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戦争と決断

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20世紀初頭日本が大国ロシアに勝利したのは、1905年5月27日に行われた「日本海海戦」でロシアのバルチック艦隊を対馬沖で迎え撃ち、その日の内に90%以上の敵の艦船を撃破沈没させ、敵の司令長官を拘束して降参させた誠に手際のよい決着の付け方であった。

これには「運」もあったことだろうが、あまりにもアッサリと決末が付いたため、世界が先ず、日本海軍の存在に注目し、ロシアにも戦争の継続を諦めさせたと思われる。

現に、日本海海戦の結果、2週間でポツダム平和交渉が開始され戦争が日本の勝利におわったのである。

日本は最初から戦争を短期間で終わらせることと決めていたことが、日本に名誉をもたらす結果となった。

太平洋戦争にも日本が半世紀前のような謙虚な姿勢で戦争の結末を考えていたなら、日露戦争と同じく名誉を保ちながら、英米と戦争の結末を得られていたことだろう。

しかし、引き続く緒戦の勝利に酔いしれて、そのチャンスを見逃してしまった。

「真珠湾攻撃」でアメリカの太平洋艦隊を壊滅させたことは日本の海上部隊の勝利であり、アメリカもその当時、日本の空母による空からの攻撃の巧妙さに驚いたと思われる。

しかし、そこで沈めた殆どの艦船はアメリカにとっては本当の痛手となっていなかった。

そこでは一隻の空母もアメリカは失っていなかった。

それは後日語られるように、アメリカのお家芸である”remember”作戦に見事に騙されたと思われても仕方がない。

開戦の2日後の1941年12月10日にイギリスの主要戦艦「プリンス オブ ウエルス」(Prince of Wales)と主要巡洋艦1隻を航空機で沈没させたことは、日本海軍の一大戦果であった。

それまでは小型の艦載機で大戦艦を沈めることは技術上で不可能と思われていたからである。

大戦艦至上主義であった、古い考え方を固執していたイギリス海軍戦術に警告を与える結果となり、それ以後、イギリスの海軍は事実上なくなったと言っても良い。

それ以後も日本の電撃作戦は続き、イギリスがアジア戦略の要と考えていたシンガポールはあえなく陥落した。

開戦の翌年、1942年2月15日、真珠湾攻撃から僅かに三カ月の出来事であった。

仏印への進攻と同様に、アメリカの戦略の要であったマニラも既に(1月2日)陥落、総司令官のマッカーサーも同年の3月2日、有名なセリフ“I shall return”

を残してミンダナオ島からオーストラリアに逃避してしまった。

日本がその時、日露戦争を終結させたように、天皇以下、陸海軍の上層部が決断をくだして、平和的決着を考えていたならば、この戦争はシンガポール陥落の日、1942年2月15日に、我が国の優勢の内に終わっていたのでは筆者は考える。

ところが、その4カ月後、1942年6月5日、ミッドウエイで日本は4隻の主要空母を失うこととなった。

その時には、アメリカはレーダー技術をほぼ完成させて、海上での戦術では日本よりはるかに有利な立場を確立させていた。

暗号の解読に加えて、海上でのレーダー技術で日本は決定的に不利な立場となったのである。

戦争はビジネスと同じであり、チャンスを一旦逃せば取り返しのつかない結果に終わってしまい、再び回復できる時はめぐって来ない。

従って始めるのも、それを終わらせるのにも決断が大切であることが判る。

日露戦争の時のような謙虚な姿勢を持ち続け、世界情勢をしっかり把握していたならば日本には原子爆弾は落ちていなかったと思われる。

その後、ビルマからインドへ、又フィリッピンからガダルカナルへと日本は敵の引き延ばし戦術にはまって悲惨な負け方をしてしまったことがうやまれる。

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