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如意ケ岳城遺構

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お盆の送り火で知られる、京都東山山系の如意ケ岳(俗称:大文字山)にかって城が築かれていたことは最近知った。

京都新聞、2011年9月26日、“京の山寺・山城跡を行く”「如意ケ岳城」では「大文字」の火床背後の山頂の周りに山城跡が見られると云う。(梶川敏夫氏稿)

ここからは最短距離で近江に至る道が通っている、“如意越え”(写真)は戦略上大変重要な通路として利用されたらしい。

南北朝期の建武3年(1336)南朝方がこの道から2万の軍勢が京に向かったとの記録が残っている。その6月には当時後醍醐天皇のご在所になっていた比叡山の延暦寺にむけて足利方軍勢が陣取っていたらしい。

「如意越え」は源平の頃から比叡山の南方を通る「白鳥超え」、「山中超え」と並び重要な戦略的ルートであったことが判る。

如意ケ岳城の遺構は、この頂から大文字山の山頂にかけて尾根上に約450メートルの範囲に確認される。中核部の横堀、土塁は、この城が本格的なものであったことを物語っているとの専門家の意見である。

如意ケ岳城は応仁、文明の混乱期では、文明元年-2年(1469-70)、多賀高高忠の築城、明応8年(1499)には土一揆が勃発したが平定された記録もある。

又、永禄元年には足利義輝が如意ケ岳城にこもり狼煙を上げたが松永弾正久秀に駆逐された記録もある。今では休日には多くのハイカーの格好のハイキングルートとして利用されている。

山科には古くから(平安初期)から安祥寺が毘沙門堂の山上にあったことが記録されており、その近辺からは、如意ケ岳は勿論、南禅寺、三井寺、坂本、石山にも山伝いに訪れることが容易である。

京都の事を「山城」と云うが、東山三十六峰は勿論、殆どの山の麓には仏教寺院が見られる、即ち、山を背景にしてそれらの寺院が建立されたことは自衛手段として山が利用され、結果的に京都=山城となったとのではと(想像)筆者は考える、そのことはすべての寺院には「山号」が認められることからも証明される。

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