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OTISエレヴェーター

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“OTIS”のマークのエレヴェーターに気づかれた人は少なくないと思うが、筆者も実は昔から気になりながら、これが何処の会社名なのか知らなかった。

世界的に知られているサーチ・エンジンの「ASK.COM」で調べると、これがエリシャ・オーティス(Elisha Otis,1811-1861)の創設になる会社の製品であることが判った。

彼の生まれは、ハリファックス、ヴァーモント(Halifax,Vermont USA)の出身であったが、20歳のとき、ニューヨーク州のトロイ(Troy)に行き、5年間を荷馬車のドライバーとして過ごした。

1835年、24歳でホートン・スーザンと結婚、間もなく、チャールスとノートンの二人の男子の父となった。

生まれながら、オーティスは機械いじりが好きだった。最初に手掛けたのが製粉機械だったが、それが思ったように稼げねかったので、次に製材機械を作ったがこれも顧客獲得に至らなかった。

オーティスは今度は、荷馬車の制作にとりかかり、その仕事が少し軌道にのりかかった時、妻スーザンがこの世を去る不幸に見舞われた。

オーティスは既に34歳になっていた、その時、エリザベス・ボイドに巡りあい、再出発を誓って、二人でニューヨーク州の州都、アルバニー(Albany,N.Y.)に移住、そこでベッドの枠の工場で職に就いた。間もなく彼はここでも器用なところを発揮、作業工程でレール回転機を考案、それで一日当たり4個しかできなかったベッドを50個生産できるように工程を改良して、雇用主から500ドルのボーナスをもらった。彼は同時に、これの(Rail Turner Machine)パテントを取得した。

間もなくオーティスは自分個人の工場を借りて、そこで機関車の強制自動制御装置と自動パン焼き機の作成に成功している。

ところが、アルバニー市が俄かに、水道を敷設するために、オーティスが河の流れを利用して使っていた水車が使えなくなり工場を閉鎖して一時ニュージャーシー州に移ったが、再度ニューヨーク州、ヨンカーに移り、製材所をベッド制作工場に改造途中の会社で働くことに決めた。彼は既に40歳になっていた。

彼がこの古工場でゴミや古くなった機械類を一時、2階に移動させ、仕事場を清掃中、古い荷物用エレヴェーターを使うように指示されたが、それが度々故障を繰り返す為、彼はすぐさま独特な方法を思いつき、即座に問題を解決させた。

このデヴァイスが実は後にOTIS製エレヴェーターに発展するのだが、彼はその場では彼が思いつきで作った「促成安全昇降機」をあまり気に留めず、又それの専売権取得も考えていなかった。

しかし、間もなく、働いていたベッド製造会社の経営が傾きかけた時、思いついたようにそこを退社して、彼独自でエレヴェーター会社の設立を思い立った。それが後に、Otis Brother & Co.となった。

最初の数カ月は注文が来なかったが、1854年に開催されることになった、ニューヨーク・ワールド・フェアーで一気に運が回ってきた。

そこで彼の発明によるエレヴェーター・エンジンは決められた場所で数インチ程下がるが、その当時では驚異的と思われるほど確実に制止するエレヴェーターが意のままになる新型の機械として認められて各所から注文が相次ぎ、彼のエレヴェータービジネスはまるで倍倍ゲームのように発展した。

彼は機械屋であって、決して優れたビジネスマンでは無かった。その後、回転式パン焼き機の特許や、数々の仕事を長男のチャールスと共にやり遂げたが、不幸にもジフテリアに罹って1861年4月8日、49歳でこの世をさった。

その後、息子達が会社の発展に努力し、オーティス・エレヴェーターを世界一の会社に発展させた。

因みに、オーティスのエレヴェーターはパリのエッフェル塔、クライスラービルディング、エンパイアー・ステート・ビルディング(共にニューヨーク市)を始め、世界の有名ビルで使用され、その名を轟かせた。

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