« 逆恨みの暗殺 | トップページ | 古墳の出土品の謎とその鑑定 »

マッカーサー家略歴とフィリッピン

Douglas_macarthur

連合軍総司令官、ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur,1880-1964)を日本で知らない人はいない。もし、彼が朝鮮戦争の折、作戦のことでトルーマン大統領との軋轢を避けていたなら、その後も占領軍司令官の立場を維持していたことだろう。

マッカーサー一家はまさに「軍人家族」であった。彼の父、アーサー・マッカーサー・ジュニア(Arthur MacArthur,Jr.1845-1912)の父(Arthur MacArthur, Sr.)は4代目ウイスコンシン州知事であった。アーサー・マッカーサー3世だけは海軍軍人となったが4男のダグラス・マッカーサーは元帥、その子は、駐日アメリカ大使のダグラス・マッカーサー2世である。

アーサー・マッカーサー・ジュニア(父)は南北戦争で活躍した英雄で、その後、盛んに押し始められた「インディアン戦争」でも有名を馳せ、ジェロニモを降伏させて、1897年に陸軍中佐となった。

マッキンレー大統領により始められた米西戦争(1898年)准将に昇進して、義勇軍を率いて米比戦争に参加、エミリオ・アギナルド(初代フィリッピン大統領を生け捕りにしてさらに名を馳せた。(少将に昇進)

初代フィリッピン駐留アメリカ軍司令官(総督)に就任している。(最晩年には中将として引退)

その間、駐日アメリカ大使館付武官であった頃、日露戦争観戦行では息子のダグラスを副官として同行、実戦を体験させている。

アーサーは特に乃木希典が旅順開城の折、「水師営会見」で乃木将軍が敗戦の将、ロシア軍のステッセル将軍に見せた労わり、心のこもった心遣いに胸を打たれたのか、息子、ダグラスに“サムライ乃木のような軍人になれ”と諭したと云われている。

ダグラスも後に乃木と直接会見し、その感想を終戦後吉田茂首相に、乃木の人間としての「風格」と軍人としての高潔さに触れた感動を吐露している。(産経新聞消えた偉人物語“)

ダグラスは第一次世界大戦にも従軍、1930年には最年少の参謀総長につき少将、中将を飛び越して一挙に大将に昇進、その時の副官はドワイト・アイゼンハウワーであった。

その後、フィリッピンの軍事顧問、高等弁務官を務め、1936年にアメリカ系フリーメーソンに加盟、「フィリッピン軍元帥」の地位をもって、マニラ ホテルのスイートルームを定宿にしていた。

従ってフリッピンはマッカーサー家とは切っても切れない関係が出来ていたと言っても間違いない。

マッカーサーの人となりについて、彼の副官を務めたリチャード・ブラウン(94)は「元帥はもともと鬼のような軍人タイプで、日本人を憎み、彼らを一人残さず殺せと言い続けていた」とのこと。

彼は南部、アーカンソ州、リトルロックの出身で、筆者の感じでは、その態度から人種差別には厳しい感情を秘めていたと思える。

それは、朝鮮戦争中、満州に原子爆弾を投下する許可をトルーマン大統領に要請したり、昭和天皇をGHQ    に呼びつけて、背の低い天皇を横に立たせて、自分は腰に手を置いた圧力的写真を大きく新聞に掲載させる仕草からも白人至上主義の姿勢を見事に演出している。

戦争の初期段階のバターン・コレヒドール戦線では日本軍の破竹の勢いに押され、ルーズベルト大統領の特赦で司令官でありながら、”I shall return”と云う苦し紛れのセリフを残してオーストラリアに逃亡した。(これには100年近くにわたる悪辣なアメリカ圧政の歴史を知る自分に危険の迫っていることを察知していたからではなかったかとも考えられる)

66年目の敗戦記念日を明日に控えるにあたり、宿敵アメリカの司令官一家の略歴の披露を試みた。

|

« 逆恨みの暗殺 | トップページ | 古墳の出土品の謎とその鑑定 »