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日本政府は健康に悪いタバコ事業から手を引くべき!

Tabako

最近「タバコ論議」がおこっている。野田内閣は増税政策のはしりとし“たばこ”値上げから始めた感がある。

来年の10月から一本につき2円増税、10年間に合計2兆2千億円程度の増税を目論んでいるとのことが、本日の産経新聞“たばこ増税策の「不都合な真実」”にでていた。

今回の値上げが通るとすれば、60円上がって現在では440円のものが500円超となるそうだ。

小宮山洋子厚労相が9月5日の記者会談で“世界平均は600円なのに今の日本のたばこは安すぎる”と云う意味の発言をして、700円にしても税収は減らないとまで云った。

日本の煙草の発売元はJTである。この大株主は政府。民間人の考えからすれば単価を引き上げれば売り上げが減少して困るのだが、政府の考えからすれば売上より税収を優先して考える処が面白い。

周知の如く、そもそも日本のたばこの元祖は「村井吉兵衛」であったが、政府が後に、たばこ、塩を国の専売にしたがために村井氏”金つる”のタバコ業をあきらめて金融業を始めざるを得なくなった。

専売制度を国が設ける事、事態が文明国のすることではなかったのだが、さすがに塩は諦めたが、日本は依然としてタバコに固執し続けている。

医師や運動家からなる日本禁煙学会は12日“一箱700円は安い。先進各国に合わせて1000円にすべき”と云う趣旨の要望書を厚労省に提出したとのこと。(産経、13日)

愛煙家にしてみれば、正に戦々恐々の事態だが、益々、値上げが続けばタバコを諦める人が増えると思うが、昨年の値上げ以来、根元まで吸い込んだり、酒食費用を切り詰めてまで健康に悪い喫煙を吸う人も増え、吸える場所が減ったから“吸いだめ”をしてしまう人も増えたことも確からしい。

日本人の喫煙率を調べると、50年代では53%、2000年に33%、09年度では25%と喫煙者の数は低下している。

現行のまま放置しても、喫煙率や税収は自然に減少すると言明しているが、一体政府は、これで生計を立てている、たばこ農家の事情をどのように考えているのだろうか?

詰まるところ、国が健康に害を及ぼすと知りながら、何故「タバコ」に拘るのだろうか?

「毒を売る」悪習をキッパリ諦めることをしなければ矛盾ばかり発生して、正義が保てない。

最近では、対ドルの円貨の高騰で、アメリカの代表的ブランドの1箱の価格が約400円強で手に入る。

イギリス、863円、ノールウエー、920円、は、さすがに高いが、価値観から考えて、今のところアメリカたばこに軍配が上がるように思える。

役人にとって、「JT」も恐らくは天下りの天国かもしれないが、国民に毒を売りつけて、税金を取る愚行はそろそろやめにしてもらいたい。

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プーチン大統領復活

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昨日の毎日新聞では、ポーランドが原発を導入して将来へのロシアからの天然ガス供給に依存しない政策を推し進めようとしていることを報じている。

「ポーランドは現在EU内で最も速いスピードで経済成長を果している。

原発は戦略的政策の一つで、政府にも、国民にも反対はない」。(元駐日大使ポミニヤフスキー外務次官)

現在では国産石炭での発電が9割を占めているが、EUの環境規制に従い、方向転換を考えざるを得ない。

今では天然ガス発電の大部分をロシアの輸入資源に頼っている。

周知のごとく、ポーランドは過去に於いて、ロシアを筆頭に、近隣諸国の干渉に苦しんできた国家である。従って今後、ポーランドが西側との関係を深めようとすればするほど、ロシアとの軋轢に気を配らなければならないことが起こることを最も熟知している国家である。

隣国ドイツが脱原発を宣言したにもかかわらず国民、政府が一体となって原発推進を決定したことにはプーチンの大統領職復帰が影響しているのではと推理することは考え過ぎだろうか?

ロシアの脅威を最も身をもって経験している国はポーランドである。その国がプーチン復権を知って、今後ロシアとの関わりあいをなるべく絶つ決心を固めたとも思われるのだが・・・・・。

プーチンが来年5月に大統領に返り咲くことが決まった。選挙も行われない前からこんな重要なことが決定すること自体、不思議でならない。

これは4年前に、プーチンがベノジェーエフに大統領を譲った時点で決まっていたことと思う。

さらに、08年の憲法改正で大統領の任期が、現行の4年から6年に延長され、最長で2期、12年の長期政権も可能と云う、プーチンにとって有利なお膳立てまでされている。

これは「帝政ロシア復活」にほぼ等しいと思われる。プーチンは21世紀のナポレオンを夢見ているのではなかろうか?

我が国への影響を考えると、来年9月に開催予定の、ウラジオヴォストークでの「アジア太平洋経済協力会議」(APEC)は、かって、プーチンが自ら提唱したものである。

毎日新聞の論説では、“極東経済や、北極海航路の開発を視野に、アジア太平洋地域へのロシアの本格的参入に向けた戦略の重要な節目を、再び大統領となって主宰する”(プーチン返り咲き)ことこそが政治家としてのプーチンの最大の夢の一つではなかったかと筆者は想像している。

北極海が、地球の温暖化で航行可能になったことは、ロシアにとっては「天佑」となった。

計らずも、その時、北極海はロシアの前庭に変貌した。

北ヨーロッパからアジア地域への海運のロシアにもたらす利益は想像以上のものがあると思われる。

プーチンは色丹、歯舞に関する“日ソの56年共同宣言”の有効性を認めているロシアでの数少ない指導者である。

筆者は、プーチンが大統領に返り咲いた機会に、先ず我が国に対して、これら2島の返還を切り札に使って、日露平和条約締結を打診するに違いないと思っているが、我が国は決して、このプーチン提案に飛びつくべきでないとも思っている。

その他、プーチン外交は、ロシアの天然ガス、原油、石炭輸出にも我が国をターゲットと考えていることに疑いの余地はない。

ポーランドに学んで、慎重に対露政策を考え、「北方領土の返還」のエサに飛びつくような短絡的外交は慎むべきであると考える。

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無法者「イスラエル」

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1917年11月2日、イギリス外相バルフォアは、当時、イギリス・ユダヤ人コミュニティーのリーダー格であった、ライオネル・ウオルター・ロスチャイルド卿に対して送った書簡の中に、将来、パレスティナの地にユダヤ人の居住地(ナショナル・ホーム)の建設に賛同することを半ば誓約したが、その内容を読むと、以下のような但し書きが付いていたことを忘れてはならない。

それは、“たとえ貴方達が新しい国家建設を果したとしても(前文、筆者加筆)、パレスティナに既住している非ユダヤ人の宗教や生活権を脅かすことがあってはならないことは当然期待される。”(it being clearly understood that nothing shall be done which may prejudice the civil and religious rights of existing non-Jewish communities in Palestine・・・。)と記されていることをイスラエル人は忘れてはならない

本日(2011・09・28)毎日新聞の報道するところでは、エルサレム共同発として、イスラエル政府は27日、占領地東エルサレムの南部ギロ地区内に約1100戸のユダヤ人住宅を建設する計画を承認したと報じている。

このことは、東エルサレムを将来の独立国家の首都と考えているパレスティナにとっては考えられないような暴挙として抗議して当然であろう。

占領地内に、国連の了承なしに、自国民を入植させることは国際法違反であることを重々承知の上で、これを強行に移すイスラエルが何の制裁も受けないのなら何の為に「国連」があるのか疑問である。

これは正に前記、”バルフォア宣言”の文言に照らして考えても、イスラエルが違反を犯していることは明白である。

アッパス、パレスティナ自治政府議長は、イスラエルの不法入植が続く限りイスラエルとの和平交渉に応じられない姿勢である。

アッパス氏は23日、パレスティナ国家の国連加盟を申請、国連理事会も、この要請を受け、双方に早期の和平交渉を呼びかけ、どちらからの「挑発行為」も許さない姿勢を示しているが、公平に考えて、今回のイスラエルの行動は思いとどまるべきであることは当然である。

パレスティナの国連加盟申請にもし、アメリカが拒否権を行使するようなことがあれば、いずれアメリカは世界を(特にアラブ諸国)敵にまわすことになるのではと筆者は危惧するものである。

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如意ケ岳城遺構

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お盆の送り火で知られる、京都東山山系の如意ケ岳(俗称:大文字山)にかって城が築かれていたことは最近知った。

京都新聞、2011年9月26日、“京の山寺・山城跡を行く”「如意ケ岳城」では「大文字」の火床背後の山頂の周りに山城跡が見られると云う。(梶川敏夫氏稿)

ここからは最短距離で近江に至る道が通っている、“如意越え”(写真)は戦略上大変重要な通路として利用されたらしい。

南北朝期の建武3年(1336)南朝方がこの道から2万の軍勢が京に向かったとの記録が残っている。その6月には当時後醍醐天皇のご在所になっていた比叡山の延暦寺にむけて足利方軍勢が陣取っていたらしい。

「如意越え」は源平の頃から比叡山の南方を通る「白鳥超え」、「山中超え」と並び重要な戦略的ルートであったことが判る。

如意ケ岳城の遺構は、この頂から大文字山の山頂にかけて尾根上に約450メートルの範囲に確認される。中核部の横堀、土塁は、この城が本格的なものであったことを物語っているとの専門家の意見である。

如意ケ岳城は応仁、文明の混乱期では、文明元年-2年(1469-70)、多賀高高忠の築城、明応8年(1499)には土一揆が勃発したが平定された記録もある。

又、永禄元年には足利義輝が如意ケ岳城にこもり狼煙を上げたが松永弾正久秀に駆逐された記録もある。今では休日には多くのハイカーの格好のハイキングルートとして利用されている。

山科には古くから(平安初期)から安祥寺が毘沙門堂の山上にあったことが記録されており、その近辺からは、如意ケ岳は勿論、南禅寺、三井寺、坂本、石山にも山伝いに訪れることが容易である。

京都の事を「山城」と云うが、東山三十六峰は勿論、殆どの山の麓には仏教寺院が見られる、即ち、山を背景にしてそれらの寺院が建立されたことは自衛手段として山が利用され、結果的に京都=山城となったとのではと(想像)筆者は考える、そのことはすべての寺院には「山号」が認められることからも証明される。

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窮地に立つオバマアメリカ大統領

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ハリー・トルーマン(Harry Truman,1874-1974),アメリカ第33代大統領は、第二次大戦終結直前に死亡した、フランクリン・ルーズヴェルトのあとを受けて1945年、大統領に就任した。

トルーマンは第二期目の選挙(1948年)に勝利するため、ユダヤ人票を獲得するために多くの反対を押し切って「イスラエル建国」を成し遂げ、再選を果たしたと報じられている。

即ち、その当時から“ユダヤ票”は“黒人票”“夫人票”と同じように、選挙における絶大な切り札であることには違いない。

イスラエルはアメリカとイギリスの助けを借りて独立を果し、国連には、いとも簡単に参加を認められた。

しかるに、これまで、永らくオブザーバーとして国連に出席して、その存在が世界で認められてきたパレスティナがこの度、国連に正式に一国家として加盟を申し出ることを決定したが、それにアメリカが血相をかえて反対する理由とは何だろうか?

オバマ・アメリカ大統領は、昨年9月の国連総会演説で、イスラエルとパレスティナ両国の一年以内の和平合意を目指し、次回の国連総会でパレスティナを「新たな加盟国」として迎えたいとの意向を表明した。

国連加盟には事務総長に加盟の申請書を提出。

これを、安保理事会が審議し、15理事国の内、9カ国が支持、かつ、5常任理事国(米英仏露中)全てが反対(拒否権行使)しない場合、安保理は国連総会に加盟を勧告する。

最終的には、加盟国(193)の三分の二の賛成で加盟が実現する。

国連内の事務手続きや、問題の帰着よりも、オバマ大統領は昨年の理事会で、パレスティナの国連加盟に賛成の意を表しておきながら、この場に及んでパレスティナに対して“思いとどまって欲しい”と嘆願ともとれる態度をとっている。

去る7月にスーダンから独立した南スーダンは全会一致で国連への加盟を果している。

どちらにしても、パレスティナ自治政府のアッパス議長は、明日には、正式加盟申請を行う意思を翻してはいない。

パレスティナが度々、停止を求めている「占領地」でのイスラエル人の入植活動で、オバマ政権はネタニヤフ、イスラエル政権の説得に失敗。

明らかにイスラエルに足元を見透かされたかたちのアメリカに信頼性を亡くしたとも思われる。

次期再選を目指すオバマ大統領としても、イスラエルの宿敵であるパレスティナの国連加盟に消極的姿勢を貫かざるを得ないことは確実で、最近緊迫の度を深める中東情勢に加えて国内外で新たな難問を抱えることなった。

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破壊された「神宮寺」

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「神宮寺」は聞きなれない呼称であるが、神仏習合思想から、神社に付属して建てられた仏教寺院の総称で、別に「仏堂」「別当寺」、「神護寺」、或いは、「宮寺」の呼び名がある・

卑近な例では、石清水八幡宮(寺)、鶴岡八幡宮(寺)のように神祇の祭祀を目的として神社を境内の中心にした仏教施設があって、実際は寺院主体の運営に委ねられていた神仏習合の施設のことである。

神宮寺と神社の関係はハッキリとは定まってなく、その主従関係はアイマイなところが多い。

上賀茂神社では神社が主体で、その中に小規模な仏教寺院があった。それに反して、日光東照宮では「大社」であったがその運営は寺院(輪王寺)が運営を掌握していた例もあった。

明治期の「廃物毀釈」の騒動で、多くの仏教寺院が破壊されたの後でも、「荒神」や「権現」の名を冠する「神」か「仏」かの見分けのつかない宗教対象は未だ「存命」している。

その最たる存在が金峯山であり、聖護院の存在であるといえよう。

神祇の為の寺院が「神宮寺」とすれば、神社の存在が先であり、仏教寺院の為の神社では「鎮守社」となり神社は寺院の付帯施設となるのではと考える。

即ち、どちらが主体であったとしても「中世」では、あまり問題は起こらなかったが、明治の廃物毀釈のときには、それまで僧侶の下に呻吟していた神官達のうっ憤が爆発して、大がかりな寺院の破壊や焼き打ちに拡大していった感がある。

京都に於いては、先ず、祇園社、次に八幡の石清水八幡宮等にて、大がかりな破壊行為がなされた。

奈良では、現在、国宝指定になっている興福寺の五重塔(写真)が壊されて売却(代金25円)される運命にあった。

興福寺と関係の深かった、天理の「内山永久寺」に至っては、寺領没収、廃寺となって多くの僧侶が還俗し、石上神宮の神官となり、多くの重要な堂宇や什宝はことごとく破壊、或いは略奪にあった。(重要宝物別記)

日本国内で仏教寺院に対する破壊度を見ると、国学の盛んであった地域程被害が大きかったことが判る。例えば、薩摩藩では寺院は会1616、還俗僧侶数、2966人に上ったと云われる。

仏教の排斥運動の理由としては、尊王思想の普及もさることながら、寺院、僧侶の特権意識に対する民衆の反感や、藩政時代の特権の喪失による仏教は、檀家制度に依存度を増したことに依る腐敗もその一因であったと思われる。

明治政府による仏教の軽視で「神道」が蘇ったと言っても、それは単に国威の発揚に利用されただけのことであり、残念ながら「神教」としての母体が未だ確立していないように考えられる。

例えば、京都の平安神宮を例に考えれば、これは単に「京都遷都1100年記念行事」の目玉として考え付かれた、云わば、副産物である。

東京遷都後、何か京都市民の娯楽として考案されたのが「時代祭」であり、内国博覧会や岡崎動物園、図書館等であった。

平安神宮が竣工するまでは、その周辺に平安時代から続いていた、六勝寺が存在し、北は吉田神社から祇園社まで直線で結ばれていた町並みがあったが、そこに巨大な新しい神社「平安神宮」が建立され、既存の町並みは壊され、周辺の関係書類は焼かれて消滅したのか「不明」となり、それぞれの氏子の存在にも混乱をきたす結果となった。

少し横道に逸れたが,環境問題を重視する京都市政の考えで、けばけばしい朱色の平安神宮と場所違いに見える大鳥居の存在が周辺の環境に如何にマッチしているのか、その見解を尋ねたいと思っている。

註:旧内山永久寺から失われた文化財:

  出雲建雄神社の割拝殿(国宝)奈良、石上神社所有

  元永久寺鎮守の拝殿(石神神社)

  両部台経感得図(国宝)大阪、藤田美術館蔵

  木造持国天、多聞天像(重文)奈良東大寺

  木造四天王(重文)東博、静嘉堂文庫、MOA美。

  康円柵四天王の眷属彫刻:

  木造不動明王及び八大童子像(重文)東京・観音寺蔵

  真言八祖行状図(重文)出光美蔵

  愛染明王坐像(重文)東博蔵

  その他、多数。

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型破りのニューヨーク市長

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ニューヨーク市長になるには日本のように、「平凡実直」的な官僚型の人物では先ず当選おぼつかないと思われる。

2001年に引退したジュリアーニ氏も充分に豪放で型破りだったが、ミッチェル・ブロンバーグ(Micheal Rubens Bloomberg,1942214)現市長は他の面で大変非凡な市長である。

ジョンズ・ホプキンズ大の電気工学科を卒業後、ハーバード・ビジネススクールで経営管理学部門のMBAを取得している。

2007年にはタフツ大(TuftsUniv)より、社会に貢献したことにより名誉博士号を取得している。

その後、2009年、フォーダム大(Fordham Univ.)2011年ジョージ・ワシントン大(George Washington Univ.)より、それぞれ名誉学位を受けている。

先ず、前任のジュリアーニ市長と極端に異なるところは、ブロンバーグは生まれながらにして「エリート」クラスのユダヤ系家柄の出身であることである。

はじめ、ソロモン・ブラザースに勤務、共同経営者に迄なったが、経営者間のトラブルで解任された。

その時、退職金の形で支払われた1000万ドルを元手に“Innovative Market Systems”(革新的市場システム)を設立、早速その翌年からメリル・リンチ(Merrill Lynch)と共同で3000万ドルをつぎ込んで事業を開始した。(1986年、Bloomberg L.P.と改名)その他、ブロンバーグの名称でTVステーションも運営している。

2001年、任期満了となったルドルフ・ジュリアーニの後任を選ぶ市長戦に共和党から出馬、大企業の総帥としての指導力と決断力を買われて相手候補、マーク・グリーンに5048で辛くも勝利した。

驚くべきは、ブロンバーグは6600万ドルと云う巨額の選挙費用を全て自分のポケットから賄ったことである。(2010年度、世界長者番付23位)

又、ニューヨーク市長には歳費として195000ドル(約1500万円)が支給されることとなっているが、ブロンバーグはそれを一切辞退して、毎年1ドル(76円)の報酬を市から受け取っているとの事。

2005年の選挙には難なく再選、2007年には所属する共和党を離党しながら、2009年には無所属なから3選を果たした。

ブロンバーグは数多のチャリティーや文化教育基金への多額の寄付でも知られ、(2009年度、2億ドル以上)アメリカ史上でも稀な篤志家(philanthropist)であり、2010年の人気調査で過去30年間の歴代ニューヨーク市長のトップの名誉に輝いた。

因みに“Chronicle of Philanthropyの記録ではブロンバーグの寄付金総額は以下の通り:

2004年度:1億3800万ドル、2005年度:1億4400万ドル、

2006年度:1億6500万ドル、2007年度:2億500万ドル

と云う数字になっている。

詳しいRecipients団体名については、www.ask.comを参照のこと。

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狡猾なイギリス外交

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旧約聖書によると、パレスティナの地は、神がイスラエルの民に与えた約束の地であると説かれ、このためヘブライ語では「エレツ・イスラエル」(Eretz Yisrael)とも呼ばれる。

後に、ユダヤ教から別れてキリスト教が興ると、聖地として世界中の信徒から重要視されるようになった。

ユダ教やキリスト教の影響でアラビア半島に興ったイスラム教もエルサレムを聖地としたことで、三つの宗教の聖地のエルサレムを包含するパレスティナは宗教的に大きな問題をかかえる「争奪の地」として、バルカン半島のように、世界の火薬庫と呼ばれるようになった。

ウイーン生まれのジャーナリスト、テオドール・ヘルツエル(1860-1904)は著書「ユダヤ人国家」を表し、“土地なき民を、民なき土地へ”と訴えて、1897年、スイスで第一回「国際シオニスト会議」を開催してユダヤの民のパレスティナ復帰を訴えた。

シオニズム運動に同情的指導者が少なくなかったイギリスでは、当時獲得して間もなかったアフリカのウガンダを、ユダヤ人の民族的故郷として提供する用意のあること示唆したが、シオニスト指導者らはこれを拒絶した。

ロスチャイルド家をはじめとするユダヤ系の財閥の援助で、この頃からユダヤ人による、パレスティナの土地購入や移住が見られるようになった。

シオニズムの指導者たちのイスラエル復帰の運動がさらに激しくなったのは、クリミヤ戦争を契機に始まった。

その後、オスマントルコ政府による、パレスティナ失地て、聖地エルサレムの支配に終止符がうたれた。(第一次大戦)

その時、ドイツに加担して戦ったトルコは一時、パレスティナからシナイ半島、又はスエズ運河の線まで攻め込んだが、イギリスを主体とする連合軍の反撃でエルサレムは1917年陥落した。

ここに、1915年の「フサイン・マクマホン書簡」(McMahon-Hussein Correspondence)と云う、エルサレムに関する問題を、イギリスのエジプト高等弁務官、ヘンリー・マクマホンが、メッカの豪族で、予言者に血筋にあるハシム家の当主フサインと取り交わした一連(11915714日から1916130日迄)の書簡がある。

これらの書簡に書かれた内容は、イギリスは、もし、アラブ人がトルコに対して反乱を起こし、連合軍に協力をする事になれば当時、トルコ領のアラブ人居住地区にハシム家を君主とする独立国家建国を認めると云うものであった。

(アラビアのローレンス関係著作参照)

しかし、イギリスは1916516日付で戦後に於いて、フランスとロシア三国で、トルコ領土を分け合うことを“サイクス・ピコ協定”で秘密裏に約束していたのである。(Sykes-Picot Agreement)(註:ロシア革命の直後ソヴィエト政府がこの内容を暴露)

それに加えて、イギリス外相、バルフォアーが191711月、ロスチャイルドに送った書簡“バルフォアー宣言”がある。

イギリスは1915年から17年の2年間に三つの違ったグループと全く相違った約束とも放言ともつかない“Agreement”で世界を混乱に陥れたことになる。

1917年まで、オスマン帝国の支配下で、パレスティナの中心都市エルサレムは、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の三つの宗教の聖地として存続していた。

ところが、第二次大戦後の1948年、ユダヤ人に「イスラエル国家」の建国が国連決議で決まった頃から、実に62年間、中東に平和な時代がまったく亡くなっってしまった。

何故国連はイスラエル建国を許したのか?

エジプト、サウディ・アラビア、クエイト、シリア、リビア、アルジェリア

キプロス、ヨルダン、レバノン、チュニジア、モロッコ等、12カ国は全てヨーロッパ列強の都合で独立が許されて出来たものである。そこに何故、パレスティナが国家として存在しないのか疑問が残る。

1948年、イスラエルの建国を境にして、平和がこの地から失われたのは何故なのだろうか?

2017年で、トルコのエルサレム失地から100年となる。912日エルドアントルコ首相が、カイロを訪問、エジプトの最高軍事評議会議長と会談、両国間の戦略的関係強化を話し合ったと云われる。

最近のトルコ、イスラエル関係が悪化している時だけにイスラエルとしては気にかかる事件である。

エジプトでも、トルコのイスラエル外交官追放に倣って、イスラエル外交官を追放せよとの声があがっている。

昨日の新聞報道では「パレスティナ暫定自治政府」が国連理事会に建国の意思表示をする予定であることを報じているが、アメリカはこれに対して拒否権を行使して阻害する姿勢を明らかにしている。

60年前に、アメリカはイスラエルの建国に努力したが、このたびは、当時のユダヤ人と同じ境遇にあるパレスティナ人達を何故に阻害するのか全く理解に苦しむ。

それでは、イギリスはどんな姿勢で“パレスティナ”問題に臨むのか、我々は静かに見守りたい。

         

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「ダコタ・アパートメント」

Dakota Entrance_of_the_dakota (1.建設当時の「ダコタ」、2.ダコタのエントランス)

ニューヨークにはセントラル・パークと云う有名な公園がある。

南端は59丁目、北は110丁目、東は5番街(5th Ave.,)、別名、セントラル・パーク・イースト、西側は8番街(8th,Ave.)、別名、セントラル・パークウエストの、南北4キロ、東西0.8キロ(3.2平方キロ)の広大な緑の長方形の空間である。

ニューヨーク市行政の考えは、1840年頃から増えだした移民が南港に降り立って、最初の頃は、マンハッタン島の南半分に住んでいたが、次第に北に進出しだした頃から、人口が過密になる前に、中心に緑の空間(公園)を残さなければ、街全体が生き苦しくなるとの想定であった。

公園の着工は、1857年、そして、南北戦争をはさんで、1873年に完成した。

セントラル・パーク・ウエストの72丁目に、1881年に出来上がった、「ダコタ・アパートメント」と云う古風で立派な建物がある。(写真)

公園の完成から8年目であり、未だ周囲には殆ど何も立っていなかった頃、シンガーミシン(Singer Sewing Machine Co.,)の社長、エドワード・クラーク(Edward Clark)がプラザホテルの設計者、ヘンリー・ハーデンバー(Henry J. Hardenbergh)に注文、完成させた建物である。

何故、ダコタ・アパートメントと呼ばれたかと云えば、その頃では、近辺には何も建物がなく、公園の西側で辺鄙な環境にあることから、それまで国の最西端の辺境の土地であった、インディアンの住む場所“ダコタ”がふさわしいとして名付けられた。

モータリゼーション以前の馬車の時代に建てられたこの建物には馬をつなぐ為のファシリティーがあり、中にコートヤードがある、ヨーロッパ式の建築で、1976年”National Historic Landmark”に指定された。

これまでの有名な住人として、ローレン・バコール(女優)、レオナルド・バーンシュタイン(音楽指揮者)、ローズマリー・クルーニー(女優)、ジュリー・ガーランド(女優)、リリアン・ギッシュ(女優)、ロバートライアン(男優)が知られている。

これら殆どが芸術家や俳優であり、古く、さびれた建物であるが、ニューヨークでの最も高いステイタスを維持してきた建物である。

1980年12月8日、“ダコタ”の住人であった。ビートル(Beatle)のジョン・レノンが夕刻帰宅したところ、入口付近でマーク・デーヴィッド・チャップマン(Mark David Chapman)が発した凶弾により死亡したことで“ダコタ”は又もやさらに有名になったことは広く知られている。

参考文献:Historic American Building Survey,,Brockman,Jorg(2002),one thousand New York Building,PP.342-343,「ニューヨーク」猿谷 要、文芸春秋社(世界都市の物語)

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異色のニューヨーク市長、ジュリアーニ

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筆者は略、7年前、久しぶりにニューヨークを訪れて驚いた。

それは、街がスッカリ、“ニート”になっていたこと、安全になり、以前は恐れられて近寄れなかった「セントラル・パーク」にも早朝からジョッギングする市民が多く見れたことである。

ジュリアーニ氏がニューヨークの市長に就任したのは、ベルリンの壁崩壊のあとの1994年である。

長い不況から一時的にも立ち直ったアメリカ経済の景気に助けられ、以前、穴ぼこだらけであった道路も修復されて見違えるように改良が進んでいた。

一時、貧民窟の様であったウエスト・サイドも様相一変、新しいホテルやレストランが立ち並び、楽しそうな町並みに変貌していた。

ルドルフ・ジュリアーニ三世(Rudolph William Louis Giulliani lll,1944 -)市長は”Rudy”の愛称で呼ばれ、長い不況で喘いでいた大都会を復活させた。

在任期間、1994年1月から2001年の12月まで、特に凶悪犯罪の撲滅に貢献したことで長く市民の支持を取り付けた。

2001年に突然起こった、9.11多発テロと戦うことを宣言、“世界の市長”と称賛をうけた。

Rudyの生い立ちは決して裕福ではなかった。ブルックリン生まれのイタリア移民2世の息子で、カソリック、父親は犯罪を犯し、シンシン刑務所送り、釈放されて後もマフィヤの犯罪に手を染め、undergroundの人生を送った人物であったと云われている。

ルーディーはマンハッタン・カレッジを卒業ごニューヨーク大学で法律を専攻、卒業後、弁護士となった。

1970年に米連邦検事局に入り、検察官として人生のスタートをきった。司法副次官⇒首席補佐官を歴任、1972年の大統領選挙では民主党マックガヴァンを支持。しかし。1975年、共和党フォード政権では法務次官補の要職に抜擢された。それ以来、共和党に鞍替え、1981年のレーガン政権では司法次官を務めた。

1983年、ニューヨーク南部管轄の連邦検事となって、マフィアの掃討作戦を展開、陣頭指揮をとり、組織犯罪・薬物汚染・経済犯罪等の対策、対応に努力した。大仕掛けの経済犯罪、インサイダー取引を検挙、レーガン政権が目指した“マフィア”の掃討を進めて、市民から英雄視され、名を挙げ、1920年代に活躍し“Untouchable”の異名をとった、FBI捜査官エイオット・ネスの活躍を彷彿とさせる凄腕のニューヨーク市長として人気を挙げた。(以上、グーグル ウエキペディア参考)

大事件の解決の度にメディアに登場、知名度を揚げた。最初(1989年)の市長選では民主党候補のDavid Dinkingに敗北したが、1993年には勝利してニューヨーク市長となった。

彼は在任中もイタリアン・マフィアに留まらず、中国、ベトナ、カンボジア、又はイラン人らによる組織犯罪の撲滅に力を注ぎ、ニューヨークの治安維持に奔走、ニューヨークの犯罪率を全国平均より低く抑えることに成功し、ギネスブックに「最も多く犯罪率を削減させた市長」としてノミネートされたと云われている。

それまで犯罪発生率が特に多かった“タイムススクエアー”や“マディソンスクエアー・ガードン”等をクリーンで安全な地域として、観光客や家族ずれが安心して散歩が出来るように改革した功績が市民のみならず、全国民からも評価されることとなった。

前出のラガーディア氏と似て、ジュリアーニの手法も一見、手荒で専横的であるが、そこが却って気ままで陽気なニューヨーク子に歓迎される結果となった。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの勃発でジュリアーニ市長は正に獅子奮迅の活躍を見せ、高い危機管理能力を発揮、全米のみならず、世界中から称賛を集めた。タイム誌は彼を2001年の「今年の人」に選出、エリザベス女王からナイトの称号を授かった(2002・02・13)。

ジュリアーニ市長の唯一つの汚点と云えば、1999年4月、市長としての高い支持を背景に、2000年の上院議員選挙に(共和党)ニューヨーク州からの出馬を表明、対抗馬のクリントン夫人を敵に回して戦った迄は良かったが、そのさなかに不倫の噂が流され、、翌年、妻との離婚を発表、程なく前立腺ガンを理由に選挙戦から退く事態になったことである。

しかし、ジュリアーノ氏は2008年の大統領選には出馬の意欲を見せており、

一度や二度の失敗では決してたじろがない精神力には驚くべきものがあると筆者は尊敬の念を持って見つめるものである。

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ニューヨーク市長、ラガーディア

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個性的な3人のニューヨーク市長(1)

世界一番の商業都市であるニューヨークの市長であり続けるには、強靭な精神と個性を持ち合わせた人物でないと務まらないことは当然である。

20世紀になり、ニューヨークは名実ともに世界最大のメトロポリスとなった。

年を追うごとに増え続けるヨーロッパから押し寄せる移民の待遇だけ考えても、我々の想像力では考え付かない多くの問題を包含している大都会、ニューヨークを取り仕切る「市長」の職は只者では出来ない仕事である。

筆者はこれまでの数多のニューヨーク市長の中で、特筆に値すると思われる個性豊かな3人を選んだ。

その3名とは、(1)フィオレロラグアーディア(Fiorello Enrico(Henry) LaGuardia,18882-1947),(2)ルドルフ・ジュリアーニ(Rudolph William Louis Giuliani lll,”Rudy”,1944-)、(3)ミッチェル・ブロンバーグ(Michael Rubens Bloomberg,1942-)である。その理由は前に述べたごとく、これら3人とも、それぞれ、驚異的に強い個性の持ち主だからである。

ラグアディアは1882年、ニューヨーク市生まれ。父はイタリア系のカトリック、母はオーストリア系ユダヤ人で、共に1880年の移民である。

彼はどちらかと云うとイタリア系を名乗り、ユダヤであることは表に出さなかったと云われている。

1900年、18歳で初めて政府の仕事を得て、ブダペストの領事館勤務となる。しかし、ユダヤ系への偏見に怒った彼は職を辞して帰国、ニューヨーク大学に入学、片手間にニューヨーク港で移民者の通訳として働いた。

暫くして、彼はユダヤ人が働く衣料の縫製職人や浮浪者の仲間から人気を得る。

1922年、下院選挙に立候補、ニューヨーク選出の初めてのイタリア系議員となる。

1933年、ニューヨーク市長に初当選、ヒットラー嫌いとして名を馳せる。

1929年に始まった大不況のなか、名目上共和党員だったが、党派を超えて人気物となり、当時ニューデール政策の支持者、フランクリン・ルーズヴェルト大統領を支持、代わりに大統領はニューヨーク市に多額の資金援助を実施した。1941年には現職市長でありながら民間防衛の全米指導者となった。

1946年市長を辞任、連合国救済復興機関の事務総長を務めた。

ラグアーディアの身長は150センチで小柄だったため、「小さな花」を表すイタリア語“フィオレ(fiore)のあだ名で呼ばれた。

一時はイタリア・マフィアの巣窟の異名をとったニューヨーク市であったが、彼はニューヨーク市を再生させ、民衆の信頼を取り戻した。

1854年から、ラグアーディア市長就任の前年の1932年まで、移民居住地区を票田に市制を牛耳っていた悪の居城「タマニー・ホール」(註:参照)関係者から市制を取り戻した功績は特筆すべきである。

その他、ラグアーディアは市の交通網を統合し、安い公共住宅、多くの公園の開設、空港建設とともに警察機構の再築と雇用の安定に寄与すること大であったと云われている。

専制的市制をしいた、云わば独裁者のような市長であったラグアーディアは、かえって気まぐれなニューヨーク市民の感性を刺激、人気を高めた。

腐敗した集票組織を破壊、ワイロが横行していた状態を糺して、能力本位の雇用システムを再確立した。

彼は特に移民と少数民族を擁護、以前に於いて政治システムから疎外されていた人々の集団にもてを差し伸べた。

ラグアーディアの自叙伝を手掛けたトーマス・ケスナーは「彼は並はずれた人物で、目標に突進、専制的統治を行使して敢えて顧みなかった性格の持ち主」と批評している。

敢えて言うならば、ラグアーディアのやり方は、現代では到底受け付けられない程荒っぽいものだったと言えそうである。ニューヨーク国内線用空港La Guardia Airportは1942年の開港である。

註:Tammany Hallとは1790年代から1960年まで、200年近く存在したアメリカ民主党の派閥関連機関、Tammany Societyのこと。ニューヨークでの移民、移住地区を票田に持ち、貧民を助けながら勢力をのばし買収及び供応を含む移民に対する集票工作を展開、悪名を馳せた団体。19世紀半ばのwilliam tweedが最も有名である。

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タフなロシアの二人組

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アレキサンドル・リトビネンコ(1962,08302006,1123)は、ソ連国家保安委員会(KGB),ロシア連邦保安庁(FSB)の職員であったロシア人、元陸軍中佐。

イギリスに亡命し、ロシアに対する反体制活動家のリポーターだったが、2006年イスラム教徒となった後、何者かに毒殺されたと云われている。

1962年、ロシア、ヴォロネジ生まれ、1980年中学卒業後、軍に入る。

1988年以後KGBの防諜部門に勤め、91年以後ロシア保安省組織犯罪工作の活動阻止局職員(第7課副課長)

ロシア連邦保安庁(FSB)に所属中の1997年、上司局長にある人物の暗殺を口頭で指示されたが、命令を拒否したことを199811月、局の同僚7人と共に記者会見を開いて発表した。

さらに彼は、FSBの一部幹部職員が政治的脅迫や“殺し屋”的犯罪活動にかかわっている事を明るみにした為、それ以後、脅迫を受けるようになったとの事。

因みに、ウアラジミール・プーチンは、その当時、FSBの長官であった。

リトビネンコ氏はその後、再度逮捕されながら、その都度証拠不十分で釈放されていたが、3度目の逮捕では、刑事告発を受け、それ以後、出国停止処分を受けていた。

200111日リトビネンコは身の危険を察して、トルコ経由でイギリスに亡命した。

ところが、2002年ロシアではル氏は欠席裁判の結果、禁固3年半(執行猶予1年)の判決が下されていた。

2006年、彼は、イギリス市民権取得と同時に、プーチン政権と、ロシアのチェチェンに対する政策の徹底的批判を始めた。

2006111日、リトビネンコ氏はかねてからプーチン政権に批判的だった、ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤ女史が何者かに射殺された事件を捜査中、マリオスカラメッラと云うイタリア人とロンドンのすし屋で、面会中、体調を崩し病院に収容された。しかし、彼はその3週間後その病院で死亡した。(11/23)

1125日、リトビネンコ氏のプーチンを糾弾する遺書が公表された。

20071月、イギリス警察はリトビネンコ毒殺犯人を、KGB元職員アンドレイ・ルゴボイ(元将校)と断定、殺人罪で告発した。

それ以来、実に3年半イギリス政府はロシアに対してイギリス人殺害容疑でルゴボイの身柄引き渡しを根気よく続けている。

2007年、718日の朝日新聞によると、英国政府はルゴボイの身柄引き渡しをロシア側が拒否したことを理由に、ロシア駐英外交官4人の国外追放を決定、ロシアはそれに激しく反発、英外交官の国外追放を考慮中と報じている。

リトビネンコ氏の死因は猛毒ポロニューム入り蜂蜜レモン入り、緑茶とされる。その場所では、その周辺や従業員の衣服から放射性反応検出された為、バーは閉鎖に追い込まれたと朝日の記事は述べている。

さらに、その場所は23万ポンドをかけて、約1年後に再開せらたが、当時使用していた椅子、テーブル、グラスを廃棄、英国健康保護庁の検査で出入り禁止が解かれたとのこと。

911日―12日、キャメロン英首相は6年ぶりにロシアを訪れ、プーチン首相、メドベージェフ大統領と会談、上記の問題についての話題となったが、依然として問題解決が殆ど不可能な状態。

これでは、日本の様な小国がいくら「北方領土」返還をロシアに叫んでも、“暖簾にひじ押し”に終わること必定と痛感させられた。

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アメリカの屈辱の日

Time_magazine_front_cover News_week_cover_page New_york_times_front_page 2001年9月11日の事件を伝えるテロの攻撃を受けたニューヨーク世界貿易センター・テュインビル。

タイム誌、ニューズ・ウイーク誌とニューヨーク・タイムスがいずれもカラー写真でカヴァーページに、”アメリカ攻撃さる”、屈辱(インファミー)の表現で一斉にイスラム・テロの模様を伝えた。

ニューヨーク・タイムズは最大の活字態で、”U.S. Attacked ",

"Hijacked Jets Distroy Twin Towres and hit PENTAGON in day of terror"

"A creeping horror" Buildings burn and fall as on lookers search for elusive safety.

President vows to exact punishment for "Evil".

一日でニューヨーク世界貿易センタービル及びアメリカ国防総省を襲ったテロのニュースを恐怖とともに全国に流した。

ニューヨーク・タイムスの1851年ー2008年の「Complete front pagers]を見ると、日本のパールハーバー攻撃の時の見出しよりもはるかに大々的に(しかも、カラー入り)で報じている。

エレノア・ルーズヴェルトは1941年の真珠湾攻撃で"Day of Infamy"と叫んだが、9・11事件でも同じ単語”INFAMY"(不名誉)をマスコミが使っている。

その時、アメリカ中は復讐心に燃え、ブッシュ大統領も”同じ罰で悪に立ち向かう”ことを宣言した。

それから10年が経ち、アメリカはイラクに侵入、フセインを捉え絞首刑にした。しかし、9・11事件の主犯格のオサマ・ビン・ラディンを拘束、殺戮するまでに殆ど10カ年、その間、ほぼ300兆円を費やしたといわれる。

アメリカは今、経済的苦境にあり、ヨーロッパもそれに引きずられるように経済危機のドン底であえいでいる有様。

わが国も今年の3・11東日本大震災、関西での水害に見舞われ進退があぶない状態にある。

中近東での「民主化のためのジャスミン革命」で独裁者が民衆の攻撃に曝されて、全域不安の状態にある。

イラク、アフガニスタンとパキスタンを渡り歩いて10年、300兆円を使い、多大の人命を失った。

ようやく敵の主犯格人物を仕留めたが、西側陣営は、その間、アメリカに追従したが為、民族のすべてが貧乏に喘いでいる。

この問題の根源をさかのぼって我々は何にたどり着くのか?

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"Manifest Destiny"(マニフェスト・ディスティニー)

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Manifest Destiny(マニフェスト・ディスティニー)ほどアメリカで言い古された、又、誇張され続けた「標語」はないと筆者は考えている。

筆者の考えるところ、この「標語」は、我が国では“明白な天命”、“明白な運命”と便宜上、翻訳されているが、これにはもっと深いアメリカ人の思い込みが秘められており、標語に近い、云わばアメリカ人の19世紀における“スローガン”と思って間違いは少ないのではないだろうか。

これの意味するところ、即ち“君たちは「西」に向かって進みなさい、何故なら、それが君たちに神が与え給うた運命なのだから。”であった。

ジョン・オサリヴァン(John L. O’Sallivan, 1813-1895)が提唱した有名な論文で、1845年、Democratic Review誌で発表されるや、一気に支持者が増して、19世紀のアメリカでの代表的「標語」となった。

1845年、第11代大統領、ジェームス・ポーク(James Polk)が政権を握るや、アメリカは一挙に領土の拡張に走った。

オレゴン州への入植、テキサスの併合、メキシコ戦争(1845-48)、が終わると、ゴールド・ラッシュ(1849)が始まり、何10万と云う人口がカリフォルニアをめざした。

これの目指す目的は「聖戦」のスローガンのもと、先住民、アメリカ・インディアンの殺戮と、保護地区への囲い込みから始まり、一挙に増えたヨーロッパからの白人移民による西部の開拓を迅速に進める事であった。

世紀末のフレデエリック・ターナー(Frederick Jackson Turner)の提唱した“フロンティアー論”への傾倒で、ウイリアム・マッキンレーの暗殺で,第26代大統領となった、テェオドール・ルーズヴェルト(Theodore Roosevelt)の時代には、アメリカ帝国は、一大資本主義国家の道を進みだし、20世紀初頭から、マニフェスト・デスティニー思想は太平洋を西に向かって進み、ハワイ、グアム、フィリッピン等を併合して、勢いを増したことは、今では自明のこととなっている。

これには白人、特に、アングロサクソン・プロテスタント(WASP)の主張するネーティヴィズム(Nativism)の考えの「人種差別」思想が底流にあったことは否定できない事実であり、西洋の東洋支配もこの時点で自然に正当化されたのではないかと思われてならない。

21世紀に移り、ソヴィエト連邦の崩壊から、新生「中国」の勃興、西側の勢力の衰退は日を追うごとに顕著となり、小国日本の運命は、その間、大海にもまれる小舟のように「さまよえるジャパン」そのものになりつつある事を憂慮せざるを得ない昨今であることは嘆かわしい限りである。

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国際的な観光都市の条件

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京都西京区の嵐山国有林(約59ヘクタール)の再生計画については、以前拙稿で取り上げたが、本日(9/9)の京都新聞で「嵐山国有林、干ばつはどの成果報告」が目を引いた。

研究者や地元住民らが、昨年10月から約一年間、山の斜面など場所を決めて試験的に獣害対策や間伐に取り組み、景観を担う樹木の発芽する成果が顕著になったことがわかった。

アンケートから嵐山の山中を歩いてみたいと思っている観光客が多いことも判明、住民らはそのような声に励まされ、今後さらに活動を続ける決意に燃えている。

「嵐山再生研究会」、森林総合研究所関西支所(伏見区)等に地元住民が、昨年から行っている「薪拾いなどで山に人の手が入ることで嵐山の美しさが保てる」と強調、山を外から眺めるだけでなく汗を流して手入れをしながら全体の保全に熱意を燃やしている。

山の斜面、8か所を選び、植物の生育の比較調査を試みたり、間伐することで日当たり具合を改善、加えて柵を作って鹿などからの獣害からも山を保護する心配りをしたことで、少なくとも、各所に嵐山を求めて遊びに来る観光客のため、イロハモミジなどを植林して、さらなる魅力を引き出すべく努力を重ねている。

去る4月に行ったアンケートでも、嵐山の中を散策したいと言う希望が全体の89%であることが判り、それは地元民にとっての何よりの朗報であった。

825日の調査結果の報告では、今後も住民主体の「山造り」を継続することを確認、嵐山再生研究会の深町加津枝代表(44)は「人が山に入らなくなった中で、山を如何に維持していくかの基点になったのでは」と話している。

次の話題は、仲秋の名月を愛でる計画として、京都の大覚寺で旧暦の815日(9月12日)に開かれる「観月の夕べ」、910日から12日に向けて職員総出で準備に忙しいと云う行事案内を本日、9月9日の京都新聞{地域プラス}欄で見たこと。

平安時代に嵯峨天皇が大覚寺の大沢の池に舟を浮かべ、文人らと遊んで、名月を鑑賞した故事に倣って催される京都ならではの行事で、月を見上げるのではなく、水面に映る「月」を楽しむと云うシャレたイヴェントである。

これは、大覚寺が約20年前から周辺約1キロある池に龍頭船、鵜首船の2隻を浮かべて約20分間周遊し、抹茶を飲みながらお月見を楽しむイヴェント計画である。

お寺の職員総出で朝から船の掃除や、池面の水草除去して少しでも名月がよく池に輝るように配慮がされている。

華道課長の西村和記さん(44)は「この日を楽しみにして遠方から来て下さる人が多いので船の隅々まできれいに掃除をして、満月法会を迎えたい」、

池のほとりに設けられた祭壇には、団子のほか、サツマイモ、サトイモ、枝豆が供せられ月の仏、月天を招く、全て平安の昔から京都で秋に収穫され親しまれてきた物ばかりである。

京都を観光都市としてプロモートするとするならば、前述のような努力で地方色を作りだすことが欠かせないと思う。

京都には沢山の史跡や、文化財があることは知られているが、教科書で学んだ多くの文化財が、はたして観光客の”easy access”となっているのかと云えば決してそうではない現実を我々は反省しなければならない。

どこの寺に行っても、入場券の購入を求められ、しかも暗いお寺の内部は、観光客から閉ざされていて、有名な文化財を見ようとすると、宝物館で特別料金が必要と云われる。

有名な絵画やふすま絵などは、最近の模写技術で“本物に近い複製”を見て、おしまいと云われる。

有名観光寺での“夜のライトアップ”でも、信仰の対象と云う名目で、高い入場料を徴収される、などなど、まるで旅行者を食い物にすることを許している感がある。

この様な、地方行政の指導の稚拙さを知る者は、2度と近寄らなくなってしまうのではと心配する。

京都を本当に、世界に誇れる観光都市とするために、今後、国民総出演で問題に取り組まなければならないと痛感する。

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世界最初の切手の出現

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郵便切手は最初(1840)イギリスで生まれたことは広く知られている。

イギリスの切手は何処かに国王や女王の肖像が印刷されているので、それが英国の切手であることが判別できる。

何処にも「国名」が表示されない、世界で唯一の郵便切手がイギリスのものであることを知っている人は案外少ないのではと思うのだが。

それはペニー・ブラック(penny black)と呼ばれる、若き日のヴィクトリア女王の横顔が印刷された、黒色の1ペニー切手で、その発行は1840年である。

プリペイドシステムを取り入れた郵便切手の誕生は、そのアイディアーに到達するまでに多くの紆余曲折を経ている。

郵便配達のシステムは当初では、受取人払いになっていたことが知られている。

1839年、イギリス大蔵省は新しい切手の発行にコンペティション方式をとると発表した。

その5年前に火災で焼失した議事堂(1834・10・16)の再建にもオープン・コンペティション方式が用いられ、ウエストミンスター寺院のゴシック様式をとるか、或いは、エリザベス朝様式を取り入れることを条件で応募した結果、集まった1400件の中からチャールス・パリーの設計が採用され、ビッグ・ベンのあだ名を持つ大時計付きの建物の着工がなされた。(完成1852年)

ヴィクトリア女王の戴冠式は1837年であり、世界最初の切手をかざるべく、15歳の頃のヴィクトリア女王の肖像は何にもまさるチョイスであった。

沢山寄せられたアイディアーから結局、ローランド・ヒル(Sir.Rowland Hill,1795-1879)のデザインが採用される結果となった。

切手アイディアー・コンテストの通達は「官報」と「タイムズ」紙上で行われ、民主的な公平性のもと、ビクトリア新時代の門出にふさわしい、世界最初の郵便切手となった。

何故プリペード式郵便切手の採用に、これほど時間を要したのか、筆者は疑問を持っている。

何故なら、prepaid式切手と、かの悪名高い”stamp act”(印紙法、1765年)のアイディアーには何処に違いがあるのだろう?

印紙法とは、フレンチ・インディアン戦争の末、財政難に落ちいった宗主国イギリスが、財政難打破を期して、すべての出版物、証券類、果てはトランプにまで課税する目的で編み出された「新法」で、これに殖民地人が反対して暴動がおこり、イギリス製品の不買運動にまで発展し、政府はその翌年(1766年)それを廃案にした有名な事件である。

印紙法は、ボストン虐殺(Boston Massacle,1770)、ボストン茶会事件に匹敵する程、殖民地人達を刺激し、アメリカ革命の火種となったものであった。

印紙法のアイディアーこそ、ぺニー・ブラックに代表される郵便切手で、その原型は、既に75年前に存在していたと思っていた。

我が国でも「収入印紙」と呼ばれるものと、「郵便切手」は、ともにprepaidであり、利用方法に何らの違いが認められないにかかわらず、mailing stampの出現が収入印紙(stamp tax)から75年も遅れをとったのだろうか?

料金の設定には、最初、1ペニーでは少額過ぎ、赤字になると反対安も出たらしいが、結局“安価ならば需要が増え、経費が賄える”と云う意見が大勢を占めた。

その結果、1838年には7千500万通であった郵便物の量は、1864年には早くも、6億4200万通に増加した。

(写真:ペニー・ブラックと

その印刷機械)

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戦後日本人の生活パターン

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大相撲の番付から日本生まれの横綱の名前が見られなくなった訳を掘り下げて考察すると、それは、戦後の日本人の生活パターンの変化に、その原因があるのではと思うようになった。

或る茶道の老宗匠は90近い高齢でありながら、未だに背筋がまっすぐで、杖に頼ることなく生活されている姿を観察していて、ホット気づいたことがある。

それは「お手まい」にあると最近気が付いた。

茶道の家元の茶室の畳の硬さを知っている人は多いと思うが、あのような板のように硬い畳に正座で、客と長い間話をして後、両手に建水と茶杓を持って何にも頼らずに「膝」と「下半身」の力でスット立ったかと思うと、再び座って、両手で襖を静かに開けて立ち、又、再度、廊下に出て、襖を閉める一連の動作は凡人の筆者には到底マネのできるものではないと気付いた。

椅子の生活が、最近我々が取り入れた生活パターンである。子供達も畳に正座で食事をすることがなくなった。

筆者は職業柄、若いころから西洋人と交わることが多く、度々彼らを和食に誘って食事をすることがあった。

その都度、畳の上の生活に不慣れな彼等が最も不得手としたのは床から立ちあがる仕事であった。

筆者も既に40年以上、椅子の生活に馴染んで、滅多に畳に正座をすることから遠ざかっていたせいか、最近では、座ったり、立ったりすることが苦しくなった。

それと、和服を着て、帯を臍の下で硬く締める生活からも遠ざかっているせいで下半身が不安定になったことに気づかされたように思う。

和式の「トイレ」が最近敬遠される傾向にあることを水道関係の仕事をしている職人サンからも聞いている、これも、平均的日本人の「下半身の屈伸力」の減退に原因があることを否定できない証拠であると思っている。

日本料理家での「座敷会食」が減って、最近では殆どの料理屋では、「椅子式」か「掘りごたつ」式に改良している処が大半と聞く。

大相撲で横綱を始め、幕内上位の座を占めているのは主にモンゴル出身の力士たちである。モンゴルでは日本の相撲に似たスポーツが盛んであることに加えて、彼らの生活パターンは「座る」形式であるため、毎日、座ったり、立ったりの生活を続けている。

これは、最近日本のスポーツジムで若者が汗を流して励んでいる(有料)事の大半をモンゴルでは、今でも毎日なんとなしに行っている所作に過ぎない。

野球、ゴルフ、テニス、スキー等、殆どのスポーツでの優秀選手の動きを観察していると、全てが下半身(特に膝下)から始まっている。

そこで筆者のテーマ「何故日本人の横綱が出なくなった」結論は戦後の日本人の下半身の弱体化である。

文科省は今後、教育委員会に呼びかけて小・中学生の下半身の鍛錬に努めるべきと考える。

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天皇陵墓と宮内庁

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奈良県橿原市見瀬町に巨大な円形の古墳があり、これが見瀬円山古墳と呼ばれているものである。これは丘陵の傾斜地にある巨大な前方後円墳(前長318メートル、前方部高さ15メートル、幅210メートル、後円部の徑155メートル、高さ21メートル)である。

この規模は奈良県では最大、全国でも第6位に位置され、古墳時代後期後半と思われるものの中で最大とされている。円山と呼ばれていた理由は、これが丘陵の傾斜地にあって、あまりにも大きかった為に、全貌が把握できず、前方後円墳でなく、丸い古墳であるとして“丸山”と呼ばれることとなったと思われる。

横穴の前長が28.4メートル(全国第一)羡道は1枚の長さ4.8メートルの巨石6枚で天井を覆い、長さ20.1メートル、幅1メートル以上、高さ約1.5メートル。 玄室の長さ8.3、最大幅4.1、高さ4.5メートルで、二つの袴抜式家型石棺がL字型に置かれている。玄室内は土砂がかなり堆積していて石棺の詳細は判明出来ないが、奥棺はその蓋の長さ2.42、幅1.44、高さ0.42メートル。(以上、グーグル・ウエキペディア参考)

この遺跡に関しては、既に江戸から明治期に、度々調査がなされている。特に明治初期にお雇い外国人、ウイリアム・ゴーランド(William Gawland,18421922、イギリス人科学者、考古学者)に依って入念に調査され、水に埋もれていた石棺の状態が紹介された。

江戸時代の幕府の行った調査で、一時、天武天皇及び持統天皇の合祀であるとされた。ところが明治11年になって天武天皇陵の盗掘犯の調書が世に出て、宮内省は急きょ、丸山古墳を天皇陵指定から外し、この一部だけを{陵墓参考地}に格下げしてしまった。

見瀬丸山古墳に関しての記述はこれまでにいくつか残っているが、本格的な学術調査を宮内庁は理由不明のまま、永く拒否してきた。

ところが、全くの偶然から、このような事情に関わりのない、イノセントな子供の発見からこれが白日のもとに曝される結果となった。

それは平成3年(1991年)1226日のことであった。テレビ朝日のニュースステーション番組で突然内部写真30枚が公開された。

発端は、19915月、古墳の近くで遊んでいた小学生が、たまたま石室入口が開いているので内部に入って、そこに大きな石組のある地下組織を見つけた。

その子供は早速その事を父親に知らせた。その父親は翌日の早朝(530日)にカメラを持ってその(古墳)内部を撮影して、先ず朝日放送に連絡に及んだとのこと。報告を受けた朝日放送は送られてきた写真から、これの重大性を予見し、早速、宮内庁に“事件”の放映の伺いをたてたところ、「常識に任せる」と云う不可解な返事を受け取った。

熟慮の末、朝日はそのニュースを同志社大学の森浩一教授に知らせ、森教授は、これを話題に取り上げ、1210日大阪講演の話題とした、その後、暫くして、朝日はニュースステーション番組で撮影された30枚の見瀬丸山古墳の写真を大々的に好評した。

これを見た多くの庶民から強い関心が寄せられた。古墳研究専門家達からも、これら写真の持つ学術的価値は極めて高いものがあると、一時センセーションとなった。

1992810日から宮内庁書陵部は略式的な調査の後、開口部の閉鎖工事に取り掛かった。

宮内庁は国民の関心を払いのけるように何故「陵墓」の事になると秘密を守ろうとするのだろう?

これらの現場を封印して国民の目から遠ざけることで、これまで多くの貴重な文化財が損傷してしまった例を多く見てきている。

彼等は何時までこの「秘密主義」を貫くつもりなのだろう?

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国費削減は必至の問題

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財政的にゆきずまっている日本は、今こそ公務員と衆参議員数の削減にとり組むべきだと痛感する。

自民党が政権政党の頃から、この問題が、度々議論されながらうやむやに放置されてきた。

産経新聞5月1日刊は、変わったばかりの野田政権で「退職管理基本方針」の骨子が判明、それによると、各省庁内の出世レースから脱落したキャリアー官僚を“高位の専門スタッフ職”として保護し、高給も保障される内容の案が出ていると報じている。

民主党はこれまで、地方組織を中心に新規採用をしぼる方針をとると発言していたが、これでは、くたびれた無能な高級官僚を保護して、新進気鋭な若者の採用を減らすことになり、本末転倒も甚だしいと筆者も考える。

これで「天下り斡旋を中止」すると主張するつもりなら、民主党の無能ぶりを野党から突っ込まれても仕方ない。

これまでならば、出世レースに破れた高級官僚は、省内で肩たたきにあい、高額の退職金も受け取って、所轄の独立行政法人や政府系公益法人などに天下りするケースが多かった。

しかし、これでは民主党政権の大方針である「天下り制御」に逆行すると野党から突き上げられる前に“高位の専門スタッフ職”と云う新設ポストで「内下り」させる“妙案”らしい。

この新設ポストの是非について質問を受けた高級官僚は“背に腹はかえられない”と云ったとか。

こんなことでは「人件費抑制」を叫ぶ民主党の将来が危ぶまれても仕方がない。

公務員と政治家にかかる総経費が果たして如何ほどのものなのか、人事院は国民に判りやすいように説明する責任があると思う。(これについては、20兆円から40兆円の間らしいと云う程度の透明度。)

人口に占める公務員の数は世界的レヴェルで考慮し、て決して少ない方ではないことは確か(1000人あたり72名、国税庁)である。

第二のギリシャとよばれないようにするためには、公務員と政治家の人員削減が断行されなければならない。

「ドロボー公務員」-日本を食い物にする優雅な特権階級―の著者、若林亜紀氏によると、“民主党は政権交代時のマニフェストで「公務員の数は減らさないが、総額人件費を2割削減する」と誓っている。(人員削減と云えば連合から嫌われる)

公務員制度について、若林氏は、米、英、独では少なくとも高級ポストが空席になれば公募が常識で、日本の官僚制度のように内部からの昇格は出来ないのが常識と主張している。

特にアメリカでは政権交代と共に3000人の公務員が入れ替わる。当たり前。

フランスでは国の幹部公務員候補生について独特なエリート養成システムがある。

その他、イギリスでは現職であっても高級公務員の採用は、民間からでも実力や経歴を加味して公平な公募採用を行うことを前提としている。

このままでは日本は官吏亡国となる心配がある。イギリスでは2011年度から公務員の8パーセント削減に着手している。このままでは日本はアメリカ、フランスに次いで主要国中、最も公務員が多い国になる。(前記、若林亜紀著書参考)

日本の公務員は民間従業員の2倍以の報酬、これはOECD加盟23カ国中、ニュージーランドに次いで2位、世界の平均は1.37倍である。

毎年の様に発行される赤字国債が、まるで公務員報酬や議会、議員手当てに消えて行っているのではと考えると何か空恐ろしくなる。

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OTISエレヴェーター

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“OTIS”のマークのエレヴェーターに気づかれた人は少なくないと思うが、筆者も実は昔から気になりながら、これが何処の会社名なのか知らなかった。

世界的に知られているサーチ・エンジンの「ASK.COM」で調べると、これがエリシャ・オーティス(Elisha Otis,1811-1861)の創設になる会社の製品であることが判った。

彼の生まれは、ハリファックス、ヴァーモント(Halifax,Vermont USA)の出身であったが、20歳のとき、ニューヨーク州のトロイ(Troy)に行き、5年間を荷馬車のドライバーとして過ごした。

1835年、24歳でホートン・スーザンと結婚、間もなく、チャールスとノートンの二人の男子の父となった。

生まれながら、オーティスは機械いじりが好きだった。最初に手掛けたのが製粉機械だったが、それが思ったように稼げねかったので、次に製材機械を作ったがこれも顧客獲得に至らなかった。

オーティスは今度は、荷馬車の制作にとりかかり、その仕事が少し軌道にのりかかった時、妻スーザンがこの世を去る不幸に見舞われた。

オーティスは既に34歳になっていた、その時、エリザベス・ボイドに巡りあい、再出発を誓って、二人でニューヨーク州の州都、アルバニー(Albany,N.Y.)に移住、そこでベッドの枠の工場で職に就いた。間もなく彼はここでも器用なところを発揮、作業工程でレール回転機を考案、それで一日当たり4個しかできなかったベッドを50個生産できるように工程を改良して、雇用主から500ドルのボーナスをもらった。彼は同時に、これの(Rail Turner Machine)パテントを取得した。

間もなくオーティスは自分個人の工場を借りて、そこで機関車の強制自動制御装置と自動パン焼き機の作成に成功している。

ところが、アルバニー市が俄かに、水道を敷設するために、オーティスが河の流れを利用して使っていた水車が使えなくなり工場を閉鎖して一時ニュージャーシー州に移ったが、再度ニューヨーク州、ヨンカーに移り、製材所をベッド制作工場に改造途中の会社で働くことに決めた。彼は既に40歳になっていた。

彼がこの古工場でゴミや古くなった機械類を一時、2階に移動させ、仕事場を清掃中、古い荷物用エレヴェーターを使うように指示されたが、それが度々故障を繰り返す為、彼はすぐさま独特な方法を思いつき、即座に問題を解決させた。

このデヴァイスが実は後にOTIS製エレヴェーターに発展するのだが、彼はその場では彼が思いつきで作った「促成安全昇降機」をあまり気に留めず、又それの専売権取得も考えていなかった。

しかし、間もなく、働いていたベッド製造会社の経営が傾きかけた時、思いついたようにそこを退社して、彼独自でエレヴェーター会社の設立を思い立った。それが後に、Otis Brother & Co.となった。

最初の数カ月は注文が来なかったが、1854年に開催されることになった、ニューヨーク・ワールド・フェアーで一気に運が回ってきた。

そこで彼の発明によるエレヴェーター・エンジンは決められた場所で数インチ程下がるが、その当時では驚異的と思われるほど確実に制止するエレヴェーターが意のままになる新型の機械として認められて各所から注文が相次ぎ、彼のエレヴェータービジネスはまるで倍倍ゲームのように発展した。

彼は機械屋であって、決して優れたビジネスマンでは無かった。その後、回転式パン焼き機の特許や、数々の仕事を長男のチャールスと共にやり遂げたが、不幸にもジフテリアに罹って1861年4月8日、49歳でこの世をさった。

その後、息子達が会社の発展に努力し、オーティス・エレヴェーターを世界一の会社に発展させた。

因みに、オーティスのエレヴェーターはパリのエッフェル塔、クライスラービルディング、エンパイアー・ステート・ビルディング(共にニューヨーク市)を始め、世界の有名ビルで使用され、その名を轟かせた。

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