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逆恨みの暗殺

Durham_w_stevens サンフランシスコで発生した特異な暗殺事件の犠牲者:ダーハム・ホワイト・スティーヴンス(Durham White Stevens、56歳)は1908年3月23日、白昼サンフランシスコでアメリカ生まれの朝鮮人によって射殺された。

これは日露戦争後、元アメリカ政府外交官のスティーヴェンスを日本政府が韓国政府のアドヴァイザーとして派遣、アメリカと微妙な関係にあった国王の監視役として使用したことで、愛国心に燃えていた尖鋭的在米朝鮮人の起こした事件であった。

特に親日的、元アメリカ政府公使館要人であったスティヴェンスが”日本は(平和維持のため)アメリカがフィリッピンで行っているのと同じことを韓国で実行しているにすぎない”(Japan is doing in Korea for the Koreans what the United States is doing in the Filippins)"と、考えようによっては、朝鮮人を蔑視した発言をサンフランシスコの地方新聞のインターヴューで述べたことによるとされている。

2000万ドルをもスペインに支払って、アメリカは欧米列強に遅ればせながらアジアの拠点として手に入れたフィリッピンは革命の騒動で不安定な状態にあり、しかも、突然断りなしに宗主国が入れ替わったため、アギナルド率いるゲリラが50名のアメリカ兵を残酷に殺害したことを知ったアメリカ軍司令官スミスはその仕返しに”No Prisoners"宣言を出し、如何なるものでも武器を持てる敵であれば男女、子供を問わず”皆殺し”にせよとの命令を行った。

「日本はアメリカがフィリッピンで行っている様に韓国人に接する」のではと云う危惧が国内に広がったのではと推測できる事件であった。

1882年、韓国はアメリカと最恵国待遇に近い条件で平和条約を結んだと信じ込んでいた矢先に、アメリカ人の元ベテラン外交官が日本の公使として、お目付役に派遣されたことに心情的反感をもった進歩的な青年の起こした暗殺事件であった。その後伊藤博文がハルピン駅頭でこれも朝鮮人青年により射殺されている。朝鮮人民の反日心情の根源は何時、何故起こったのだろうか?

筆者は考えるのだが、日本の替わりとして、朝鮮半島にロシアが侵入を果したとすれば、その後の世界情勢も含め、朝鮮半島の運命がどのように変化し、未だ南北朝鮮がともに存在し得たかどうかは、なおさら想像も難しいことである。

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