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古墳の出土品の謎とその鑑定

Photo (古鏡の一例)

岡倉天心が1906年(明治37年)京都、奈良へ出張した際に、その当時としては大金であったろうと思われる1450円で一括購入した獣帯鏡等5点(現在米国、ボストン美術館蔵)が大山古墳出土(所謂、仁徳天皇陵)との伝承がある。

このことについて宮内庁書陵部が見解を発表、これらが噂通り「仁徳天皇陵から出土した可能性は極めて低い」との最終見解を13日発表した。(京都新聞814日)

仁徳天皇陵と看做されている大山古墳からは1872年に前方部で石室が見つかり、中の石棺や甲冑などを描いた図面が残っているとのこと。

学会ではこれらボストン美所蔵の5点の古鏡についての見解として「否定」と「肯定」の2説に分かれるが、2008年に書陵部の徳田誠志主席研究官がボストン美を訪問、これら伝大山古墳出土の獣帯鏡、環頭太刀の柄頭、三環鈴と馬鐸の計5点を調査済みである。

書陵部の判定ではこれら5点の古物が5世紀から6世紀前半の作品であることでは納得するが、宮内庁の見解としての大山古墳築造、6世紀前半には全てが当てはまらないとの結論を固辞している。

つまり獣帯鏡を5世紀後半から6世紀前半の制作、他の4点を6世紀前半と鑑定した場合にはこれら5点が同時に大山古墳から出土したと言う伝説は信用できかねると云う。

岡倉作成のリストによると、これら5点は「古代の墓から出土した青銅製品」と記されているだけで、そこには大山古墳出土たは書かれていないことが判明した。

森浩一同志社大名誉教授によると、1872年(明治5年)に大山古墳」で石室が暴かれる事件があったと云う。その当時の行政のトップはが古物好きの役人だったので、此の時計画的に5点を持ちだしたのが税所氏は他に奈良や大阪からの出土品の収集をしていたと云う噂。

ボストン美所蔵のこれらの出土品について報告がなされたのは戦後、京大名誉教授の梅原末冶がはじめであったと記憶する。しかしこれら5点の出土品を何故、大山古墳に関係ずけて大騒ぎするのかが筆者には理解できない。

大山古墳を仁徳天皇陵と認定した宮内庁は、民間人に理解できない特殊な理由と見解があることに気づく。

大山古墳を一旦「仁徳天皇陵」としたため、改訂は許されない。

全国各所に何々天皇陵と決められている陵墓はいくつもあるが、残念ながら決め手になる歴史的考証が不備なところが殆どと云っても良い程存在する。

宮内庁が一旦決めた「事実」を再び詮索されたくないと云うのが彼等の本音である。

天皇陵の研究はこれでは進展しようがないことを悲しく思う。

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