国の水問題について、世界銀行の調査結果として、以下の様な事柄を指摘している:

●世界人口の20%を占める中国の人口に対してその水資源は世界全体の僅か7%しかない。

●中国の660の都市の半分以上が水不足に苦しむ。

●一人当たりの水資源は世界平均の1/4.

●年の90%の地下水、河川、湖沼の水の75%が汚染されている。

●水質汚濁の広がりの為、毎日7億人が汚染された飲料水を飲んでいる。

●水が原因の病気で、驚くべき数の早死者が生まれている。

●2005~2006年に“三つの大規模な事件”(?)が発生、何百万人の住民に対する飲料水の供給停止が行われた。

●政府は下水処理施設によるこれ以上の水質汚濁対策投資に手がまわらない。

●北京のような大都会では、市が認定した水質基準の飲料水が売られているが、偽造のボトルの販売の氾濫で「正規」の水準が保たれていない。

●国際河川であるメコン河の上流に、中国が多数のダムを建設、下流のインドシナ諸国に水飢饉が波及する棄権がある。

世界銀行による以上のような指摘を受けながら世界一流国家を標榜する中国が如何にふるまうべきかの回答は出ている。

政府はつまらない見栄だけで、大金を消費してオリンピックを開催、上海万博や高速鉄道、航空母艦の建造に回す資金を先ず、「治水」と「水質確保」「水汚染問題」にまわして、国民の健康と精神的安定に力を注ぐべきだと考える

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焼け残った法隆寺金堂壁画「飛天図20面」

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終戦間もない、昭和24年(1949年)1月26日の早朝、日本最古の木造建築、法隆寺金堂から出火、金堂の外陣の土壁に描かれていた12面の壁大半が黒こげ状態になりその名で小壁に描かれていた羅漢図(18面)は全く跡形もなく消火の際に粉砕されてしまった。

当日、午前5時頃住職の佐伯定胤が朝の勧行をおこなった時には異常が見れれなかったと云われている。

その当時金堂は修理の為半ば解体が進んでいた、従って、内部にあった釈迦三尊像等の仏像は大講堂や大宝蔵殿に移されていたので難を免れた。

既に相当以前から損傷が進んでいた金堂壁画の保存の目的で、数名の専門画家により精緻な模写が昭和15年頃より始まっていた。そこで金堂に照明器具の蛍光灯と保温用の電気座布団が使われていたことが判り、結局、火災原因はこれらの電気器具の不具合の為と云うことで落ち着いた。

一般にはこの際の火災ですべての壁画が焼失したと思われているふしがある、しかし、実際は、焼けたのは外陣の壁面にあった12面の壁画で、内陣の子壁の飛天を描いた20面は、それ以前に外されて別の場所にあった為難を免れた。(写真)

法隆寺金堂の壁画は、その特異な存在と歴史的意義から、明治初期より重要な歴史的遺産として研究がなされていた。それが関係者の不注意から損傷を受けたことは誠に残念なことと惜しまれる。

昭和29年(1954年)に金堂は解体修理を終えて復旧したが、外陣の壁は空白のままであった。

昭和42年(1967年)になって、法隆寺の発願、朝日新聞社の後援で、改めて本格的に壁画再現が始められ、それに、当時の日本画壇の代表的画家、安田靫彦、前田青邨、橋本明治と吉岡堅二の4人が、それぞれの班を組んで事にあたることとなった。

2008年の6月半ば、奈良国立博物館で「国宝、法隆寺金堂展」が開催されて、筆者も出かけて国宝、文化財に満ちた金堂の内部を照明の行き届いた展示室で見ることが出来た。(めったに得られない経験)

金堂の壁画再現に当たって、最も大きな貢献を果たした資料として、筆者は京都の老舗出版社「便利堂」が昭和10年(1935年)に作成した、オリジナルの壁画を原寸大で映写した、モノクロ及び、赤外線写真、色分解写真の存在を特記して称賛したいと考える。

これらはカラー写真の技術が未だ普及していなかった、昭和の初期に、フィルターを使用して4色分解の技法を駆使して作成していた意義は大きい。

便利堂はは昭和13年にはコロタイプ印刷で金堂壁画の複製も制作している。

写真:火災を免れた飛天図と毎日新聞の記事面

Houryuuji

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19世紀の"ICE KING"フレデリック・テューダー

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10年ほど以前に、誰かが南極か北極の氷山を丸ごとサウジアラビア迄運ぶ計画を練っていることを新聞で読んで、何て馬鹿なことをする人間だとあきれ返っていたが、それは筆者の大間違いで、そんなことを19世紀初期に考え付き、実行して、”Ice King”と呼ばれたアメリカ人が実在していたことを知って驚いた。

その人の名前は、フレデリック・テュダー(Frederick Tudor,17841864)、ボストンのテュダー氷会社(Tudor Ice Company)の創業者である。

彼はアメリカ北東部から帆船で真水から出来た氷の塊を西インド諸島、ヨーロッパ、果ては、インド迄、送りつけて大金持ちになったと云われている、極端に奇想天外なアイディアー・マン。

テュダー氷会社はマサチュウセット州、コンコードにあるウオールデン池

(Walden Pond),ケンブリッジのフレッシュポンド(Fresh PondCambridge),アーリントンのスパイ・ポンド(spy Pond,Arlington)、アイアーのサンディー・ポンド(Sandy Pond,Ayer)、他、マサチュウセッツ州にある、数多の湖の真水を集めて船積みし、輸出した。

彼は裕福な、ボストンの弁護士、ウイリアム・テューダー(William Tudor)の三男、彼の兄、ウイリアムテュダー2世は文豪として名をなすが、彼は13歳の時、西インド諸島に旅行して、思い付いたのが氷を暑い南の島に輸送して金持ちになることであった。

それから10年後の1806年、23歳の時、2本マストのBrigを購入、”Favorite”{好物}と命名して、ソーガス(Saugus)にあった、父所有の池から2400キロ離れた、カリビアンのマルティニック島(Martinique)まで輸送した。

1806年2月10日のボストン・ガゼットによると、輸出荷物は無事にマルティニック島の税関を通過したと報じている。

彼はその後の氷輸出を円滑に運ぶため、兄のウイリアムと従兄のジェームス・サヴェージに依頼してキューバ島及び、マルティニック島への氷の輸出の独占権を確保を頼んだ。

船出から3週間の間に氷が解けることは当然だが、船内に残った氷を売却して4500ドルの損失を出した、次に行った3回のキューバへの輸出ではテューダーはそれよりかなり多額の損失を被った。

1810年になりテューダーは初めて1000ドルの利益を出すことが出来た。

しかし日を増すごとに、彼のロスは次第に増えて、1812から13年に至って、諸経費の支払い不能の為に監獄に入れられたことがあった。

1815年、彼はどうにかして2100ドルを借入れ、これまでの借金を清算して後、ハバナに氷の保存倉庫を借ることが出来た。

1816年になって、彼は、今までになく効率的にキューバへの輸出を伸ばしたが、年率4割の高金利で3000ドルを借りて、キューバからライム、オレンジ、バナナや梨等を15トンの氷をつけてニューヨーク向けに送った。積荷が目的地に着いた時には、全ての商品が腐って売り物にならず、再び彼は借金を増やす始末となった。

しかし、これ位では彼は負けていなかった。

今度はアメリカ南部のチャールストン(Charleston,S.Carolina),サバナ(Savannah,Georgia)とニューオーリンズ(New Orleans,Louisiana)への氷の輸送を考えた。

テューダーは、この時点で氷を輸送中、如何に解けないようにする「断熱」の方法を真剣に研究し、木屑、の使用に加えて、氷をブロックのように、隙間のないように積むことで輸送中のロスが出ないように工夫した。さらに加えて、彼は輸出地に多くの「氷室」を建設して顧客の増加を計画している。

ようやく、1825年頃には、テューダーの商売も上向きとなり、その頃、ナサニエル・ジャービス・ワイエス(Nathaniel J. Wyeth)の発明した2枚の鋸を平行に付けて、馬に引かせて氷を採取することで、これまでより3倍以上の氷の採取に成功した。

1833年、ボストンの実業家、サムエル・オースティン(Samuel Austin)が彼と合弁でインドへの氷輸出を提案した。

カルカッタはボストンから26000キロ彼方にある、

その年、タスカニー号はカルカッタに向かうこととなり、冬季に180トンの氷を仕入れて出発、9月に目的地に到着したとき100トンの氷が残った。

これは可なりの成功で、それから20年間カルカッタはテューダーにとって最大の顧客となり、総額22万ドルの利益をもたらした。

1840年以降、鉄道の敷設でテューダーの氷輸送はそれまでと比較して遥かに効率的となり、テューダーの氷輸出は全世界をカバーするまでに発展していた。彼は既にそれまでの借財を清算して、生活も遥かに豊かになった。

フレデリック・テューダーは1864年2月6日、波乱に満ちた人生を終えた、享年81歳。

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野蛮な伝統「イルカ漁」

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伝統には良い伝統と、良くないものがある。日本の「イルカ追い込み漁」は前者に属するものであると筆者は考える。

我々も“世界の世論”に耳を傾ける必要がある。悲しいかな現在の世論の声は西洋から聞こえて来る、何故なら日本には世界の世論をコントロールできる発信手段、媒体(メディア)を持っていない。

ギリシャ時代から西洋文明(ヘレニズム)の基礎的知識として「イルカ」は人類の友として取り扱われ、イルカに乗った少年の彫刻迄残っている程である。

19世紀では蝋燭やランプの灯油を採取するために多くのクジラを捕獲していた西洋諸国も化石燃料が発見されてからはクジラを捕らなくなった。

これは人間にとって必要がなくいなったからで、文明や伝統には関係がない事柄である。

毛皮にしても、毛皮にかわる化学繊維の発明いら、羊毛と共にマーケットから姿を消した。

イルカ捕獲は日本の他、世界の数か所で行われている。ソロモン諸島、ペルーや南太平洋を中心に伝統的に続けられているが、その内、最も多数を捕獲しているのが日本である。

2009年、この漁に対し批判的映画「ザ・コブ」(COVE)が公開されて、国内外で強い批判が広がった。

筆者もこれは当然な現象であると考える者である。近代先進国日本の恥部(西洋の常識)を公開されて、これに異論を唱えると不利な結末を呼び込むことになる事を憂慮している。

漁師の考えでは、イルカは害獣と思われていることは確かである。自分達の商売の糧を大量に横取りするイルカやアシカは憎らしいと思って当然である。

最近では、ニホンザルや鹿が植物を食い荒らして被害が出ている。しかし我々はこれを常識の範囲で「間引く」ことはするが無制限に捕獲して殺戮するようなことはしない。

1942年にイルカの大規模な回遊が見られたとき、静岡県近辺の海で2万頭のイルカの漁獲が報告されている。

対馬でも、1960年に200~300頭の漁獲が報告されている。(グーグル、ウエキペディア)

誰でも、例えば、和歌山県白浜にある“サファリ・ワールド公園”でシャチやイルカの曲芸を見て、彼らが如何に人間に馴染んで遊んでくれる様子に感激を覚えない人は少ないと思う。

現在の法律では、イルカ漁は都道府県知事の許認可事項となっているとのこと。

此の際、政府は全国に呼び掛けて残酷な「イルカ漁」が将来、二度と行われないようにしていただきたい。

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警備会社の草分けピンカートン探偵社

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ピンカートン・ナショナル探偵エージェンシー(Pinkerton National Detective Agency)、略してPinkertonsは私立アメリカ・セキュリティーガード、又は探偵請負会社で、アラン・ピンカートン(1819~1884)により設立された。

ピンカートンはイギリス、グラスゴー生まれ、23歳の時アメリカに移住(1842年)、奴隷制度反対運動に身を投じ、移住2年後の1844年、イリノイ州、ダンビー(Dunbee)の自宅を逃亡奴隷救済の地下活動の拠点として提供した。

1849年シカゴ市に最初の探偵として雇われる。1850年彼は弁護士のエドワード・ラッカー(Edward Rucker)と組んで、北西警備会社(North-Western Police Agency)を設立する。

これが後に有名を馳せる“ピンカートン探偵社”の前身で、彼のビジネスの代名詞”we never sleep”(われわれは決して眠らない)は有名。

それは丁度アメリカが領土を急速に拡張させている時代で、鉄道の延長に伴い増える一方の鉄道強盗の取り締まりに大忙しとなった。

その頃、彼はエブラハム・リンカーンの知遇を得たと云われている。1861~65年の南北戦争時、ピンカートンは北軍のエージェントとして活躍、リンカーンの護衛にあたり、ボルティモアー、やメリーランド州でのリンカーン暗殺計画の存在を示唆していたと云われている。

戦争終結後も鉄道に関係する悪事を働くアウト・ローを追跡、多くを逮捕している。中でも有名な強盗、ジェシー・ジェームスの追跡は(最後に取り逃がした)今日まで語り草となっている。

ピンカートンは1884年、7月、65歳で他界したが、彼が死ぬまでに関係した事件の調査記録は今でもFBIに残されている。

ピンカートンの死後、探偵社は世紀末、勢いを増した労働争議の事前調査に、またはストライキ破りのプロ集団として雇用されることが多くなった。

中でも1892年のカーネギー鉄鋼会社のホームステッド工場(ペンシルヴァニア州)で発生したアメリカ史上最大の労働争議に於いては労使側とも武装した集団の撃ち合いになり、双方から数十人の死者、負傷者を出した。(Homestead Strike)

この組織に関するエピソードは多く、無法者の監視役、労働組合内部調査とスト破りばかりでなく複数の州にまたがる犯罪の追及にも活躍、その後のFBIの前身の役目を果たしたことで意義がる

1999年ピンカートン社はスエーデンの警備会社Securitas ABに合併され、2003年にはウイリアム・バーンズ探偵社(William J. Burns)に統合され現在に至っている。

SECOMで知られる日本警備保障は電子時代に生まれた日本での近代セキュリティー会社の草分けである。

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中国はどんな国?

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産経8/23、「正論」中国現代史研究家、鳥居民氏に依ると、中国では先月発生した高速鉄道列車事故で、多数の死傷者が出て、普通なら原因究明のために証拠物件となる転覆車両を保存の上、実地の見聞がはじめられるところを、政府か、鉄道省か、が証拠隠滅のために車両を一時、土中に埋めてしまった。

そんな世界中のどこでも起こり得ないことが中国では起こることを鳥居氏は強調し、その2日後には、早くも、何も起こらなかったかのように、列車が走り出したことを指摘し、しかし中国ではもっと不可思議な出来事が沢山あり、こんなことで驚いている輩は未だに本当の中国が理解できていないとでも言いたげである。

昨年、ロンドン大学東洋アフリカ学院の教授、フランク・ディケーター著「毛沢東の大飢饉」と云う著書が英国で刊行された。(邦訳は今月末発刊予定)

そこで、この教授は‘05から09’にかけて広東省から甘粛省迄の地方党委員会が管轄する公文書館を訪問し、大躍進運動と大飢饉に関する共産党史料を収集して、隠ぺいされてきた中国内部での事件を調査したところ、その間に犠牲となったと思われる人口が4500万人に及んでいることを明らかにした。

これをどのように評価するか否かは自由だが、少なくとも人々があまり幸福な生活をしていないと思われる。

同じ先月23日、北京国際空港に着陸したカナダの旅客機から頼昌星と名乗る中国人が政府の護送官に付き添われて帰国した。頼氏の容疑は密輸である。

彼はアモイを舞台に邪魔な税管吏を始末、税関の監視艇まで沈めるような手荒な手口で、儲けになると考えられるあらゆる物資を密輸した嫌疑が持たれている。

鳥居氏は、頼昌星には12年程前までは福建省出身の政府要人の後ろ盾がいたが、99年4月頃、急に情勢が不穏になって、彼は家族とともにカナダに逃避したが、その翌年にカナダ当局に逮捕され、依頼11年間抑留されていた。

先月、7月再び強制帰国となった。

その間に何が起こったかと云えば、頼氏の起こした密輸の嫌疑で関係者とみられた12人が刑死、数10人が未だに入獄しているとのこと。

事件の背景があまりにも複雑なので、鳥居氏の論説をここで具に記述できないが、詰まるところ、頼昌星なる人物は江沢民の息のかかった兵隊に過ぎなかったと云うことらしい。

国家の実力者次第で何でも有りで、法があってなきが如しとはこの事かと思える中国の内情は聞けば聞くほど恐ろしい。

来年の18回党大会までに紅沢民派の息の根を止めることが胡錦涛指導部の究極の目的であると鳥居氏。

その次の指導者に内定している翌近平氏は既に日本の天皇にも面識のある人物であるが、如何なることになるのやら、小国日本としては何を考えるべきか?

鳥居氏の中国上層部の険しいつばぜり合いの背景描写はまだまだ続くが、筆者の感想は、自分が日本人で良かったと云うことである。

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アメリカ人、イーライ・ホイットニー

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アメリカの発明家や企業家で知っている人の名前を聞くとしたら、殆どの人は、フランクリン、エディソンとフォードの名前を挙げる。

しかし、ベンジャミン・フランクリンと同時代に生きた、イーライ・ホイットニー(Eli Whitney, 17651825)を覚えているひとはごく少ないのでないだろうか。

ホイットニーはマサチューセッツ州の生まれ、1792年イエール大学卒、南部サウスカロライナ州で教師の職に就くべく旅立つが、その途中、ジョージャー州で黒人奴隷が綿花も摘んでいるところを見て、綿花の種を人手を省いて種から切り離す機械を作ることを思いつき、その研究に没頭する。

綿にはバラのようなトゲがあり、綿花の中から種を取り出す仕事は大変であった。酷暑の南部の綿畑では黒人奴隷が使われ、彼らの悲惨な生活ぶりを見るに見かねて、それを少しでも機械化して生産性を高めることに目を向けた。

鉄の針が打ちつけられた二つのローラーの間に綿花を挟んで、針に引っ掛かった綿花から搾り取るように種子を引き抜く機械を考案し、これを”cotton Gin”と名付けた。(1793年)

このコットン・ジンの機械の出現で、作業能率が従来の50倍も向上する結果を得た。しかし、何よりもこの発明の恩恵を受けたのは、この仕事に関わってきた労働者の方であったことだろう。

この仕事の成功が噂を呼び、ホイットニーはアメリカ陸軍から、これまで輸入に頼っていたマスケット銃の国産化の仕事の発注を受けた。(1795年)

彼はフランス製の銃を量産できる生産方法の確立に心血を注ぐことを決心、遂にホイットニー独自の”uniformity System”(互換性部品による生産システム)を確立した。

これまでの銃の生産は、一品ごとに加工技術者の腕にたよる生産方法であった為、それぞれの部品が均一でなく、一つの部品が故障すれば、その銃は廃棄されなければならなかった。ホイットニーの考案は、一つ一つのの部品の仕様を統一することで、それぞれの銃に互換性をを持たせ均一化を目指したことにあった。

後に彼は「横フライス盤(旋盤)を考案、木製銃床の大量生産に役立てた。

ホイットニーの考案した”uniformity System”は後にヘンリー・フォードの自動車生産方法にも一脈通じる手法で、イギリス自慢の伝統による芸術的手工業産業に対抗するアメリカ独特の能率重視の産業基盤にヒントを与えた発明と言え。

イーライ・ホイットニーには数々のエピソードが知られている。従ってただ一節の「ブログ」には収まりきらないのが残念である。

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老舗家業、役人の天下り

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経済産業省(経産省)の或るOBは、入省したての新人時代、先輩官僚から政策立案に関するレクチャーを受け、法案作成のノウハウを教えられたときのことで、特に記憶に残るその先輩の言葉の中で“自分の政策を通したければ、先ずその政策にまつわる法人(公益法人の意味)を合わせてつくることを考えろ”

と講義されたと述べた(要約:週刊ダイアモンド、8/21)

キャリアーと云われる役人になりたければ、常に将来の自分の「天下り先」を考えることが彼等の常識なのかもしれない。

「天下り先を増殖させるあきれた政策立案のカラクリ」で、同誌は、或る典型的な例えとして、“若手の官僚が或る日、上司から法案作りを命じられ、在団法人を作れと言われた。その目的は特になかったので疑問をなげかけ反発したら、上司は一言、OBの面倒をみることも我々の仕事だと諭された云々。

今年の7月、総務省は同じ省庁から3代以上連続して再就職(天下り)している独立行政法人などの数を取りまとめた。それによると、ナンバーワンは国交省。経産省が2位であった。

経産省からだけの法人数は243、と309ポストあると云う。

3代以上連続で引き受けている法人から高給役人たちに流れる資金額を上記のダイヤモンド誌発表から拾ってみると。

総務、財務、経産省分だけの合計額(年単位)は637億9000万円であった。

この額は3省庁関係だけの独立法人から定年以後の役人が得ている給料である。

現在国会で審議中の「再生エネルギー特別措置法案」が成立すると、これに関係する公益法人に流れる天下り役人が増加することは当然と思われる。

原発事故の終息がなされない間に今度は「新エネルギー」を食い物にして天下り先を増やそうと努力する傾向は止まらないだろう。

未曾有の円高に悩まされている輸出関連の民間企業や中小零細企業の経営者の苦労は役人には全く関係のない話で、それは政治家の仕事と云われてしまえばそれまでの話。

政党が変わっても、何時まで経っても役人頼りの政治では、国民がいくら汗水を流して税金を払い続けても「焼け石に水」では本当に困った話だと思う。  

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過去の人となった小沢一郎

Photo_2 (写真:藤井裕久氏)

菅直人首相の正式退陣声明を待っていましたとばかりに、民主党次期総裁(首相)の座を夢見て、さまざまな候補者が、民主党を除名処分になった小沢一郎の後押しをもらおうと“小沢詣で”に押し掛けていることが報道されている。

これは誰が見てもおかしな事である筈なのだが、それがそうでないと思う非常識さが永田町の常識なのであろう。

ところが、小沢一郎はそんな連中のことを考慮せず、自分の考えで、次期の総裁候補にと今月中旬、藤井裕久元財務相(79)懇請したが藤井氏が門前払いをくらわしたことが判明した。

藤井氏は93年に共に自民党を離党、民主党と自由党の合併後、お互いに次第に疎遠になって、いまや岡田幹事長、野だ財務相の後見役を務めているとされる。

筆者の記憶では藤井氏こそ「バブル経済」をパンクさせた主役の一人で被害者の一人として良い印象はもっていない。

筆者の考えるところ、小沢氏は藤井氏に大きな迷惑をかけ、“それをチャラにして、これまでの借りを返へすと共に名誉を差し上げ度い”と思っての勧誘だった。

これまで再三、国会の予算審議会で、訳のわからない「改革国民会議」の自由党宛ての数枚に及ぶ高額領収書について、藤井氏が追及されている場面をテレビで見聞きしている人も多いと思うが、こんな時に小沢が藤井氏に、総裁選挙の出馬要請を、それも、党を一旦正式に引退した79歳の老人にすること自体変だと思う。

これは正に小沢一郎自身が窮地に追い込まれている証左としか映らないし、又、小沢一郎は既に民主党を見限っているとしか考えられない。

民主党の末路は目前にせまっているが、国民として今後どのようにしてこの国難を克服できるのかの不安は募るばかりである。

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重源ゆかりの子院判明

Photo(九体寺内部)

俊乗坊

(

しゅんじょうぼう

)

重源

(

ちょうげん

)

(121~1206)源平時代って

1180年)の焼き打ちで消滅した奈良東大寺を再建した功労者として知られている高僧である。

その重源にゆかりの深い遺跡として知られている京都の

(

かや

)

ノ社

(

のもり

)

遺跡全貌った。(京都新聞8
21日)

栢ノ社遺跡は

源師

(

みなもと

)

(

もろゆき

)

って寿2
年(1155年)に建立された醍醐寺の子院と称される寺、平安後期の「醍醐雑事記」にも栢社堂と記録され、そこには八角2階建てと云う珍しい形の「大蔵卿堂」、「九体丈六堂」と「三重塔」の3棟の建造物の記録がある。

この栢社堂の存在を示す跡地は永い間不明であったが、昭和48年(1973年)に住宅建設の事前調査で、周辺に南北に2棟の建物跡と庭園跡、それの北側に平面形が八角形であると認識され、これが史料にある「大蔵卿堂」と推測され、史料の通り「栢社堂」址との認定に至った。

面白いことにこの形式が兵庫県小野市の浄土寺(国宝)、「浄土堂」と同じ規模であり、これが重源が宋から将来した「大仏様」と称する技法で建てられたことで知られていたが、これと同じ技法で栢ノ社の九体丈六堂が建てられていたことが判明した。

今日まで所在がハッキリとしなかったがこの度始めてこれが九体丈六堂の南側に存在していたことが判明した。

栢ノ社の建物がすべて桧皮葺として伝承されていたのに多くの瓦が発見されて疑問がもたれていたが、その場所に三重塔があったとすれば何も不思議ではないとと思われる。

栢ノ社跡地は醍醐寺の南約1キロの醍醐寺子院金剛王院(一言寺)の建つ丘のすぐ南の地点にある。

阿弥陀仏を九体安置する「九体丈六堂」であるが、これの最古の形式と思われるものが奈良の浄瑠璃寺(九体寺)―写真―、それに京都花園の法金剛院にも存在する。この栢ノ社の例を知り、九体阿弥陀像の並置形式に何の教義的意味があるかを知りたいと思っている。

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病院船

Photo_2

筆者は東日本大震災の発生直後、このブログのサイトで「東日本大震災に難民救済に提案」の題名で、発生から一週間以上経過しているが政府の救援の体制が未だ整理されずに戸惑っている感がある~筆者が提案したいことは陸地に非難所を設けることには時間もかかり、衛生面や医療設備を同時に充実できない~我が国には何万トンと云う豪華な大型フェリーが沢山あるのでこれらを借り切って難民の為に解放する“ことを書いたことを記憶している。

それに加えて、アメリカ政府はハイチ地震の際、空母を始め病院船等を急いで派遣したとも書き加えた。

東日本の震災発生を聞いて、最初にアメリカが取った行動は、ドナルド・レーガン空母の直接派遣であった。ハイチ地震では空母に加えて病院船を同時に派遣している。

本日(8/20)産経新聞記事で、今頃になって政府が“病院船の導入検討”の事実を知った。“3次補正に調査費要求へ”とあり、我が国には未だに病院船がないと云うことを初めて知り驚いている。

何かと云えば自国のことを「先進国」と呼んでいるが、未だに病院船が一隻もない先進国は日本だけではないかと思う次第。

海外での大規模災害への派遣や、海賊、テロ対策にも必要だが費用が嵩むので考慮中だったらしい。誠にお粗末すぎると、筆者は声を大にして叫びたい!

今頃になって政府は病院船を運用する諸外国に専門家を派遣して基礎調査を始めるらしいが、中国やロシアでも既に保有する病院船、何にも先駆けて造ってほしいものである。

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或る京都風景

Photo 京都北区北大路橋と、北山大橋の中間地点の鴨川(加茂川)を飛び石伝いに渡れる場所があることは、あまり知られていないのではと思いお伝えしたい。

筆者の散歩道だが、これはなかなかシャレタ京都らしいアイディアーと考える。

加茂川は北から南に流れる一級河川だが、昼下がりの熱い時には西日が強く西側に渡ってしまいたいと思うのだが、これが北大路と北山通りの中間なので、出来る事なら川を歩いて対岸に行きたい気持ちになる人達には簡単に対岸に行ける逃げ道が作ってあるところが面白い。

途中まで来て、一回りして引き返したいと考える、散歩途中の年寄りでも、そこを伝って渡れるように考えて造られている。

これにはまた、もし途中で鉢合わせして離合が難しい場合、中ほどの2か所にすれ違いを易しくするため、ステップ・アウトできるところも造られているところが面白い。

ときどき、愛犬を連れている人もいれば、子供連れの家族にも出会ったがどなたも難なくわたって向こう岸に!

中にはこれを散歩のルートに決めている人や、河の中ほどで足を水につけて涼んでいる観光客もいる。

京都の隠れた散歩道として紹介したいと考えた次第。

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キューバの変革

Photo_2

キューバが経済改革を真剣に考慮して、住宅の自由売買⇒「雇用」「外貨流入」を目論んでいるとのニュース(8月19日産経)

キューバはソ連、東欧圏の崩壊後、経済の疲弊にあえいでいたが、国の経済改革に本腰で取り組むことで、人民権力」全国会議において個人不動産の売買を認めるなど「市場社会主義経済」方式による改革案を今月正式に承認、国家の改造に踏み出したニュースは今後、アメリカのみならず社会主義国家からも興味を寄せられる可能性があると思う。

人民会議のトレド司法委員長は1日、経済再建には国民のみならず、各個人の役割が重要であると述べおの改革の重要以西を強調した。

ソ連崩壊後(1991年)ソ連からの全面的な支援を失い財政難に直面した。これなで部分的に市場原理にもとずく経済改革を導入したが、格差の拡大、不正行為の横行で腐敗が進み、抜本的改革が叫ばれていた。

個人不動産の自由売買、公務員数の削減、自営業のさらなる奨励、国営企業への大幅な権限付与など300件を超える課題を考慮中。

今年4月、共産党大会で承認され、今後は5年間で実行に移される予定。

所有権が国家に属している個人不動産(住宅)の自由売買とは如何なるものか、解釈に苦しむが、ニューヨーク・タイムズは「個人不動産所有は資本主義の中核、不動産の(自由?)売買は」他の変革より大きくキューバを変質させる可能性がある」との見解。

今後は不動産を購入した人に国家が所有権を与え、それと引き換えに、税金を徴収できる仕組みらしい。

住宅の売買解禁で政府が期待していることは米ドルなど外貨が入ってくることである。既にアメリカのフロリダに暮らすキューバ移民から親類宛てに多額の送金が始まって、その額は10億ドルにも達している。

キューバの美しい海岸沿いの不動産はアメリカに比べて格安で、これから投棄目的で大量の外貨がキューバに流入することだろう。

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戦争と決断

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20世紀初頭日本が大国ロシアに勝利したのは、1905年5月27日に行われた「日本海海戦」でロシアのバルチック艦隊を対馬沖で迎え撃ち、その日の内に90%以上の敵の艦船を撃破沈没させ、敵の司令長官を拘束して降参させた誠に手際のよい決着の付け方であった。

これには「運」もあったことだろうが、あまりにもアッサリと決末が付いたため、世界が先ず、日本海軍の存在に注目し、ロシアにも戦争の継続を諦めさせたと思われる。

現に、日本海海戦の結果、2週間でポツダム平和交渉が開始され戦争が日本の勝利におわったのである。

日本は最初から戦争を短期間で終わらせることと決めていたことが、日本に名誉をもたらす結果となった。

太平洋戦争にも日本が半世紀前のような謙虚な姿勢で戦争の結末を考えていたなら、日露戦争と同じく名誉を保ちながら、英米と戦争の結末を得られていたことだろう。

しかし、引き続く緒戦の勝利に酔いしれて、そのチャンスを見逃してしまった。

「真珠湾攻撃」でアメリカの太平洋艦隊を壊滅させたことは日本の海上部隊の勝利であり、アメリカもその当時、日本の空母による空からの攻撃の巧妙さに驚いたと思われる。

しかし、そこで沈めた殆どの艦船はアメリカにとっては本当の痛手となっていなかった。

そこでは一隻の空母もアメリカは失っていなかった。

それは後日語られるように、アメリカのお家芸である”remember”作戦に見事に騙されたと思われても仕方がない。

開戦の2日後の1941年12月10日にイギリスの主要戦艦「プリンス オブ ウエルス」(Prince of Wales)と主要巡洋艦1隻を航空機で沈没させたことは、日本海軍の一大戦果であった。

それまでは小型の艦載機で大戦艦を沈めることは技術上で不可能と思われていたからである。

大戦艦至上主義であった、古い考え方を固執していたイギリス海軍戦術に警告を与える結果となり、それ以後、イギリスの海軍は事実上なくなったと言っても良い。

それ以後も日本の電撃作戦は続き、イギリスがアジア戦略の要と考えていたシンガポールはあえなく陥落した。

開戦の翌年、1942年2月15日、真珠湾攻撃から僅かに三カ月の出来事であった。

仏印への進攻と同様に、アメリカの戦略の要であったマニラも既に(1月2日)陥落、総司令官のマッカーサーも同年の3月2日、有名なセリフ“I shall return”

を残してミンダナオ島からオーストラリアに逃避してしまった。

日本がその時、日露戦争を終結させたように、天皇以下、陸海軍の上層部が決断をくだして、平和的決着を考えていたならば、この戦争はシンガポール陥落の日、1942年2月15日に、我が国の優勢の内に終わっていたのでは筆者は考える。

ところが、その4カ月後、1942年6月5日、ミッドウエイで日本は4隻の主要空母を失うこととなった。

その時には、アメリカはレーダー技術をほぼ完成させて、海上での戦術では日本よりはるかに有利な立場を確立させていた。

暗号の解読に加えて、海上でのレーダー技術で日本は決定的に不利な立場となったのである。

戦争はビジネスと同じであり、チャンスを一旦逃せば取り返しのつかない結果に終わってしまい、再び回復できる時はめぐって来ない。

従って始めるのも、それを終わらせるのにも決断が大切であることが判る。

日露戦争の時のような謙虚な姿勢を持ち続け、世界情勢をしっかり把握していたならば日本には原子爆弾は落ちていなかったと思われる。

その後、ビルマからインドへ、又フィリッピンからガダルカナルへと日本は敵の引き延ばし戦術にはまって悲惨な負け方をしてしまったことがうやまれる。

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アメリカの悩み「竜巻」

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3月11日の東日本大震災は大津波と原子力発電所が破壊されたことで全世界のニュースとなったが、対岸のアメリカでは5月22日の夕刻、時速198MPH(317キロ)でカンサスシティーの南方、160キロにあるジョプリン市(ミズーリー州、人口5万)を通り過ぎた大竜巻はアメリカ史上第9番目と云われるもので、死者116人、負傷者400人をだした。

このたびジョプリン市を襲った竜巻は、1週間で50発生して、7州に被害が及んだ中の一つだったが、結果的に最も大きな被害をもたらした大竜巻であった。

4月から5月にかけて南部地方で5個の竜巻が起こり、300人が死亡したが、その2/3ガアラバマ州に集中している。

ジョプリンを襲ったトーネードは過去60年間で最大の被害をもたらしたもので、町の大半の建物に被害が及び、家屋はほぼ全壊、車はまるでビール缶が曲げられたような姿に形を変えていた。

電線は断ち切られ、ガスパイプの破裂で各所に火災が発生、被害をさらに大きくした。

町の中心の病院の被害も大きく一瞬のうちに通り過ぎた竜巻には、治療も間に合わず多くの犠牲者がでたとのこと。

夜が明けて(23日)判明したことは地上に存在していた物体が、数個の大建築物を除いて殆ど無くなっていたと云われている。

1953年、ミシガン州、フリント市を襲った竜巻(死者116名)以来のもので、あまりにも風雨の音がすごかったせいか、度々に発せられた非難警告もかき消されて聞こえた人も少なく、非難の開始が遅れたことが被害をさらに大きくしたらしい。

第二次大戦中、ジョプリンは高速道路以前に、シカゴとサンタ・モニカを結んでいた有名な「ルート・66」線上に位置し、鉛と亜鉛の産地として栄えたことがあったところである。

竜巻の場合、警報が出てから半時間以内に非難しなければならないが、今回の竜巻は強力な上に、範囲が広すぎて非難は殆ど不可能であったらしい、

アラバマ州都、タスカルーサからヴァージニア州のブリストル市まで数100キロに跨る、1974年以来の広範囲に及ぶ大きな気象変化がこのたびの大竜巻であったらしい。

実際にこの特異気象はミズーリ州からアーカンソウ、カンサス、オクラホマをかけ抜き週末には東部にまで影響をおよぼした。

アメリカ中心部に毎年春先に発生する竜巻は、考えようによっては我が国に時々発生する地震よりも厄介な天災ではないだろうか?

ミシシッピーを中心に、すり鉢の底のような広大な平原にしか起こらない困った自然現象で如何に強靭な国力を誇る大国アメリカも「自然には勝てない」と云わざるを得ない。

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日本原産の天然資源「地熱利用」を優先すべし!

Ierosutonn

“再生エネ探検”(1)産経8月16日、脚光浴びる地熱発電の見出しで火山国インドネシア、バンドン市南部の高原で地下2500メートルの井戸19基から325度の熱水利用するワヤンウインドウ地熱発電所の模様が紹介されていた。

146の活火山のあるインドネシアの熱水資源量は約2700万キロワットでアメリカと並び世界のトップクラスらしいが地熱発電量はアメリカ、フィリッピンに次ぎ世界第3位らしい。

この記事によると地熱ブームはアメリカ、アイスランド、ケニア、それに火山国でないドイツまでが脱原発で情熱を燃やしている(住友商事)とのこと。

それなのに日本は地熱資源量で世界第3位ながら発電能力は53万キロワットで8位。昭和48年の石油ショック後、火力の代替として一時、地熱利用を考慮したが、結局、原発事業に舵をもどした為、地熱事業への情熱が冷えてしまったらしい。

東京電力が八丈島地熱発電所で、平成11年に運転を開始したのを最後として地熱発電の商業用の新規開発は止まってしまった。

問題は少し違うが、最近の諫早湾干拓事業や、各所で建設された原子力発電所、必要性の殆ど見られない地方の高速道路建設等々、何やら無駄な政治絡みの投資事業に国民の税金が無駄使いされているように思えてならない。

秋田、宮城県境にまたがる栗駒山系の高松岳(標高1348メートル)周辺は数多くの湯治場が散在する。

そこでは新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の調査で200度以上の熱水が確認されている。この周辺では、電源開発(Jパワー)や出光興産が事業展開を模索中とのことである。

秋田県湯沢市の周辺には井戸の深さ約2000メートルで“発電に充分な蒸気量”を確認済み。(Jパワー野森田健次郎部長代理)

さらにこの周辺で出光、帝石らが平成25年度までの事業化に向け7月に調査に入ったと言われる。

JFEエンジニアリングは岩手県八幡平市のスキー場跡地で27年に送電開始を目指して運動を開始している。

2万から5万キロワット相当の地熱資源量を見込んでいるらしいが採算は予断を許さない処らしい。

地熱利用は太陽光や、風力に比べれば安定電力が期待できる、その上、建設設備費も原発開発に比べ安くで済むならば、原価ただの地熱利用こそ火山国日本にとって捨てるにはあまりにももったいない資源に違いない。

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1790年のアメリカ帰化法

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アメリカに於いて入国外国人に対する制限が法律でもってきめられたのは移民として入国した者に対する「帰化」の条件を制限した法律で、その成立は1790年3月26日に連邦議会で制定された”Naturalization Act of 1790”と云われるものである。

この法律は最初に自由白人(free white persons)として自動的に、契約労働者(indentured servant)、奴隷、自由黒人、(後に)東洋人を除くとしている。

これに当てはまる白人は、”good moral character”(良好な道徳心を持ち合わせている者),これまで合衆国に2年以上住み、市民権利取得申請を提出する以前に既に1年間住んだ者に限られる。

これら条件を満たす者は、これまでの正式な記録(any common law court of record)の提出すると共に、裁判所に於いて国家憲法に従う宣誓することで市民権を得るされている。

”good moral character”(良い道徳的性格を備えるもの)と云うかなり曖昧な条件が付加されているところが如何にも中世的で面白い。

女性に対する条件としては父親が以前にアメリカ合衆国に住んだことがない者は含まれず、従って、女性の場合は実父が如何なる人物であったかで決定された。

1790年以後では、1868年になって、合衆国内で生まれた者は自然に市民権を得るとされたが、その時、無税生活者のアメリカ先住民は除外された。(1920年改訂)

1898年Wong Kim Arkは中国人であるが、両親がアメリカ生まれであったことで初めて東洋人にも門戸が開かれた。

1795年の帰化法では、これまで2年であった既住期間が5年に延長され、1870年に於いては、黒人にまで広がり、1952年には”Naturalization Act”は差別(discrimination)を禁止、それによって人種の壁は形式上取り除かれたこととなった。

参考文献:Hymowitz, Weissman(1975) A history of Women in America. Bantam

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古墳の出土品の謎とその鑑定

Photo (古鏡の一例)

岡倉天心が1906年(明治37年)京都、奈良へ出張した際に、その当時としては大金であったろうと思われる1450円で一括購入した獣帯鏡等5点(現在米国、ボストン美術館蔵)が大山古墳出土(所謂、仁徳天皇陵)との伝承がある。

このことについて宮内庁書陵部が見解を発表、これらが噂通り「仁徳天皇陵から出土した可能性は極めて低い」との最終見解を13日発表した。(京都新聞814日)

仁徳天皇陵と看做されている大山古墳からは1872年に前方部で石室が見つかり、中の石棺や甲冑などを描いた図面が残っているとのこと。

学会ではこれらボストン美所蔵の5点の古鏡についての見解として「否定」と「肯定」の2説に分かれるが、2008年に書陵部の徳田誠志主席研究官がボストン美を訪問、これら伝大山古墳出土の獣帯鏡、環頭太刀の柄頭、三環鈴と馬鐸の計5点を調査済みである。

書陵部の判定ではこれら5点の古物が5世紀から6世紀前半の作品であることでは納得するが、宮内庁の見解としての大山古墳築造、6世紀前半には全てが当てはまらないとの結論を固辞している。

つまり獣帯鏡を5世紀後半から6世紀前半の制作、他の4点を6世紀前半と鑑定した場合にはこれら5点が同時に大山古墳から出土したと言う伝説は信用できかねると云う。

岡倉作成のリストによると、これら5点は「古代の墓から出土した青銅製品」と記されているだけで、そこには大山古墳出土たは書かれていないことが判明した。

森浩一同志社大名誉教授によると、1872年(明治5年)に大山古墳」で石室が暴かれる事件があったと云う。その当時の行政のトップはが古物好きの役人だったので、此の時計画的に5点を持ちだしたのが税所氏は他に奈良や大阪からの出土品の収集をしていたと云う噂。

ボストン美所蔵のこれらの出土品について報告がなされたのは戦後、京大名誉教授の梅原末冶がはじめであったと記憶する。しかしこれら5点の出土品を何故、大山古墳に関係ずけて大騒ぎするのかが筆者には理解できない。

大山古墳を仁徳天皇陵と認定した宮内庁は、民間人に理解できない特殊な理由と見解があることに気づく。

大山古墳を一旦「仁徳天皇陵」としたため、改訂は許されない。

全国各所に何々天皇陵と決められている陵墓はいくつもあるが、残念ながら決め手になる歴史的考証が不備なところが殆どと云っても良い程存在する。

宮内庁が一旦決めた「事実」を再び詮索されたくないと云うのが彼等の本音である。

天皇陵の研究はこれでは進展しようがないことを悲しく思う。

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マッカーサー家略歴とフィリッピン

Douglas_macarthur

連合軍総司令官、ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur,1880-1964)を日本で知らない人はいない。もし、彼が朝鮮戦争の折、作戦のことでトルーマン大統領との軋轢を避けていたなら、その後も占領軍司令官の立場を維持していたことだろう。

マッカーサー一家はまさに「軍人家族」であった。彼の父、アーサー・マッカーサー・ジュニア(Arthur MacArthur,Jr.1845-1912)の父(Arthur MacArthur, Sr.)は4代目ウイスコンシン州知事であった。アーサー・マッカーサー3世だけは海軍軍人となったが4男のダグラス・マッカーサーは元帥、その子は、駐日アメリカ大使のダグラス・マッカーサー2世である。

アーサー・マッカーサー・ジュニア(父)は南北戦争で活躍した英雄で、その後、盛んに押し始められた「インディアン戦争」でも有名を馳せ、ジェロニモを降伏させて、1897年に陸軍中佐となった。

マッキンレー大統領により始められた米西戦争(1898年)准将に昇進して、義勇軍を率いて米比戦争に参加、エミリオ・アギナルド(初代フィリッピン大統領を生け捕りにしてさらに名を馳せた。(少将に昇進)

初代フィリッピン駐留アメリカ軍司令官(総督)に就任している。(最晩年には中将として引退)

その間、駐日アメリカ大使館付武官であった頃、日露戦争観戦行では息子のダグラスを副官として同行、実戦を体験させている。

アーサーは特に乃木希典が旅順開城の折、「水師営会見」で乃木将軍が敗戦の将、ロシア軍のステッセル将軍に見せた労わり、心のこもった心遣いに胸を打たれたのか、息子、ダグラスに“サムライ乃木のような軍人になれ”と諭したと云われている。

ダグラスも後に乃木と直接会見し、その感想を終戦後吉田茂首相に、乃木の人間としての「風格」と軍人としての高潔さに触れた感動を吐露している。(産経新聞消えた偉人物語“)

ダグラスは第一次世界大戦にも従軍、1930年には最年少の参謀総長につき少将、中将を飛び越して一挙に大将に昇進、その時の副官はドワイト・アイゼンハウワーであった。

その後、フィリッピンの軍事顧問、高等弁務官を務め、1936年にアメリカ系フリーメーソンに加盟、「フィリッピン軍元帥」の地位をもって、マニラ ホテルのスイートルームを定宿にしていた。

従ってフリッピンはマッカーサー家とは切っても切れない関係が出来ていたと言っても間違いない。

マッカーサーの人となりについて、彼の副官を務めたリチャード・ブラウン(94)は「元帥はもともと鬼のような軍人タイプで、日本人を憎み、彼らを一人残さず殺せと言い続けていた」とのこと。

彼は南部、アーカンソ州、リトルロックの出身で、筆者の感じでは、その態度から人種差別には厳しい感情を秘めていたと思える。

それは、朝鮮戦争中、満州に原子爆弾を投下する許可をトルーマン大統領に要請したり、昭和天皇をGHQ    に呼びつけて、背の低い天皇を横に立たせて、自分は腰に手を置いた圧力的写真を大きく新聞に掲載させる仕草からも白人至上主義の姿勢を見事に演出している。

戦争の初期段階のバターン・コレヒドール戦線では日本軍の破竹の勢いに押され、ルーズベルト大統領の特赦で司令官でありながら、”I shall return”と云う苦し紛れのセリフを残してオーストラリアに逃亡した。(これには100年近くにわたる悪辣なアメリカ圧政の歴史を知る自分に危険の迫っていることを察知していたからではなかったかとも考えられる)

66年目の敗戦記念日を明日に控えるにあたり、宿敵アメリカの司令官一家の略歴の披露を試みた。

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逆恨みの暗殺

Durham_w_stevens サンフランシスコで発生した特異な暗殺事件の犠牲者:ダーハム・ホワイト・スティーヴンス(Durham White Stevens、56歳)は1908年3月23日、白昼サンフランシスコでアメリカ生まれの朝鮮人によって射殺された。

これは日露戦争後、元アメリカ政府外交官のスティーヴェンスを日本政府が韓国政府のアドヴァイザーとして派遣、アメリカと微妙な関係にあった国王の監視役として使用したことで、愛国心に燃えていた尖鋭的在米朝鮮人の起こした事件であった。

特に親日的、元アメリカ政府公使館要人であったスティヴェンスが”日本は(平和維持のため)アメリカがフィリッピンで行っているのと同じことを韓国で実行しているにすぎない”(Japan is doing in Korea for the Koreans what the United States is doing in the Filippins)"と、考えようによっては、朝鮮人を蔑視した発言をサンフランシスコの地方新聞のインターヴューで述べたことによるとされている。

2000万ドルをもスペインに支払って、アメリカは欧米列強に遅ればせながらアジアの拠点として手に入れたフィリッピンは革命の騒動で不安定な状態にあり、しかも、突然断りなしに宗主国が入れ替わったため、アギナルド率いるゲリラが50名のアメリカ兵を残酷に殺害したことを知ったアメリカ軍司令官スミスはその仕返しに”No Prisoners"宣言を出し、如何なるものでも武器を持てる敵であれば男女、子供を問わず”皆殺し”にせよとの命令を行った。

「日本はアメリカがフィリッピンで行っている様に韓国人に接する」のではと云う危惧が国内に広がったのではと推測できる事件であった。

1882年、韓国はアメリカと最恵国待遇に近い条件で平和条約を結んだと信じ込んでいた矢先に、アメリカ人の元ベテラン外交官が日本の公使として、お目付役に派遣されたことに心情的反感をもった進歩的な青年の起こした暗殺事件であった。その後伊藤博文がハルピン駅頭でこれも朝鮮人青年により射殺されている。朝鮮人民の反日心情の根源は何時、何故起こったのだろうか?

筆者は考えるのだが、日本の替わりとして、朝鮮半島にロシアが侵入を果したとすれば、その後の世界情勢も含め、朝鮮半島の運命がどのように変化し、未だ南北朝鮮がともに存在し得たかどうかは、なおさら想像も難しいことである。

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放射性物質生みの母

Photo 日本で「キューリー夫人」と言えばマリー・キューリー(Marie Curie,1867年生まれ)、ポーランド人で、旧姓、Manya Sklodowskaを思い浮かべるに違いない。

ワルシャワは当時ロシアの支配下で、生活は決して安穏ではなかったと思われる。

マーニャ自身、大変理知に富んだ少女で、そのことは、中学卒業時にゴールド・メダルを授与されていることでも判る。

しかし、当時のロシアに於いては女性の大学への就学は許されていなかった。

彼女の姉、ポローニャは1890年医師免許をとってパリで医学の道を歩み始めていた。その姉の勧めで、1891年(24歳)出国、早速パリ大学に入学して名前をフランス風に変え"Marie"を名乗ることとした。

その頃、彼女がどんなことを研究していたかは不明だが、ある友人の紹介で物理学者、ピエール・キューリー(Pierre Curie,1859-1906)のもとを訪ねた。

何の因縁か、そこで二人は急速に恋に陥る。しかしマーニャは実家の都合でいったんワルシャワに戻ったが、ピエールからの執拗な要請を受け、パリに戻って、そこで二人は結婚した。二人の間に1897年に生まれた娘がイレーヌであった。(後にノーベル賞受賞)

その後、判ったことだが、マーニャがピエールに面会(1894年)したそもそもの理由はその後二人で研究を始めた「放射性物質」に関係する先駆けとなった物理元素にかかわる問題だったのではないかと言われている。

「放射性元素」を二人共同で特定することに成功、”ポロニューム(polonium)と命名(1898年7月18日)、次いで12月26日にはラジューム(radium)の存在を発表、結局これらの発明の功績で1903年、二人合作の発明としてノーベル物理学賞を受けることとなった。

ポロニュームと云う名称はキューリー夫人の故国、ポーランドと関係があるのではと云う説がある。

オーストリアが二人に研究に欠かせなかったピッチブレンド(ウランの一種)の提供に友好的に援助に加わったことでキューリ夫妻の研究が加速したと云う説もある。

ところが、1906年夫のピエールが交通事故で急死、マリーは窮地に立たされることになったが、大学の好意的要請でその後は主に”ポロジュームとラジュームの分離”の研究に没頭、1911年、彼女は2度目のノーベル賞(化学賞)を受賞。

彼女はその後、放射性物質を医療の分野に応用する仕事に献身、1921年にはアメリカに招聘されハーディング大統領から「金の鍵」を受けている。

世界広しといえども「女性蔑視」の続いていた19世紀、20世紀初期の頃に「キューリー夫人」程女の地位向上に貢献した才媛は見当たらない。

彼女は他界するまで研究に明け暮れたが、永い間放射性物質に自らの肌をさらし続けたためか、結果的に白血病に冒されて1934年7月4日に帰らぬ人となった。享年67歳。

その後皮肉にも世界中で「放射性物質」のさまざまな研究が続き今日に至っているわけだが、それが原子爆弾や原子力発電の領域にまで発展して今後苦しくて永い影響を人間が受けなければならない運命までを彼女は決して予想していなかったことは確かである。

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マーサ・ワシントン

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アメリカ初代大統領、ジョージ・ワシントン(George Washington,17321799)の夫人の容姿は普通、小太りで57歳で白い頭巾をかぶった、やぼったい感じの肖像が思い浮かぶのだが(写真1)、彼女は160センチにも満たない小柄な女性であった。

マウント・ヴァーノンにあるワシントン記念館では、このたび、彼女の結婚した頃、このような容姿であったろうと描かれた肖像画を展示した。

1759年、27歳のマーサ・ワシントン(Martha Washington)の想像による肖像画(写真2)

American History、1909年8月号(P.40)によると、当時彼女は既に二児の母親で、前夫の名はダニエル・カスティス(Daniel Custis)と云う、彼女より、20歳も年上の非常に裕福な農夫で、それはマーサの18の時のことであった。

マーサとジョージは初めての出会いの後、僅か数カ月で結ばれたと言われている。

その当時のカストムとして、マーサが未亡人となった1799年、すべての過去の書類は焼かれてなくなっている為、確かなことは不明だが、当時ヴァージニア殖民地で最も裕福な女性で知られていたマーサにジョージが魅せられたのではないかと考えられている。(当時、結婚と同時に、夫人の持参金、財産の全てが夫のものになった。)

写真2に見るマーサの姿は、アメリカ文化史の専門家のパトリシア・ブラディー(Patricia Brady)が、1776年、ウイルソン・ピール(Wilson Peale)が象牙に描いたマーサの容姿を参考に、ルイジアナ州立大学研究室が27歳のマーサが結婚式に付けたと云われる紫色のウエディングドレスを重ね合わせた結果、出来上がった想像画である。

この肖像画はワシントンのマウント・ヴァーノン記念館に展示されている。

アメリカのファースト・ファーストレディーであったマーサ・ワシントンは僅か160センチ足らずの小柄な女性であったが、夫のジョージは約190センチの立派な体格の持ち主であったことで知られている。

“いちばつ”の二児の子持ちのマーサの選んだ、あこがれのジョージ・ワシントンと、ジョージが選んだ裕福な未亡人、マーサとの取り合わせを後世の歴史家はどのように評価しているかはアメリカ人でない我々としても研究に値する興味深いサブジェクトであることは確かである。

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