« マーサ・ワシントン | トップページ | 逆恨みの暗殺 »

放射性物質生みの母

Photo 日本で「キューリー夫人」と言えばマリー・キューリー(Marie Curie,1867年生まれ)、ポーランド人で、旧姓、Manya Sklodowskaを思い浮かべるに違いない。

ワルシャワは当時ロシアの支配下で、生活は決して安穏ではなかったと思われる。

マーニャ自身、大変理知に富んだ少女で、そのことは、中学卒業時にゴールド・メダルを授与されていることでも判る。

しかし、当時のロシアに於いては女性の大学への就学は許されていなかった。

彼女の姉、ポローニャは1890年医師免許をとってパリで医学の道を歩み始めていた。その姉の勧めで、1891年(24歳)出国、早速パリ大学に入学して名前をフランス風に変え"Marie"を名乗ることとした。

その頃、彼女がどんなことを研究していたかは不明だが、ある友人の紹介で物理学者、ピエール・キューリー(Pierre Curie,1859-1906)のもとを訪ねた。

何の因縁か、そこで二人は急速に恋に陥る。しかしマーニャは実家の都合でいったんワルシャワに戻ったが、ピエールからの執拗な要請を受け、パリに戻って、そこで二人は結婚した。二人の間に1897年に生まれた娘がイレーヌであった。(後にノーベル賞受賞)

その後、判ったことだが、マーニャがピエールに面会(1894年)したそもそもの理由はその後二人で研究を始めた「放射性物質」に関係する先駆けとなった物理元素にかかわる問題だったのではないかと言われている。

「放射性元素」を二人共同で特定することに成功、”ポロニューム(polonium)と命名(1898年7月18日)、次いで12月26日にはラジューム(radium)の存在を発表、結局これらの発明の功績で1903年、二人合作の発明としてノーベル物理学賞を受けることとなった。

ポロニュームと云う名称はキューリー夫人の故国、ポーランドと関係があるのではと云う説がある。

オーストリアが二人に研究に欠かせなかったピッチブレンド(ウランの一種)の提供に友好的に援助に加わったことでキューリ夫妻の研究が加速したと云う説もある。

ところが、1906年夫のピエールが交通事故で急死、マリーは窮地に立たされることになったが、大学の好意的要請でその後は主に”ポロジュームとラジュームの分離”の研究に没頭、1911年、彼女は2度目のノーベル賞(化学賞)を受賞。

彼女はその後、放射性物質を医療の分野に応用する仕事に献身、1921年にはアメリカに招聘されハーディング大統領から「金の鍵」を受けている。

世界広しといえども「女性蔑視」の続いていた19世紀、20世紀初期の頃に「キューリー夫人」程女の地位向上に貢献した才媛は見当たらない。

彼女は他界するまで研究に明け暮れたが、永い間放射性物質に自らの肌をさらし続けたためか、結果的に白血病に冒されて1934年7月4日に帰らぬ人となった。享年67歳。

その後皮肉にも世界中で「放射性物質」のさまざまな研究が続き今日に至っているわけだが、それが原子爆弾や原子力発電の領域にまで発展して今後苦しくて永い影響を人間が受けなければならない運命までを彼女は決して予想していなかったことは確かである。

|

« マーサ・ワシントン | トップページ | 逆恨みの暗殺 »