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異色のニューヨーク市長、ジュリアーニ

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筆者は略、7年前、久しぶりにニューヨークを訪れて驚いた。

それは、街がスッカリ、“ニート”になっていたこと、安全になり、以前は恐れられて近寄れなかった「セントラル・パーク」にも早朝からジョッギングする市民が多く見れたことである。

ジュリアーニ氏がニューヨークの市長に就任したのは、ベルリンの壁崩壊のあとの1994年である。

長い不況から一時的にも立ち直ったアメリカ経済の景気に助けられ、以前、穴ぼこだらけであった道路も修復されて見違えるように改良が進んでいた。

一時、貧民窟の様であったウエスト・サイドも様相一変、新しいホテルやレストランが立ち並び、楽しそうな町並みに変貌していた。

ルドルフ・ジュリアーニ三世(Rudolph William Louis Giulliani lll,1944 -)市長は”Rudy”の愛称で呼ばれ、長い不況で喘いでいた大都会を復活させた。

在任期間、1994年1月から2001年の12月まで、特に凶悪犯罪の撲滅に貢献したことで長く市民の支持を取り付けた。

2001年に突然起こった、9.11多発テロと戦うことを宣言、“世界の市長”と称賛をうけた。

Rudyの生い立ちは決して裕福ではなかった。ブルックリン生まれのイタリア移民2世の息子で、カソリック、父親は犯罪を犯し、シンシン刑務所送り、釈放されて後もマフィヤの犯罪に手を染め、undergroundの人生を送った人物であったと云われている。

ルーディーはマンハッタン・カレッジを卒業ごニューヨーク大学で法律を専攻、卒業後、弁護士となった。

1970年に米連邦検事局に入り、検察官として人生のスタートをきった。司法副次官⇒首席補佐官を歴任、1972年の大統領選挙では民主党マックガヴァンを支持。しかし。1975年、共和党フォード政権では法務次官補の要職に抜擢された。それ以来、共和党に鞍替え、1981年のレーガン政権では司法次官を務めた。

1983年、ニューヨーク南部管轄の連邦検事となって、マフィアの掃討作戦を展開、陣頭指揮をとり、組織犯罪・薬物汚染・経済犯罪等の対策、対応に努力した。大仕掛けの経済犯罪、インサイダー取引を検挙、レーガン政権が目指した“マフィア”の掃討を進めて、市民から英雄視され、名を挙げ、1920年代に活躍し“Untouchable”の異名をとった、FBI捜査官エイオット・ネスの活躍を彷彿とさせる凄腕のニューヨーク市長として人気を挙げた。(以上、グーグル ウエキペディア参考)

大事件の解決の度にメディアに登場、知名度を揚げた。最初(1989年)の市長選では民主党候補のDavid Dinkingに敗北したが、1993年には勝利してニューヨーク市長となった。

彼は在任中もイタリアン・マフィアに留まらず、中国、ベトナ、カンボジア、又はイラン人らによる組織犯罪の撲滅に力を注ぎ、ニューヨークの治安維持に奔走、ニューヨークの犯罪率を全国平均より低く抑えることに成功し、ギネスブックに「最も多く犯罪率を削減させた市長」としてノミネートされたと云われている。

それまで犯罪発生率が特に多かった“タイムススクエアー”や“マディソンスクエアー・ガードン”等をクリーンで安全な地域として、観光客や家族ずれが安心して散歩が出来るように改革した功績が市民のみならず、全国民からも評価されることとなった。

前出のラガーディア氏と似て、ジュリアーニの手法も一見、手荒で専横的であるが、そこが却って気ままで陽気なニューヨーク子に歓迎される結果となった。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの勃発でジュリアーニ市長は正に獅子奮迅の活躍を見せ、高い危機管理能力を発揮、全米のみならず、世界中から称賛を集めた。タイム誌は彼を2001年の「今年の人」に選出、エリザベス女王からナイトの称号を授かった(2002・02・13)。

ジュリアーニ市長の唯一つの汚点と云えば、1999年4月、市長としての高い支持を背景に、2000年の上院議員選挙に(共和党)ニューヨーク州からの出馬を表明、対抗馬のクリントン夫人を敵に回して戦った迄は良かったが、そのさなかに不倫の噂が流され、、翌年、妻との離婚を発表、程なく前立腺ガンを理由に選挙戦から退く事態になったことである。

しかし、ジュリアーノ氏は2008年の大統領選には出馬の意欲を見せており、

一度や二度の失敗では決してたじろがない精神力には驚くべきものがあると筆者は尊敬の念を持って見つめるものである。

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